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脱勤勉社会
ラジオの交通情報には〈自然渋滞〉という言葉がよく出てくるが、交通渋滞はもはや人為的なものではなく、〈自然現象〉の一つに入っている。それと同様に浮浪者というものも、昨年(一九八〇年)新宿駅西口広場でバス放火事件があったあと、一部の予想に反し、公権力による大規模な浮浪者狩りがなかったことをみてもわかるように、もはや公権力にはコントロールできない〈自然現象〉になってしまっている。公権力にできることは、彼や彼女らをあえて〈普通人〉の方にひきあげるか、あるいは〈自然物〉として物の世界にうめこんでしまうかのいずれかである。
今日の浮浪者は、かつての〈ルンペン〉とはちがって、社会の異分子的存在ではなく、社会の構成員の一人一人が大なり小なりもっているある種の〈機械的無意識〉をちょっとばかり〈専門的〉に代表しているにすぎない。われわれは、以前にくらべればはるかに怠惰になっているのであり、何かきっかけさえあればいつでも新宿や銀座の地下道の住人になりうる潜在性をもっているのである。
すでにアメリカあたりでは、〈ポスト・インダストリアス・ソサエティ〉(脱・勤勉社会)という言い方で今日の社会をとらえようとする試みがあるが、工業(インダストリアル)社会が勤勉(インダストリアス)社会であったとすれば、脱・工業(ポスト・インダストリアル)社会はたしかに脱・勤勉社会であるはずだ。その際、脱・勤勉社会では情報をもち、操作できる者が〈資本家〉ということになり、労働の方も、肉体労働よりも精神労働が重視されるが、それは、肉体労働の側からみれば肉体を怠惰にし、精神を勤勉にすることを意味するから、肉体的怠惰さというものが大なり小なり脱・勤勉社会の社会的性格とならざるをえない。
が、〈肉体〉と〈精神〉という区別は抽象的なものであって、現実には両者はたがいに交換しあい、まじりあっているのだから、この肉体的怠惰さが突如として精神的怠惰さに転化することもないわけではない。実際、福祉のディレンマはここにある。福祉が発達すれば人は肉体的に働かなくなるが、その分だけ精神的に勤勉になるという保証はどこにもなく、むしろ、〈英国病〉にみられるように精神的怠惰の方も昂進するかもしれない。要するに脱・勤勉社会は、肉体的にだけではなく精神的にも怠惰であることが社会的性格とならざるをえないのである。
これは、既存の社会体制にとっては大いなる危機であろう。ただし、この危機は必ずしも〈人類存亡〉の危機ではなくて、既存のシステムの危機であるにすぎないことは注意を要する。現在のテクノロジーの潜勢力からすれば、人があくせく働かなくてもよいような社会をつくることはそれほど不可能ではないが、そうなればまず〈国家〉というような観念は崩壊せざるをえないため、テクノロジーはテクノポリティックスによって規制され、そのような潜勢力を発揮できないようにされている。
この点に関しては、本誌(『月刊イメージフォーラム』)一月号でナムジュン・パイクが谷川俊太郎との対談のなかでおもしろいことを言っていた。パイクによれば、現在アメリカではケーブル・テレビジョンが猛烈な勢いで浸透しつつあるが、これがアメリカ人を「もっとポスト・インダストリアライズして」労働のモラルを低下させ、いわゆる〈英国病〉を蔓延させることになるかもしれないという。だが、思うに、ケーブル・テレビジョンのような〈ポスト・インダストリアル・メディア〉は、もともと〈英国病〉を破壊的的な怠惰さをコントロールしようとするところから現われたのではないか? 言いかえれば、アメリカ社会は、すでに脱・勤勉社会へ向けての先手をうちつつあるのではないかということだ。
パイクが言っているように、アメリカは日本より早く脱・工業社会に入った。脱・工業社会においては、ハード・ウェアよりもソフト・ウェアの方が資本を生む効率が高いから、自動車産業などよりも情報・文化産業が重視され、自動車では日本に立ちおくれても、情報や文化商品の生産では優位に立つ。アメリカは決して帝国主義を捨てたわけではなく、七〇年代を境にして工業集約型の帝国主義から情報・文化集約型の帝国主義に〈ラディカル〉な変貌をとげようとしているのである。
ここでは、情報や文化は人を精神的にも肉体的にも怠惰にさせないための装置になるのであって、人は労働時間が短縮された分だけ余暇を手に入れるが、その余暇をテレビやスポーツなどのいわゆるレジャーという〈労働〉で勤勉にすごすわけである。おもしろいことに、アメリカでは普通のテレビの浸透と並行して(自分の家や水泳クラブのプールでの)水泳が中流アメリカ人の日常生活に浸透したが、ケーブル・テレビジョンの浸透と並行してジョギングが猛烈に流行し、それはみごとに彼や彼女らの日常生活のスケジュールのなかにくみこまれた。つまり、テレビをみることによって生じる肉体的怠惰さは、ちゃんと解消されるようになっており、脱・工業社会が本当に怠惰な(つまり人間的な)脱・勤勉社会に向かわずに、つねに勤勉社会(つまり資本の社会)にとどまるような仕組が出来ているのである。
この意味で、ハル・アシュビーが映画化した『ビーイング・ゼア』(邦題『チャンス』)の主人公は、決して未来人間などではなく、逆に、アメリカの最もエスタブリシュメントな模範的人間像を代表しており、彼が大統領に選ばれるとしてもそれは決して不思議ではない。というのも、彼はたしかにテレビ中毒だが、その一方では庭仕事をして肉体を使い、決して自分を肉体的怠惰のなかに埋没させはしないからである。
当面、アメリカでは、そもそも怠惰ということが不可能なようなシステムが出来あがっており、それが蔓延すれば現存の社会的メカニズムの機能が停止してしまうかもしれないような怠惰、トニー・リチャードスンの『ラブド・ワン』で四六時中ベッドに寝ていて運ばれてくる料理を片っぱしからむさぼり食うことしかしない大デブ女の破壊的な怠惰、は決してめばえようもないが、他面ではそのような怠惰が、今日、アメリカのテレビ人間の機械的無意識のなかに少しずつ蓄積されているような気もする。
[チャンス]監督=ハル・アシュビー/脚本=イェールジ・コジンスキー/出演=ピーター・セラーズ、シャーリー・マクレーン他/79年米[ラブド・ワン]監督=トニー・リチャードソン/脚本=C・イチャーウッド、テリー・サザーン/出演=ロバート・モース、ロッド・スタイガー他/65年米◎81/ 1/12『月刊イメージフォーラム』
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