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ニューヨーク映画の活気
〈ニューヨークはアメリカではない〉という言葉があるが、ニューヨーク、とりわけマンハッタンからアメリカ全体をイメージすることは不可能である。サンフランシスコやロサンジェルス、シカゴには多少共通するものがあるとはいえ、ニューヨークはアメリカの特殊地帯であり、アメリカの大部分は、『ラスト・ショー』に出てくるような実に殺風景な街と『バニシング・ポイント』でみられるような広大な原野によってできている。その意味で、アメリカには、本当の都市はニューヨークしかない、とさえ言えるかもしれない。が、そのかわりニューヨークには、まさに、都会的なもののすべてがあり、しかも東京で言えば、千代田、新宿、渋谷の三区を合計したぐらいの面積しかない地域に、その都会的なものがギッシリとよりあつまっているのである。それはいわば、横に倒れたバベルの塔であり、ここでは、一挙にすべてを所有するなどという欲望は、はじめから捨ててかからねばならない。
映画に関して言えば、毎週新しいフィルムが封切られ、そのあいだに外国フィルムや実験フィルム、過去の問題作などが上映され、ねむらずに映画館をかけまわったとしても、この街で上映されるフィルムを全部みることは不可能である。それゆえ、この街を映画や小説で描くとしても、〈これこそニューヨークだ〉と言えるような総括的なやり方でニューヨークをとらえることはおよそ不可能であり、もしそのような印象を与える映画や小説があるとすれば、それらは、一般にニューヨークの外の人がそう思いこんでいる〈ニューヨーク〉、従って、現実には存在しない〈ニューヨーク〉を捏造しているにすぎないのである。もっとも、ウディ・アレンは『マンハッタン』において、ニューヨークをあたかもアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集のなかに出てくるパリ写真のようなイメージで映像化し、その映像のなかに現実のニューヨークとの微妙なズレをこっそりしのびこませるという高等技術を披露した。これは、ニューヨークのミドル・クラスのユダヤ系知識人が月並でないことを月並な語法で表現するウィットのテクニックを映画で応用したものだが、アメリカ人にとってさえこれは決して一般的なものではないため、現実にはこの映画は、ニューヨークの単なる〈美しいドキュメンタリー〉として享受された一面がなくもない。
日本では一般に、『タクシー・ドライバー』は、ニューヨークの〈リアル〉な雰囲気を〈ドキュメンタリー〉のタッチでとらえた映画だとみなされているようだが、実際には、これほどニューヨークを〈極私的〉な目で描いている映画はない。この原稿を書くにあたってわたしは、『タクシー・ドライバー』の古い映画評を色々読んでみたが、この映画の主人公トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)が不眠症でアル中の気もあり、いつも午後おそくなって起き出す男であることを指摘したものは全くなかった。彼は、夜型だからこそタクシー・ドライバーになったのであり、彼が真昼間に大統領候補を暗殺しようとしたり、ヤクザと銃でわたりあったりするのは、決して〈リアル〉ではないのである。つまり、あの映画では、真昼間のシーンは、彼の意識の内部で起こる夢想や空想なのである。
それは、デ・ニーロが密告人からピストルを買うシーンでも、少女の娼婦アイリス(ジョディ・フォスター)とコーヒー・ショップで朝食を食べるシーンでもかわりがない。二人が食べていた〈スペシャル・ブレイクファスト〉は、ロバート・バトラーの『ジャグラー ニューヨーク25時』の冒頭にも出てくるが、これは、特に注文するのでなければ、午前十一時までしかサーブされない。そのかわり実に割安で、タマゴ、ベーコン、ポテト、トースト、オレンジ・ジュース、ジャム、コーヒーないし紅茶の組みあわせでたったの一・二ドルぐらいである。
このシーンで、アイリスはトーストにマーマレードをたっぷりのせたうえ、それに砂糖を−−これまた盛大に−−ふりかける。『タクシー・ドライバー』が封切られたあと、日本では若者のあいだでこの食べ方がはやったそうだが、ニューヨークでみるとこのシーンは別の意味をもつ。というのも、ニューヨークでは大部分の女性が、ダイエットと称し、太るのをおそれて極度に糖分を敬遠することがはやっているので、このシーンは、そのような流行へのさりげない−−が、かなり強烈な−−あてこすりにもうつるからである。そういえば、『ジャグラー ニューヨーク25時』にも、誘拐された娘(アビー・ブルーストーン)がプエルト・リコ人の誘拐者(クリフ・ゴーマン)に食べものを出されて、太るから食べないと断ると、ゴーマンから、女は太っている方がよいのだと説教されるシーンがあった。だが、このような直接的な表現は意味が一様になり、受けとり方もはじめから決められてしまう。一体にこの映画は、ニューヨークの上流階級の身勝手さ、警察への不信、異民族間の壁、庶民の連帯感といったものをストレートに描き、ニューヨークの一面をよく伝えてはいるが、『タクシー・ドライバー』にくらべると、表現がニュース映画のように一本調子で、受けとり方が多様になる余地がないのである。
それに対し、スコセッシは、いわばルイス・ブニュエルの目でニューヨークを描く。ブニュエルの映画には、性的に飢えた男にとって行きかう女が全裸で歩いているようにみえるシーンがよくあるが、『タクシー・ドライバー』でも、主人公トラヴィスが、〈あの野郎をブチ殺してみたいな〉という潜在的欲望をいだくと、その欲望はただちに−−しかも、ブニュエルよりももっと〈自然〉ななりゆきで−−誰かを殺す具体的なイメージとして提示されるのである。それは、ひとつの〈妄想〉であるから、それがどんなに〈リアル〉にみえても、〈現実〉とは微妙なところでズレているが、そのズレには、ニューヨークの街のひじょうに世俗的な世界や底辺の人々の生活を肌で感じたことのない者にはわからぬような微妙さがあり、そして、それだからこそ、観客の方もこの映画を多様にみることができるのだ。
『結婚しない女』も、ニューヨークの街をよくとらえた映画として定評がある。わたしは、ロードショーを見すごして、しばらくしてからニューヨークデュヴァル大学の大講堂で上映されたのをみたのだが、ジル・クレイバーグとアラン・ベイツがソーホーから(たぶん、ハウストン・ストリートとブリーカー・ストリートを越え、ニューヨーク大学の教員アパートのビルをぬけて)ワシントン・スクウェアに面したレンガ色の大学図書館の横に出てくるシーンになると、観客のあいだから拍手が起こった。たしかに画面には、見なれた風景がごく〈自然〉のタッチでうつっており、この街の雰囲気がなかなか〈リアル〉にとらえられている。
しかし、この映画にも、現実とのズレはいくらでもある。たとえば、クレイバーグとベイツがワシントン・スクウェアに入ってきて、イタリアン・アイス(一種のシャーベット)を買い、公園内を歩いてゆくと、メガネをかけた六十くらいの黒人がアルミの皿やナベで作った楽器を仲間と演奏しているシーンがちらりと出てくる。この老人は、ワシントン・スクウェアでは名物的存在で、週末にはよく顔をみせるが、映画に出てくる?亦㈱ヤ〉は別のグループで、この連中とこの老人が組むことは絶対になかった。一昨年の冬、それまで仲間だったベーシスト(といってもその楽器は金だらいで出来ている)と喧嘩わかれをしてしまい、メンバーが新しくなったが、『結婚しない女』が作られた頃には、数年来変わらぬメンバーで地域の住人に親しまれていた。ちなみに、喧嘩わかれの原因は、この老人があまりに金にうるさすぎるためらしい。彼は、演奏のあいだ中、アル中気味の血走った目で観客の方をうかがい、無断で写真をとる者がいるとどなりつける。そのかわり、まえもって〈布施〉をはずんでおくと、演奏しながらちゃんとシャッターの回数を勘定していて、「あと二枚いいぞ」とか「お前はそれまで」などと厳密な指示を与えるのである。
ところで、犬の糞はニューヨークの街を彩る風物の一つだが、ポール・マザースキーは、さすがそれをみのがさなかった。それどころか彼はこの映画で、犬の糞を使って二人の登場人物の性格をあざやかに対比してみせる。犬の糞が二度出てくるのだが、はじめは、ジル・クレイバーグとマイケル・マーフィがリヴァー・サイドの河ぞいの小道でジョギングしていて、マーフィが犬の糞をふんでしまうシーン。もう一つは、マーフィと別居したクレイバーグが、アラン・ベイツとソーホーのウースター・ストリートのあたりを歩いていて、ベイツが犬の糞をふむシーンである。その際、マーフィの方はカッとなって犬の糞のついたスニーカーを河に投げこんでしまい、また、ベイツの方は、犬の糞にひっかけて芸術論を一席ぶつ。このあたり、二人の人物のちがいが出ておもしろいが、それ以上に、男なんて偉そうな顔していても、所詮は犬の糞ぐらいのことで大さわぎするのネという男性批判が感じられなくもない。ただし、この映画が封切られた一九七八年には、路上に犬の糞を放置すると百ドル以下の罰金をとられる法律が出来、以後次第にニューヨークの街から犬の糞が少なくなってきたので、犬の糞のシーンは、今日のニューヨークとは多少のズレが出来たかもしれない。
ニューヨークにとって、地下鉄も重要な顔の一つだ。が、わたしのみるかぎり、ニューヨークの地下鉄の庶民的な雰囲気や乗客の生々しい生活感覚が映像化されたようなものはまだないような気がする。『サブウェイ・パニック』は、ディテールが正確でなかなかよかったが、わたしは、地下鉄内で起こるもっと日常的なドラマをみてみたいのである。というのも、ニューヨークの地下鉄は、もっと日常的なレベルで毎日スリリングなドラマを展開しているからである。
わたしは、ある時、ブルックリンに用事があってブロードウェイ・ラフィエット駅からDトレインにのった。が、電車は次のグランド・ストリート駅にはとまらず、マンハッタン橋のたもとまでつっ走る。そして、しばらく橋のうえで停車していたかと思うと、今度はもと来た方向に逆もどりしはじめた。駅のあかりがみえてきたが、とまる気配はない。窓から目をこらすと、どうやら、Dトレインの通るはずのないF線のエセックス・ストリート駅らしい。一体この地下鉄はどこへ行こうというのか? 乗客もさわぎ出した。また駅のあかりがみえたが、ものすごいいきおいで通りすぎたのでどこかわからない。五分ほど走りつづけてとまった駅は、J・M線のチェンバースだった。しかし、ここでもドアーは開かない。どうなっているのだ?^?@ 運転手がヤクでもやって狂ってしまったのか? 『サブウェイ・パニック』のように先頭車輛が誰かに占拠されているのか? が、電車はまた走りはじめた。車掌をさがしに別の車輛に走っていった婦人が、「ドアーが開きゃしないよ!」と憤慨しながらもどってきた。とかくするうちに、電車は−−本来ならグランド・ストリートの次の駅である−−ブルックリンのデ・カルプ駅についた。ドアーがはじめて開く。その間二十分。誰かがつぶやく。「D線の線路にトラブルがあったんで別のトラックを使ったんだねえ」。
ニューヨークの地下鉄のこうした日常的なドラマ性からすると、『ウォリアーズ』はあれだけ地下鉄を映しながら、ほとんどそのおもしろさをとらえることができなかった(この点については、『日本読書新聞』、一九七九年五月二十一日号に現場報告を書いたことがある)。その点、ニューヨークの街に詳しいウィリアム・フリードキンは、地下鉄の使い方もうまい。『エクソシスト』では、カラス神父(ジェイスン・ミラー)がマンハッタンの安アパートに住む老母に会いにくるシーンで、地下鉄のショットをちょっと出すだけで瞬時にマンハッタンへの場所の移動を印象づけていた。『フレンチ・コネクション』の地下鉄についてはいまさらくりかえすまでもないかもしれない。ヘロインの密売ルートの元締(フェルナンド・レイ)が、ニューヨーク市警察麻薬捜査官(ジーン・ハックマン)に追われて地下鉄駅に逃げこみ、折よくやって来た電車にとびのる。ハックマンはそれを追って別のドアーから電車へ。が、レイはそれに気づいて外へ。ハックマンはあわてて、ふたたび外に出る。が、レイは、次の瞬間、手にしていたコーモリガサを電車のドアーにあて、反射的に開いたドアーにすべりこみ、ハックマンの追跡をふり切ってしまう。
あまりに有名なこのシーンは、一見ニューヨークの地下鉄をリアルに描いているようにみえるが、実際には起こりえないことだ、と言ったら人は信ずるだろうか? これは、わたし自身、ニューヨークで何度もためしてみたのだが、たとえE、F線の新型車輛でも、コーモリガサをちょっとドアーにあてたぐらいでは、決してドアーは開きはしない。ニューヨークでは、ドアーが閉まりかけたときに人がホームにかけこんでくると、そばにいる人がドアーをおさえておいてやることがよくあるが、もし地下鉄のドアーがエレベーターのドアーのように、ちょっと触れただけで反射的にもどるようになっていたら、あるいは、車掌がそんなに繊細な神経を使っていたら、あとからあとからドアーをおさえてのってくる人がいて、電車はなかなか発車できなくなるにちがいない。そこで、現実には、コーモリガサぐらいだったらはさんだまま発車するし、足や手をはさんでも危険がなければ−−というより、誰かが騒ぎださなければ−−そのまま次の駅まで行くことだってあるのである。
以上のように、ニューヨーク映画の映像的現実と、ニューヨークの日常的現実とのあいだには、さまざまなズレがあるわけだが、そのズレのなかには、まさにそのズレによってニューヨークの街と生活のダイナミズムを生き生きととらえているものもあれば、またその逆に、ニューヨークの日常的現実のディテールをはじめから無視し、ニューヨークを単なる書割に利用しているものもあるということである。『ウォリアーズ』以外にも、たとえば『ゴッドファーザーPART?エⅡ』のはじめの方に、まだ幼いヴィトー・コルレオーネが、シシリーから船でニューヨークにやってくるシーンがあるが、窓外にうつる自由の女神とニューヨークとの位置関係に注意してみると、この船はニューヨークへ近づいているのではなくて、ニューヨークをはなれているのがわかる。つまりコッポラは、そういうディテールを完全に無視してこの映画を作っているわけである。ということはつまり、この映画がダメな映画だということではなくて、この映画にディテールの微妙さのようなものを求めても無理であり、もっと抽象的なものこそ、この映画の本領なのだということである。むろん、それが悪かろうはずもないし、コッポラはそういうやり方で汎アメリカ主義的なハリウッド映画の伝統をひきついでいるのである。しかしながら、ニューヨークを舞台にする映画は、そういうやり方とはちがった方向をめざすのでないかぎり、せっかくこの街でロケを行なってもそれを生かすことができないだろう。すなわち、『地獄の黙示録』は、フィリピンでロケを行ない、それをヴェトナムとしてみせることができたが、ニューヨーク映画は、ニューヨークのかわりにシカゴでロケすることが決してできないような微妙なレベルのことを問題にするわけだ。そしてそのとき、映画は、思想やメッセージの単なる媒体ではなく、都市のひとつながりの網の目のなかにおりこまれ、映像が都市をではなく、都市が映像として語りはじめるのである。
[マンハッタン]監督=ウディ・アレン/脚本=ウディ・アレン、マーシャル・ブリックマン/出演=ウディ・アレン、ダイアン・キートン他/79年米[タクシー・ドライバー]前出[ジャグラー ニューヨーク25時]監督=ロバート・バトラー/出演=ジェイムズ・ブローリン、クリフ・ゴーマン他/80年米[結婚しない女]監督・脚本=ポール・マザースキー/出演=ジル・クレイバーグ、アラン・ベイツ他/78年米[サブウェイ・パニック]監督=ジョセフ・サージェント/脚本=ピーター・ストーン/出演=ウォルター・マッソー、ロバート・ショウ他/74年米[ウォリアーズ]監督=ウォルター・ヒル/脚本=ウォルター・ヒル、ソル・ユーリック他/出演=マイケル・ベック、ジェイムズ・レマー他/79年米[エクソシスト]監督=ウィリアム・フリードキン/脚本=ウィリアム・ピーター・ブラッティ/出演=リンダ・ブレア、マックス・フォン・シドー他/73年米[フレンチ・コネクション]監督=ウィリアム・フリードキン/脚本=アーネスト・ダイディマン/出演=ジーン・ハックマン、フェルナンド・レイ他/71年米[ゴッドファーザーPARTⅡ]監督=フランシス・F・コッポラ/脚本=フランシス・F・コッポラ、マリオ・プーゾ/出演=アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ他/74年米◎80/ 8/15『キネマ旬報』
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