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ローズ

 商業映画が、支配機構の一機能であり、観客の社会意識を支配の論理へ向けてコントロールする文化装置であるとすれば、商業映画をみるということは、わが身を進んで支配機構のなかに曝すことしか意味しないのだろうか? もしそうだとしたら映画などみない方がよいということになりはしないか? が、映画とテレビのちがいは、映画をみるためには、少なくとも、映画館に足を向けるという最低限の能動性がなければならない点だ。その能動性は、たとえ支配機構に屈したいという自虐的な欲求の形をとるとしても、現実を(いずれの方向にではあれ)変えたいという能動的な欲求を含蓄しているのであって、つけっぱなしのテレビから一方的に投射される映像に受動的に身を曝すのとは異なるのである。
 それゆえ、問題は、文化装置のただなかでそれをどこまで文化装置として批判的に意識できるか、そしてまた、それをどこまで脱文化装置化できるか−−つまり文化装置の製作者や所有者の予期する〈意図〉とは別のものに機能転換できるか、である。その際、ある商業映画を文化装置として批判的に意識するということは、その映画のなかに−−たとえそれが〈非政治的〉、〈非社会的〉な体裁をとっているにせよ−−政治的、社会的な〈たくらみ〉(志向性)を読みとることである。
 ところで、このような主張は、ひょっとして、『カリガリからヒットラーまで』の著者ジークフリート・クラカウアーの理論を想起させるかもしれない。たしかにクラカウアーも、一九二八年に書かれた短文のなかで、商業映画の「営業上の利害は、製作者がその消費者の社会批判的欲求を満たすことを求める。しかし社会の基礎をいささかでも侵害するような上映映画を作るような誤りを犯すことはない。プロデューサーはさもなければ資本主義的企業家としての自己の存在を破壊することになる」とし、次のように言っていた。「今日の社会を探求するためには、それゆえ、映画コンツェルンの製作品の懺悔を聞かねばならないだろう。それらはいずれも、本当はそうしたくないのだが、思わず知らずぶしつけな秘密を口走っている。果しもない映画の洪水の中に、限られた数の典型的なモチーフが常にくり返される。それは、社会が自分自身をどのように見ることを望んでいるかを暗示している。映画のモチーフの総体は、同時に社会的イデオロギーの総和であり、それはこれらのモチーフの解釈を通じて明らかにされる」(平井正訳「取るに足らぬ女子店員たちが映画を見に行く」、『カリガリからヒットラーまで』、せりか書房)
 だが、問題は、ここでクラカウアーの言うところの〈社会〉である。これがもし、支配される民衆から区別された〈支配的社会〉、鮪ミ会の支配階級〉の意味であるならば、クラカウアーの主張は、ほぼ全面的に受けいれることができる。しかし、クラカウアーにとって、ここで言われている〈社会〉が結局、社会そのものであることがやがて明確になる。すなわち、一九四七年に発表される『カリガリからヒットラーまで』の序論では、彼は、映画が(支配機構のであるよりも)大衆の欲求を反映するものだとして、次のように言うのである。
「人気のある映画−−あるいはもっと正確にいえば、人気のある映画のモチーフとは、その時代の大衆の欲望を満足させるものだと考えることができる。時折、ハリウッドは、大衆が真に求めているものを与えないような映画を、うまうまと売りさばいているといわれた。この意見によれば、たいていのハリウッド映画は、大衆の受動性と圧倒的な宣伝の力で、それを受け入れさせているのであり、大衆を愚ろうし、誤った方向に導いているということになる。しかしながら、ハリウッドの大衆娯楽の破壊的影響というものは、あまり買いかぶるべきではなかろう。操るといっても、その素材たる大衆固有の性格に依存しているのである。純粋な宣伝映画だった、ナチの公認の戦争映画でさえ、でっち上げるわけにはいかない、ある種の国民性を反映していたのである」
 かくてクラカウアーは、一八九五年から一九三三年のあいだにドイツで公開された大衆映画の〈モティーフ〉を分析することによって、そこにドイツの?桝蜿O〉がファシズムをむかえいれた潜在的欲求なるものを発見するわけだ。だが、しかし、そうだとするとファシズムは、全くもって運命的な出来事であったということになりかねない。ここでは、大衆の深いレベルでの欲求が支配機構によってすりかえられることが顧慮されていないだけでなく、大衆動員の数と大衆的アッピールの度合とが同一視されているのである。まさにこれは、大衆が戦前の天皇制をばかばかしいと思いながらも暴力的に強制されて、不承不承それに従ってきた側面を無視し、天皇制は日本の大衆の潜在的欲求にもとづいているものだとするのと同じことであり、また、宣伝につられて〈評判〉の映画をみに行きはしたものの、退屈で退屈でたまらなかったといった観客の側面を全く無視しているのだ。
 これに対して、商業映画を文化装置とみなす主張は、あくまでも、被支配者としての大衆と支配者との階級的区別、大衆の欲求そのものと文化装置によって捏造された〈大衆的欲求〉および?桝蜿O像〉との区別、さらには大衆は現状ではつねに〈大衆像〉を強制されているという事実、を前提にしているのである。と同時にこの主張は、文化産業や支配体制から与えられる文化には、大衆が素朴に−−つまり無批判に−−享受できるようなものはもはやほとんどなく、社会の管理化がますます昂進する状況下では、与えられた文化(大量消費文化)に対して大衆ができることは、享受ではなく、批判であるということを含んでいる。商業映画−−つまり商業的な流通過程をへてわれわれに与えられる映画−−は、それが一見どんなに社会批判的・社会意識的な身ぶりをそなえていようとも、徹底的に疑ってかかる必要があり、もしある作品がわたしに〈感動〉を与えたならば、そのような〈感動〉に陥った自分と、そのような〈感動〉をもたらす社会的諸条件について徹底的な反省を加えてみなければならないだろう。また、わたしがたとえ、製作者の〈意図〉からはるかに自由な〈独創的解釈〉をすることに成功した思われるときでも、そのような解釈もあらかじめ製作者によって予料されていたものにすぎない、ということがありうることを検討すべきである。少なくとも、今日、商業映画をみるということに何らか積極的な意味があるとすれば、それは、このような批判の遂行のなかにしかないように思われる。
 さて、最近わたしは、一九六〇年代のロック・ミュージックのスター、ジャニス・ジョプリンの晩年からヒントを得たというアメリカ映画『ローズ』(マーク・ライデル監督、一九七九)の試写をみた。この映画は、配給会社(二〇世紀フォックス)のパンフレットの言うところの−−〈バーバラ・ストライザンドを越える人気を持ち、歌唱力と演技力をそなえ、数々のヒット・アルバムを持つベット・ミドラー〉が主役を演じているため、最も怠惰な見方をするならば、彼女が劇中で歌う適度に〈反体制的〉なフレイバーをもったロック・ミュージックをきいて済ませることもできる。劇中にはたびたびコンサート・シーンや、主人公のローズが行きずりのクラブやバアで即興的に歌を披露するシーンがあり、ベット・ミドラーの熱演は、そのような欲求に十分応えてくれるだろう。
 が、映画の最も怠惰な見方というのは、むしろ、ストーリーのある映画をストーリーに従って見ることではなかろうか?というのも、ストーリーとは、観客がどんなに受け身であっても何とかつかめる、映画の最低レベルの論理であるからだ。これは、映画を文化装置として利用する側にとっては、一番気になる部分である。実際、それかあらぬか、配給会社がつくるパンフレットでは必ずストーリーの紹介が主要な位置を占めており、それは問題の映画を〈どうかそのように見てもらいたい〉と注文しているかのようである。
『ローズ』の場合、そのストーリー——つまり製作者が勧める映画の論理——は、自由奔放にみえてひじょうに他律的な女であるローズが、専用の双発機のタラップを重病人のような足どりで下りてきて、待ちうけているマネイジャー(アラン・ベイツ)の高級車に乗りこむシーンから展開する。このとき、ローズのヒッピー風の頭陀袋からアルコールの壜がころがり落ちてくだけ、彼女が心身ともに相当まいっており、やっとコンサートの巡業を続けていることが示唆される。それゆえ、次のマネイジャーのオフィスのシーンでは、早速ローズが彼に休暇をほしいとせがみ、マネイジャーがそれをつっぱねる。三百万ドルでマネイジャーと契約しているこの歌手は向こう三年間のスケジュールがびっしりつまっているのである。が、こうなるとこの映画のストーリーはほとんど予想がつく。マネイジャーはビジネスの鬼なのだろう。ローズは、このビジネスの〈非情な〉世界で苦しむのだろう。マネイジャーが最後に折れるのか、それとも、歌手が破滅するのか、はたまた第三の道があるのか?
 ストーリーは、しばらく、第三の道、つまりヴェトナム戦争下の軍を逃亡した男、ヒューストン(フレデリック・フォーレスト)とのラブ・アフェアーをからませ、ローズにつかの間の〈平安〉を与える。この男は、ローズの付人のような役で巡業にもつきあうことになり、マネージャーも、「ローズを頼む。過去の男はたくさんいたが、長続きしなかった。君が彼女の錨になってほしい」とか言って彼を是認するが、その〈平安〉も長続きはしない。大詰は、彼女の念願であった故郷フロリダに錦を飾るコンサートの日である。スタジアムにしつらえられる大がかりな会場の準備は着々と進み、事務所ではマネイジャーがローズの到着を待っている。彼女は例によってそんなことはおかまいなく、故郷の思い出の場所を付人の若者の一人に見せたりして、やっとマネイジャーのまえに姿を現わす。が、マネージャーは意外にも、「今日のコンサートは中止することに決めた」と彼女に宣告する。そして、動転して泣きわめき、懇願するローズを強くつっぱねて行ってしまう。
 映画はここで、ふたたびヒューストンをローズに再会させる。発作人間であるローズは、たちまちマネイジャーのこともコンサートのことも忘れたかのように、彼と街に出かけてゆく。かくて、コンサートの開始時間が目前にせまっても、ローズの行くえは皆目わからなくなる。ローズのでたらめさに業を煮やしたというより、明らかに、彼女にこの辺で?桝蜷l〉になってもらうためにこの戦略を試みたマネイジャーとしては、少々当てがはずれてあわてる。しかし、その頃ローズは、またしてもヒューストンとトラブルをおこし、彼から愛想をつかされていた。街のバアにいたとき、彼女の幼友達の一人が「また輪姦ごっこをやろうよ」といったようなことを彼女に言ったので、ヒューストンはこの男をなぐりつけてしまうのだが、ローズは幼友達のじょうだんを解せぬヒューストンに激怒して彼の頬をなぐり、彼に毒づいてしまうのである。
 もともと歌うことしか能のないローズにとって、ヒューストンがいなければ、帰るところはマネイジャーのところしかない。が、彼女はどうやってコンサート会場にもどったらよいのかわからないのである。このあたり、この女の甘ったれた幼児性がなかなかよく描かれている。公衆電話で局の交換手にたのんでやっとマネイジャーと話ができたときには、彼女は、不安のあまりか飲みつづけ、打ちつづけた薬物のためにロレロレの状態になっている。それゆえ、マネイジャーによってようやく〈救出〉され、ヘリコプターでスタジアムに運ばれたとき、映画が彼女をステージのうえで〈殺す〉ことになるだろうという予想はつく。ストーリーの大詰にふさわしいローズの最後の〈絶唱〉があり、予想通りローズはステージにばったり倒れる。配給会社のプログラムは書く−−「愛を求め、愛に傷つき、一つの時代を体当りで生きた一人のスーパー・スターの最後であった」。
 じょうだんじゃないよ、というのが、この映画の記憶をストーリーに従って再構成してみたわたしの印象である。要するにこの映画は、ストーリーを追ってみれば、一時代の大衆を熱狂の渦にまきこんだ一人のスーパー・スターが、その熱狂を彼女がいかなる代償のもとに作り出したかをいささか楽屋落的に物語っているわけだが、それにしてもずいぶんいい気なものじゃないかと思うのである。
 もっとも、この映画は、そのストーリーに従って見る場合でも、もう少し別の見方もできなくはない。この映画は、ヴェトナムの戦況を伝えるラジオ放送とか、空港待合室にいるヴェトナム出征兵士の姿などによって一九六〇年代末のアメリカということを暗示しており、そのためこの映画をその時代のアメリカの歴史表現とみなすことも不可能ではない。とすれば、ローズの甘えきった幼児的姿勢、スターというものに自己のアイデンティティを見いだす権威主義的=ナルシシズム的な聴衆という構図は、なるほど、六〇年代のアメリカ社会の性格をそれなりにとらえていると言える。クリストファー・ラーシーは、『iルシシズムの文化?寉G一九七八)のなかで、「競争的個人主義の文化、すなわち、その頽廃によって個人主義の論理を万人に対する万人の闘いという極限状況にもってゆき、幸福の追求を自己へのナルシシズム的な没頭という袋小路につれてゆく競争的個人主義の文化」が一九五〇年代以降のアメリカで支配的であったこと、そしてこの〈ナルシシズム〉は、結局、国家や企業やその他諸々の官僚組織に個人が依存する心理的次元であるということを指摘しているが、『ローズ』はこの意味で、この時代のアメリカ社会の性格を映像化しているとも言えるのである。とすれば、ちょっと見には何といい気なものだと思われるこの映画も、いい気なものだった時代を映像化しようとしているのであって、単にいい気な物語への感情移入を要求しているわけではないことになる。だが問題は、ポピュラー・ミュージックの現役として強力な影響力をもっているベット・ミドラーが、そのような異化作用よりも同化作用をより効果的にひきおこしやすい点である。また、外国映画は、その社会・文化的コンテキストが切り離された形で作品だけが輸入されるわけだから、たとえば、アメリカの観客にとっては味気ない時代の一表現と映じた『アメリカン・グラフィティ』(一九七三)が、日本では一つのカッコいい風俗として受けとられてしまったように、『ローズ』も、甘えとナルシシズムの時代の一表現としてよりも、カッコいい一人の女の話として受け取られる可能性が十分あり、映画自身もそのような可能性を促進する条件をより積極的に提供している点が問題である。
 他面、この映画は、もう少し怠惰でなく−−つまり、ストーリーや登場人物の具体性をカッコに入れ、イメージの細部が自由に喚起するものに従って読みなおしてみると、これをもう一つのヴェトナム映画として読めないこともない。ローズと飛行機との関係は、ヴェトナム爆撃に進攻するアメリカ兵とB52との関係の社会的ヴァリエイションである。ローズをあやつるマネイジャーは、コンサートの開始を目前にひかえながら彼女の行くえがわからなくてあわてているスタッフに向かって、「やつは必ず現われる。おれにまかせろ。おれはヴェトナムで気違いといっしょに暮していたんだ。気違いのあつかい方にはなれている」と豪語するが、これはまさしくペンタゴンの司令官と同じ身ぶりを思わせる。兵士たちは、ペンタゴンの冷徹な計算的理性によってあやつられ、ヴェトナムに送られて人殺しをし、自らもそこで死んでいったが、それはまさしくローズの宿命にもあてはまる。彼女は幾たびか逃亡を企てる。それを〈手引〉するのが実際の逃亡兵ヒューストンだというのも暗示的だ。エレクトロニクスと物的資材をふんだんに投入したコンサート会場は、さながら戦場の雰囲気である。そして、銃ならぬマイクをつかんで必死に歌う(闘う)ローズにやんやの喝采をおくる聴衆の姿は、まさにヴェトナムの虚しい〈戦勝〉に酔いしれるアメリカの操作された大衆の姿と瓜二つである。
 このように見ると『ローズ』は、ボブ・フォッシーの『キャバレー』(一九七二)がナチの暴力を間接話法で印象づけたように、ヴェトナム戦争下のアメリカ政治において顕在化する〈理性の腐食〉を社会や個人意識のなかに発見させる点で、『地獄の黙示録』や『ディア・ハンター』などよりもより具体的・暗示的にヴェトナムを扱っていると言えなくもない。だが、問題は、この映画をそのような方向で見ようとしても、そのような発見はここでは単なる歴史上の出来事として完結してしまい、ヴェトナム戦争とその時代のアメリカ社会を単なる過去のナンセンスな出来事として回顧するにとどめてしまう点だ。この映画をもう一つの〈買Fトナム〉Aヴェトナム戦争の社会・心理的次元として見ても、そこから帰結するものは、あの時代は何てばかげた、甘ったれた時代だったのかといった不連続な歴史認識にすぎず、今日も続けられている〈ヴェトナム戦争〉のレベルがこの認識によって逆にたくみに忘却させられてしまうのである。
監督=マーク・ライデル/脚本=ビル・カービー/出演=ベット・ミドラー、アラン・ベイツ他/79米◎80/ 9/23『社会評論』




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