ゴッドファーザー

映画『ゴッドファーザー』がアメリカでも日本でも「空前の大当たり」を続けているという。しかしなぜそんなにヒットしているのかという理由になると、新聞や雑誌は一様に、「薄れてゆく家長制へのノスタルジア」とか「強い男、頼れるボスに対するあこがれ」、「マフィア一家の結束」などといった通り一遍の説明でどうも釈然としない。「現代のアメリカ人の関心の焦点にあるものを巧みにメロドラマ化してみせた」という指摘もあるが、アメリカに関してはあたっていても、日本の場合に同様のことがあてはまるとは限らない。また、〈マフィア〉の実態をリアルに描いていると感心してみたところで、内幕ものの多くがそうであるように、その保証はどこにもない。ニューヨークなどアメリカ大都市の治安維持の悪さ、犯罪の激増は有名だが、それらの病因をマフィアの存在に帰し、この映画の人気を云々するのも意味がない。というのも、〈マフィア〉の内部事情だけを描いているこの映画には〈庶民〉はほとんど登場せず、また〈マフィア〉が実際にどのような〈害毒〉をアメリカ社会に流しているかというようなことは全く描かれてはいないからである。誤解をおそれずに言ってしまえば、この映画は、マフィアやギャングの話というよりむしろ、コルレオーネという一つの、〈ニ族?雷、同体が、その存続を脅かす敵を掃滅しながら、確固とした共同体を守りぬく話なのである。だからその意味では、〈ニ?誤植〉ナあれ〈国家〉であれ、共同体の形成・維持がさまざまな困難に直面している今日、この映画はある種の〈mスタルジア?誤植〉竅q憧憬〉を与えなくもない。
 だが、他面この映画は、それではなぜあのような血を血で洗う苛酷な戦いを強いてまで〈共同体〉を守りぬかなければならないかという疑問の《異化効果》をもってもいるのである。といってもそれは、映画を見終わったあとでフッと眩暈のようにおそってくる疑問でしかないのだが。
 コッポラ監督はこの疑問を、あたかも長い平叙文の末尾に小さな疑問符を付すかのように、さりげなく匂わせているにすぎない。それは、夫マイケルの?末ウ実?誤植〉?信じていた妻ケイ−−コルレオーネ家で唯一人の生粋のアメリカ人−−がふとみせる不安の表情である。映画はこの表情を暗いドアーがぬりつぶすしかたで終わる。ドン・コルレオーネの三男であるマイケルは父親のやくざ稼業に加わるつもりはなく、父親もそれを望んでいたのだった。彼は第二次世界大戦で武勲を得た〈まともな〉アメリカ人で、ケイは彼のかたぎ時代の恋人であった。が、麻薬取引の片棒をかつぐのを断った父親が撃たれ、悪徳警部の侮辱をうけ、さらには兄が殺されたりするうちに彼はみずから進んで父親の後継者になり、父や兄の敵を巧みな方法で暗殺し、コルレオーネ一家に安泰と繁栄をもたらすのである。だが、この安泰と繁栄は? たとえそれが〈正義〉にもとづくものであれ、それはケイ=アメリカ自身にとって何を意味するのか? この映画を〈メロドラマ〉と断じ去ることができないゆえんは、この三時間におよぶフィルムの最後の数十秒が提示する〈疑問符〉の重さにある。
 アメリカの映画がアメリカ文明そのものに疑問符を付す作品を発表しはじめたのは昨日や今日はじまったことではない。六〇年代に入ると、〈ニューヨーク派〉さらには〈ニュー・シネマ〉の作家たちは、いわばこうした〈疑問符〉だらけの作品を続々と発表しはじめた。日本でも、アメリカ映画がおもしろくなったということがささやかれるようになったのは、六五年にシャーリー・クラークの『クール・ワールド』(一九六三)が封切られたころからではなかったろうか? 当時わたしはもっぱらフランス映画に傾倒していて、アメリカ映画の方はあまり系統的には見ていなかったのだが、この映画はマル・ウォルドロンが作曲を担当しているというので見に行き、アメリカ映画が大きく変わりつつあるのを実感した記憶がある。映画だけではなく、六四年の「ジャズの十月革命」の前後からジャズも大きな変貌をとげる。とりわけESPレコードを拠点とするアルバート・アイラーの活動はまさしくジャズの歴史を、変えるものであった。
 こうした変化は、結局、アメリカ人の、危機意識の深さに帰因する。危機意識といってもそれは、何か怖ろしいことが起きるという破滅感ではなくて、歴史が一つの転換期にさしかかっているという歴史感覚であり、それが六〇年代以降アメリカの文化全般にわたって明確なかたちで出てきたのである。映画に限っていえば、はじめのうちは、たとえば『クール・ワールド』がハーレムをとりあげたように、アメリカの〈現代〉に疑問符を付すだけにとどまったが、やがてこの病める〈現代〉の超克が模索されるようになる。それはどのように行なわれたのだろうか? すでにシドニー・ルメットの『質屋』(一九六五)は亡命ユダヤ人の宿命をナチス・ドイツにまでさかのぼって描いていたが、〈現代〉の超克は歴史の〈読みなおし〉という方法で行なわれる。もともと歴史感覚というものは、歴史の読みなおしにまで高められてこそ転換期の革命的歴史感覚になるのだ。
 アーサー・ペンの『小さな巨人』(一九七〇)とゴードン・ダグラスの『フェーザー河の襲撃』(一九五三)とを比較してみれば一目瞭然であるように、同じ時代、似た素材をあつかいながら、全く正反対の歴史解釈が生じる。後者では、従来の西部劇がそうであったように、インディアンは犬畜生以下の存在で、〈正義〉のまえには当然滅ぼされてしかるべきものであったのが、前者ではインディアンこそ〈ユーマンビィーイング〉だということになる。開拓精神といえばきこえがよいが、銃火器で装備した白人が先住のインディアンを虐殺、駆逐していた西部開拓史の一面を見のがすことはできない。それは「勝てば官軍」という言葉の通用した時代の〈勝利〉観〈正義〉観でしかない。ウルス・シュワルツも言っているように、「インディアンとの闘争、南北戦争、対独・対日戦争の例からみれば、敵の力を徹底的に破壊し、侵略者の意思を押えるというのが、昔の勝利観であったが、現代においては、人間的・道義的配慮や、正義の戦争の理論などによって、この上ない挑戦と思われる場合においても、なお対武力打撃を行使することに、二の足を踏まざるをえない」『アメリカの戦略思想』)
『ゴッドファーザー』の時代背景は第二次大戦後数年間である。画面には終戦後東京の街でもよく見かけたシボレー、ヴュィックなどの車がぞろぞろ登場し、ラスベガスの巨大な広告塔には「パティ・ペイジ」の名が見えたりして、時代をストレートに感じさせる。おそらくアメリカ人にとっては〈家長制〉なんぞよりもこうした時代色の方がよっぽどノスタルジアを感じさせるのではあるまいか? そしてこの時代を背景にくりひろげられる血なまぐさい戦いは、ただちにあの朝鮮戦争の暗い思い出をよびおこすのではないか? トルーマン大統領は、朝鮮戦争を第三次世界大戦を防ぐ正義の戦いとみなしていたが、マイケルにとって、五大ファミリーの頭目とその一味の殺害は、ファミリー間の、〈全面戦争〉をくいとめ、兄の死に報いる〈正義〉の戦いであり、宗教的断罪ですらあった。マイケルの部下たちによって行なわれる頭目たちの無惨な暗殺シーンと、マイケルが妹の娘の名付け親として洗礼式に立ちあう教会シーンとが同時描写的に描かれるのは、単に時間的な同時性を表わしているだけではなくて、この殺人の宗教的な〈正当性〉をも暗示している。暗殺が「とどこおりなく」終わるころ教会では「平穏と恵みの道を歩め、アーメン」と唱えるが、マイケルにはこれを皮肉な合致とは受けとれないだろう。
 では、こうした虐殺は不可避的なものだったのだろうか? このような問いは、第二次大戦を、朝鮮戦争を避けることはできなかったかと問うのに似ている。とはいえ、あの〈理想主義者〉フランクリン・ローズヴェルトが「ヤルタ会談」をもって今後全く戦争のない世界が出現すると信じきっていたとはおよそ考えられないことだ。みずからも傷つき、老い、衰えたドン・コルレオーネが次男のソニーの訃報に接して、「犯人はさがすな」と苦しげに発する言葉には、もう殺しあいはたくさんだという心情が吐露されていたが、だからといって、そののちにドンがアメリカ中のファミリーの頭目を一堂に集めて開く〈平和会議〉は、素朴な平和主義にもとづくものではない。が、にもかかわらずそれは原作で言われているほど意図的な計略から開かれたものでもない。ドンは、自分の息子たちには自分の道を、歩ませたくないと思っていた。ところが皮肉にも、自分でも父親とは別の道を歩むつもりでいたマイケルが、次第に「父親そっくり」になっていくのである。父親も息子もいまではこれもしかたのないことだと考えている。が、孫は、マイケルの息子はどうであろうか? ドンが農園でマイケルの息子と戯れるシーンは、一見、老人と幼児とのありふれた光景のように見えながら、実に意味深長である。ドンはかたわらの噴霧器を孫にわたし、その構え方を教えたのち、自分がいわば〈鬼〉になって自分を追わせ、征伐させる(実際にドンはここで心臓発作を起こして死ぬ)。この原作には出てこない印象的なシーンは、祖父と孫とのあいだで、とりかわされる《イニシエイション》の儀式を思わせる。少なくともここには、自分が《道化》になり、媒介者となって、孫に自分を踏みこえさせたい願望が象徴的に現われている。今日のアメリカはドンの孫たちの世代の手にゆだねられようとしているわけだが、彼らはあの〈噴霧器〉をどのように扱うだろうか?
監督=フランシス・F・コッポラ/脚本=フランシス・F・コッポラ、マリオ・プーゾ/出演=マーロン・ブランド、ジェイムズ・カーン他/72年米◎72/ 9/18『ほるぷ新聞』




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