2

愛の嵐

『愛の嵐』−−これは何とも不快な映画である。といっても、下馬評で言われているような「倒錯したエロティシズム」の強烈な映像力にみちみちていると言っているのでは全くない。ナチズム、ウィーン、芸達者な俳優をあんばいして、少しばかり手をかけてこしらえたメロドラマの小品、さしずめこんなところがこの作品に見あった評価であるにもかかわらず、世の映画批評家たちは、この映画にさも強烈なアクチャリティがあるかのごとくほめたたえている、何とも不快である、と言っているのだ。
 元凶は、商売上手の監督リリアナ・カヴァーニで、彼女によればこの映画は、ヴィスコンティのナチズム・アプローチをのりこえており、ナチズムとはこんなに醜いものなのだということ、しかもそれが一般人の内につねにひそんでいるものであることを〈徹底的〉に描いたというのだが、それにしてはナチズムもずいぶんとなめられたものである。一体どこにナチズムないしはナチズム的状況が表現されているのか? むろん、ナチのやったことを映像化することがナチズムを描く唯一の方法ではない。かつてシドニー・ルメットは『質屋』で、この映画と同様カット・バックの手法を多用しながら、アメリカの都市生活に潜むナチズム的状況をもっと鋭く描いていた。
 元親衛隊員の男と、強制収容所で彼に愛された女との偶然の再会がサド・マゾ的に屈折した性愛関係に陥らざるをえないのは、二人の潜在意識のなかのナチズムと、二人を新たにとりまいた閉塞的状況とが二人を直接・間接に抑圧し、ゲットー的閉塞状況に追いこんだからだが、これはネズミでも実験できる精神分析の初歩理論の素朴な応用の域を出ていない。のみならず、この映画にとって、二人をこうした状況に追いこむ抑圧機構がナチズムでなければならない必然性などどこにもありはしないのだから、この映画がわれわれの関心を直接的にも間接的にもナチズムの方へ向かわせないのは当然といえよう。所詮メロドラマなのだ。
 ナチスは、歴史上はじめて宣伝という部門に省の資格を与え、文学、新聞、映画等のあらゆるメディアを徹底的に組織化した。ナチは、芸術が政治と切り離されたものではなく、人民の自己表現として機能しうる以上に、ブルジョワ権力による操作の有力な手段になりうることを実証してみせた。今日ではナチス時代よりもはるかに作品は操作の手段になりはてており、受け手に解釈の余地を与えないほど強力な浸透力で、文化産業がその利害とイデオロギーに見あった解釈を吹きこむのである。その意味で、この映画の本質を一番よく知っているのは配給会社の宣伝部であろう。彼らは、この映画が思想性などとは縁どおいしろものであることを見ぬいていたからこそ、『愛の嵐』などという、彼らの言う「インテリ女性」向きのタイトルをつけたのだ。ナチズムは日常性の内にかく現われる。いずれにせよ、この映画の思想性は、この映画のなかにではなく、退廃した批評家=ジャーナリズムと映画産業との不快きわまりないファシズム大行進のなかにある。
監督・脚本=リリアナ・カヴァーニ/出演=ダーク・ボガード、シャーロット・ランプリング他/73年伊◎75/11/ 5『思想運動』




次ページ        シネマ・ポリティカ