Twittchan 2.0
小澤英実
@彼女たちの成熟と喪失 ソフィア・コッポラという視点 ユリイカ 2018年03号
ソフィア・コッポラ作品の特徴のひとつは、カメラの滑るような水平移動がある。・・・だがどちらの作品においても、旅を成長のメタファーとするアメリカ文化にとりわけ根強い王道パターンは破棄され、登場人物たちの水平移動はいかなる成長も意味しない。・・・それに対し、作中においてステイタスの違いや登場人物たちの変化・成長(せざるをえないこと)は、上昇や下降といった垂直方向の動きや高さの違いによって暗示される。(p.51)
エドムンド・フッサール
@長谷川宏訳 経験と判断 河出書房新社 1975年
あらゆる経験は経験の地平をもっている。つまり、あらゆる経験は、現実的で確定的な知識の核、「事物がそこにある」というかたちで本来あたえられる核をこえて、経験の地平をもつのである。(p.24)したがって、ある存在者の根源的な把握や解明が一歩すすむごとに、経験可能なものの地平も全体として変化する。(p.110)
アレクサンダー・R・ギャロウェイ
@プロトコル 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか 北野圭介訳 人文書院 2017年
テクノロジーが新しいかたちでネットワーク化し、公衆はこれまでにないほど不平が言えないままに、グローバルな資本が作動させる管理=制御の構造群に自らを適応せざるをえないようになりつつある。その一方で、これらプロトコルの論理にもとづくフローをおしまげることによって、そうでなければ逸らせることで、社会生命が疎外されずにいるというユートピア的な形式を目指す一連の社会的実践が新しく登場しつつある。〔そりゃそうなんだが、かつてヒラメキボーイとしてわたしのまえにあらわれたアレックスにしては破綻のなさすぎる本。博士論文だと彼でもこうなってしまうのがプロトコルの怖さか。〕
高橋世織
@紅葉と写真術 紅葉全集 月報11 岩波書店 1995年
『金色夜叉』のクライマックス(前編第八章)、熱海の海岸で間貫一と宮が〈今月今夜の此月を〉と演じる場面は、月光のライティング効果といい、空や汀のレフ板効果といい、当時の写真撮影館〔スタジオ〕などに設〔しつ〕らえられる、存在をあやうく見せる仮想現実的空間、つまりパノラマ的なジオラマ・イリュージョンを想起せずにいられない。 (p.2)
尾崎紅葉
@芸文 明治35年8月11日 第2巻 紅葉全集 第十巻 岩波書店 1994年
僕は明治の婦人を書いて見たいと思ったのだ。・・・宮はかく迄明治式の婦人であるが、これが普通の明治式婦人なら、富人富山その人の如きに嫁したらば、それなりに昔の関係を捨てゝ、富山の夫人になって仕舞って、貫一を見捨てゝ仕舞ふのであるが、僕は宮をして超明治式の婦人たらしむるつもりで、宮をしてあのやうに悔悟の念さかんならしめたのだ。 (p.318) 柄谷先生、わかってくれたかな?
尾崎紅葉
@作家苦心談 紅葉全集 第十巻 岩波書店 1994年
其れア自分にしても、世の中を見て何も考へないことはない、社会は斯〔か〕ういふもので、斯〔か〕うあるべきものだ位考へないことはない。為永が人情本をかき、京伝がしゃれ〔ルビ点〕本をかいたのとは無論考へは違ツてゐる。人生観が何〔ど〕うしたの、世界観が斯〔か〕うしたのと、ひどく大業〔おほげふ〕なことを云ツてたツてしょうがない。其れで又小説が出来るもんぢやないんだ。 (p.204) 〔初出:明治30年6月3日「新著月刊」第1巻第3号〕
柄谷行人
@定本 日本近代文学の起源 岩波書店 2008年
産業資本主義の段階では、商業信用の発展の中から銀行が生まれてくる。これは古来ある高利貸しとは異質である。〔尾崎〕紅葉はこの変化をまったく理解していない。そのことは彼の最晩年の仕事である、『金色夜叉』を見れば明らかである。 (p.337) ――先生、あいかわらず教条主義だな。
田村 安
@オーガニック・ワインの本 春秋社 2004/2007年
オーガニック農業は「自然農法」とは違います。自然農法は一切の薬品類を認めませんし、肥料に動物の糞を入れること、さらには耕すことすら認めない場合もあります・・・。自然農法は、基本的に自給自足志向です。産業になることをあまり考えていません。一方、オーガニック農業は産業として成立しなければなりません。でないとひろがることがなく、化学農業に代わるものとなりえないからです。 (p.164)