2025/01/23
どうやら粉川哲夫は「雑日記」を終わりにするらしい。書かないで放置しておくという手もあるが、その理由らしきことを書いたほうがいいんじゃないかと言うと、じゃあ俺に書けと藪蛇になった。
要するに、トランプの「勝利」でアメリカ政治を語る気分を失ったということなんだろう? 「いや、ちがうね、いや、そうかもしれない。」まあ、「雑日記」の過去をたぐってみると、ある時期からアメリカ政治のことばかりになる。が、ならば、それをやめて、文字通り「雑記」だけにすればいいんじゃないのか?
「断っておくが、“アメリカ政治„の登場人物や出来事には触れたが、アメリカ政治を分析したり論じたりしたつもりはなかった。主として“アメリカ„から発信される政治ニュースやゴシップを題材にはしたが、基本の枠組みは、“ハリウッド„対“反ハリウッド„だった。生臭い政治じゃなくてショウビジネスだ。」
たしかに、トランプについて書き始めたのは、ハリウッドの出来事やゴシップ、とりわけ「オスカー・アカデミー」で総括されるテイストに飽きて、トランプ現象やトランプ劇場と呼ばれるようになる出来事をハリウッド映画の後継現象と見たからだったな。それは何度も言っているからわかっている。だから2024年の大統領選挙も、「コンビニの味」対「格闘技のテイスト」という構図で語られたわけだ。
それにしても、1月17日(Art's Birthday の日だ)にトランプが、ジョン・ヴォイト、メル・ギブスン、シルヴェスタ・スタローンをハリウッド振興の「特別大使」に任命したのは、「ハリウッド派」にとっては、チェックメイトだったな。
これで、「ハリウッド」は完全に「格闘技」テイストに染め抜かれた。「デモクラシー」の最終形態だった「コンビニの味」なんぞは土足で踏みにじられ、ヴォイト、ギブスン、スタローンのような「ハリウッド」という上げ底のうえでなら面白かった「暴力」や「人種差別」や「ど根性」も、マジでやってくださいということになる。
「映画で言うなら、トランプは自分がプロデューサー・監督・主役のつもりで、その“映画„を世界に広めようと思っている。しかし、そういうワンマン映画って面白くない。ヤツに忠誠を誓ったやつらだけを集め、ヤツのいいなりで作る、複数多数性のない映画なんて、見る気もしない。」
2024年の「雑日記」を読んでいて気づいたが、アメリカの政治ニュースの「リベラル」派の論調というのは、トランプならトランプをたえず「腐す」か「貶す」かしか能がなかったな。エッセーレベルでは、アビー・ズィメット(Abby Zimet)みたいな、内部にアイロニーを絶やさないライターですら、イーロン・マスクの身ぶりが「ハイル・ヒトラー」だとからかったりしている。ヤツの魂胆はそんな単純ではない。批判するのなら、もっと根底からやらなければ、ダメだ。
「だから、“ショウ„という上げ底を前提して、そのうえに“民主党„と“共和党„最終的にはカマラ・ハリスとトランプとの“演技・演出戦„として記述しようとしたやり方ではダメだと思ったんだ。」
うん、言いたいことはわかる。しかし、そういう「上げ底」を取り払って、儀礼もモラルも慣習もしきたりも全部いらないという方向がラディカルに進められるのなら、それはそれで面白いんじゃないか?
「そう、身体性の最終的なリキデイション liquidation(廃絶・精算・一掃)だね。それは、“文明„のはじまりからの動向で、とどまることはないのだが、“AI„なる用語が御旗(みはた)になって、それが可能であるかのような雰囲気が高まっている。イーロン・マスクなんかは、そういう動向のお先棒をかついで金儲けしている輩のひとりだ。」
あんたは、最近、ニューヨークのカッツキルにあるラジオ局WGXCのために"Transmitter Journey"というラジオアート作品を作ったが、あれを聴くと、ラジオとあんたの関わりは、身体性を「極小化」する実験なんだね。つまり自由ラジオ/ミニFMでは、都市の「隘路」的単位へ、90年代後半からの「ラジオアート」では「手」まで極小化し、最近のSDRジョッキーでは、当面は、コンピュータのキーボードに触れる1本の指先だが、肉体は、サイコロを転がす乾坤一擲的な動作しかしていない。
「しかし、指ではなく、声でも、息でも、視線を当てるのでも、サイズとしては最小であれ、身体性の要素はリキデイトされてはいないのだ。信号のオートスキャンのようなことは出来るが、その自動振幅が“生命„だというのは単純すぎる。」
というより、相手がそういうロボットであっても、その相手になるのが身体性を引きづっていないかぎり、その「生命」の振幅を知覚できないわけで、表現も対話もなくなる。この世の「人間」がみなロボット化するとしても、人間以外の「身体」生物がすべてリキデイトされることはありえない。まあ、イーロン・マスクなら、あいつだけは生き残り、他はロボットでいいと考えるかもしれない。
「イーロン・マスクは、そういうリキデイションをめざしているわけではなく、せいぜいのところ、“不法移民„にたくしている身体労働をロボットに置き換えるぐらいだろう。それも、やってみてヤバくなれば、手の平を返す。しかし、今度の選挙で、“コンビニの味„よりも“格闘技のテイスト„を支持する有権者が多かったことでもわかるように、アメリカでは、“体当たり„的な身体性・肉体性への執着が強いのだ。ロボット化は、他の国よりはかどりにくい。」
その意味では、今後、アメリカから新しい身体カルチャーが台頭する可能性がないわけではない。といっても、もう、そういう動向をゴシップのあいだから見つけ出して、ウィーヴィングしていく気はないんだろう?
「新しい身体性は、アメリカからではなく、別のところから生まれつつあると思う。それについてなら、別の機会に対話しよう。たぶん、"Z"という新サイトで。」
「X」ではなく、最後の最後の「Z」か、俺の名(Zofy)の頭文字でもあるな。期待するぜ。