2024/11/14
米国市民ではないのに、なぜわたしはアメリカの状況を気にするのだろう? 米国を愛しているわけではない。わたしはどの国も国家としては愛していない。しかし、ニューヨークなどのようなアメリカの一部の都市に対するわたしの好み――つつましさ、シティワイズ、「うさんくささ」、混沌、インスピレーション、偶然性、共感できるある種の「合理性」等々――が最終的に完全にブロックされると考えのは憂鬱だ。
これらの諸価値はわたしの夢や理想ではなく、「ヤッピー」(Yuppie=Young Urban Professional) が侵略するまでの1970年代後半のニューヨークでわたしが目と体で体験したものである。しかし、トランプから始まる今後の動向は、修復の望みもなく、むしろそれらを一層激しく破壊するだろう。
時が経つにつれて、すべてのシステムには「有機的な」エンティティが形成される。カフカが警告した官僚主義でさえ、「有機性」をおび、単なる骨絡みの体制だけではなくなった。システムは、いったん「有機的」になると、部分的には生きた自然の存在として機能する。国家というシステムについて言えば、「憲法」は、本来はそのような側面を維持するためのものであるべきだった。
トランプは「ディープステート」を解体すると宣言している。陰謀論を浅薄かつ利己的に利用しているにすぎないという批判は軽率すぎる。「ディープステート」とは、トランプにとっては、彼とその仲間にとって都合の悪い現在の官僚制度と公務員を一掃するためのものである。この数日次々に発表される彼の大閣僚予定候補を見ると、低所得者への保険や福祉はもちろんのこと、教育、芸術、科学振興などのような、現在の体制でまだ有効に機能しうる生産的な側面さえ無視し、強者と金儲けを優先する方向が突出してくることが予想できる。
ジョルジュ・バタイユは、あらゆる制度は浪費的な「蕩尽」 ("consummation"を) 迎える運命にあると考えていた。その中に「革命」の兆候を見出す人もいれば、「カタストロフ」を見出すひともいる。「革命」にもいろいろあり、レーガンが自分の政策を「革命」と呼ぶと、企業はこぞって会社のイノヴェーションを「革命」と言い換えた。
しかし、「蕩尽」に、「革命」や「カタストロフ」のような派手な言葉ではとらえられない側面を見出さなければこの概念は意味をなさないだろう。「革命」でも「カタストロフ」でもいい。またかい、と言われるかもしれないが、ミクロな領域つまり、街角や体細胞のなかでの「革命」や「カタストロフ」に期待し、加担することが必要だ。「ミクロ革命」は、トランプとは関係なくいまここで進行中のはずだ。