2024/05/27
杉村昌昭さんが、また、刺激的な本を翻訳してくれた。フランコ・“ビフォ”・ベラルディの『第三の無意識』である。翻訳される数々の原書の選択が、「ガタリ系」とでも言うべき思想で一貫しているのにも敬服する。
わたしが知っていたビフォは、メディア・アクティヴィストで、彼自身の名よりも、ラディオ・アリチェという「夭折」の自由ラジオ局をはじめとして、さまざまなオールタナティヴなメディア政治のなかでちらりと出てくる“Bifo”という名の謎めいた人物にすぎなかった。
が、いまや彼は、ヨーロッパや北アメリカでは「philosopher」として有名だ。これにはちょっと淋しい気がしないでもない。
マスメディア(mass=「多数・主要」というより「塊」)に登場する「哲学者」という肩書を信用しないからでもあるが、「philosopher」は、日本語の「哲学者」とは意味合いが違うから、まあいいとしよう。
それに、状況から概念を創出し、その概念に接する者をインスパイアーするというのが哲学の基本だとすれば、"The Third Unconscious”は、レリバントだ。
本書の次に予定されているイタリア語の本の基本概念は、“Diserzione”とのこと。これは、「脱党」「離脱」「脱走」等を意味する言葉だが、彼にこの概念を触発させたのは、ロシア・ウクライナ戦争であり、選挙へのイタリアの若者の無関心・無投票であり、世のヒキコモリ的傾向だという。
「哲学」としての「概念化」は、メディアへ姿勢と対応するとわたしは思うので、半畳入れ的言い方をしたが、ビフォーの発言は、ミニメディアやマイクロ政治の限られた世界の少数者をわくわくさせた時代から、もっと大きなサイズの読者層をインスパイアーするようになったのは、彼のもうひとつの才能の開花だと受け取るべきだろう。
「左翼」よさらば「思想家/哲学者」としてのビフォの著作は、すでに『プレカリアートの詩』(河出書房新社)、『NO FUTURE』(洛北出版)、『大量殺人の“ダークヒーロー”』(作品社)、『フューチャビリティー』(法政大学出版局)等によって、日本語化されているが、本作で顕著なのは、いわゆる「左翼」的な姿勢への決別である。いや、「決別」というのは正確ではない。Radio Alice時代の自律的で相互連帯的な姿勢は失ってはいない。しかし、18歳でアウトノミア的自律組合を組織したという彼も、いまは、「組合左翼や「党派的左翼」には愛想をつかしているようだ。
ボードリヤールへの接近
もうひとつの変化は、ボードリヤールへの接近である。すでにビフォは、スペインのジャーナル『EL PAíS』のインタヴューで、「まず第一に、政治は、左派も右派も、何の意味も持たないということを認識しなければらない」と語っている。
また、UKベースの『THE WHITE REVIEW』(February 2016)では、こうも明言していた。
「40年経った現在を見ると、ボードリヤールの作品はドゥルーズやガタリの作品よりもはるかに現代的であると思います。 時々、このことについて罪悪感を感じることがあります。ガタリは私の友人だったのに、どうしてそんなことができるのか? 私はガタリをドゥルーズのような偉大な哲学者だと思いますが、両者を区別しなければならないと同時に、分解できない一つの機械として語らなければならないと思っています。 しかし、その機械は 40 年前のもので、私たちが現在住んでいる未来をマッピングしていたわけです。ですから、現在の観点から現在を見たい場合は、ボードリヤールの方がはるかに利用可能なのです。」
う〜ん、ここまで言うかというのが、わたしの率直な感想だったが、こうした彼の言説への批判は一旦カッコに入れて本書を読み進めてみよう。それに、「機械」のさらなる連結と言っているのだから、それは、ガタリの姿勢の継承と言えるのかもしれない。
境界線の動揺と移動2021年に刊行された本書『第三の無意識』は、「日本語版序文」にもあるように、コロナ・パンデミックのインパクトを受けて書かれた文章から構成されている。
第一部の「境界線」には、「境界線と詩」「崩壊を超えて」「ウイルスの記号論」「精神システムの崩壊」「自由と潜在力」、第二部には、「無意識とは何か」「自閉症的精神風景」「キスキスキス」「悲しきエロス」、第三部の「無になること」には、「終末の神話学」「老化問題」「死と友達になること」「快楽と欲望」「疲弊と枯渇」「予防精神療法〔サイコセラピー〕としてのアメリカの反乱」「無になること―神のアルツハイマー病」とどれも気を惹くタイトルが並んでいる。
ビフォによれば、コロナを契機にあらゆる境界線が動揺・移動した。他者との距離は電子的なソーシャルディスタンシングが仕切り、「周囲の環境との関係が疎遠になることによって世界は室内化し、公共空間はすっかりヴァーチャル化し」(p.110)、「性的行為のヴァーチャル化」(p.112)も進んだ。
「エイズの場合、感染の可能性があるのは“血”の交換だけだったからである。しかし今起きている事態はこれとは異なる。唾液の交換、身体の接近、他人の吐息といったものが、発病効果を発揮する。他者の皮膚への広範な恐れが集合的無意識に浸透し、生きることの喜びをつくる“共同行為”の源泉を汚染するのである。」(p.112)
「パンデミックは人々のあいだに身体接触なきコミュニケーションを増大させ、その結果、最終的に言語が自動化され、共感力が凍てつくことになった。」(p.143)
「われわれは歴史上はじめてキスを避けるように求められている。マスクをしてセックスし、自慰をするのが好ましいという最悪のシナリオも提示されている。」(p.125)
身体的接触の変容こうした、いまではよく言われる現状認識ののち、ビフォーは次のような疑問を提起する。
「パンデミックが終わってからも、われわれは自分の近くに寄ってくる他人を胡散臭い目で見続けないだろうか」(p.37)
「すべての人間的行為のなかでも、キスは最も人間的な行為であるように思われる。」(p.126)
「肌と肌の接触なくしては、至近距離からの目くばせなくしては、匂いを感じなくては、快楽の世界は存在しえない、と私には思われる。」(p.145)
「人は触れることも匂いを嗅ぐこともできない〔他者の〕身体を激しく求め続ける。身体は感情のなかに姿を現すが、感情は身体的接触に転化することができない。こうした状況からうつ的不安が生じるのである。」(p.146)
フランスや北アメリカへの「亡命」等々、海外経験のゆたかな彼でも、こうした疑問や不安には、イタリアで生まれ、育ち、多くの時間をイタリアで過ごしたはずの彼のイデオシンクラシーがあらわになっているような気がする。
だが、世界のさまざまな地域の特異性を顧慮すると、ビフォーの疑問や不安は単純すぎるように思うのだ。また、ビフォーが十分承知のはずのテクノロジカルな生活環境の、パンデミック以前から進んでいる動向が軽視されているような気もする。
わたしは、海外でしばらく生活して日本に帰ってくると、日本ってのは「接触恐怖症(aphephobia)や「細菌恐怖症」(germaphobia)の環境ではないかとよく思った。だから、東京でガンとして「おしぼり」を出さないイタリア料理店なんかに行くとホッとしたりした。瓶から直に飲み、飲み回しが普通の異文化にかぶれて、そのまねをしたら、えらく顰蹙を買い、早く「日本」の外へ出たいなんて思ったこともよくあった。
しかし、そのうち、乗客は日本人だらけなのに、決して日本語のアナウンスのないような飛行機会社でもおしぼりを出すようになり、やがて、レストランでおしぼりを出さない店はほとんどなくなった。2024年現在、いまでも意固地におしぼりもウエットティッシュも出さないイタリアンレストランを1軒だけ知っているが、いまとなっては滑稽の感もする。
その点で、複数文化にまたがる生活経験のある日本人のなかには、ある意味、コロナパンデミックで「安心」し、「愛国者」になったのもいる。ある時代から「もともと」あった「キタナイのイヤ」文化や、インスタント「ヒキコモリ用具」(他者への距離取り装具)としてかなり普及していたマスクも、復権を果たし、逆に肉体を露骨に提示することが「野蛮」や「暴力」とみなされる度合いが高まった。「〜ハラスメント」の増殖も、そういう動向の一環である。
つまり、ビフォーの指摘にもかかわらず、コロナパンデミック以前から、生身の身体への「距離取り」は、すくなくとも日本では強まっており、わたしのような「野卑」な奴の居場所がなくなり、「クリーン」だらけの文化の正当性が世界的に保証されるようになってきていた。
トランプ現象このような傾向は、日本だけのものではなく、アメリカでも台頭しつつある。たとえば、トランプのように、コロナ以前から「ジャーマフォビア」を自慢にする輩も出てきた。ただし、この裁判で、「俺はジャーマフォビアだから、見知らぬ女とはやらない」と言い放ったから、奴の「ジャーマフォビア」は、単なるポースだったかもしれない。が、いずれにしても、目下、彼がポルノ映画女優ストーミー・ダニエルズと性交をしたかどうか、したならどんなやりかたでしたか、そのもみ消しに使った金の出処は・・といった問題が何週にもわたって裁判(「ストーミー・ダニエルズ・口止め金訴訟」)されている。
この裁判自体は、トランプがストーミーと性交した際にコンドームをつけていたかいなかったかというような極めて肉体的なやりとりに終始した日もあったから、それを報じるメディア上では、身体への距離の社会意識は縮まり、トランプのおかげで、目下、身体への「距離のない」話題でにぎわっている。むろん日本でも、似たような裁判ともなれば、同様に露骨な審議が行われるだろうが、その内容がメディアに「漏れる」度合いはかなり抑えられる。日本では、身体はいつも「陰部」を残す。
性的な接触に関しては、『ラースと、その彼女』(Lars and the Real Girl/2007)のような――ヴァーチャルセックスという意味ではチープな映画(前年『ハーフネルソン』Half Nelsonでアカデミー主演男優賞にノミネートされたライアン・ゴズリングが主演) が、この問題が論じられるときにいまでも話題になるくらい、すでにコロナ以前から、「肉」を介しあわないセックスへの関心はたかまっていた。
いま、女性で「ディルド」かそれに類するものを持っていないひとは少ないという話を聞いた。「オナホ」や「セックスドール」遍歴を繰り返している男性を知っている。実際、中国ではそうしたヴァーチャルセックスの多様な用具を生産する企業の大きな展示会が毎年開かれる。
過剰な表現性以後話題が豊富なビフォーが「あちこちに話を脱線させながら精神の散歩を気の向くままに行なう」(p.138)と書いているので、ついついわたしも話が脱線してしまった。本文にもどろう。
ビフォーによれば、「身体接触なきコミュニケーション」の増大は、「他者の感覚を捉えることの困難、そして他者の感覚を思い描くことの困難、これはまた過剰行動/衝動的行動という症候群と結びついている」(p.123)という。
ビフォーは、これを「距離の文化」としてではなく、「自閉症的精神」の遍在と取るのだが、その解明にまずフロイトを参照し、次のように書く。
フロイトの「不気味なもの」〔ウンハイムリッヒ〕つまりは「同じものの繰り返しから生まれる」「反復脅迫」は、通常隠されており、だからそれは「無意識」なのだが、コロナパンデミックのもとでは、「われわれを取り巻く親密な環境のなかにこの無意識が突然闖入」し、「遍在」化した。(p.103-104)
この「無意識」は、「おのれの一貫性を保つために」作動する「排除行為 Verdrängung」――「フロイトは『文明への不満』のなかで、〝排除行為.を社会的諸関係を構成する不動の要素と見なしている(p.98)――が、もはやそんなものは作動しえない状況に入った、という。
以下のくだりは、まさにトランプが体現しているトランプ現象に当てはまる。
フロイト的な「神経症的病理の源泉は隠匿行為である」が、「(ポストフロイト的な)第二の無意識の背景にあるのは抑圧ではなく過剰な表現性である。これが新自由主義時代の神経空間に巣くう精神病理の源泉である。それは注意力欠如による混乱、難読症、パニックなどとして現れる。」(p.108)
しかし、トランプとトランプ現象は、これまで沈殿していたアメリカ社会の「澱」(おり)が露出しているのであって、アメリカ社会は、すでにそのはるか先の脱身体化の方向に進んでいるがために、それが目立ち、「保守派」をわずかになつかしがらせ、また、「リベラル派」を怒らせているだけのことである、とわたしは思う。ここでわたしが、「わずかに」というのは、トランプの「MAGA」(Make America Great Again)の「偉大なアメリカ」とは、たかだか赤狩り時代の「アメリカ」以上の射程を持たないからである。むろん、赤狩り時代の「アメリカ」をなつかしむアメリカ人なんて、くたばれとわたしは思うが。
「第三の無意識」の必要こうした状況変化を、ビフォーは、「無意識」ないしは「無意識」の解釈の問題として展開する。Nordic Art Review (2023/02/13)のインタヴューでは、本書よりももっと端的に説明している。
フロイト的な「欲望の衰退の代わりに、セクシュアリティの衰退、あるいはむしろ欲望の性化の衰退について話すべきです。欲望はそこにありますが、それはもはや接触の形で現れません。それは記号論的な形で現れます。何が起こっているかというと、欲望する緊張はもはやその対象を身体のなかに見つけるのではなく、記号の絶え間ない加速の中に見つけるということです。 それがまさに「Last Generation」と呼ばれる世代の欲望を惹きつけるのです。
本書では、ここから、ドゥルーズとガタリへの距離の告白へと進む。
「ドゥルーズとガタリは『アンチ・オイディプス』のなかで、無意識とは、われわれが見たくないことや思い出したくないこと、あるいは意識的生活のなかに持ち込みたくないことを保管する場所である、という考えを拒否している。無意識は劇場ではなく実験室である、と彼らは言う。無意識は絶えず想像力と経験の新たな可能性をもたらすマグマ的力であるというわけだ。
しかし、『アンチ・オイディプス』の刊行から五〇年後の今日、われわれはドゥルーズ/ガタリの創造的思考を、両刃を有する両義的な(きわめて両義的できわめて豊かな)ものとして読むことができる。すなわち、「欲望の解放」というユートピア的未来と新自由主義資本主義というディストピア的未来という両刃である。後者において欲望は、消費、競争、経済成長の動機として称揚され、快楽は絶えず後回しにされる。」(p.15-16)
かくして、ビフォーは、この時代の概念化として、「第三の無意識」を提唱する。
「〔新型〕コロナウイルスのパンデミックに見舞われている二〇二〇年の今、無意識の磁場において何かが変化しつつある。おそらくわれわれはある境界線を越えつつあるのだ。われわれは精神空間の第三期、したがって〈無意識の形状化の第三の時期〉に入りつつあるのではないだろうか。」(p.108)
う〜ん、ガタリと長いつきあいがあり、彼の思想と実践の「継承者」を自認していたように思われるビフォーの口からこう言われると、頭を抱え込まずににはいられない。というのも、ガタリとドゥルーズの思考のなかでは、そういう状況変化は暗黙に先取りされていたとわたしは思うからである。まずは、ガタリが1979年にまとめた『機械状無意識』の「序論」を読み直してみよう。
ガタリの「機械状無意識」
誰もが自分にふさわしい無意識をもっている。そこで私は、構造主義的精神分析学者の無意識も、フロイト派やユング派やライヒ派の無意識以上に私に適当なものと思えないということを告白せざるをえないのである。無意識とは、私はむしろ何かわれわれのまわりのどこにでもつきまとうもの、身振りにおいてでも、日々の対象物においても、またテレビでも、天候の様子においても、さらに当面の〔→現今の〕大問題においてさえも、われわれにつきまとうものであると考えたい。(・・・)
したがって無意識とは、個人の内側にあって、その人が世界を知覚したり、自分の身体や自分の領土や自分の性を体験するやり方においてのみ働くだけでなく、夫婦や家族や学校や近所や工場や競技場や大学等の内側にあっても働くものなのである。(・・・)
どうしてこの無意識に「機械状無意識」というラベルを貼り付けるのか。それは単に、そこに宿されているものがイメージや言葉だけではなく、あらゆる種類の機械装置であり、これらの機械装置によって無意識はこれらのイメージや言葉を産出したり、再現したりするように仕向けられるということを強調するためである。(高岡幸一訳、法政大学出版局、p.4)
ガタリの「機械状無意識」とは、むしろ、「無意識」という概念を空無化するものであり、つまりは“無意識なき意識”であり、もはや「第三」であれ「第四」であれ、「無意識」を持ち出すことを「無意味」にするための概念ではなかったか?
そもそも、彼にとっては、「スキゾ分析」とは、もはや精神分析の方法ではなかった。それは、「機械状無意識」というあらゆる現象の「仕組み」(アジャンスマン)を単に思考する方法であるだけではなく、その「仕組み」に加担して、それを混乱させると同時に新たに起動させる「ミクロ政治的実践」であり、問題は、多様な「突然変異的生成、つまりは女性、子供、老人、動物、植物、宇宙、見えないもの・・の生成」(devenirs mutants: devnir femme, devnir enfant, devnir viellard, devnir animal, plante, cosmos, devnir invisibele...) から出発して「増殖する分子革命の巨大なリゾーム」なのであった(以上、原書、p.201――邦訳では前掲書、p.216、ただし、「超訳」で使えなかった)。
「機械」と「複製可能性」そもそもガタリの言う「機械」とはなにか? それは、ガタリが意識していたか否かは別として、ベンヤミンが言った「複製技術可能」なものと“機械状に連結可能”である。ちなみに、彼の名を復権させた著名な著作の邦訳タイトルは、通常、『複製技術時代の芸術』と名付けられている。しかし、原タイトルは、“Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit”、直訳すれば「技術的複製可能性の時代の芸術作品」である。つまり、「複製技術」ではなくて、「技術的」に「複製可能」であるかどうかが問題になる時代の芸術ということである。
ベンヤミンは、そうした技術が全面的に展開する時代までは生きてはいなかったが、その可能性――つまりは、すべてが技術的に複製される可能性を予知していた。だからこそ、一方では、彼の時代に「廃物」や「廃品」とみなされる諸対象――つまりは「機械的なもの」をどう「再生」するか――ガタリ流にいえば、どう「生成」するか――に関心をもち、その実践を「歴史哲学」(Geschichtsphilosophie)と呼んだ。
この歴史哲学は、テクノロジーの動向を見据え、それがいずれ道具にとどまらず生体や宇宙までも技術的に「複製」する動向が深まるだろうというベンヤミンの認識に裏打ちされていた。そして、そういう動向に対処する方法として、一方では、「人間疎外」とか、「人類の終焉」とかいうディストピア的対応という嘆き節を奏でるのとは別に、もうひとつの方法があることを提起した。
その方法は、まさに、彼がパリの路上で見た「屑拾い」の技法、廃品の再生であった。わたしはかつて、「廃品回収の技法」という一文を書いた(『主体の転換』、p.235-238)が、最近のベンヤミン論では、"technique of garbage collection"といった言いが一般化している。なお、この英語表現は、コンピュターの分野で大分まえから使われており、そちらとベンヤミンとを“機械状に連結”してみるのも面白い。
廃品回収の技法ベンヤミンのこの技法は、偉大な着想がつねにそうであるように未来的射程をはらんでいた。だから、彼の言う「廃品」は、路上に投げ捨てられるゴミから、さらに、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの亢進のなかで増大し、今日のエコ問題にまで影を射す大量生産品はむろんのこと、それらを逆手に取ったポップアート以後の、「技術的に複製可能な芸術」にもあてはまるのである。
ベンヤミン/アドルノ「屑」論争ベンヤミンは、アドルノとのあいだで、「廃品」の回収・再生の有効性について実にインスパイアリングな議論を展開している。その一部は、彼らの往復書簡に残されているが、『否定弁証法』(1966年)のなかでアドルノが、「アウシュヴィッツ以降の文化はすべて、そうした文化に対する切なる批判も含めて、ゴミ屑である」と書いた有名な言葉は、一見、「廃品/廃物」のベンヤミン的可能性――商品化にも「貢献」すると同時に、その先へ励起・触発しもする――を否定するかに見せて、その実、肯定している。
アドルノの言う「ゴミ屑」(Müll) は、「産業廃棄物」や「放射能廃棄物」を包括する、再利用不可の――とアドルノの時代には思われた――極度に否定的な響きのする言葉である。これに対して、ベンヤミンの「屑」「廃品」は、"Lumpensammler"(屑拾い)の“Lumpen”であり、修理や改造によって再生可能な響きを持つ。
しかし、アドルノを読むときには、彼にとって、批判は実践であり、そのためにはその批判的実践がそれ自身を否定しなければならないと考えていたことを思い出す必要がある。それが、まさに「否定弁証法」なのだが、そのなかでも彼は、こう書いている。
「同一性への要求がもつ魔術的な魅力は批判にも刻み込まれており、批判は絶対値の仮象の様相を呈する。この仮象を抹殺できるのは、批判そのものの自己反省ある。まさにその点で批判は否定の否定であり、措定に移行することはないのである。(前掲書、p.501)
「思考というものはすべて特殊な内容に先立って、それ自体において否定的作用であり、それに押し付けられたものに対する抵抗である」(前掲書、p.28)。
ミクロロギ−とミクロポリティックスとのあいだしかし、アドルノのこうした姿勢がベンヤミンと決定的に異なるのは、アドルノが知=認識=形而上学にとどまるのに対して、ベンヤミンが政治=実践=芸術的創造に身を置こうとする点である。この点で、ガタリはベンヤミンを継承し、ボードリヤールはアドルノを継承する。そして、いま、ビフォは、アドルノ/ボードリヤールの方向へ近づこうとしている。
ベンヤミンにとって「廃品回収」は実践の方法であったが、アドルノはそれを一つの認識論として受け取った。だから、アドルノからすると、ベンヤミンの試みは、「失敗」しなければならない。アドルノの批判理論では、「成功」は「失敗」である必要がある。
ベンヤミンの『パッサージュ論』の第一稿は、たぐいまれな思弁的能力と、事象内容への微物研究的〔ミクロロギ−〕なアプローチとを結びつけたものであるが、彼はのちにある書簡で、その仕事の最初の真に形而上学的な層について、それは「許しがたいほど〈詩的な〉」仕事としてのみ成しとげられうると断定している。(前掲書、p.27)
アドルノは、この哲学から「詩的な仕事」への移行を「降伏」「失敗」と呼ぶ。ただしその降伏や失敗は、アドルノによれば、哲学の本道である。というのも、彼は、「哲学は、それが伝統的に詐取されてきた絶対的確実性への応答としては全面的に失敗にさらされているばあいにのみ、企業以上のなりうる」(同、p.28)と考えるからである。
このくだりは、アドルノがなぜ「難解・晦渋」な表現をするかを説明する。それは、ある種のマスメディア払い、メディアのサイズの戦略的限定であり、彼の「否定弁証法」にのっとっている。
批評か「詩的」創造かだが、しかしながら、これは、ベンヤミンの言った「許しがたいほど〈詩的な〉仕事」をベンヤミンというひとりの人格のなかに閉じ込めてはいないか? ベンヤミンは、こういう言い方で、他者や他の時代との連帯や共犯や継承を想定している。「廃品/廃物」は、そうした横断的な相互主体性のなかでしか創造性を持たない。
そもそもベンヤミンは、歴史を発見学とは考えていなかった。だから、彼は、『歴史哲学テーゼ』のなかでこう書いた。
かつての諸世代とぼくらの世代との間にはひそかな約束があり、ぼくらは彼らの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が附与されているが、過去はこの能力に期待している。(野村修訳、『暴力批判論』、p.113)
「無意識」とは、こうした過去を一個の人格のなかに閉じ込めようとする概念である。いかなる過去も、一個人の奥底に潜み、それが他者や世界との関係を可能にするという思想だ。
アドルノがベンヤミンに向けて言った「ミクロロギ−」は、そういう閉じ込められた潜在性を認識する方法であり、ある意味では、フロイトの無意識分析につながる。むろん、ベンヤミンは、そうではなく、まさに、ガタリが諸「機械」の構造を精査するのではなく、それらを組み直すことに、「ミクロポリティックス」の実践を見たように、「廃品」を凝視するのではなく、組み直した新たなもの(芸術作品)を創造し、その作品をではなく、その創造行為を他の人格とともに継承・共振することである。
「屑」概念の相違この点こそ、アドルノをベンヤミンから遠ざけ、フロイトに近づけるところである。彼は、フロイトの「現象界の屑」(Abhub der Erscheinungswelt) (『モーセと一神教』)についてこう書く。
本質的なものは、けっして隠された普遍的法則ということで言い尽くされるものではない。その肯定的な潜勢力は、「法律に抵触する」もの、世間一般の評決では「非本質的」なもの、欄外に放り出されたもの、のなかになお生き残っている。こういうもの、すなわちフロイトが言う「現象の屑」へと、はるかに心理学的次元を超えて向けられる眼ざしは、非同一的なものとしての特殊者への志向に従っている。(同、p.208)
むろん、この「屑」は、ベンヤミンの「屑」とは異なる。
老化と無ビフォーを論じるつもりでいながら、ベンヤミンとアドルノに深入りしすぎた。ビフォーにもどろう。大分遠回りをしたが、終章を論じるに十分な思考の徘徊をしたと思う。
「老化を“あれやこれやの欠如や衰退”という他律的な定義を逆手にとって考えると、老化の哲学的意味はラディカルな“生成変化”であり、すなわち“無になること”であることが理解できるようになる。」(p.178)
「ここで私は“死を友として認める„という楽天的展望に入る。私は死を個人の自由行為と見なす。すなわち、死は生の経験を完成させ、無の意識を出現させる行為であるということだ。」(p.178)
しかし、例によって、これらの問題も、インタヴューのほうがわかりやすい。
老いは私たちの最大の問題であると同時に、解決策でもあると考える必要があります。もし私たちが無になる過程、つまり死に向かっていく過程を自然で楽しい過程として経験することができれば、老年期はまさに革命的なのです。
自分の体と心の衰えを格別の出来事として経験することができるからです。
もし私たちがこれを達成できれば、つまり死に直面して諦めるという伝統的な文化を、無になることを受け入れるという新しい文化に置き換えることができれば、私たちは自分たちがどっぷり浸かっている集団的狂気から逃れるために超越論的な一歩を踏み出すことになるでしょう。
でも、私は、白人文明にそんなことができるかどうか、とても、とても疑っているのですが。
う〜ん、何度も「う〜ん」で恐縮だが、「死を友として認める」と言うはやさしいが、それを「白人文明」などという大規模なレベルでの変革として期待するとしたら、それは、宗教の提唱になってしまうのではないか? それならば、まだ、鈴木大拙の『無心ということ』でも読んだほうがいいのではなかろうか?
「機械」と「複製」に死はないたしかに、ビフォーは、こうした提起の基礎を最終章「無になること ―神のアルツハイマー病」でいくつかの示唆をあたえてはいる。
身体は分解すると終わる。しかし物は消えない。物は〈無〉にならない。物は新たな形とし
て、新たな分子的形状として再構成される。
物の形は、知覚の発生装置としての精神のなかにのみ存在するのである。
物の形は、意識が溶解するのと同じように、消えて〈無〉になることができる。
意識は〈無〉の条件である。〈無〉はひとえに意識の無への生成としてのみ存在する。〈無〉
はひとえに意識の溶解と最終的閉鎖としてのみ存在する。
〈無〉なるものは存在せず、意識の無への生成が存在するだけである。
〈無〉は心のなかにだけ住んでいる。
〈無〉を企てることだけが、すべてを終わらせることができる。〈無〉は果てしないのだから。
思考する精神を有する身体の溶解だけが〈無〉を生み出すことができる。
言語の終わりは無である。そして無はまた自動装置による言語の包摂であり、魂も身体も欠いた言語による包摂でもある。(p.243-244)
しかし、ベンヤミンの「技術的複製可能性」やガタリの「機械」においては、「意識」と「物」の区別は消滅するのではなかったか? たしかに「無」は、意識のなかにだけ存在する。物は「無」にはならない。ならば、「意識」とこれまで言われてきているものを「物」と同じレベルで問題にしたらどうなるのかということが彼らの基本ではなかったのか?
とすれば、同じ章のなかで、ビフォーが、「ドゥルーズ/ガタリは、リゾームには始まりも終わりもない、それはいつも真ん中である、と言っている」と注釈なしで書いていることは、反論のための例証なのだろうか? というのも、まさに、ドゥルーズ/ガタリにとって、あるのは、「反復」だけである。ただし、この「永劫回帰」には、微妙な、いわば量子論的なゆらぎがつねに生まれる。
が、それを認めるのは、知的意識というよりも、体感的感覚であり、身体が物と連動しながら相互反応する電磁波的な「振動」である。だから、ここでは、ビフォが否定的な文脈で言ったこと――「進化する機械の言語による人間の言語の置き換えは、AI〔人工知能〕という大いなる〈無〉の覚醒を可能にするものである。」(同、p.244)は、むしろ、必然的なことであり、もし「人間」にとって問題があるとすれば、その現象しかたなのだ。
「アロトロピィー」allotropy身体が主要な問題であるにもかかわらず、ビフォーは「器官なき身体」の問題には言及しない。が、ドゥルーズは、『感覚の論理 画家フランシス・ベーコン論』(山縣熙訳)のなかで、「感覚とは振動である」(la sansation est vibration) (邦訳では「感覚の作用は振動である」だが、これではドゥルーズの言わんとしたことが凡庸な意味になってしまう。問題は、「感覚」の属性の一つとしての「作用」ではなくて、感覚そのものだからである)と言っている。その際、この振動のなかで起こる事態を、「同質異形的変異」(allotropy)という生化学や分子生物学の用語を借用したタームで表現しているところが実に示唆的である。
器官なき身体とは激しく徹底した身体である。一種の波がその身体を経巡り、その波の振幅の変化に応じて、様々な水準あるいは様々な閾が身体の内に描き出される。身体はそれゆえ、器官はもたないがしかし閾や水準はもつ。感覚〔の作用〕は質的なものでも、また固有の資質を与えられたものでもないから、徹底した実在性しかもたず、この実在性が感覚の内に引き起こすのはもはや表象的所与ではなく、同質異形的変異である。感覚〔の作用〕は振動である。(前掲書、p.43、原書、p.47)
あるのは、「反復」だけである。しかし、この「永劫回帰」は微妙な、ミクロで分子的な、まさにアロトロピックなゆらぎを生む。そのゆらぎを「感覚」する――というよりもそれに「感応」・「共振」するのは、個々の身体、身体の種類によって異なる。「動物になる」というテーマもここに関わる。
ビフォの言う「無になること」は、鈴木大拙流の「無心」を目指すことになるのかもしれないが、それならば、わたしは、「動物」や「ロボット」になることを選ぶ。ただし、それは、四つんばいになったり、身体を「人工器官」だらけにするのを選ぶことではない。まずは、動物やロボットと対等につきあうこと、「機械状」の関わりをすることだ。この「実践」がいかなるものであるかについては、ラジオアートで実践しているつもりだが、いずれ追思してみたい。