2024/02/09
テイラー・スウィフトがバイデンの選挙対策エイジェントだというデマがトランプ支持の「陰謀論主義者」から出たとかいうニュースでうんざりする間もなく、今度はトランプ夫人がトランプといっしょに映っている最近の写真が「‘フォトショップ’陰謀理論」にもとづくものだという記事が出た。ゴシップニュースが専門のThe BLASTにFavour Adegoke が書いた記事(February 9, 2024 at 5:57 pm PST)である。
要するに、トランプとメラニアとの関係は断絶状態なのにあたかもいっしょにいるかのようにフォトショップで合成した写真だというわけだ。しかし、「フォトショップ」に画像処理を代表させるのが気に入らないことはまず置くとして、画像や映像の「信ぴょう性」なんてものはとうのむかしに終焉しているのではないのか?
テイラー・スウィフトの場合は、静止画像ではなく動画なので、もうちょっと手が込んでいるが、しかし、こんなことは別に玄人芸ではない。Varietyの動画へのただのはめ込みである。しかも、スウィフトがかかげる垂れ幕には、「トランプ勝利 民主党が不正詐欺」とあり、発信者を「il Donaldo Trumpo」にしてこのパロディ性を明示している。「陰謀」というのなら、これは、反トランプ主義者の陰謀である。
メラニア・トランプの場合は、あんな顔など見たくもないので省略するが、彼女が重罪容疑のトランプに距離を置き、公的な場にはトランプと同席しない、まして手を組んだりはしないという「一説」の延長線上で出てきた「一説」である。2024年の大統領選で共和党の候補になることが確定しそうだとすれば、ゴシップを売りものにしているメディアとしては、トランプの動向はささいなことでも漏らしたくないのであろう。実際に、これまたゴシップメディアの情報だが、メラニアは、トランプが有罪になったときの自分への補償をトランプに合意させたとか。メラニアの動き次第ではトランプは大統領選に出馬できなくなる云々。とすれば、こちらは明らかにトランプ主義者の「陰謀」である。
だが、こんなことをあえて「陰謀」と呼ぶ必要はあるのだろうか? すでに書いたように、複製可能性が亢進する時代には、詐欺やなりすましはあたりまえの出来事になる。個々人の慣習や国家や組織の制度が旧泰然としている以上、そういう出来事は避けられない。もし責任を問題にするのなら、詐欺やなりすましの被害の責任は、そういう行為をやった「当人」よりも、それを可能にする慣習や制度のほうである。
旧泰然とした慣習や制度の根底からの変革が求められているが、そのメドが立たないというのが現状である。その困難と可能性は、あらゆる行為や出来事に対して「主体」を設定せずにはいられないという形而上学にある。
もはや「主体」を一者に特定できない状況では、それをあえて一者に特定しようという反作用が起こる。 出来事というものは、少なくともミクロレベルを顧慮するならば複雑きわまりない。とても「・・・が・・・をした」とは言えない。しかし、いまの慣習や制度のなかでは、たとえ心霊現象や宇宙人を持ち出してでも、「主体」を定めなければ先に行くことができない。
いまふと思い出したが、日本中世の「落書」とか「詠み人知らず」の吟(うた)とかいうものがリアリティを持ち、世の中を動かした時代には、「主体性」なんて問題は解消されていたのだろうか? 日本語に主語がないというのは、いま問題の「主体」問題を回避しているのか? いまでは、落書(グラフィティ)に著作権が付くし、匿名の文書の特定(誰が書いたか)に高度な技術が動員される。
以前、認知症とか健忘症というものが、今日の情報・技術環境のなかで最も先端的な生き方かもしれないということを書いたことがある。それは、そうした「症状」を生きる者にとっては、「生きる現在」(最初の出典はフッサールのLebendige Gegenwart) を生きており、そこでは思考レベルにおいても、身体レベルにおいても、つねに同一性を保つ「主体」なるものは、あるとしても瞬間的に仮構される(だから「超越論的主体」)にすぎない。
高齢者というのでバイデンの記憶能力が問題にされるが、最近も彼がエジプト大統領のアブドルファッターフ・サイード・フセイン・ハリール・アッ=シーシーを「メキシコ大統領」と言ってしまったとかいう報道を各社がし、バイデン陣営に激震が走った。が、一方では記憶はなんでも電子装置にたよるという慣習と制度が強まりながら、なぜ他方では脳・肉体による記憶の重大さが問題になるのだろう? その高齢にもかからわずバイデンを大統領に押そうとしている側は、なぜ、記者会見では、テレビのニュースキャスターやタレントが付けているヘッドフォンを付けさせないのか?
この点は、トランプ側も同じレベルをはいずりまわっている。彼は、言語のレベルでは記憶を否定し(つまりは「主体なき過程」とみなし)ながら、身体のレベルでは、その同一性に執着している。身体への執着度においてはバイデンをはるかに凌駕するだろう。まあ、脳よりも下半身を張って生きてきた男だから、それは当然かもしれないが、とにかく、トランプも「生ける現在」には生きてはいない。
最近のハリウッド映画が、ミクロレベルにおいてもマクロレベルにおいても全然政治性を欠いていると思うのは、バイデンもトランプも認知症に居直るような映画を作れない点だ。その点では、「主体なき」主人公を登場させたジャージー・コジンスキーの原作にもとづくハル・アシュビーの『チャンス』(Being There/1979)の時代、生まれたときからメディアのために構築されている主人公の『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show/1998/Peter Weir) の時代は、ハリウッドもいまよりはましだった。
とはいえ、マーベルコミックをはじめとするコミックやアニメへの過度の依存が進むなかでは、実は、重みと嵩(かさ)のある身体性のもとづく「主体」のヴァーチャル性は最初から暗黙の了解事項だった。だが、実際に出来上がった映画は、もろもろの「主人公」があたかも身体的に超能力者であるかのごとく描かれ、いわば脱ニーチェ的な「超人」(スーパーマン)として受け取られた。だから、スーパーマン願望や映画のなかの登場人物のように行動したいというような行為がくりかえされたりもする。
その点で、テイラー・スウィフトは、いくぶんかそうした旧弊を脱しているように見える。彼女はヴァーサタイルで、カントリーからエレクトロニカまでこなすと言われるが、その歌はわたしが独特の意味を込めて言った「コンビニの味」である。それは、超複製時代の時代的テイストなのだが、それをスウィフト自身が意識していると思われるプロモーション映像がある。「…Ready For It?」である。映像→YouTube
この映像をあえて真に受けると、肉体を持った「テイラー・スウィフト」は、AIボディの「テイラー・スウィフト」と対決して粉砕され、いまいる「テイラー・スウィフト」はAIボディとしての彼女なのである。
テイラー・スウィフトが「コンビニの味」だって?と怒るひとがいるかもしれないが、コンビニは、人間の肉体を極力解消しようとする場であり、いずれは無人のセルフレジの売店になるだろう。それは、スーパのミニではなく、いまではスーパーも、そしてあらゆる場がコンビニをモデルとしている。肉体を括弧に入れて生きる未来の生活・活動の場のプロトタイプだ。
かつてわたしは、マドンナが登場したとき、彼女のパフォーマンスのなかに「アンドロイド的身体」を見た。「マドンナには、いわばコンピューター・グラフィックスが生んだテレビのヒーロー、マックス・ヘッドルームの趣がある。どこにも肉体の存在しない映像だけの“人間”がスターになる時代が始まった。」とし、以下のように書いた。
マドンナの新しさは、もし人生がすべて演技ならば、その背後に何か“超越論的”なパーソナリティなんかを残さずに、徹底的に行くところまで行ってしまおうじゃないのと考えている点だ。人格を「物質」(マテリアル)と化し、どのようにでも記号交換できるものとするとき何が起こるのか? マドンナの歌、演技、そして発言は、そうしたマテリアリゼーションのパフォーマンスである。 こう考えてくると、彼女の歌の声調がなぜあれほとシンセっぽいかがわかるだろう。彼女は、声から「肉」の部分を排除しているのである。(「電子人間化したスーパーヒーローの声と肉体」〔これは編集部のタイトル〕、朝日ジャーナル、1987.7.3号、『廃墟への映像』、青土社、1987)
36年もまえのこんな引用をすると、あいかわらずAI念仏をとなえていると思うひともいるかもしれないが、事実は、こうした傾向はますます深まり続けている。
マドンナ自身は、せっかくつかのま体現したAI身体を急進化することはしなかった。そういう傾向とは逆の方向に進み、立派に「存在感のある」「肉体」を持った歌手・女優として受け入れられて行く。彼女は、むしろ肉体派に後退し、「女性」であることには反対でも、人工授精(事実は不明)で子供を生んだり、最近話題になった整形問題のような肉体主義の方向を生きてきた。
だから、こうも言える。マドンナは、AI身体の初期形態であるサイボーグ身体、半・人工身体、つまり電子的機械的テクノロジーによる代理身体パーツを装着した人体にとどまった、と。
その点で、テイラー・スウィフトは、力むところなくAI身体に溶け込むのではないか? セックスだとかジェンダーだとかエコだとかと肉体的な表現をせずに、コンビニの商品がわれわれの「肉体なき身体」のモードに引き込んでいくように、知らず識らずにAI身体化しているわえわれ自身の身体を「身軽」に反復的にパフォームし、いつのまにか消えていく。