粉川哲夫の「雑日記」

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2024/02/03

《虚言》の終わり アロトロピーの時代へ

トランプの虚言が批判されるべきなのは、彼が単に「事実」に反することや証拠の出せないでまかせや曲解を言表するからだけではない。「うそ」と「まこと」の区別が従来と変わってしまったことを承知しながら、無知をよそおって「虚言」を吐き続けるからである。

彼の最高の代弁者のひとりであったケーリアン・コンウェイ (Kellyanne Conway) が言った「オールタナティヴ・ファクツ」や、みずからの口癖の「フェイク・メディア」を前提とすれば、「事実」とは「反復」のくりかえしの強度でそのリアリティを獲得する。「嘘」も百ぺんくりかえせば「事実」になるという論理である。

しかし、今日の《事実》は、既存の「事実」とは異なる。反復の技術は、手動ではなく、デジタル技術による無限反復である。今日の複製技術は、単なる大量生産ではない。が、それにもかかわらず、トランプは、それを承知で既存の「事実」として提出する。これが、彼の詐欺師・ペテン師・コン・アーティストと呼べる所以(ゆえん)である。

20世紀以降一般化したこのヴァーチャル性をはらむ《事実性》とそれ以前の事実性との差異に関しては、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭の言葉を問題にするとよくわかる。彼は、逐語訳としてはこう書いた。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。 (平凡社)

マルクスは、すでに歴史の「事実性」なるものが差異化する反復であることを知っていた。が、彼は、その反復の回数を2度に見積もった。歴史をミクロな諸レベルからではなく、「大」(偉大)な「事実」や「人物」から見るからそうならざるをえなかったのだが、もはやそういう歴史観は通用しない。

ジル・ドゥルーズは、感覚(sensation)に関してだが、化学のallotopy(「同素性」、「同質異形性」等々)という概念を“横領”してvariations allotropiques (同質異形的変異)という概念を持ち出す。したがって、感覚は、「表象的所与」を受け取るのではなく、「感覚は振動である」(la sensatiuon est vibration)ということになる。(Francis Bacon, Logique de la sensation, p.47, 7 L'hystérie、感覚の論理 画家フランシス・ベーコン、法政大学出版局)

歴史もその意味ではいまや「アロトロピック」な変容をするのであり、同じように表象される出来事も、その表層自体が「振動」のなかにあり、たえず質を変容させている。ここでは、主体−客体の固定した関係はなく、双方は入れ替わり、また、主体自体、客体自体も「同質異形的」に変容する。

イメージとしては、空中にただよう電磁波だ。それは、存在するが直接ないしは全体としては知覚できない。知覚する者もその「客体」に影響をあたえ、またその知覚する「主体」も変容される。その強度に限界はない。

20世紀以後の表現には、固定した「作者」は不向きである。言表も、《誰》が言ったか、書いたかは問題ではなくなる。その意味で、「主語」なしで書ける日本語という言語体系は面白い。「わたし」も「私」も「俺」も「予」も「拙者」もみな仮の「主語」にすぎない。

しかし、ふるい事実性は、過渡期にありながら、依然として有力なので、しばしば「アロトロピー」トラブルを起こす。「アロトロピック」なのは、観念や言語だけではなく、身体そのものにおよんでいるのに、身体だけは不動の聖域とみなし、身体を「事実性」の拠点としてその表現や発言を問題にする。土地や金(ゴールド)を参照しない情報やヴァーチャル・マネーが大手を振るといっても、法制度は根本からは変わっていない。ここでは、アロトロピックなレベルの変容は無視され、同一性が強要される。

マルクスの有名な言葉を取り上げたついでに、この言葉の事実性についてもうすこし付言しておきたい。

ファクトチェックというふるい事実性の意識からすると、彼の言葉には「嘘」がある。「ヘーゲルがどこかで言っていた」と書いているが、ヘーゲル学者がヘーゲルの(一般に公開されている)テキストを調べても、文字通りの文章は見つからないという。わたしも、ドイツ語のヘーゲル全集をあたってみたが、見つからなかった。

一説では、このくだりは、エンゲルスがマルクスに出した1851年12月3日の手紙の言及をちゃっかりと流用した可能性がある。ヘーゲル学者からすれば、ヘーゲルの歴史や悲劇に関する考えは、マルクスが言うほど単純ではない。つまり旧来の事実性という観点からすると、マルクスのこの言葉自体が「虚言」なのである。

さらに、これが170年以上にもわたって世界中で反復されるとき、アロトロピックどころか文字通り「異形化」するのを避けることはできなかった。日本語では、Tragödie(悲劇)に対置されているFarceを「喜劇」と訳す。前述の訳では、「みじめな笑劇」と「みじめ」を「笑劇」に敷衍するが、ファルスは演劇の立派なジャンルであって、「喜劇」でも「笑劇」でも言い尽くせない。ファルスには、「みじめ」というよいりも「辛辣」なサチールが含まれるものだからである。

しかし、こうしたファクトチェックが、いまやいささかペダンチックの印象をあたえ、次第にその異動を気にしなくなってきた。

そして、だからこそ、その無関心の埋め合わせをつけるために、ハラスメントというまだ同一性を維持しやすいレベルが過大に浮き彫りにされるようになる。ジャニーズ問題や松本人志スキャンダルも、そんな流れのなかで浮上した。

トランプは、ある意味で、こうしたアロトロピー的時代の波に抵抗しているわけだが、その矛盾は、すでにアロトロピックな要素がじわじわと浸透している言表のレベルでは反抗しながら、身体や金銭というレベルでは非同一性つまり疑似「アロトロピー」を、事実上となえている点である。

きのうときょうとでは、いやこの一瞬一瞬に、変動するアロトロピーにもとづけば、ハラスメントや金銭詐欺は成立しえない。ならば、性的陵辱や金銭詐欺で訴えられたとしても、「あのときの俺はいまの俺じゃない」と言表すれば、彼の姿勢は一貫したものとなる。

もし、彼が、「トランプ」なんて存在は無ないしはヴァーチャルなものだとして、「きのうの俺はきょうの俺じゃない」と理論的かつ実践的に居直ることができるならば、彼の「虚言」は正当化されるかもしれない。しかし、彼は、SNSでの炎上とか、それをケーブルテレビが大騒ぎし、さらには旧来のテレビや新聞で「大」騒ぎするような形でしか何もできない――つまりはミクロレベルでに変容を実践することができない――のだから、それは無理というものである。

言表レベルで虚言ばかりくり返すのなら、身体レベルでも、せいぜいのところ、「いまの俺は、トランプのボディ・ダブル(そっくりさん)だ」、あるいは、「金融詐欺や性的ハラスメントの容疑をかぶされているトランプは俺のボディ・ダブルだ」と言うべきだ。初回の大統領選のとき、ヒラリー・クリントンがボディ・ダブルを使っているという虚言をふりまいたのはトランプ陣営だったそうじゃないか。もう、正念場だぜぃ。