2022/05/20
大統領もCEOも家長もみなギャングスターだと書いたあと、では、ギャングスターではない単位やコンセプトとは何だろうと考えているところへ、アラバマ州の刑務所で女性刑務官のヴィッキー・ホワイトに導かれて、75年の刑を受けて服役中のケイシー・ホワイトが脱獄するというニュースを知り、そうか、ギャングよりも基本的な関係はカップルであり、カップリングこそ生の基本だなと思った。
同じ姓だが、二人は親戚でも兄弟姉妹でもない。ヴィッキーは、模範的な刑務官で、脱獄した4月 29日が定年最後の日だったというので、二人が突然姿を消したとき、刑務所ではヴィッキーがケイシーに誘拐されるか脅されて脱獄したのだと思ったという。が、あとでわかったが、彼女は、自分の家を捨て値(9,500ドル)で売り払い、AR-15ライフルやショットガンを購入し、現金を用意したというのだから、本気である。
ただちに連邦規模の捜査が開始され、11日後の5月9日、430キロ離れたインディアナ州の安モテルに潜伏しているところを察知され、カーチェイスののち、二人の乗った車が横転し、警官に取り囲まれた。が、警官たちが近づく間もなく、彼女は頭を撃って即死、ケイシーは、無抵抗で降伏し、逮捕された。
その後のニュースでは、ヴィッキーはケイシーをメンタルヘルスの診断に連れて行くという口実で刑務所の外に出し、パトカーを運転して逃げたのだった。連れ出す一部始終のビデオ記録が公開されている(→画像クリック)。
ケイシーの母親の話によると、彼はヴィッキーを本当に愛しており、アラバマ州の刑務所に戻された彼は、ずっと泣き通しだったという。彼は、2年前から彼女を知り、愛するようになった。仲間にはヴィッキーを「俺の妻だ」と言っていたそうだ。ヴィッキーは、ケイシーの2歳の孫にクリスマスプレゼントを送ったり、会いに行ったりもした。まさに、映画になるロマンティックな関係である。
統合失調症ケイシーは、複数の殺人に関与しているが、18歳のときに「双極性障害」と「統合失調症」と診断されているという彼の母親の話を読んで、わたしは、これらの「病」とカップリングとの関係に思いをはせた。
細胞であれ、物質であれ、生ないしは存在の最小単位はカップリングである。カップルが生み出す「発振/オッシレイション」と「共鳴/レゾナンス」が、生と存在の躍動を生み出す。だから、個と個とのあいだのカップリングはそういう基礎的な生動と存在性にもとづくとき、生き生きとしたリアリティを発揮する。
すでに、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラは、『知恵の樹』(The Tree of Knowledge, 1987) のなかで、「構造的カップリング」という概念を提起していた。数十億の細胞を持つ生体では、細胞は相互にカップリングされ、そのカップリングのなかで「第二次的な統一」(つまりは他の生体に対する「社会的」な統一性)として存在しうるのだ、と。
細胞で起こっているから個体同士でも同じことが起こるというのは、分子生物学的形而上学だが、しかし、細胞で起こらないことは個体でも起こらない。細胞のロジックに逆らわないほうがいいのではないか? というより、意識のレベルで細胞に逆らおうが逆らうまいが、細胞はそれ自身のロジックで動く。だから、意識や心臓が止まれば、「第二次的統一」は崩れ、死という次元が登場するが、それは、決して細胞の消滅ではなく、別の次元への存在論的移行なのだ。
パパ・ママ・プレイ
しかし、制度化されたグルーピングは、個であれよりミクロな単位であれ、何かを「中心」や「長」と仮定してそのまわりや高所に他を位置づける。これが、ギャングスターの存在論である。
ここでは、カップルは、孤立させられ、「二人ぼっち」になるか、その二人のてんやわんやに他を巻き込んで、そのすでに擬制化したカップルのどちらか一方に従属することを求める。ドゥルーズとガタリの「アンチ・オイデプス」という概念は、個々人がそうした「パパ・ママ・プレイ」(un jeu de papa-maman) を脱する「オッシレイション」の関係を定義しようとした。
パパ・ママ・プレイでは、「パパ」と「ママ」はもはやカップルではない。生動的なカップリングを失った擬制のカップルである。だから、子供がそのどちらかとカップリングしようとすると、排除されたり、「夫婦」という擬制のカップルつまりは「家庭」が崩壊する。が、その崩壊は、むしろ正常なことなのだ。
しかし、形式が決まっている擬制のカップルではなく、生動的なカップリングを求める個人は、強制される「統合」を拒むために「統合」失調とみなされる。
最初から刑務官と受刑者という枠のなかで密かに生動的なカップリング関係を持ったヴィッキーとケイシーが、悲劇的な結末に直面したのも、まさに同様のロジックに基づいている。
器官なき身体
アルトーから発した「器官なき身体」に関するドゥルーズとガタリの再把握をさらに飛躍させてみるならば、身体の特定の器官とりわけ脳や心臓が他の器官を「統合」的にコントロールするとみなす「ギャングスター」的関係ではない身体が浮き出てくる。
カップリングを阻止する制度があるがゆねにカップリングが昂揚することもある。たとえ、その先に「死」という細胞の存在論的組み換えがあるとしても、そうしたカップリングの昂揚がわれわれを魅惑し続けるのは、カップリングの本源性を示唆している。