粉川哲夫の「雑日記」 総覧   ●「シネマノート」   ●ラジオアート   ●最初の「雑日記」(1999年)   ●「雑日記」全目次 (1999〜)

2022/05/15

プーチン主義の行く末 ギャングスター

ヨーロッパや北米のひとたちとメールのやりとりをしていると、ウクライナを侵攻したロシアを憎悪し、「プ −チン」は「ギャグスター」だという言い方に出会う。が、思うに、政治家はみな「ギャングスター」ではないだろうか?

徒党とは「ギャング」(gang) である。徒党なしには出来ない国家や会社やさまざまな組織が「ギャング」でないはずはないし、その関係者 (-ster) の長である大統領や首相が「ギャングスター」(gangster) の大親分であるのは当然である。プーチンだけでなく、バイデンも、マクロンもボリス・ジョンソンもみな「ギャングスター」である。

が、問題は、なぜいま、禁酒法時代を描いたハリウッド映画の登場人物のようなハードコアな「ギャングスター」が目につくかである。そういうイメージを売り物にしていた「ヤクザ」ですら、いまや、情報や金融の操作に軸足を移しているというのに、国家の「ギャングスター」は、ドンパチ大好きの仁義なき戦いを売り物にしている。

プーチンは、「ギャングスター」としては、新世代のはずだった。酒で盛り上がったり、縁故に引きずられる古典的な「ギャングスター」のエリツィンとはちがい、KGBとFSBで鍛えた冷厳な情報工作や隠蔽工作を駆使して新「帝国」を築き上げたはずだった。

「シネマノート」での言及

プーチン主義の老獪さ(若いのに)や危険に関しては、むかし、映画評のなかで書いたことがある。2007年に公開された『暗殺・リトビネンコ事件』は、イギリスに亡命中の元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐アレクサンドル・"サーシャ"・リトビネンコが暗殺された事件を追ったドキュメンタリーで、この背後にプーチンがいたことが暴かれている。15年もまえに書いたノートなので、いまも有効と思われる個所を引用しておく。

◆ロシアが諜報国家になったのは、スターリン以後だとう思うが、官僚制は、もともと諜報と情報操作によって出来ている。そして、官僚制に依存しない近代国家はない。ロシア的国家とアメリカ的国家との違いは、その官僚制による諜報や情報操作が、こっそり調べ上げて監視したり、あやつったり、罠にはめたりするという方向へ向うのか、それとも、ある程度の情報公開をして、「民主主義」の体裁を取るかどうかの違いだ。もっとも、最近のアメリカは、若干ロシア的になってきた。
◆この映画が描く、そら恐ろしい「ロシア体質」は、増殖する官僚制度と、それと平行して(それより歴史が長い)主従的な関係を重視する習慣とが強めあって出来上がったと考えられる。スターリン以後の歴史は、国の危機を救えるのは、KGBを動かせる者というパターンになっている。ブレジネフの比較的長い時代のあとの混乱期に書記長になったのは、ユーリ・アンドロポフだが、彼は、元KGB議長だった。エリツィンの「失脚」のにち大統領になったプーチンは、KGBに勤めたのち、その後進のFSBの長官となった人物である。アメリカでも、湾岸戦争をやった、いまのブッシュの父親のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは(41代大統領)は、元CIA長官である。
◆諜報戦的な発想からすると、「闇」を暴いた情報も、かならずしも「真」とはいえない。ハイゼンベルクの不確定性原理ではないが、情報にも完全な中立地帯というものはなく、そこに視線を向ければ、対象はそれなりの「歪み」を起こす。ネクラーソフが5年間にわたってリトビネンコの「暴露」を記録していたことは、当然、FSBは知っていただろう。ある意味で、彼らは、それが蓄積されるのを見守っていたわけだ。では、彼らは、なぜもっと早い時期にリトビネンコを殺さなかったのか? 単純にできなかったということなのか、それとも、泳がせる必要があったのか?
◆この映画には、多くのめずらしい映像が入っているが、その一つは、プーチンを批判するアンナ・ポリトコフスカヤの姿である。彼女は、2002年の劇場占拠事件では、武装グループからの指名で政府との仲介役を演じたが、彼女に言わせれば、多数の一般人が殺されたのち、武装グループの一人がプーチンの手下になっているという。それを語る彼女の目がすごい。非常に情熱的で魅力的な人であることがわかる。体制にとって、こういう人物を抹殺することは損なはずだが、単純な自己原理で動くようになってしまった官僚システムは、自己保存の法則で動き、その突発的な変化(そのときは、官僚制が別のものに変わってしまうので)を防ぐのだ。
◆殺されたアンナ・ポリトコフスカヤの『プーチニズム 報道されないロシアの真実』(鍛原多恵子訳、NHK出版局)には、いまのロシアの屈折した状況が鋭くとらえられている。「プーチン政権下では、国家は戦争から戻ってきた将校たちの面倒は見ない。国家は、ギャングの世界に、なるべく多くの高度に訓練されたプロの殺し屋が存在するように積極的に仕向けていることになる」。そうなりたくない者にとっては、強制収容所か修道院の方がましである。が、いずれにせよ、このような状況下では、何かに拘束されていないと他人を殺してしまいかねないという脅迫観念が広がっていく。それは、また官僚制にとって好都合であり、そういうワイルドな官僚制がいまのロシアを形づくている。
リヴァイアサン

この映画から7年後に公開された『リヴァイアサン』(Leviathan/2014)は、その間にますます権力をほしいままにしたプーチンの危険性に警鐘を鳴らしていた。わたしは、大分「「シネマノート」に距離を起き始めていたので、メインページでは書かず、本作が2015年に、第72回ゴールデングローブ賞で外国語映画賞を受賞したときになってはじめて批評を書いた。

ロシアの『リヴァイアサン〔仮〕』は、まさに、ゴールデングローブ賞が肩入れしているテレビはむろんのこと、ラップトップやモバイル機器の画面では絶対に味わえない〝ダルさ〟とアンチドラマでできている。いわば、この賞の償いないしは償却のような選択だ。いみじくも、この作品は、北極圏に近いムルマンスクの町で決して〝ドラマチック〟ではなく起こる償却なき物語である。ソ連崩壊後、官僚主義に変わって偏在化するマフィア的ないしは家父長的横暴のなかで個々人の生活は白け、ホームは内部から破壊される。作中、役人が法的な決定を延々と棒読みするシーンがあるが、かつて力をふるった官僚制は形式だけに堕している。復活した教会が無力であることも批判されている。ここにプーチン体制のローカルな分身を見ることもできる。
同年の第87回アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされたときには、やや長めのコメントをした。
◆『リヴァイアサン〔仮題〕』は、『ヴェラの祈り』(The Banishment/2007)や『エレナの惑い』(Elena/2011)につづくアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の新作で、Rotten Tomatoesで99%、iMDbで7.9という高得点を獲っている作品である。フィリップ・グラスの音楽とともに見えるのは、フィンランドに近いロシア領ムルマンスクの内海の波のしぶきと荒寥とした寒村である。次第に明らかになるのは、市長が、警察、裁判所、教会を支配して家父長的な欲望をほしいままにするという一時代まえの社会派の告発映画が取り上げたような世界である。ある意味では、プーチンの支配するロシアの辺境地帯では、いまでもこういう非道な支配者がはびこっているという意味にもとれるが、決してそれだけではない。市長の事務所にはプーチンの肖像がかかっており、冒頭、「現在」という時代設定が示されるから、いまの時代の出来事が描かれていることはたしかだ。むしろ、前近代に舞い戻ったような状況の不可解さこそが、いまのロシアの状況なのだと思う。
◆家を追い出そうとしている市長と闘っているKolya( アメリカ アレクセイ・セレブリャコフ Aleksey Serebryakov)は、延々と判決文を読むだけの裁判(旧ソ連から引き継いだ超官僚的なやり口のシーンがすごい)、市長の恫喝、妻の突然の死と、次第に追い詰められ、みずからもウォトカに溺れていく。抑圧は外からと内から来る。結局は、殺すしかないような悪党の存在が中心にあるのだが、それが、復活した宗教と入れ子構造になってロシア全土をおおっていて、誰も抜け出ることができない――なぜならそのなかの個々人もその入れ子構造に加担しているから――というような状況があるようだ。市長とロシア正教の司祭との関係も、一方が他方を支配するという関係ではない。市長は司祭を立てるが、司祭はその信仰に生きているかのようだ。原題のLeviafanは、旧約聖書・ヨブ記、第41章の海中怪物レヴィアタン(リヴァイアサン)に関係がある。ウォトカに酔ったKolyaに向かって司祭が、その一節を語るシーンがある。《あなたは釣り糸でリヴァイアサンを釣り出すことができるか? 糸でその舌を押さえることができるか?》《地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた。》《これはすべての高き者をさげすみ、すべての誇り高ぶる者の王である》。つまり、宗教的な祈りは、現状をただ肯定し、恐れおののく弱者だけが耐えなければならないことを無条件に受け入れさせる装置になっているが、それを壊すこともできない。
◆『リヴァイアサン〔仮題〕』の世界は、形なりとも〝民主主義的〟な手続きが尊重される社会から前時代に逆戻りした世界ではなく、むしろ、今後の社会を示唆しているかもしれない。現実を動かすためには戦争しかなく、その戦争はさらなる戦争を生む。しかも、その戦争は内戦からさらに小規模の殺戮行為を生む。これでは、ひとは、自力で戦力を蓄えるしかなくなる。が、自力の〝戦士〟は、大規模な軍の予備軍となる。非戦士は、難民として流浪の民となり、拡散する。戦士しかいない世界とは、この映画の最初と最後に映されるムルマンスクの内海の荒寥とした風景そのものである。
肉弾戦の事情

プーチンは「ギャングスター」だから、戦争を辞さないのはあたりまえである。事実、国家や組織は、たえず戦争をし続けている。が、問題は、物よりも情報に、手動よりも電子的方法によるオートマティックな操作にウエイトがシフトした時代になぜ情報線ではなくて肉弾戦なのかである。

いうまでもなく、それは、プーチンが、情報操作の力では、国内外の「ギャング」をコントロールしきれなくなったからにほかならない。

では、プーチンは、グローバル化し、携帯電話でドローン攻撃も出来る情報戦の時代に肉弾戦で情報戦に対抗出来ると思っているのであろうか? 

侵攻後「西側」がただちに「物・情」両面の「制裁」で結束することを予想しなかったであろうか?

 いくら帝王化してもプーチンはそこまではボケないだろう。ということは、ウクライナへの武力攻撃は、苦肉の策であるということだ。つまり、彼がそれだけ国内で追い詰められているということを意味する。

リプチンスキーの先見

ロシアとウクライナとの関係で思い出す映画といえば、わたしの場合、いまの情勢では、断然、ズビグニュー・リプチンスキーのビデオ映画『階段』(Steps/1987)である。いまではミュージックビデオの作家とみなされがちだが、彼は、70年代から80年代には映像技術の最先端を牽引していたアーティストである。

(写真クリック→1980年の「media」)

『階段』は、一見、セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925)のパロディのように見えるが、事実よりもエイゼンシュテインのこの「プロパガンダ映画の傑作」で有名になったオデッサ階段を「西側」の観光客が見学に来るというシーンをブルースクリーンの技術などを使ってスタジオ合成するのをドキュメントしたという設定のなかなかひねくった作品である。 『戦艦ポチョムキン』のモノクロのシーンとあくまでセットの階段の上にいるアメリカ人ぽい観光客のシーンとがスタジオの操作で合成され、それが一つのリズムと幻惑効果を生み出す。見事な演出である。わたしは、この映像に自分で字幕を付けて何度も講義で使った。

いまあらためて再見すると、この短編は、単なるパロディではなく、情報操作がいかに高度化した時代にも血で血を洗う暴力は終わらないということを示唆しているように見える。

情報戦の勝敗

ただし、情報化の技術が高度化すればするほど、肉弾戦は情報戦にとって代わられる率が高くなり、その意味では、肉弾戦が情報戦に敗北さざるをえないのである。
グローヴァルな規模での情報戦では最初からウクライナがロシアを圧している。以下のサイトを覗いてもらいたい。

russoldat.info

トップにロシア語で「ウクライナにおけるロシア軍の犠牲者について論じる」(Мы говорим про потери вооруженных сил РФ в Украине) と記されているのを見ても、このサイトがウクライナが自国の戦意高揚のために作ったプロパガンダサイトであることがわかる。

情報戦の勝敗は肉弾戦の勝敗のようにはわかりやすくなない。が、その結果は、情報戦の外側であらわになる。先週からのニュースでは、ロシア国内でのプーチン批判の高まりと「内乱」の可能性が論じられている。「ポチョムキンの反乱」は起きるのか、それとも、「反乱」はスタジオ(情報戦の場)で起こるのか? プーチン政権の寿命はそう長くはないと言う気がする。