今日も、蒸し暑く、深夜散歩に出る気がしないので、ネット《徘徊》を始めた。
なんでいまさらロリンズなんかをクリックしたかについては、《徘徊》なので省略するが、たまたまひさしぶりにロリンズがワイルドに(プラハだったか?)吹いているMy One and Only Loveを少し聴き、そういえば、コルトレーンもこの曲を吹いていたなと思い、彼の演奏をクリックすることになる。しかし、途中でやめた。こちらは情緒的すぎる。たまにはいいが、あらためて、そのむかしジャズを聴いていたころ、コルトレーンを無視してロリンズに入れ込んでいたことの理由を確認した。コルトレーンは、どんなに「前衛」っぽく演奏してもスタンダードな情感でプレイするアーティストなのだ。それに対して、ロリンズは、「ニュージャズ」(いまで言う「フリージャズ」――当時は、オーネット・コールマンの同名のジャケットがあったので、アイラーなどの「前衛」は「ニュージャズ」と呼んでいた)ともつきあったが、そのにまきこまれることはなかった。彼が、My One and Only Loveを、抒情でも叙述でもない、バイブレイションではなくオッシレイションの演奏をする(とりわけこれなんかはそう)。
ふと、この曲から、ニコラス・ケイジとエリザベス・シューの出た映画Leaving Las Vegasを思い出し、クリック。が、Elisabeth Shueが記憶のなかにあった魅力を持ってはいないことに気づく。そもそもこの映画は大した映画ではない。が、Shueの最近のテレビでの活動などを知り、まだちゃんとやってるのだと知る。
リンクのかげんでなぜか、映画「Three Days of Condor」(コンドル、1975年)に行き、レッドフォードがワシントンスクエアでフォン・シドーが演じる殺し屋とすれちがうシーンを見たいと思い、さがしたがみつからない。Faye Dunawayはなつかしく、調べると、彼女がいま80歳で、2016年だかにブロードウエイの舞台に復帰したことを知る。そういえば、Max von Sydowはどうしているかと検索したら、2020年に90歳で亡くなったことを知る。2018年にKursk(The Command)という映画に出ていることを知り、トレイラーでチェックしたら、老いぼれた海軍の上官を演じているのが見えた。最後まで頑張るのはいいが、こういう姿は見たくないなという姿だった。
冷房がイヤで30度以上の室温のなかにいるので、すこし涼しい空気に触れようと、ラム酒を飲みながらテラスに出て夜空をながめていたら、こういう「ネット《徘徊》」を「徘徊散記」として「雑日記」の代りに書く案が浮かんだ。
どのみちわたしがやっているのはすべて《徘徊》である。身体を使った都市の《徘徊》雑記を『週刊金曜日』でやっていたが、もうやる気を失ったことはすでに書いた。
「散記」という言葉を思いついたが、そもそもこういう言い方はあるのかと思い、またネット《徘徊》する。手持ちの漢和辞典にはなかった。
が、「散記」で検索したら、Amazonに「湖濱散記 (Traditional Chinese Edition) Kindle版」というのがあると出た。中国語の説明をGoogleで英訳してみると、
Thoreau loved the truth all his life. The richness of his truth makes some words and sentences that do not need to be piled up, read like a mythical riddle. Perhaps this natural symbolic meaning is exactly what some great works have in common.
とあり、どうもソーローのWalden(森の生活)の翻訳らしい。
邦訳では"Walden, or Life in the woods"の後ろを活かして「森の生活」としたが、中国訳ではWalden湖を重視して「湖濱散記」としたらしい。こちらのほうが読者には親切かもしれない。というのも、わたしのように森が嫌いな者は、そのタイトルだけでこの本を読むのをやめてしまうからだ。「湖濱散記」なら読んでみたいと思っただろう。
それはともかく、今度は「散記」だけを入れてみたら、"Random Notes"と訳された。これなら、わたしが「散記」という言葉で想定したベストである。「散漫」の「散」、「散々」の「散」、いや、辞書には、「散開」とは、「各個に間隔をおいて散らばること」とある。なかなかいまの状況にふさわしい言葉ではないか。
それから、またあちこちへのネット《徘徊》が続いたあと、ニュースページをのぞいたら、デルタよりも新しい「C.1.2」の話題が飛び込んできた。
わたしは、すでにヨーロッパの友人へのメールのなかで、"In my view, it seems to become worse and even the "Epsilon" variant might emerge."と書いた。"it"とは、このメールのなかで主題になっている「ライブ活動の状況」のことである。
デルタの次のギリシャ文字は「イプシロン」だから、日本流に言えば「イプシロン株」ということになるか? ちなみに、C.1.2は、まだ拡大が確実になったわけではないとのこと。
それにしても、なぜ日本では、「ヴァリアント」を「株」と呼ぶのだろう? こちらは、ストックのことではなく、木の株のイメージなのだろうが、文章や本などの場合、むかしは、variantを「異本」と訳していた。要するに「変形版」だ。ならば、「変形ヴァージョン」とか「ヴァージョン」「バージョン」の方がいいのではないか? 語のつながりを無視して勝手に言葉と作ってしまって、手に負えなくなるのが日本語の面白さではあるが。