時間支配 今回のコロナ禍で、支配の場が空間から時間へ完全に移行したことがあらわになった。感染防止というタテマエで司令される夜20時まで営業という「要請」は、最も単純な時間支配だが、緊急事態宣言を何度も繰り返すそのON/OFF操作が、それまでは安定していると思われた時間が決して持続しないという不確定性を植え付ける時間教育になる。
コロナ禍の最中に、東京都内の外灯のランプは高輝度のLEDに交換されたが、これも、通行人を監視カメラに写しやすくするというだけでなく、管理しにくい「暗黒」度の高い深夜という時間をなしにする支配の技法の一環である。とにかく、都内の深夜の街路は、コンビニしか開いていない白昼夢と化すだけでなく、適度の薄暗さや闇を保持していた住宅街からも夜を奪った。
陰謀論 陰謀のない政治も経済もないが、「陰謀論」のあやまりは、すべての事態が一原因から発し、そのシナリオ通りに進むとみなす点である。陰謀は出来事の「一秒前」を予測し、「一秒後」にもそのロジックが続くと考える。だが、実際には、陰謀は、出来事の「一秒後」に始まる。発祥問題はどうでもいいのである。メディア産業は、パンデミックが広がり始めた「1秒後」この厄災を「活用」しようとする諸企画を大急ぎで立てた。しかし、だからといって、そういう輩がパンデミック自体を起したとするのは無理な想定である。問題は、そういう「1秒後」計画の内幕を隠蔽することが「陰謀」なのである。国土交通省だって、地震の「1秒後」の事態と産業の動向を想定した規制や司令を定めている。が、国土交通省が地震を起こすわけではない。が、だからといって、それが当然とも言いえない。
五輪の書 オリンピックもそういうディレンマのなかにある。オリンピックは、新聞が字数の省略の技法として始めた「五輪」と表記されることあたりまえになっているが、この語は、オリンピックよりも宮本武蔵の(とされる)兵法書を思い起こさせて落ち着かない。が、考えてみれば、『五輪の書』は、兵略つまりは陰謀の技法と奥義を説く書だから、東京オリンピックが「五輪の書」を密かに求めるのは理にかなっているかもしれない。
テレビの無理な蘇生 開催の困難が明確になったにもかかわらず敢行されるイヴェントに魂胆がないはずがない。20世紀後半のスポーツイヴェントは、テレビと不即不離の関係になっていたが、その間にテレビは旧メディアにしりぞいた。コロナ禍で「無観客」開催つまりは純メディア五輪を敢行するのなら、もっと多様なメディア技術とメディア環境の動員も可能であった。しかし、その場合には、現場(被写体)などなくてもいいという先端メディアとのすり合わせがむずかしくなる。旧来のメディア観に執着するならば、ぶっとんだメディア五輪は不可能である。よって、今回の「メディア五輪」は中途半端に終わる。イヴェントとしても、メディア実験としても失敗である。わずかに、ヒマ老人の鏡像板と化しつつあったテレビ受像機がつかのま購買力をとりもどしたにとどまる。
『1秒先の彼女』 近年とんと映画評を書かなくなったが、チェン・ユーシュン監督の『1秒先の彼女』(2000年)は、映画評を書きたいという衝動を起こさせた。非常にアップデイトな問題を描いていると思ったからだ。この映画の一般的な解説では、「なにごとにもワンテンポ早い彼女が・・・」といったことが書かれているが、映画を見れば、とくに彼女(リー・ペイユー)がなにごとも「1秒先」を過剰に先取りしているとは思えない。街の郵便局で働いていれば、事務仕事がシステマティックになるのはあたりまえだ。彼女が「普通」とみなしている世界は、グローバルに拡大した現代都市のリズムで動いている。が、問題は、そういう世界の片隅に異分子として点在するひとたちだ。郵便局できびきびと働く彼女の横に見える、いつも居眠りしているかのような中年の女性職員、子供のころからトロいとイジメを受けてきた青年シャオチー(リー・ペイユー)、この映画の「主役」はこういう「一秒後」に生きるひとびとなのだ。
チェン・ユーシュンの映画には、この手のキャラクターが濫出する。なかでも『健忘村』(2017年)の登場人物は「徘徊」とクレイジーの極みである。彼は、記憶や忘却、つまりは時間性の問題に関心があり、『1秒先の彼女』にも、通常の意味では「認知症」初期と思われる父親の「徘徊」姿が映る。おそらく、チェン・ユーシュンならば、認知症とは、「1秒先」ばかりで進む現代の時間性のなかで、「千秒後」を生きるひとたちちの時間性なのだと言うかもしれない。
が、この「遅れ」には僥倖がある。『1秒先の彼女』のなかで、世界が24時間止まる日が出来るのだが、それは、「1秒後」を生きてきた異端者たちへの「ヴァレンタイン・プレゼント」なのである。世界は完全に「遅れ」、「1秒後」に生きてきた者だけが自由に動き回ることが出来る。「遅れる」ということは、「進み」すぎることでもあったのだ。映画を見てもらえばわかるが、この映画の主役は、決して「彼女」ではない。「トロい」青年シャオチーであり、お玉を持って街を徘徊していた彼女の父親である。
ナノセコンドの利子 この映画は、「1秒遅れ」のひとびとにとってのハッピー・エンディングで満足してもいいのだが、すぐれた映画の特性として、監督自身も意識しなかったかもしれない問題を示唆するところに注目したい。実際、いま、金融の世界では、1秒はもう遅い。商売はナノセコンド(1秒は、10の9乗ナノセコンド)の単位で動いている。普通のひとには日割りが最小の利子単位(事実上ゼロ)のカネを、金融会社は864万ナノセコンドの単位で投機的に運用する。カードにせよ、スマホによる手かざし(NFC)にせよ、機械が認識できる一定時間どこかにカネが停留すれば、その「遅れ」は、限りない投機の機会を与える。
だから、飲食店が、大してカネを落とさない客を少数あつかうくらいなら、休業にして補償をもらったほうがいいなどと都合のいいことを考えていると、補償の過程で留まったり流れたりするカネが莫大な利潤を生み、居酒屋みたいな無頼派の残骸なんかはもういらないんじゃないかと言っているであろう金融庁のあの爺さんを喜ばせるだけで、国はビクともしないのである。その一方、これまで算術級数的ではない時間のなかで身につけてきたシェフやマネージャーの手わざが衰え、カネではとりかえしのつかないことになる。
トレンド 陰謀ではない、つまり、最初から計画した策略ではないと言おうが言うまいが、「1秒後」の策略であることには違いのない諸現象――「無観客」オリンピックによるテレビの「再興」(本当はテレビなんかもうふるくて、いらないのに)、リモートワークと、その一方では、体を張っても無保障のギグエコノミー労働の「普遍化」、全世界の人間を程度の差はあれ人体実験できるワクチン接種、これらが(いまのところ)警察や軍隊の強制なしに進められるのは、決して自然のなりゆきではなく、事件の「1秒後」に決められた確たる選択の結果である。しかし、その選択には無理があるから、馬車や牛車を蹴散らした自動車が、やがて交通事故や環境汚染、移動の自由の代償としての孤立をもたらしたように、身体的なもののヴァーチャル化がいずれさまざまな問題をもたらさないはずはない。
が、「文明」とは、何千年にわたってこんなことをくりかえしてきた。そして、そういう「文明」のかたわらには、かならず、その流れからはずれた「徘徊」者がいて、うだうだとつまらぬことを言ったり、表現したりしてきた。近年、わたしは、読むものに詰まると、南方熊楠が折にふれて書いた文章を読むが、彼が飽きずに延々と記述しているのも、そんな「徘徊」者(しかも人間だけにとどまらない)のことばかりである。
以上は、『週刊金曜日』の「徘徊」の「番外編」のためという依頼で書いた原稿を分解したものだが、その原稿は、「難しすぎる」という「第1の読者」の反応を聞いて、即引き下ろした。わたしには、どこがむずかしいのかわからないのだが、場を替えればそうではなくなるだろうと思い、再構成してみた。まあ、考えてみると、その半分は、とっくのむかしに書いたことだし、ウェブ雑誌『QJWeb クイック・ジャパン ウェブ』に書いたこととも重なる部分がある。「第1の読者」は、暗黙にそのへんを念頭において再考をうながしたのかもしれない。