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粉川哲夫の「雑日記」

2021/07/31

飽きるということ

いきなり音沙汰を断ってしまうのは、むかしから癖で、「雑日記」も、今回、半年以上記載なしの状態がつづいた。夜中の街歩き(『週刊金曜日』の「徘徊団「24時間営業」の東京をさまよう」の連載)も停まっているようだし、やつもとうとう年貢のおさめどきかなと思っているらしい「さぐり」もあった。心配してくれてると素直に受け取れないの?という声も聴こえるが、なにせ天の邪鬼に育っちまってね。

いや、理由は簡単。毎度のことながら、「雑日記」を書くのに飽きたからにすぎない。第一にページのスタイルに飽きた。あいかわらず手打ちで書いているから、スタイルが身にしみるのだ。とりわけ、「モバイルフレンドリー」とか「リスポンシブ・ウエブデザイン」とかを気にしてあれやこれやのタグでいっぱいのソースページに飽きてしまった。もっと単純に行きたい。そう思いながらすぐ実行に移さなかったのは、要求がなかったからでもある。

再開のきっかけは、まず、サラゴサ(スペイン)のPedro Bricatからの連絡だ。彼は、Mute Soundというプロジェクトをやっていて、その一つにミニCDの製作がある。各人に1分間の音作品を作らせて、10ぐらいのトラックのミニCDを作る。それがすでに46枚にもなっている。しかし、ペドロのこのプロジェクトの面白さは、これらのCDを売らないことである。CDを所持できるのは、製作に加わったアーティストだけで、その分しかディスクを作らないという。だから、46枚(現在)のCDをセットで持っている者はこの世にはペドロだけで、そのセットはどこでも買うことができない。ただし、収録されている音だけは、彼のウェブサイトから聴くことができる。

この4月、久しぶりにペドロから連絡があった。が、例によってメールには、"Send us a minute of sound in any system by mail or e-mail."の1行とウェブページのURLだけ。2017年に初めて連絡をもらったときもそんな感じだったと思う。そのときは、彼の発想をよく知らなかったので、半信半疑でファイルを送ったら、No.39に載り、ディスクも航空便で届いた。

いいじゃない、こういうの。活字もこれで行きたい。と思ったら、とたんに、『週刊金曜日』の「徘徊」を書くことに飽きが侵入してきた。この雑誌は、一応「週刊誌」だから、時評性を重視する。むろん、それを意識して原稿を書いてきたわけだが、緊急事態宣言なんぞが発令されると、いい歳の男3人が深夜の街を「徘徊」して、その「膝栗毛」的なやりとりを記述した文章などは、保留になってしまう。そうでなくても、読者から「あんなもの」に5ページもさいてという文句が来たりもするらしいから、事件が起こればなおさら二の次になる。

理屈としては、マクロな時評性なんぞは歴史の教科書にまかせ、ミクロな時評性にこそ力を入れるのがジャーナルというものだと思うが、些末なことや惰性的に見える作業に政治を見る習慣がジャーナリズムにはまだ弱い。とりわけ、新聞やテレビの世界の連中にはそういう意識がほとんど希薄である。

書けば、世界中で閲覧の出来るメディアを持ちながら、いつ出るのかわからないようなメディアを相手にしていても仕方がないから、じゃあ、電子版「徘徊」シリーズと行くかとも考えたが、数日もすると、そういう「頑張り」の姿勢にうんざりし、この案もどこかに消えてしまった。

そんななか、5月末ごろだったか、Windows 11のパイロット版の発表を知った。Windowsは、年に1度、どうしようもない役所のサイトなんかに入力作業をしなければならないときぐらいにしか使わないが、Windowsはもう10で終わりだと思っていたので、いまさら何なのという興味がわき、たまたまネットにころがっていたバイナリーを拾ってきて、インストールしてみた。予想通り、それはトンチキなものだったので、久しぶりに「テクノロジーとのすったもんだ」のサイトにでも書こうかと思った。

それもご多分にもれず数日で飽きのかなたに遠ざかってしまったのだが、こんな飽き飽き過程をくりかえしているうちに、その振幅を書くのもいいかなという気になってきた。というわけで、最前から、ここまでの文章を書いた次第である。明日までこの意識が続けば、Windows 11のバカっ話も読めるかもしれないので、乞うご期待。


「雑日記」全目次 (1999〜)