遊歩都市
カプチーノとカウンター・カルチャー

 オーストラリアの都市を歩いていて目につくことは、ピツァの店がアメリカよりもはる かに多いことである。これは、都心だけにかぎらず、郊外でも、商店街があれば、ピツァ の看板が必ずどこかにみえるのである。
 こんなことは、イタリア人移民の歴史が長く、その数も多いアメリカでもみられないこ とで、たしかにニューヨークでは軒なみにビツァ店があるが、サン7ランシスコやロサン ゼルスでは、ピツァ店の数はさほど多くはない。しかも、オーストラリアの場合、イタリ ア料理ではない一たとえばドイツ料理の−レストランに行っても、カプチーノやエス プレッソがメニューにのっており、オーストラリアで”コーヒー”ζ言えぱまず”カプチ ーノ”のことを意味すると言えるほど、人々はイタリアン・コーヒーを愛飲しているので ある。
 オーストラリアは、元来、イギリス文化の根強い伝統下にあったはずだから、これは奇 妙なことだと言わねばならない。オーストラリアに行くまえに日本で読んだ一般的な旅行 案内書や旅行記には、オiストラリアの最もポピュラーな食べものがビツァであり、最も ポピュラーな飲みものがカプチーノであるなどということはどこにも書かれていなかった。
またしてもわたしは、日本が情報過剰の国で、日本にいれば世界のことがひととおりわか るということが全くの神話にすぎないということを思い知らされた。
 一九六〇年代から七〇年代にかけて、7ランスやアメリカで”カウンター.カルチャー 革命”が起こり、それが、程度の差はあれ、既存の社会関係や生活文化に決定的な影響を 与えたことは、誰でもが知っていることであり、その歴史を知りたければ、日本語で読め る研究資料も相当量あり、また、当時の社会風俗を小説や映画から類推しようと思えば、 文庫本や名画座の上映リストのなかにその関連作品を見い出すことも依然可能である。
 しかし、オーストラリアで同時期に起こった”カウンター・カルチャー革命”について は、少なくともわたしの知るかぎり、これまでほとんど語られてこなかったし、しかも、 この”革命”の影響が、オーストラリアでは、他のいかなる先進工業国よりも決定的であ っだということは、ほとんど知られていないように思われる。
 オーストラリアでは、一九六〇年代に急激な移民・難民人口の増大、多国籍企業の進出 がはじまったのだが、こうした社会・経済構造の変化が外部からトラスティックに進めら れたことが、カウンター・カルチャーの影響力をアメリカなどとは若干ちがったものにし た。とりわけ人口構成の変化がすさまじい。たとえばメルボルンでは、マニング・クラー クが言っているように、「かつてはイギリス風の都会およびイギリスの田舎紳士を気どっ た上流社会で知られた町であったものが、アテネ、ニューヨークについで世界で三番目に 大きいギリシャ人口を擁する都会に変貌した」(竹下美保子訳・オーストラリアの歴史』)。
 ただ、おもしろいと思ったのは、オーストラリアに足を踏み入れた最初の日、メルボル ンのイタリア人地区のカールトンの街を歩きまわり、空腹と喉のかわきをおぼえて、一軒 の庶民的なビツァ屋へ入ったら、イタリア系の顔をした若い女性がわたしをみるなり一瞬 動揺し、「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」童言わずに奥にかけこみ、その母親とおぼしき 女性を呼んできたことだった。この母親も、かなり警戒したおももちで顔をこわばらせ、 「何がほしいんだい?」とでも翻訳した方がよいぶっきらぽうな調子で「メイ・アイ・ヘ ルプ.ユー?」を言う。どうも、ここでは東洋人は招かれざる客のようだ。というよりも、 彼女らは、あきらかに東洋人になれていないのだ。メルボルンは、オーストラリアの都市 で最も移民人口の多いところで、東洋人も相当住んでいるし、ここへ来る途中に通ったラ ッセル・ストリートの一画にはチャイナ・タウンもある。しかし、わたしの観察では、た とえば有名ホテルやコリンズ・ストリートのおみやげ屋の周辺には日本人がたくさんいる が、一体に、この街には有色人種が少なく、とくに黒人をみかけることは少なかった。た だし、これはオーストラリアにはまだ”白豪主義”が根づよく残っているということでは なく、オーストラリアでは有色人種の移民の歴史が浅いため、オーストラリアの白人(比 較的早く移民してきたイタリア人やギリシャ人−彼らも白人一も含めて)は、アメリ カなどにくらべると、有色人種になれていないということではないかと思う。
 しかし、「オーストラリアは、自由の、白人の、基本的にキリスト教の国でなければな らない」という発想は潜在的には残っており、最近の州会議でも、アジアからの移民より もヨーロッパからの移民をふやす決議が行なわれた。この問題に関して、メルボルンの 『ジ・アイジ』(八二年2月27日号)は、「外国人嫌いのアングロ・アイリッシの伝統」を維持し ようとしているRSL(リターンド・サーヴィシズ・リーグ)のブルース・ラクストンと 前労働党政権で移民相をつとめ、マルチ文化政策を推進してきたアル・グラスビーとの論 争対談を掲載している。両者の意見の極端なコントラストは、オーストラリアにおける移 民問題の一般的意識を代表していると思われるので、その一部を引用してみよう。
ラクストン オーストラリアがもっと移民を必要としていることは明白だ。しかし、一 つの閥魑は、人種としてのアイデンティティを喪失することをおびやかされているオー ストラリア人がたくさんいることです。……オーストラリアは、ヨーロッパ的であるこ とを優先すべきだと思う。
グラスビー オーストラリアには、一四〇のエスニック的バックグランドをもった人々 が一五〇〇万人もいます。われわれは、スコティヅシ・ゲーリックを含む九〇種類の異 なる言語を話し、八○種類の異なる宗教にたずさわっているのです。ですから、あなた が、人種の維持と言われる場合、ちょっとひっかかるんですね。どの人種ですか? ラクストン ……アメリカではこうだ。「われわれの国へ来い、憲法を受けいれよ、国 旗に敬意を表せ、それだけでよい」。しかし、オーストラリアではそうじゃない。われ われのいとしのノースコートでは、学校などは全く反対のことを教えていることがわか るだろう。目下行なわれていることは、国家の統一ではなくて国家の断片化なのだ。
……いずれ難しい問題が起きると思う一さもなきゃ軍隊なんかいらないよ。
グラスビー 前世紀にオーストラリアで生じた反中国人感情は、一九三〇年代にドイツ で生じた反ユダヤ人感情と同じものです。失業の悪化、希望のない状況。スケープゴー トが必要だ。どうするか? ヒットラーーユダヤ人。前世紀のオーストラリア  中 国人。中国人は、東部オーストラリアにおける第三番目に多いエスニック・グループだ ったが、それが数千人に減らされた。つまり、状況は少しも進歩してないんです。現在 わが国は、経済問題をかかえている。……人種差別主義者の組織は、……アラブ野郎を 遣い出しゃいいと言っている。
 しかし、ラクストンのおそろしく保守的な意見が、オーストラリアの白人(イタリア人 を含む)のなかに潜在するにせよ、現在の政府は、マルチ文化政策を放棄してはいない。 実際、メルボルン市の国営放送局3EAは、四十六ヶ国語のラジオ番組を毎日放送してお り、わたしは、日本語番組担当のヨーコ・デイヴィス夫人にすすめられて、放送のために 二〇分ほどメルボルンの街の印象をしゃべった。メルボルン市郊外にあるトヨタ系の自動 車工場では、労働者に五九ヶ国語で指示を与えねばならないそうだが、メルボルンだけ でなくシドニーにも、イタリア、ギリシャ、ユーゴスラビア、トルコ、ポーランド、ドイ ツ、オランダ、ソ連、また近年はアジア諸国などからの移民や難民が多様なコミュニティ をつくっている。
”カウンター・カルチャー革命”は、オーストラリアの場合、こうした社会構造のトラス ティックな変化、サブ・カルチャーの多様化の勢いをかりて、すでに一九七〇年の初頭に は、英国以上に”英国的”だったオーストラリアの社会風俗・習慣を根底からつきくずし、 移民や労働者階級のサブ・カルチャーを一般化させる機能をはたした  ピツァやカプチ ーノの一般化も、まさにこのようなプロセスのなかから生まれた。
 メルボルンで会った学者たちが、口をそろえたようにわたしに必読を勧めたフランク・ モアハウスの『酒と怒りの日々』(一九八○年)は、シドニーにおける”カウンター・カルチ ャー革命”のすぐれた現場記録であり、ここに記されていることは、大なり小なりオース トラリアの他の都市にもあてはまる。この本は、ペンギン・フックスから出ているのだが、 わたしは、ペンギン・ブックスをたくさんならべているアメリカの本屋でも、また日本の 洋書店でも、ついぞこの本に出会ったことがなかった。おそらく、この本は、オーストラ リアのペンギンから出ているので、イギリス版とは別あつかいなのであろう。同じことは オックスフォード大学出版のオーストラリア版について童言えるが、一体にオーストラリ アの出版情報がとくに日本では遮蔽状態におかれており、オーストラリア出版の重要な書 物の存在が知られぬままになっていることが多い気がする。
『酒と怒りの日々』によると、シドニーのカウンター・カルチャーのにない手は、次のよ うな人たちである−「イデオロギー的ジプシー、政治意識のある浮浪者、芸人、懐疑主 義的アナーキスト、ユートピア主義的アナーキスト、奇人、若者の一部、陽気ないたずら 者、このリストに載ることをよしとする準=反・体制順応主義的な中産階級、不安神経症 考、ヒップスター、ヒッピー、イッピー、落ちこぼれの学者、不安に愚かれた作家、フィル ム・メイカー、画家、音楽家、旧世界のボヘミアン、五〇年代的ビートニク、リベルタリ アン、国教廃止論者、コミューン主義者」。こうした、本来は政治嫌いの人々がやがて政治 にかかわり、アメリカとはちがってカウンター・カルチャーが実際に社会を変革する要素 となったのは、彼ら”ルンペン・インテリゲンチア”がアメリカのように労働者階級や既 成の左翼勢力と分断されずに、たとえっかのまであれ、連帯関係をつくり出したからであ る。また、労働党が、移民のサブ・カルチャーと”ルンペン・インテリゲンチア”のカウ ンター・カルチャーとの媒介をはたしたこともみのがせない。
 一九七二年十二月、ゴワ・ウィットラムを党主とする労働党政権が成立するが、これは、 ある意味で、オーストラリアの社会と文化に”革命”をもたらした。事実、今日のオース トラリアの大衆社会のなかで”先進的”とみえるものの多くは、ほとんどすべて一九七二 年から七五年にいたるウィットラム政権の時代にめぱえたものなのである。
 プロテスタント的モラルの解体、権威主義的支配の批判、女性の解放といった一連の変 革のなかで、表現の自由をめぐる闘争はとりわけめざましい進展をみせ、オーストラリア のその後のメディアの方向を決定する要因になった。この闘争の発端は、シドニーでは、 一九七〇年にニュー・サウス・ウェールズ大学の学生新聞『タルンカ』(のちの『トルン カ』)の編集体制が一新され、モアハウスのようなラディカルな作家たちに紙面を提供し はじめたことだった。『酒と怒りの日々』によると、当時は活字メディアにもきびしい検 閲があり、学生新聞の印刷所は、原稿をあらかじめ自主検閲し、露骨な性表現のある原稿 に対しては、その印刷を拒否するようなことを常とした。『タルンカ』は、こうした困難 を、アメリカのアングラ新聞で開発された簡易オフセット印刷のテクニックを導入するこ とで切りぬけ、新たな自主管理的ミニ・メディアを確立していった。『タルンヵ』は、決 して”ポルノ・ポリティックス”を主眼とする新聞ではなかったが、一九七二年までのあ いだに、約四十回起訴され、編集者似ウユンディ・ペイコンは短期間の実刑を受けた。し かし、こうした権力とのトラブルは、逆に、これまでの検閲制度のどうしようもない古さ を異化することになり、今日みられるような一応の”完全な表現の自由”への道を開くこ とになるのである。今日のオーストラリアのメディアが、アメリカ以上に”白山”な表現 を享受しているのも、こうした闘いのおかげなのである。
 その意味で、旦筒六郎氏が、ラ・トウループ大学とモナシュ大学から客員教授として招 かれたにもかかわらず、氏が「日本赤軍と直接の関係を持つ」という理由で入国ヴィザの 発給を拒否された事件は、この嫌疑が事実無根であるという以前に、一人の思想家の白血 な発言と人権、大学における思想表現の自由に対して困家が露骨に介入した事件として、 オーストラリアの心ある知識人の怒りをよびおこし、日高氏のヴィザ発給拒否に反対する 抗議運動が展開されたのは当然と言えよう。とりわけ、全国紙の『ジ・オーストラリア ン』は、ほとんど毎週、”日高問題”をとりあげ、政府の不当な処置を批判した。これは、 哲学者でもあるジョン・プリーマー記者の努力に負うところが大であったようだが、”新 聞のっとり王”マードックの傘下にあり、オーストラリアでは完全に保守的な新聞とみな されている『ジ・オーストラリアン』が、社説において”日高問題”に対する政府の時代 錦誤的なやり方を厳しく批判したように、この問題で政府がとったやり方は、オーストラ リアの高度資本主義の現実的論理にさえも惇るのである。
 ただし、産業システムや支配装置がどんなに高度化し、”反社会的”な要素を自己のう ちにとりこむだけでなく、そのようなものを一種の自己活性剤としてみずからっくり出 す「人工的否定性」の段階にまで進んでも、国家は、つねに、”寛容”な側面と”おせっ かい”な側面をあわせもち、両者をそのっどうまく使いわけるはずである。”日高問題” では、オーストラリアの国家は、国内ではその一見”寛容”そうな顔に隠れてみえなかっ た強制的な側面を国際的なレベルではからずも露呈させたのである。
 日本などとくらべると、オーストラリアは国内的にはアメリカ以上に”寛容”な社会で あり、それは、たとえば、自動車の免許証に写真がないといったことにもあらわれている。
しかし、国際的にみると、オーストラリアは核ウラニウムの有力な輸出国であり、また、 ジル・スクリンのドキュメンタリー映画『ホーム・オン・ザ・レインジ』で摘発されたよ うに、オーストラリアには、パイン・ギャップ、ノース・ウエスト・ケイブ、ナランガー、 スミス・フイールド、オメガの五つの米軍基地がある。パイン・ギャップは、米国外では 最大規模の設備をもつCIA情報収集機関であり、ウィットラムの労働党政権を打倒する ために暗躍したと言われる。ノース・ウェスト・ケイブには、インド洋および太平洋を航 行する潜水艦への米軍の無線を中継する巨大な送信所がある。ナランガーは、アメリカ合 衆国へ向けられた核弾頭をいちはやくキャッチする衛星の信号を遺跡する受信所である。
スミス・7イールドとオメガは、弾道ミサイルと原子力潜水艦の基地である。また、『多 国籍企業がオーストラリアを乗っ取る』という本がベストセラーになったように、現在の フライザー政権になってから、オーストラリアには日本をベースとする多国籍企業をも含 めた世界の企業がますます進出し、この国の資源を荒している。つまり、国際的にみると オーストラリアは、アメリカをはじめとするさまざまな国家権力のがんじがらみになって いるのであり、国内で感じられるような”自由”や”自律”からはほど遠いのである。




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