遊歩都市

街路としてのラジオ局

 この国の都市の街路は、都心でも、ニューヨークにくらべると人通りが少ない。シドニーの”銀座”にあたるジョージ・ストリートやピット・ストリート、東京で言えば”新宿”にあたるキングス・クロスのダーリンガスト・ロードのように繁華な街路もないではないが、そのような街路も一歩裏に入ると人通りがまばらになる。
 シドニーのように、オーストラリアでは最も”ニューヨーク”的な都市ですらこうなのだから、地方都市はおして知るべしであり、シドニーとならぶ二大都市メルボルンでもその閑散さは、東京などでは想像できないほどである。オーストラリアの夏はひどく日がながく、午後八時ごろにならないと暗くならないのだが、会社や商店が閉まる五時以後には街は全くの無人地帯となり、一体人々はどこへ行ってしまったのだろうと不思議な気持にかられてくる。
 これは、オーストラリアの都市の人口密度が低いからであって、昼間や週末に都心に集まる人々も、その生活の場が八方にちらばっており、そのちらばり方がニューヨークや東京にくらべるときわめて粗く広範囲にわたっているからである。現在、東京二十三区の電話帳は三分冊になっているが、それよりも大きな地域をカバーしているメルボルン市の電話帳は、その一冊分の厚さしかない。
 マンハッタンにくらべれば、シドニーもメルボルンも一種の郊外都市なのであって、バワリーやロワー・イーストサイドのようなスラムもないかわり、グリニッジ・ヴィレッジやソホーのような、いやおうなく人と人とが出会って何かを起こしてしまう”街路劇場”の要素もほとんどない。これは、一面では、都市が静寂と落ち着きにみちているというふうにもとれるが、それがメルボルンのように度をこすと、平穏さよりも孤立感の方を強く感じさせるようになってくる。
 メルボルンに着き、日のながさに誘われて街をさんざん歩きまわった最初の日にまず感じたのは、こうした孤立感と疎外感であったが、同時にわたしは、建築史的にマンハッタンと劣らず古い歴史をもつこの都市の中心街が、目下のところ、たかだかショッピングとビジネスの場としてすっかり自足しきっているようにみえることに不思議な気持を抱かないではいられなかった。都市とはメディアであり、人と人とをその日常性のなかで”劇”的に出会わせる場であるはずなのに、ここでは都市のそうした機能が全くと言ってよいほど放棄されている。たとえばバーク・ストリート沿いにあるいくつものアーケードーこれらは、建築構造的にみて見事なものであり、現在のように単なる通路や近逝としてではなく、人々が遊歩する場、人々が”劇”的に出会う場としても活用されるならば、まさにベンヤミンがパリのパサージュにささげたオマージュをそのままあてはめてもよいほどの魅力的な空間になるはずなのである。なぜメルボルンでは都市がこのように軽視されているのだろうか? むろん、メルボルンの都市がこんな状態になったのは、オーストラリア人の郊外志向のためであり、グレム・ダィヴィソンが『すばらしきメルボルンの勃興と凋落』(一九七八年)で詳述しているように、かつては人口の四分の三が都心部に住み、仕事とショッピングと娯楽の場所に徒歩で行くことのできる”ウォーキング・シティ”であったものが、一九二〇年代を境にして、交通綱の発達と自動車の浸透によって、人々は都心から郊外へ郊外へと散らばってゆき、もはやあともどりがきかないほどの”過疎”化に陥ってしまったからである。
 しかし、人々はメディアなしで生きることはできない。もし、都市が人々を結びつけるメディアの機能をはたしていないとしたら、何かほかのものがその代わりをしなければなるまい。その一つが車であることは、人通りがないくせに車だけはひっきりなしに走っているメルボルンの市街を歩いていてすぐわかった。ここでは、遊歩する街路や足ではなく、車道と車が主要なメディアになっているのであり、碁盤状の街路や迷路のようなアーケードではなく、車によってつくられる大規模なネットワークが人々を結びつけているのである。だからここでは、仕事をする職場と食料品を買うスーパーマーケットと週末に家族や友人たちとおしゃべりを楽しむレストランやコーヒー・ショップとの距離がそれぞれ四十キロ以上もはなれていることもまれではなく、人々はこうした車のネットワークをメディアとして生活しているのである。
 とはいえ、このようなメディアの恩恵にあずかれるのは車の所有者だけである。たとえば高齢の老人、身体障害者、車をもてない低所得者といった人々は全くこうしたメディアから疎外されてしまう。現に、自発的に遊歩者であろうとし、タクシーにも市電にもなるべく乗らずに、やみくもに街路を歩きまわることをよしとするわたしにとって、メルボルンの街は、街路で人々との”劇”的な出会いに接する機会が極度に少ない芒洋とした街であるように感じられたが、その孤立感は、いくらながくこの街に住みこんでも決してそこでは癒されないようにみえた。
 しかし、あとから考えてみると、すべての答は、最初の日、わたしが街から帰ってきてホテルでやったことのなかにあったのである。それはほとんど無意識に行なわれたのだが、わたしは気がつくと、日本から持参したラジオのダイヤルをまわし、思っていたよりはるかに局数が多いことに驚いていた。数えてみると、AM局は、十二局(3AR,3L0,3CR,3UZ,3DB,3KZ,3EA,3AW,3GL,3MP,3XY,3AK)あり、FM局も六局(3EON,3MBS,3FOX,3RRR,3ABC,3PBS)ある。しかも、それらの番組は実に多様で、アメリカの民放そっくりのコマーシャルだらけのものもあれば、NHKよりはるかに無愛想に延々と学者の語を流している番組、またゲイのコミュニティのニュース、三十分から一時間ごとに言葉が変わる多言語放送(たまたまわたしは、オーストラリアに来てはじめて耳にしたのが3EA局のイタリア語のニュースで、そこで日航の国内便が羽田沖に墜落したらしいことを知った)、クラッシック音楽、電波は微弱だが実にナウいロック・ミュージックを切れめなく流している番組、もう久しく聴いていなかったニュー・ジャズのレコードを系統だててかけているようなクソマシメなジャズ・マニア番組まである。わたしがオーストラリアにやってきた目的は、その都市文化の動向をさぐることであり、そこにはマス・メディアの現状を調べることも含まれていたが、ラジオ放送がこれほど多様で活力にあふれているとは想像だにしなかった。
これは、街路の退州さを補って十分あまりあるではないか。
 調べてみると、オーストラリアのラジオ放送のこうした繁栄と多様化は、一九六〇年代以降、世界の各地からオーストラリアの都市とくにメルボルンにどっとおしよせた移民たちが、まさにわたしがそのインスタント・ミニ体験をしたような街路での孤立感や疎外感に深く直面し、アノミーを昂進させ、祉会的な危機を深めるなかでその必要性を兄山した。
 当時、オーストラリアのラジオは、旧営のABCと新聞界にあやつられた民間局との二局だけで、両者はいずれも地域の.要求にこたえることができなかった。番組は全国ネットのものが多く、あらかじめ録音されたソースを流し、生放送の数は限られていた。しかし、移民人口の増加によって祉会構造が激変したうえに、ヴェトナム戦争への参戦、自由党政権の官僚的な政策によって社会のすみずみに不満やシニシズムが深く蓄積された状況下においては、このようなメディアはほとんど文化装置としての機能も、コミュニケイション・メディアとしての機能もはたすことができなくなっていた。
 一九六〇年代末から七〇年代にかけてオーストラリアで起こった反体制運動やカウンター・カルチャー革命は、まさに形骸化した制度やメディアに対する異議申し立てであり、新しい制度とメディアの要求であったが、新しい形態のラジオ局、諾々のコミュニティの利害に対応しうるようなコミュニティラジオをつくろうとする動きも、この間に生じてきた。すでに、カナダ、アメリカ合衆国、イギリスでは、一九六〇年代にそうしたラジオ局への関心が高まりつつあったが、オーストラリアでも、次第に、学生、学者、小数民族グループ、コミュニティ・サービス機関、労働組合の一部が、この問題に注目しはじめたのである。
 しかしながら、コミュニティニラジオの具体化が実際に進むのは、一九七二年に労働党内閣が成立し、社会福祉、都市計画、教育、コミュニケイションの面で大改革をはじめてからである。一九七四年五月、ウィットラム首相は、ラジオについての報告書の作製を要請し、十一月には早くも有識者とコミュニティ関係者によって搬告審がまとめあげられたそれによると、コミュニティラジオの対象となっているコミュニティは、「まだ形成過程にあり」、免許が発行されるまでには相当期間の「教育と議論」を要するとみられるが、そうした議論を活気づけるために短期間、実験放送の免許を与えることが好ましい。そしてその際、この種の放送局は、ABCや政府機関によって管理されるべきではなく、聴取者の寄付金か芸術評議会のような非放送団体を通じて調達された政府補助金によって運営されるべきである、と報告書は述べた。ところが、この報告書が出されてからわずか一ヶ月後に、メディア相のダグ・マクリーランドは、ABCに対し、シドニーとメルボルンにAMの新たなラジオ局を開設する許可を与えるという議会決定を公にした。
 この決定は、当然のことながら、報告書のスタッフの猛烈な抗議をひきおこしたが、最終的に一九七五年一月にシドニーに2JJ局が、同年五月にメルボルンに3ZZ局がそれぞれ開局し、前者はコミュニティの自主参加に重点をおいた”アクセス局”として、後者は「主として二十五歳以下の若者を対象とする局」として実験放送を開始した。これらの放送局は、ABCのスタッフによって連営されたとはいえ、政府のコントロールを排除し、コミュニティラジオとしてめざましい機能を発揮し、とりわけメルボルンの”アクセス局”3ZZは、そのメンバーの一人であったジョン・ダグデールが『ラジオ・パワー』(一九七九年)で詳述しているように、きわめてラディカルな活動を行なったが、一九七五年十一月に労働党内閣が総督によって罷免され、やがて保守党のマルコム・フライザーによる右傾化政策が力を得てくるなかで、3ZZは「共産主義の代弁者」として危険祝され、一九七七年七月、政府によって閉居を命じられるのである。だが、このことは、保守党政府がラジオ放送の方向を旧時代のそれにひきもどそうとしていることを意味するのではなく、むしろ、コントロールのきく範囲内でラジオを”体制の安全弁”としてより有効に利用しようとしていることを意味し、実際にその後も、新しいラジオ局は続々認可され、現在ヴィクトリア州には三八の非商業局があり、多様な放送を行なっているのである。
 オーストラリアに来てからまず発見したことはパフと街路文化との関係であったが、こうしてわたしは、街路文化を調べるにしてもラジオ・メディアーとりわけコミュニティラジオの機能や活動を無視しては街路文化のダイナミズムに触れることはできないということを悟った。そこで、極力ゴミュニティニフジオのプログラムをきき、その一部分を録音する一方、一九七五年からはじまったこの活動の歴史を調べはじめたわけだが、おもしろいことは、3ZZ局がそのわずか二年間の活動のなかで試みたことが、その閉居後、それでばったり途絶えてしまったわけではなく、保守的なフライザー政権のもとでも、他に受けつがれ、むしろ一層の厚みをくわえて生きのこっていたことである。
 3ZZ局がきりひらいた最も主要な方向は、”アクセス”の機能であるが、これは今日、3CR局と3PBS局によってひきつがれている。わたしは、二月のある日、メルボルン市内のコリングウッドという地域にある3CR局をたずね、プロデューサーのジェフ・パルブール氏から具体的にこの”アクセス”なるものがどのように行なわれるのかをきいてみた。このAM局は、一九七六年に開局し、当初は”アクセス局”つまり”人々が内分で番組を作る局”としてよりも、”コミュニティの声”として放送活動を行なってきたが、”アクセス”局の3ZZが閉局されてからは、その機能をひきついだ。この局が、そのラディカルな活動にもかかわらず、3ZZのように政府によって一方的に閉局に追いこまれるようなことがなく、さまざまな圧力(たとえば、三年毎の免許の更新時における免許停止の”おどし”)を受けながらも今日まで生きのびてこられたのは、この局が3ZZのように政府の指揮によって政府の放送局(ABC)の内部組織としてつくられたのではなく、コミュニティの利害を代表する公共のコミュニティ局として認可を申請し、免許を取得した局であるからである。(フライザー政権は、3ZZも閉居させるときには次のようなトリックを用いた——すなわち、3ZZ局は労働党内閣が指揮して閉”したのだから、その内閣が倒れれば、その局もいっしょにクローズされるのが当然というわけである。) 工場や倉庫のたちならぶコリングゥヅドのレンガ建ての建物に3CRという大きな文字をみつけ、なかに入ると、受付に精悍な顔付の、しかしひじょうに温かみのある笑いをうかべた老人がすわって電話の応対に忙しかった。ここでは常勤はマネージャーのアリソン・サマーヴィル女史一人だけで、二人いるプロデューサーはパートタイムであり、そのほかのスタッフはみなボランティアだという。そうしたボランティアの一人である女性が電話番をかわってくれたので、先の老人がわたしをスタジオに案内してくれた。途中のひっこんだところにちっぽけな送信機が置いてある。出力は二五〇ワットで、セコハンを買って直したものだという。三つある小さなスタジオの装置はすべてボランティアによる手製であり、ミキシングのテーブルも厚手のラワン材で作られている。
 メルボルンとシドニーの放送局をたずねてみて、どこでも共通だったことは、日本とちがって放送局のなかに入ることがひじょうに容易であり、ガードマンのような者は一人もいないことだった。特に3CRの場合、原則として、ニドルのスタジオ使用料、一ドルのテープ代を払えば、誰でもが三十分間の番組をもつことができることになっているので、来訪者に対しても検問をもうける理由はないわけで、実際に色々な団体や個人がたえず出入りしている。運営は、経費の六〇パーセントをサブスクライバーによって、残りの四〇パーセントを一〇〇の加入集団の会費とその他の資金でまかなっているという。サブスクリプションには、一五~五ドルまでの四ランクがあり、一五ドル(失業者は一〇ドル)を払った者には季刊の『クラム・ガイド』が送られる。これは、プログラム・ガイドを含む一六ぺ−ジほどのラディカル・ぺ−パー式の通信で、3CRについての記事のほかに、3CRの現況、公共放送についての論文も掲載されている。夏季号には、たまたま、プロデューサーのジェフ・パルブール氏がフランスの自由ラジオ局(ラジオ・リーブル)を訪ねた記事がのっており、彼は、フェリックス・ガタリがかかわっているラディオ・トマト局について、「この局は、わたしがヨーロッパできいた局のうちで一番おもしろかった」と書いている。
 ジェフと語をしていて、メルボルンのもう一つの”アクセス”局3PBSの話が出た。このFM局は、3CRのようにコミュニティの政治や社会の問題をあつかうかわりに、アンダーグラウンドな音楽の紹介に専念し、若者に人気のある局なのだが、何とこの局のスタジオは、ジェフの語では、わたしが住んでいるセント・キルダのプライベート・ホテルの真向かいにあるというのである。そこには、プリンス・オブ・ウェールズというかなり大きなパブがあり、わたしはたびたびそこへ行ってビールをのみ、毎日そのまえを通っていたのだが、まさかこの建物の一室にかの有名な3PBSのスタジオがあろうとは想像もしなかった。
 そんなわけで、早速、その日の夜、この3PBS局のスタジオを訪ねようとしたのだが、パブの入口にも、パブのなかにもそんな局の標示はみあたらない。バブのバーテンにきくと、廊下をまっすぐ行ったところだと言うので言われたとおりにしてみると、意外に広いバーの奥は迷路のようになっており、まっすぐ進んだつもりが、最後のドアーを押したら別のバー(大きなパブにはいくつもバー・ルームがある)に出てしまった。仕方なく、そこでワインをのみ、車道をへだてた向かい側のわがホテルに一旦もどり、ひと休みをする。もう時間は九時をまわっていたが、ラジオをつけると、3PBSでは、ジャーマン・ニュー.ウェーブの最新アルバムを流しており、今夜も”ドクター”がDJをやっている。その最中に聴取者からひんぱんに電話がかかってくるらしく、”ドクター”のおしゃべりのなかに、たったいまかかってきた電話のことが出てくる。「ステルンバーゲルは”たぶんおれはパンクだ”なんてレコードを出してるけど、あいつはほんとにパンクかね、という電話がいまありましたが、君はどう思うかな? じゃあ、ステルンバーゲルをいこう…」といった具合である。
 聴取者が番組に電話で反応し、それを局がどんどんとり入れ、なるべくツー・ウェイ。コミユニケーションの回路を作ってゆこうというのがオーストラリアのコミュニティ ラジオの傾向であり、電話によるトーク・ショーは、その最も基本的な番組形態である。これは、もっと大きな民間の商業放送局でもひじょうにさかんで、たとえばシドニーで三月二三口にきいたイアン・ペリー=オグデンのテレホン・トーク・ショー(2UE)では、「資本主義について」と題して、コマーシャルをはさみながら夜中まで延々と電話による議論が続けられていた。オーストラリアのラジオでトーク番組がさかんなのは、人口調密度の低さや都市の機能の不十分さと無関係ではなく、こういう番組によるつながりがなければ人々は横のつながりを失って恐るべき孤立感に陥ってしまうにちがいない。
 ”ドクター”のDJにそそのかされて、3PBS局に電話をすると、すぐこの”ドクター”ことマーク・サツコツキー氏が電話に出、いますぐ来ないかということになる。しかし、今夜は遅くまでマイクをはなれることができないので、DJのあい間に一つまりレコードの回っているあいだに——わたしとおしゃべりをするというのはどうだと言う。わたしとしては、むしろその方がおもしろい。早速カセット・コーダーをもって飛び出した。電話できいた”道順”をたどってゆくと天井の低い階上に山、奥からパンク。ファッションの若者たちが歩いてき、音楽と人声がきこえてくる。どうやら、この”屋根裏”の一室がスタジオであるらしい。
 3PBSがスタジオを一般人に開放するやり方は、年間二五ドルの会費を払ってサブスクライバーになれば、スーパーバイザーから技術的なトレイニングを受けたのち、原則的には講でも番組をもつことができるというものである。運営は、こうしたサブスクライバー(現在、千人)からの会費とスポンサーシップとによってまかなわれているが、このブポンサーシップという制度がおもしろい。オーストラリアの放送局のライセンスは、商墾放送、教育放送、コミュニティ放送、特別放送の四種に分かれており、コミュニティニつジオのライセンスをもつ3CRや3PBSは、一切コマーシャルを流すことができない。ただし、コミュニティラジオでも地域の会社や商店の機能や性格を”紹介”することけできるので、この点を利用して3PBSは、一時間の番組に付き最低二五ドルでスボン斗ーを募集し、番組のなかで四五語以内の言葉でその会社や商店の”客観的な紹介”を行わうのである。
 わたしのラジオ局訪間は、メルボルンからシドニーに移ってからも続けられ、シドニーでは2SERと2JJJの関係者にインタビューしたが、どちらの局にもメルボルンの一ミュニティ局のようなさしせまった感じはなかった。2SERは、出力四キロワットのFMアクセス局で、なかなかラディカルで良質の番組を放送しているが、マコーリー大学一属し、NSW・インスティテュート・オブニァクノロジーの立派な建物のなかに最新のスタジオをもち、2JJJは、なかなか批判的な番組づくりをしているとはいえ、出力が五十キロワットもある政府のFM局であり、どちらも余裕だっぷりの活動をしているという印象を与えた。むろん、これはわるいことではないが、メディアの機能という点からすると、シドニーではラジオよりも街路にメディアの主要な機能が求められており、その分だけラジオ活動の比重は軽くなっているようにみえた。




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