遊歩中毒者の一日
二、三ヶ月オーストラリアに行くことが決まったとき、その話をすると、人々の反応はみな一様に、「なんでまたあんな砂漠と牧場だけの国に行くの!?」とか「ニューヨークから一八○度の転換ですか?」などといった——要するに、ずっと”うさんくさい”都会に執着してきたわたしが「アメリカの西海岸」よりもはるかに「自然にめぐまれ」、「健康的」だと思われているオーストラリアなんかに行くのかという驚きの反応がかえってきた。
たしかに百科辞典をみると、「オーストラリア」の項には、「砂漠と牧場の国……農牧業がさかんで、『ヒツジの背に乗る国』と形容されるように、羊毛は生産高・輸出商ともに世界一を誇る……」などと書いてあり、わたしもしばらくまえまでは、オーストラリアを「カンガルーや羊の国」だと思っていた。むろん都市はあるにはちがいないが、新興の都市に象徴されるような、路上に塵ひとつ落ちていない人工的な都市で、そこにニューヨークのマンハッタンのような”うさんくささ”など求めることはどだいできないだろうと確信していた。それに、オーストラリアの都市というと、わたしはまずメルボルンをおもいうかべ、しかもそのメルボルンは、子供のときにはじめてオリンピックが開かれた都市でもあったことから、わたしは、メルボルンという名をきくと「スポーツ」や「運動選手」つまりは都市の”うさんくささ”とは正反対のものを想起してしまうのが常だった。
しかし、そんな思い込みは、三年ほどまえにやっとくずれはじめた。一九七九年三月に、ニューヨークのシアター・フォアで『ユロキューション・オブ・ベンジャミン』というホモセクシャルの主人公による一種の一人芝居が上演されたのだが、会場でもらったパンフレットによると、この作品は一九七六年にオーストラリアのシドニーにあるニムロッド・シアターで初演され、センセイションをまきおこしたという。舞台にいきなり全裸で登場するゴードン・チャーターは、ニムロッドの初演のときからの俳優で、ブロードウェイのこの公演のためにオーストラリアから招かれたのだった。また、原作者のスティーブ・J・スピーアズもオーストラリア人で、七〇年代のはじめ頃から戯曲を書きはじめ、アデレィド、メルボルン、シドニーなどの都市でその作品が注目されてきたという。
そんなことが詳細に書かれているパンフレットの人物紹介てわたしが関心をもったのは彼らの経歴ではなく、メルボルンやシドニーでも七〇年代の後半からかなり活発な演劇活動が行なわれているらしいという、オーストラリアについて無知だったわたしにとっては意外な事実だった。シアター・フォアの舞台自体は、『ニューヨーク・タイムズ』や『ヴィレッジ・ボイス』にもとりあげられ、評判になったが、わたし白身は当時ニューヨークでみた舞台のうちでとくに傑出したものとは思わなかった。それよりも、むしろ演劇の興隆と都市の活気との関係を調べていた当時のわたしには、メルボルンのプラム・ファクトリー、シドニーのニムロッドといった小劇場の興隆のニュースが興味をひき、それがメルボルン、シドニーという都市そのものへの関心にわたしを導いたのである。
それから数ヶ月たった頃、ラディカル社会学の雑誌をみていて、シドニーのフィラル・バブリケイジョンズという小出版社から”ワーキング・ペイパーズ・コレクジョンズ”という双書が発行されており、そのなかに『ミッシェル・フーコー 権力、真理、戦略』とか、ウンベルト・エコー、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリらの論文、M・モリスによる「ユーロコミニズム対記号学的”非行”」という論文を含む『言語、性、破壊』といった本が入っていることを知った。これは、続局、ニューヨークで手に入れることはできなかったのだが、オーストラリアにもわれわれと同じような方向でものを考え活動している人たちがいるのだなということを認識するきっかけを与えた。
一九八○年にニューヨークから帰ってきて、もう一つ、オーストラリアを再認識する機会があった。それは、ロジャー・パルバース『ウラシマ・タロゥの死』(新潮社)という小説の「訳者あとがき」のなかで訳者の越智道雄氏が次のように書いているのを読んだときである。「……英語圏の辺境国家、オーストラリアは、カナダと同じく現在文芸興隆期にあり、特に演劇部門の活動がめざましい……」。これは、作者パルバース氏の経歴を紹介したくだりなのだが、わたしには、いまわたしが傍点を付した部分だけがとくに浮きあがってみえたのだった。
一般的に言って、都市の興隆と文化活動の活発さとは不即不離の関係にあり、文芸が興隆し、演劇活動がめざましい都市でおもしろくない都市というのはないと言ってよいだろう。とくに演劇はそうした都市の活気の重要なインデックスである。だとすれば、メルボルンやシドニーはいまどういう状態にあるのか、というよりも、メルボルンやシドニーという都市はどのような都市文化をもっているのか、そんな問いがいちどにわたしのなかにわきおこってきた。
不遜にも、わたしはそれまでこれらの都市のちゃんとした地図をみたことがなかった。ましてメルボルン市、シドニー市の詳細な市街地図など関心外であった。そこで早速地図を手に入れたわけだが、意外なことに、メルボルンもシドニーも市の中心地はどちらも格子状の街路を形成しており、地図からだけ判断すると、とくにメルボルンはかなりマンハッタン的な要素をもっているのである。わたしはマンハッタンの格子状の街路について、その合理主義的な形態とそこでの生活の非合理性(演劇性ないしは意外性)とのパラドキシカルな関係に関心をもってきたのだが、これならば、ひょっとして同じような現象をメルボルンとシドニーに見出すことができるかもしれない。とくにメルボルンのヤラ河の南側は、街路が完全に直線上で、マンハッタンのように細いストリートが格子状をなしており、そうした大小の街路のひとつひとつが多様なニュアンスをもっているのではないか?
さて、こうした思い入れを保持したまま実際にメルボルンの地を踏んだのは一九八二年の二月になってからだった。その間、この思い入れを壊わしたくないという無意識がはたらいたためか、あるいは、日本で入手できる資料が極度に限られていたせいか、とにかくメルボルンやシドニーの都市については時々地図をにらんで空想にふける以上の予備調査は何もやらなかった。そのかわり、自分の空想力がまだ見ぬ街をどの程度表象できるのかをためしてみるために、隔月で書いているある雑誌のコラムで、フィクショナルな”メルボルン通信”を試みてみた。空想と現実との差をくらべるのもおもしろいので以下に全サを引用してみる。
ニューヨーク、ロンドン、トロントと、英語を語す人々のいる大都市をながめてきて今度は南半球のメルボルンにやってきた。オーストラリアというと、一般にカンガルーや大自然を想像しがちだが、オーストラリアにも都市はあるのであり、近年——とりわけメルボルンでは——都市文化が興隆しはじめ、実験演劇などの分野でもめざましい動きがある。日本でも、『ウラシマ・タロゥの死』で知られているロジャー・パルバースは、社会派の演出家として知られ、三月にはサム・シェッパードの『埋められた子供』と『飢える階級の呪い』をプレイボックス・シアターで演出するが、彼もメルボルンの都市文化に新風を注ぎこんでいる芸術家の一人である。
都市文化というと、わたしはどうしてもニューヨークを規準にしてしまい、未知の都市へ行ってニューヨーク的なものがみつからないとすぐがっかりする悪癖に染まっているのだが、メルボルンに来ることになってから、この悪癖と偏見を極力捨て去ろうと努めた。メルボルンは、ニューヨークとは全く異質の都市なのだということを自分に言いきかせようとしたが、小林信彦氏が『つむじ曲りの世界地図』(角川書店)で書いている”ド・セルビイ方式”によってメルボルン市内の雰囲気を表象してゆくうち、メルボルンにニューヨーク的なものを求めるのも、それほど無茶なことではないという気がしてきた。”ド・セルビイ方式”というのは、フランツ・オブライエンの『第三の警官』の登場人物の名前に由来するが、小林信彦氏によると「このド・セルピイ氏のおこなう旅行方法は風変りなもので、パスからフォークストンに旅するに際して、その路線の沿線風景を描いた絵葉書を買い込み、それを持ってバスにある旅館の一室に入ってしまった」という。
地図でみるとメルボルンも、ニューヨークやサンフランシスコのように、首都圏は格子状になっており、大通りでかこまれたブロックのなかに大小の街路が幾何学状に交叉し、マンハッタンを俳何するときのいわばラグ・タイム的なリズムでの遊歩(フラナリ)を可能にするようにみえた。しかし、実際に、ロンズデール・ストリートやスワンストン.ストリ−トにはじめて踏み入れてみると、たしかにストリートの区画は幾何学状で、建物も古く、マンハッタンの下町に似たようなところもないではないが、全般的な雰囲気は、むしろサンフランシスコ的であり、その清潔で安全なたたずまいには、アメリカよりもヨーロッパの地方都市のそれに近いところがある。とにかく、そこにはニューヨーク的介”汚れ”や”うさんくささ”は微塵もみられなかった。市電のボディはあざやかな緑色で、落書はおろか、キズひとつないかのようだ。行きかう人々の身なりも清潔で、平均してニューヨーカーより大柄で健康そうな人たちが、すまして闇歩している。ピツァ池アイスクリームを食いながら歩いている者はなく、まして薬や酒に酔ったバムやショッピング・パヅグ・レディの姿はみられない。
これは深刻な問題だ。わたしは、演劇的・意識的パフォーマンスと日常的・無意識的パフォーマンスとの接点を都市に求めようとしている。マンハッタンは、こうした接点をとらえるのが比較的楽な都市だった。劇場のなかで行なわれているのと同質のパフォーマンスが路上や日常空間のなかでも行なわれており、そのため、次元の異なる二つのパフォーマンスを対照させ交錯させることによって都市文化のダイナミズムに接近することができた。ところが、メルボルンではそんなやり方が通用しそうにない。ここでけ街路で行なわれる日常的なパフォーマンスと劇場のなかで行なわれる演劇的なパォーマンスとのあいだには大きな断絶があり、両者は決して相補的な関係をなしてはいならしいのである。
とはいえ、エグジビジョン・ストリートのノァーズ・ホテルのそばのリトル・パークという少し細い通りにそったチャイナタウンに入ると、さすがにいままでとは雰囲気が異なり、先程感じられた断絶が少し緩和されるような気がした。しかし、ニューヨしのチャイナタウンにくらべれば、それは洗練されすぎており、その街路や商店で出会う中国人たちの日常的身ぶりは、すでに一般的・予定調和的な”演技”に同化してしまっていて、即興や意外性の——つまりはその語の本来の意味におけるバフォーマンスーの要素が入りこむ余地が感じられない。
このことは、エグジビション・ビルディングの西側にあるラィゴン・ストリートぞいのカールトン地区のイタリア人街についても言える。以前、メルボルンの写真集をみていたら、このあたりにあるイタリア人経営のコーヒー店の写真があり、その店の、ガラス窓に、「当店はブロークンなよい英語を話します」というはり紙がしてあった。それがひじょうにfolksy(庶民的)な感じがし、メルボルンに着いたらまず最初にこのイタリア人街に来てみたいと思ったのだったが、実際に来てみると、ここも、わたしにはキレイすぎた。ニューヨークのリトル・イタリーも、観光客相手の職業的な目的から”イタリア的雰囲気”を人工的に残そうとしている一面がないではないが、それでもスコセッシが映画『ミーン・ストリート』(まさに『うさんくさい街』)で演劇化・意識化したような”うさんくさい”側面は依然として残っている。従ってそこを俳個することによって日常性をパフォーマンスとして体験することがまだ可能なのだが、カールトンにはもけやそのような可能性は残っていないような気がする。
どうも話はまずい方向に進んでいる。旅行の準備の一つとして”ド・セルビィ方式”でまだ見ぬ土地を表象したあげく、そこへ行く気を失うというのでは邪道ではないか。が、わずかの救いは、ニューヨークにくらべるとメルボルンを”ド・セルビイ主義”的に表象する資料をわたしはごくわずかしかもっておらず、オーストラリア大使館の図書館にも政府観光局にもろくな資料がないということだ。想像力の向こう側に”うさんくさい”メルボルンが待ちかまえている可能性はまだ弊えたわけではない。
いま読んでみると、ある点ではわたしの想像力もまんざらでもないという感じもするがどんなものか? 二三ぺージ以下の実際の印象と比較してみてほしい。
さて、自分のやったこととはいえ、人間の行動には意識的・無意識的なさまざまな要因が重層的にからんでいるので、一つだけ理由をあげるなどということはできないのだが、オーストラリアの都市研究旅行に際し、その予備調査をこのように怠ったのは、はじめてニューヨークベ行くことになったとき、マンハッタンの職業電話帖まで、買いこんで、食事をしに行く店の詳細なリストまで作製したりしたが、そんな机上の苦労は実際のマンハッタンとわたしとの直接的な出会いのなかで全くとはいわぬまでも大して意味をもたなくなってしまい、旅行に関してはある種の”ぶっつけ本番”の方がよいと思う体験があったからかもしれない。いずれにしても、怠慢のおかげでわたしは、思ったより小さなメルボルン国際空港から問題の市街地に入りこむまで、メルボルンをマンハッタンの延長線上で考える憶念を保持できた——さもなければわたしは、依然快癒していない”ニューヨーク・パラノイア症”のために、すぐオーストラリアヘの関心を失い、このオーストラリア旅行は実現しなかったかもしれない。
体験には何らかのパフォーマンス的要素がなければつまらない。このごろは、旅行ガイドに空港の詳しい案内図や説明がのっているので、現地に到着する以前から、そこで起こることの予想がついてしまう。しかし、そうは言ってもガイド・ブックではつくせない部分はいくらでもあるわけで、徹底的にプログラム化されているはずの空港事務や機内生活も、その内容はパフォーマンスの要素でみちている。メルボルン行きの機内で隣あわせた韓国の青年から、日本の都会には信号が青になるとただちに動き出す移動ベルトがあるそうだねとたずねられたのも、ひとつのパフォーマンス的体験だった。わたしの知るかぎわ日本の道路管理はそこまではエスカレイトしてはおらず、そのかわり、心理的管理は相当すすんでいて、われわれは別に移動ベルトがなくても信号が赤になると立ちどまり、青になると機械仕掛のようにいっせいに道路をわたるようにならされている。この青年は、日本に行ったことのある友人から語をきいたのだそうだが、皮肉なジョークでないとすれぱその友人は、デパートの屋上かどこかから地上の横断歩道をながめて、そのオートマティックな人の動きに、きっと地上に移動ベルトでも仕掛けられているにちがいないと思ったのだろう。それにしても、このエピソードは、今日の日本の虚像と実像をよくあらわしている。
メルボルン空港に着いてまたひとつパフォーマンスに出会った。飛行機をおりると乗客は全員、係官から手荷物を細長い台のうえにおかされた。みるとその係官は大きな犬をひきつれており、その犬は、首ねっこを太いひもでゆわえられているのだが、いまにも係官の手をはなれてとびかかってきそうな勢いだ。
荷物が一列にならぷと係官はたづなをゆるめ、犬は狂ったように荷物を片はしからかぎはじめる。二度三度くりかえして、ついに荷物のあいだから新聞紙でくるんだ、筒のようなものをくわえ出し、それを猛烈に痛めつける。係官はあわててそれをおしとどめようとするが犬はきかず、紙をひきちぎり、その筒をめちゃめちゃにする。何だろう? 美術品か? そのあいだにマリファナでも隠されていたのか? それとも犬に失望を与えないための囮か? 犬と係官は依然もみあっているのでわれわれは荷物をもって入国審査の窓口に向かったのだが、えらいところへ来たという印象をぬぐえなかった。
外国旅行をする場合、ホテルを予約しておくのが常識だと普通の旅行案内には書いてあるが、わたしはそんなことをしたことがない。というよりも、わたしがこれまでに泊ったホテルは、ちゃんと予約しておいても先客があれば予約を反古にしてしまうとか、国外からの予約など受けっけないといったたぐいの安宿で、いきなりとびこんで「空部屋はあるかい?」とたずねるしかないのである。わたしが飛びこんだホテルは、空港で知りあった実に親切な中国人の青年が教えてくれた”ピーブルズ・パレス”というホテルで、一泊一九ドル(朝食を含む)でバス付の部屋があいていた。日本円で四~五千円というところだが、同価格のニューヨークのホテルの部屋にくらべると、はるかに清潔で、地心地がよい。
しかし、都市文化しかもその街路文化を調べるための”拠点”としては、このホテルは適当でないことがすぐわかった。大体、まず、客層がよすぎる。廊下ですれちがう男女は、その風体から判断して、国内の旅行者らしく、ヒルトンとかホリデー・インといったところに泊ってバカ金を使わずに市内見物をしようという堅実なバカンス旅行を楽しんでいるたぐいの人たちなのだろう。それに、そんな堅実そうな連中のわりには気取っていて、ここに三日ほど泊っていたある朝、食道で席につこうとテーブルのあいだを歩いていたら、英国人風のアクセントの婦人が、「このお茶、ミルクの入らないのととりかえてくださらない?」と問いかけてきた。東洋人は、ウエイターとわたしだけだったので、わたしをウエイターの一人とまちがえたのだった。わたしのシャツの色とウエイター氏のそれとが同系統だったのもわざわいしたのかもしれない。時には日本人の泊まり客の方が多いこのごろの外国の高級ホテルでは決して起こりえぬエピソードである。このホテルに泊ったのは、飛行機旅行の疲れをいやしたのち、定住するための——望むべくは"安宿"よりもさらに安くて庶民的な——”ドヤ”をさがしたり、その他の必要な手配をしたりするためだったので、そこで過すのは夜から朝までのあいだにすぎなかった。
街路文化を観察するのに最適の定住先をさがすには、とにかく歩きまわらなければならない。乗ってきた飛行機は、タイペイ、ホンコン、シンガポールにとまり、そのつど飛行機から下ろされるので、約二十四時間まんじりともせずにホテルにたどりっいたのだが、シャワーをあびると元気が出てきて、街へ出たくなったので、バーク・ストリートを北へ向かって歩くことにした。マンハッタンにくらべると、やはりはるかに人が少なく、エリザベス、スワンストンといったメイン・ストリートとの交差点には人のにぎわいがあるが、あまり活気がない。活気があるのはむしろ車や市電の方で、ここでは東京と同じように人より車の方が優先されているらしい。だから、赤信号の横断歩道を渡るには、東京ほどではないが、よほどの注意がいる。東京のように車の運転者から罵声をあびせかけられるようなことはないし、けっこう信号無視の歩行者もいるが、全体としては、歩行者が機械に従属している印象が強いのだ。
しかし、そうはいっても、ここにも街の人(ストリート・フォーク)が演ずる街路劇はある。バーク・ストリートをエリザベス・ストリートのところまできたとき、新聞売りのおやじに出会った。彼はオーバーオールからふとった腹をつき出し、東京でよくきく八百屋の売声のような抑揚で新聞の名を叫んでいる。郵便局でアェログラムと切手を買いたかったのでこのおやじにたずねると、「すぐ向かい側ですよ、だんな」という答えがかえってきた。その声と身ぶりには、子供のときからずっと路上で生活し、学んできたかのような街のダイナミズムにあふれていた。
一九世紀の古色蒼然とした中央郵便局のロビーのデスクで手紙を書いていると、すぐ向かい側に大柄の白人男がやってきて手紙を書きはじめた。ところが彼は、一字一句、声を出しながら書いており、その声の抑揚が内容とともに激しく変わるのである。どうやらその手紙は、久しく会っていない友人に宛てられているらしく、「君たち家族のことを思うとわたしはこのあまりに遠い距離を・・・・」というくだりではいまにも泣き出しそうな声になったので、わたしはとっさにその人の顔をみてしまった。が、その人の顔は、その声とはうらはらに、詩の一節でも読んでいるようにひどくさめきっていて、逆にわたしはじろりとにらまれてしまった。別に芝居をしている気はないのだろうが、やはりこういう人物は、街路文化をになうストーリート・フォークの一人にちがいない。
ラッセル・ストリートに入ってまっすぐゆけばライゴン・ストリートに行けることはわかっていたが、途中の路地がおもしろそうなので、寄道をしているうちに方向感覚を失ない、大分まわり道をしてライゴン・ストリートに入ったのは、ホテルを出てから三時間以上たってからだった。ずっと歩きっぱなしだったのと、睡眠不足とで、少しフラフラする。ライゴン・ストリートというのは、もともとイタリア人の居住区で——やがてわたしが知ったところによると——一九七〇年代にはこのあたりのコーヒー店やレストランがメルボルンの造反文化の拠点になり、政治演劇や実験演劇のための小劇場やミニ・コミの運動誌をずらりとならべた本屋なども、活況を呈した。しかし、そういった”うさんくささ”はもう三年ぐらいまえで終わりをつげたらしく、いまではいわゆる”ジェントリフィケイション”のにおいを紛々とさせた小ぎれいな広々がたちならんでいる。かつては、”かたぎ”の人たちは決して近づかなかったこの通りの裏手のあたりも、家々の壁には新しいペンキがぬられ、スラムの雰囲気はない。七〇年代の後半にこの一画でスリー・トリプル・R(3RRR)という自主管理放送局が出来た頃には、付近のスラム住民たちがその小放送局に自由にやってきて、飛び入りの放送をやったりしたこともあったそうだが、いまではそんなおもかげはどこにもなく、この放送局も、別の、もっと地価の高い地区に移ってしまった。とはいえ、このライゴン・ストリートを中心としたカールトン地区には、よくみるとまだまだ”カウンター・カルチャー”の雰囲気がメルボルンで一番よく残っている。
かつてその名をはせたコーヒー店タマニズは、ティアモと名をかえたものの、むかしから定評のあったおいしいイタリアン・コーヒー(カプチーノとエスプレッソ)とアップルパイ、壁にベタベタはられたミニコミの情報(「フラットあり、ただしレズに限る・・・」「電気掃除機を売りたし。性能良好・・・」といったたぐいのもの)は健在である。また、リーディングスという名の本屋も、”うさんくささ”は全然なくなってしまったとはいえ、フェミニズム運動、エコロジー運動などの書物、小雑誌、新聞類をよくそろえているので、若者たちがよく集っている。
しかしながら、この地区には、丁度マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジやソホーのように、毎日都市観光ツアーのパスが訪れ、かつては近くのメルボルン大学の学生や芸術家や活動家が主な客だったイタリアン・レストラン、ビツァ屋も、いまではそうした観光客の落す金でうるおい、店自体も”高級化”してしまったことは否めない。
ニューヨークの場合、マンハッタンにおいてもブルックリンにおいても、そのもっともファッショナブルな部分はだいたい次のようなパターンで変化してきたといえる。まず、スラムや非居住地区(工場や倉庫地帯)に画家、小説家、詩人、演劇関係者、政治活動家、薬物旅行愛好家(?)などのいわゆるボヘミアンたちが住みっく。街の雰囲気が変わりはじめ、ヨーロッパや東洋の要素が無秩序にいりまじった飲食店や本屋、クラブができ、それらがボヘミアンたちのたむろする場所となる。そうしたスポットで詩の朗読、寸劇、展覧会、演奏会などが行なわれ、新しい文化の拠点になりはじめる。それまでそこをうさんくさい場所として敬遠していた一般人も、しだいに新たな関心を示し、好奇心からそこを”探訪”してみる者、なかにはそこに住んでみたいと思う者も出てくる。地価や家賃はスラムの名ごりで、他にくらべればはるかに安いから、経済的に中流以上の階層に属する一般人にとって、そこに住むか住まないかは金の問題ではなく文化の問題だ。その間、ここで生まれた新しい文化はマス・メディアを通じて徐々に一般化し、一種のファッションとなり、一般人の服装やライフ・スタイルにも影響を与えはじめる。こうなると、流行好きのスノッブたちはわれこそはとばかりこの地帯におしよせ、それに応じて新しい店ができ、アパートや住居の争奪戦も激しくなり、地価や家賃はうなぎのぽりとなり、先住の貧民はもとより、ボヘミアンたちもそこを捨てて他へ移らざるをえなくなる。かくして、かってのスラムまたは非届住地区は、ボヘミアンの街からさらに一転して”ボヘミアン”気取りの中流層の住む優雅な街となるわけである。
こうしたパターンは、グリニッジ・ヴィレッジやソホーに典型的な例を見い出すことができるが、貧民、移民、労働者階級たちのスラムー↓ボヘミアン都市1↓”ディザイアブル・エリア”という変化のパターンは、程度の差はあれ、アメリカの都市の内部だけでなく高度産業社会のあらゆる都市のなかでも見い出される。メルボルンのあとで訪れることになるシドニーのバーマインは、一九六〇年代から七〇年代にかけてスラムからオーストラリアン・カウンター・カルチャーの二大拠点となり、とりわけバーマインは、オーストラリアの”ソル・ユーリック”(『ザ・ウォリアズ』や『リチャード・A』の作者)とも言うべきフランク・モアハウスがその魅力的な短篇やエッセイのなかで描き、そこでの諸事作を『酒と怒りの日々』(一九八○年、ペンギン・プヅクス)としてドキュメントしているように、今日のオーストラリアの都市の文化とライフ・スタイルを方向づけるセンターとなったが、今日ではボヘミアンライフを制度化したレストラン、コーヒー・シヨヅプ、自然食品店がたちならぷ、金なきボヘミアンには住みにくい中・高級住宅地となっている。
いったんこうしたパターンができてしまうと、最初のプロセスを省略した簡易なパターンもあらわれるもので、たとえばメルボルンのフィツロイ、プラーラン、シドニーのウールムールー、グレーべなどの地区では、ボヘミアンの居住カウンター・カルチャーの形成というプロセスをとびこして、いきなりスラムや労働者階級の(多くは一九世紀に建てられた)住居を不動産業者が買いあげて手入れをし、中・上流階級の”ディザイアブル”な住まいとして売りに出す”ジェントリフィケイション”が進行している。
その意味では、スラムやかつての非居住民区は、”ディザイアブル・エリア”の原料としていまや得がたい存在であり、今日のスラムは明日の”ディザイアブル・ユリア”というわけだが、しかしこうした傾向は、けっして自然発生的に生じたものではなく、『売りものとしての都市』(一九七七年、メルボルン大学出版)の著者レオニー・サンダーロックもいっているように、スラムを破壊して新しい都市をつくろうとする一九五〇年代にはアメリカでもオースラトリアでも一般的だった都市改造に反抗して、まさにスラムの破壊に抵抗するために移り住む活動家やボヘミアンたちの動きによって発動された面もあることを看過することはできない。ただし、そうした動きは、すでにみたようにひじょうにたくみなやり方で消去されてしまったのであって、権力はスラムを暴力的に破壊しないかわりに、スラムに生じた一次的な反権力を新しい権力の一部として吸収することに成功するのである。
この点でひじょうに対照的だと思ったのは、オーストラリアからの帰路、ほんの数日、歩きまわったシンガポールのベンクーレン、ロショール、ジョーレといった地区で急速に進められている都市改造だ。キャノピーのある古い建物、物売りや乞食たちのいる広場、通路であり野外のサロンでもあるその語の本来的な意味における民衆点な路地、戸口の奥には疲れた売春婦たちの姿がみえる家々がたちならび、あやしげな見せ物や賭博でにぎわう路地1こうした歴史的な”街路劇場”は、一、二年のうちには確実にパワーシャベルの餌食となって消え去る運命にあるのである。すでに更地となった所でふと、そこにそびえる建設用の塔をみたら、そこには日本の有名な建設会社のマークがあった。
一歩前進二歩後退といった歩き方でライゴン・ストリートを北上していったらエルジン・ストリートの角で市電の姿がみえた。この角が丁度”カールトン地区”の境界で、その先にはほとんど商店はない。疲れも極限に達してきたので、そこからドラムに乗ることにした。どこ行きのドラムが来るのかはわからないが、市の中心街に行くことはまちがいなさそうだ。ホテルヘ帰ってねむり、明日から”ドヤ”さがしをしよう。カールトン地区に”ドヤ”を求めることは無理そうだ。いまやこの地区は、芸術家気取りないしはボヘミアン気取りでいたい金持たちが住み、週末にちょっとくだけたかっこうをして食事をしたり、遊歩道カフェーのいまや人工的なカウンター・カルチャーの雰囲気のなかで友人とのおしゃべりを楽しむようなところになりつつあるからである。
が、やってきたドラムは、またしてもわたしの不眠不休を延長することになったのは何とも皮肉だった。というのは、そのドラムの行き先は、セント・キルダ・ビーチで、そここそわたしが今度のメルボルン訪間で最も期待をよせていた場所だったからだ。ここに来るしばらくまえに東京でたまたまロジャー・パルバース氏に会ったとき、わたしは彼に、メルボルンで一番”うさんくさく”、”フォークシー”(庶民的)な所はどこだろうとしつっこくたずねた。彼は、「やっぱりセント・キルタでしょうね」と言い、「でも、貧しい移民の人が多く住んでいて、夜は危険ですよ」とっけくわえた。その後、機会あるごとに、メルボルンを知っているオーストラリア人に同じ質問をしつづけたが、同じような答がかえってきた。セント・キルダは、売春、犯罪、ナイトライフの街であり、昼夜ふくめてストリート・カルチャーらしきものがみられるのはここしかないだろう、その他の地域ではカールトン、ノース・メルボルン、フィツロイ、プラーランが比較的”フォークシー”だと言えるが、そういうところのストリート・カルチャーは、普通の人が散歩しているとか、買物しているとかいったようなありきたりで”平穏無事”なもので、わたしの求めている”街路劇”としてのストリート・カルチャーを見出すのはむずかしいだろうというのである。
カールトンからセント・キルダまでは、10Kmぐらいあり、トラムで三十分ほどかかる。車中、座席に腰を下ろすと、さすがにねむけがおそってきて、はじめてみる車外の光景に見入りながらも、急に意識を失ったように頭部が前やうしろにガタリとかたむいてしまうのだったが、トラムが市の格子状の中心街をぬけ、ヤラ河にかかるプリンセス・ブリッジをわたりはじめると、「こりゃヤバパイんじゃないか!」という気持におそわれて急にねむ気からさめた。というのは、ヤラ河を越えてしばらくセント・キルダ・ロードを進むと、あたりにはひどく閑散としてき、およそ人通りの少ない道路に、よく手入れのゆきとどいた住宅が相当な間をおいてならんでいるのである。はたしてこんな”優雅”な環境の向こう側に、”うさんくさい”街が急に姿を現わすなどということがあるのだろうか?
しかし、セント.キルタ・ロードをしばらく行って、フィツロイ・ストリート(先述の”フィツロイ”地区とは無関係)に入ると、先方に商店やアーケードがみえてきた。ナイト・クラフのような建物、ビツァ屋、コインニフンドリーもある。コインランドリーは、ニューヨークでも、庶民的な街の指標である。裕福な人たちは、アパートに住んでいるにせよ二戸だてに住んでいるにせよ、大抵、地下室に洗濯の設備をそなえていて、街のコインランドリーの世話になる必要がないからである。アィスクリーム・ショップやゲームセンターもある。一瞬、古い個人の屋敷のような建物の壁に「プライベート・ホテル」(一種の民宿)という文字がみえ、名前を確かめようとしているうちに今度は海がみえてきた。もうここは、メルボルンの南端で、海の向こうは南極なのである。”うさんくさい”街が市の一番周辺部におしやられているなんて、中心・周縁理論の山口昌男氏が喜びそうな語ではないか。が、海がみえたのはつかの間で、今度は右手にばかでかい劇場と、口をあけた女の顔が入口になっている滑稽とグロテスクのいりまじったような巨大な建物(それは後楽園のようなレジャーセンターだった)がみえ、それからドラムは、先程よりももっと商店やレストランなどの密集する通りに入り、いきなりストップした。乗客は二、三人になっていたが、彼らが下りはじめ、運転乎と車掌もドラムから出てゆこうとしているのでわたしも下りる。とにかく、ここが終点であることはまちがいなさそうだった。
セント・キルダにひっこすまでには、それから二日かかった。最初の日にトラムを下りてあたりをさんざん歩きまわったあと、格好の”ドヤ”をみつけたのだが、ここは都心から離れすぎており、繁華街における都市文化の観察というわたしの当初の目的にはややはずれそうな気がし、それから二日間、ノース・メルボルンやフィツロイ、ブランズヴィックのあたりまで足をのばし、スラム的な雰囲気のある街路をさがしまわっていたのである。意外だったのは、セント・キルダを除くと、メルボルンの市街地−とくに街路が格子状になっている中心街は、六時頃には人通りが絶え、色とりどりのショウウインドウの店だけが白々しくならんでいるノーマンズランドになってしまうということだった。むろん、夜まで開いてる店はあるし、劇場もあるのだが、単文化が依然として根づよいためか、街路は目的地へ行くための単なる通路でしかないのである。その後の放浪で、かなり”街路劇場”的な街路や地域をいくつかみつけることができたが、全体として街路は劇的ではないという印象をおぼえた。
その意味で、実際のメルボルンの街の雰囲気が以前に”ド・セルビイ方式”によって予想してみたもの(十三ページ以下参照)とほとんど同じに知覚されるということかに驚き、あんなことをしたことがかえって自己暗示になっているのではないかといぷかりながらも、路上にゴミの落ちていない清潔な街、人々のきちんとした身なり、乞食たちの不在Iーソうさんくささ”の欠如したこのような側面ばかりが目についてひどくニューヨークをなっかしんだものだ。
しかし、冷蔵庫(旧式だが)付の八帖あまりの部屋で週三〇ドルという驚くべき価格のプライベート・ホテルに身を落着け、例によってあたりをせっせとさまよい、このホテルの住人たちと知りあううちに、メルボルンの”街路文化”のありかがだんだんわかってきた。身体というものは、環境に順応するのにある一定の時間が必要なようで、身体が街になじみ、足が街のリズムを自然に識別できるようになると、いままで知覚できなかったものが知覚されるようになる。マンハッタンと建築構造的に似かよっている——たとえば——九世紀の建物が残っており、道路が格子状になっているーが、マンハッタンよりはるかに”健康”な街であるメルボルンにもホームレス・ピープルがころがりこむ”ドヤ”があるし、そこにはわたしが『ニューヨーク街路劇場』(北斗出版)で描いたマンハッタンのルーミング・ハウスと大差のない不潔さと悲惨さがある。
わたしが最終的に落着いたセント・キルダは、オフィス街から四キロほどはなれたところにあるが、ここにはホームレス・ピープルが住んでいるプライベート・ホテルやフラットがいくつもある。ここの住人で定職のある者はほとんどおらず、大半が社会保障とパートタイムの仕事で生活している。共同のトイレ(兼浴室)にこの人が入るとなぜか犬くさいにおいが充満してしまうその老人は、廊下で顔をあわせると、「ちょっとプリンス・オブ・ウェールズヘ行くんだよ」と言うのが口ぐせだ。プリンス・オプ・ウェールズというのは、このホテルの向かい側にある大きなパブで、そこへ行けば朝から夜の十時までいつでも酒がのめるのである。また、パブの裏手には同経営の酒屋があるから、ピールやワインを買ってくるにも便利だ。ここで部屋代と引きかえに掃除をやっている——ちょっとディズニー映画の魔女のような顔をした——女性も、午前中に一時間も仕事をしたかと思うとプリンス・オブ・ウェールズに出かけてゆく。まあ、彼や彼女らは一種のアル中なのだろうが、わたしの部屋の一つ隣りの部屋にいる十八歳ぐらいの青年は、いつも一日中と思えるくらいーマリワナかハッシシか、何かそのたぐいのものをやっているらしく、廊下にまでそのにおいがただよい、彼がトイレに行くのに部屋から出てくるのをみると全くの夢遊病者の体だ。この青年のとなりの部屋には、十四、五歳の少女が住んでいて、彼女のところにはいつもパンク・ロック・スタイルの青少年があつまり、ロックのレコードかラジオをかけてさわいでいる。マネージャーの語では、彼や彼女らは、オーストラリアでいま一番深刻な問題の一つになっている家出少年・少女たちの典型で、たまの週末にパフのロック・コンサートでウザをはらす以外は、毎日を大体こんな調子ですごすのだという。
おもしろいことは、ニューヨークではこの種の”ドヤ”に住んでいるのは圧倒的に老人が多いのに対して、ここには家を飛び出してきた十代後半の少年・少女がかなりいることだ。彼や彼女らは、昼間はゲームセンターや路上にたむろし、夜になるとロック・ミュージックの実演を行なうパプーーホテル(こちらでは”ホテル”といえばまずバブを指す。パブにはいくつも部屋があり、その一部が演奏の場になる)に集まり、そこで強烈な音響のなかにわが身をさらしてつかの間の解放感を享受するのである。
その意味では、メルボルンでは劇場やカフェなどよりもパフの方がはるかに祉会的連帯の場であり、そのパブには”高級”から”うさんくさい”ものにいたるまでさまざまな段階があるが、とりわけこうしたホームレスの青少年が集まるパフで演奏されるロックは、演劇などよりもずっと刺激的で自己表現としてのリアリティがある。
こうした彼や彼女らの生活ぶりをみていてわたしはバブの重要性を考えないわけにはゆかなくなった。たしかにメルボルンの街路は”劇"に乏しいようにみえる。そして、屋内つまり通常の意味の劇場での劇も、マンハッタンのそれにくらべればまだまだ活気にとぼしい。それに、わたしが求めている”劇”は、人々が偶然出会うことのなかで起こるパフォーマンスであって、そのためにはその”劇場”は、誰でもが自由に(入場料なしに)入り、人と出会えるようなところでなければならない。とすると、メルボルンで街路が、不幸にしてそのような要素をもっていないとすると、屋内がそのような機能をもつしかないわけだが……なるほど、そうか! パブは、屋内空間だが、入っていって酒をのまずにいることもできるような一種の”街路”ではないか! かつてワルター・ベンヤミンは、パリを室内にみたてたが、メルボルンではこの着想を逆転し、室内を街路にみたてなければならないわけだ。パフを街路の延長線上でとらえ、その”街路劇”をみたいがために、毎日パブ通いをはじめたのは、それから間もなくのことだった。
街をうろつきパブに集まるこうした青少年たちは、一時期ファッションにもなったパンクないしはポスト・パンクのかっこうをしているが、わがホテル(これはパブではなく”ドヤ”)にもいる彼や彼女らの日常の生態を観察し言葉をかわしてみると、パンクのかっこうというものは、少なくとも彼や彼女らにとってはただのファッションではないことがわかる。それは、男はきちんと背広を着、ネクタイをしめ、女は女らしいかっこうをし、念入りに化粧をするといったエスタブリッシメントの美学に対する悪意ある批判的な衣裳なのである。いわば、エスタブリッシメントの連中が背広やドレスを着ているのなら、自分たちもそれを着、ただしそれを裏がえして着ること、ユスタプリッシメントの連中が髪を入念に手入れしているのなら、ヒッピーのように単にそれを放置するのではなく、どぎつく人工的にヵヅトすること、普通の女たちが”女らしさ”を強調するために念入りなメイカヅプをするのなら、そうした化粧そのものを異化するようなあくどい化粧を念入りに行なうことiこれが彼や彼女の美学なのだ。そのかぎりでは、現代の文化史は、ヒッピー文化の次にパンク文化という一項をもうけなければなるまい。少なくとも、メルボルンではパンク文化が一時の流行ではなく、社会の危機的表徴として存在していると言うことができる。
しかし、こうした若者の反抗や自己表現がエスタプリッシメントな社会にはほとんど反映されず、孤立させられてしまうのが、メルボルンさらにはオーストラリア全般の都市社会の特性である気もする。
それは、オーストラリアが広大な土地にめぐまれ、またガソリンの八○パーセントを自給できるため車の将来に対する危機感がそれほど強くなく、人々は依然郊外に住むことを好み、都市が人々に親和的なネットワークを提供する場になっていないことにも原因があろう。郊外ではむろんのこと都心部でも空間的な孤立化は強いが、人々はそれを自由の代償とみなしている趣がある。つまり、すでにのべたようなプライベート・ホテルやパブの”うさんくささ”は、ある意味で、人々の孤立状態の危機的表現なのだが、多くの人々は、そういう”悪場所”と対決して自分を変えたりするよりも、そういうところから身をとおざけて住むことを好むのである。”うさんくさい”場所が出来れば、人々は郊外へ郊外へと逃げるだろうし、またそれが可能なのである。
セント・キルダは、メルボルン市内では最も”うさんくさい”場所とみなされており、「どこにお住みですか?」ときかれて、「セント・キルダです」と答えると、一様に人は「ほう!?」という顔をし、わたしの問題意識を知っている大学関係者ですら、「好きだねえ」といった表情をする。その際、このセント・キルダは、その一方が海に面したまさに市の最端にあり、まさしく市の”健全”な部分からは孤立させられているのが何とも象徴的だ、 とはいえ、こうした状況にも少しずつ変化のきざしが現われつつある。それは、以前には芸術家やもの好きしか住まなかった移民者たちの地区に、最近アッバー・ミドル・クラスの連中が好んで住むような傾向が出ていることである。しかし、この傾向は、同時に、”うさんくさい”場所からうさんくさい連中を追いはらい、その形骸だけを残すといった現象を生み出していることにも注意する必要がある。