目次
粉川哲夫の本
anarchyサイト
主体の転換/未来社/1978年
アカデミック・フールを越えて
??ハイデッカーとナチズム
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ハイデッガーに彼のナチズム加担(コミットメント)の問題をかなり卒直に問いただした『シュピーゲル』誌のインタヴユー(一九七六年第23号)が公開されたのに乗じて、内外のハイデゲリアンはまたしても心情一的なハイデッガー擁護論を展開しはじめた。だが、問題は、誰のために、いかなる現実との関連で、いかなる方向でハイデッガーを擁護するのかである。最近、文字通り「われハイデッガーを擁護す」(『みすず』、一九七六年7月号)というタイトルの一文を発表した渡辺二郎氏はその導入部分で次のように言っているが、ここにはこの種の擁護論に典型の楽天的な姿勢が現われているように思われる。
よく、口にのぼせられる疑問、それもたいていは、ハイデッガーの思想を深くは知らずまたとりたてて共感をもとうともしない人々の側から発せられる疑問、がある。なるほどかれは『存在と時間』を著わして今世紀の哲学連動の一方の旗頭にはなったが、一九三三年フライブルク大学総長に就任、ナチスと関係を結び、戦後はフランス占領軍から教職追放に処せられ、そうしたことと関連して、転回した後川哲学を開陳したあまり芳しからざるドイツ哲学者ではないのか、という疑惑が、それである。
こうした嫌疑は、日本人の一部にも拡がっているが、それよりもドイツ本国で相当に根強く、たとえばハイデッガーの良き理解者の一人であったレーヴイットの戦後の早い時期における或る種の著作さえもが、そうした傾向を助長するのに一役買ったほどである。或るドイツ人がわたしに語ったところでは、「戦後のドイツ人は、リルケかブレヒトのいずれかの愛好者で、哲学の上では、それがちょうど、ハイデッガーかフランクフルター・シューレのいずれかに与する」という恰好になるのだそうである。後者の側に好意を示す人々のうち単純な連中が、ハイデッガーに対し、いわれない嫌疑をいっそう誇張した形で投げかけたということは、大いにありそうなことである。しかしいったい、本当のところ、事情はどうなっているのであろうか。(強調は引用者)
こうして渡辺氏は、『シュピーゲル』誌のインタヴユー記事を器用に要約し、はぼハイデッガーの自己弁明をうのみにした形でハイデッガーを〃擁護〃してゆく。が、問題は、そもそもこのような形でハイデッガーを擁護することができるのかということだ。引用文で明言されているように、波辺氏は、ハイデッガーのナチズム問題を「本当のところ、事情はどうなっていろのであろうか」と問うことによってハイデッガーを擁護しようとする。しかし、その際求められている「本当の」「事情」とは、まさにベンヤミン流に言えば、〃歴史学的、つまり文献学的・心理学的〃なものであって、それはいわば、〃むかしフライブルクのハイデッガーという名前の人聞において、彼が世界を表象した事情としては実際いかなろものがあったのか〃と問うているにすぎず、この問いを問う基木的な姿勢は、ワルター・ベンヤミンがいみじくも「精神の惰性」にもとづくと言っているあの感情移入の方法なのである。むろんこれは『シュピーゲル』誌がこのインタヴユー記事をつくっている姿勢でもあるが、『シュピーゲル』誌のテロスがもともと言語の商品化にあるのに対して、渡辺氏の方は『シュピーゲルー』誌のこうした姿勢をなぞらえているにすぎないにもかかわらず、ハイデッガーを擁護できると思っている??あるいは擁護するかのような姿勢をとっているところに問題がある。今日の、つまり一九二〇年代以降の文化状況はそれほど単純ではないのではないか?
問題は言語にある。ヘルベルト・マルクーゼが鋭く指摘しているように、「祭式的?権威主義的言語は今日、民主主義的または非民主主義的な、資本主義的また非資本主義的な諸国を通じて全世界に拡がっている」(『一次元的人間』、河出書房新社)のであり、しかもこうした言語が今日の大なり小なり権威主義的な社会においてわれわれを統制し、操作する手段として機能するしかたは、決して「暴力的」なものではなく、「受け乎が語られたことを信じる、または信じさせられると考える保証はなにもないように思われる。むしろ、呪術的?祭式的言語の新しい特色は、人びとがそれを信じもしないし気にもしないにもかかわらず、それに応じた行動をとるところにある。操作的な概念の陳述をひとは〃信じ〃てはいない。ところが、仕事をしたり、売買したり、他人の言うことを聞かなかったり、等々の行助においてその陳述がおのずから正当化されてしまう」??というようなしたたかさをそなえているところに問題がある。
ところで、この問題は、一九三〇年代以峰のハイデッガーにとっても中心的な課題をなし、やがて彼は、今日の言語の状況の本貫を、「インフォメーション」という彼独特のディスクールによって言いあらわそうとした。
「インフォメーションとは、まず報道である。これは、現代人にその欲求、需要、需要の充足を確立することについてできるだけはやく、できるだけ包括的に、できるだけ明確に、でさるだけ効果的に報道する。これに対して、人間の言語を報道(インフォメーション)の手段とみなす考えがますます優位をしめてくる。というのも、言語を手段として規定することは、なによりもまず、思考機械を構築したり、大規模な計算装置を建設するために十分な根拠を与えるからである。が、インフォメーションは、イン・フォームする、つまり報逆することによって、それは同時に、フォームする、つまり内的・外的に組織するのだ。インフォメーションは、報道としてもすでに組織化であり、この組織化が人間、すべての対象、すべての存続するものをある一つのフォルムのなかへ、すなわち地球全体、さらにはこの惑星の外部をすら人間が支配することを保証するに足る一つのフォルムのなかへすえつけるのである。」(『根拠律』、一九五八年、ネスヶ出版、十五二ぺージ)
しかし、ハイデッガーによれば、こうした事態は今日の言語が一時的に陥っている錯誤ではなく、むしろ今日の文明を根深いところで規定している根木動向であり、しかもこの動向はナチズムにおいてはじめてその具体的な形態をとって現われた、とされる。レンツォ・デ・フェリーチェは「全体主義は現代大衆祉会の政治組織の典型的な形態の一つであるというテーゼの支持者たちの研究によって、〔・・・・〕ファシズム体制にとって技術的契機がいかに重要であったか、いや決定的であったかが、今日では明らかになっている。つまり、ファシズム体制が、同意を獲得するために(消極的同意でもよいが主として積極的支持を獲得するために)、きわめて現代的な技術的諸手段を駆使する可能性の、決定的重要性である。しかも、このような手段は、それ以前の専制諸体制にはまったく知られていなかった」(『ファシズム論』、平凡礼)と言っているが、ドイツ・ファシズムは科学技術(テクノロジー)とそれにともなう大衆社会の出現とによってはじめて可能にたるのであって、その逆ではないのである。
周知のように、歴史上はじめて〃宣伝〃という部門に省の資格を与えたナチは、宣伝の技術を最大限に駆使し、大衆操作に利用した。ヘルマン・ラウシュニングによると、ヒトラーはあるとき、「大集会では、思考は排除されるのだ」、「わたしが理性的思考をもって大火のとこ一。)へ行っても彼らはわたしを珊.鮒したい。しかし、わたしがそれ柵応の感情を大衆のなかに呼、び醒ませば、彼らはわたしが与える簡単なスローガンに従うのだ」(『ヒトラーとの対話』、学藝書林)と語ったと言わわれるが、あきらかにジョージ・スタイナーの言うように、「ナチズムは、言語というものがまさしく、みずからその蛮行を表現するのに欠かせぬものだと気づいていた。ヒトラーは、郷土の言葉のなかに潜在するヒステリー、混乱、催眠的陶酔を聴きつけていた」(『言語と沈黙』上、せりか書房)のである。
つまりドイツ・ファシズムは、のちにハイデッガーが近代的言語の根本動向を独特のディスクールで名付けた〃言語のイン・フォーム化〃、〃言語を内的・外的に組織すること〃を十分承知していたわけであり、その意味でナチズムとは、ハイデッガーのディスクールによれば、「惑星灼に規定された技術と近代人との山会い」(『形而上学入門』、一九五七年、クロスターマン出版、一五二ぺージ)、「技術的に組織された人間の惑星的帝国主義」(「世界像の時代」、『ホルツ・ヴェーゲ』、一九六二年、クロスターマン出版、一〇二ページ)、「西洋的・ヨーロッパ的思惟に基礎をもつ世界文明の開始」(「哲学の終末と思惟の課胆」、『思惟の事柄によせて』、一九六九年、マックスニーマイヤー出版、六五ページ)であった。従って、ナチズムにおいて一つの決定的な炎をあらわす〃言語の内的・外的組織化〃、〃技術の蜂起〃は、単にナチズムの時代にとどまらずその後の文化と社会をより広く、より深く支配し、規定することにたろ力だのであり、それは今日、物象化、疎外、官僚化、管理操作、社会資本等に代表されるさまざまな形態をとってあらわれているものである。
ひるがえって、『シュピーゲル』誌のような巨大な発行部数と収益をもつ商業出版社は、好むと好まざるとにかかわりなく、またその出版物の内容にかかわりなく、言語を外的に組織し、言語を商品化することに加担せざるをえない。のみならず、『シュピーゲル』のような報道と情報をこととする週刊誌の場合、おのずから、その言語表現(シニフィアン)と言語内容(シニフィエ)との関係は、理想としては「恣意的・多義的」であってはならず、決定的・一義的であることがのぞましいので、その言語は内的に組織されざるをえない。その際、この〃内的に組織する〃しかたは、〃外的に組織する〃しかたが資本の諭理に従ってなされるのとぴったりセットになったしかたで、つまり超越論的主観主義=心理主義のしかたで行なわれる。すなわち、その言語表現を読者がある一定の範囲内の言語内容にのみ結びっけるように、その言語表理の〃背後〃に、それを〃表出〃する(とされる)ニセの〃超越諭的主観〃を仮構して、読者がこの虚構的な心理主義的実体に〃感情移入〃するための組織化と操作を行なうのである。
その際、この〃超越諭的主観〃は、まさに〃ハイデッガー・インタヴユー〃の場合のように一個の人格として、姿を現わす場合と、無署名の報道記事のように非人称的に現われる場合とがあるが、いずれにせよその言語表現が与える意味の〃真実性〃は、読者があらかじめうえつけられ、信じこまされている先入見や自明性によって保証されているにすぎず、読者と言語表現との関係はきわめて権威主義的なものとなる。(いうまでもなく、このような〃超越前的主観〃は、発展的に考えられたフッサールの大来の「超越論的主観」が「心理主義的に歪曲」されたものにほかならない。フッサール自身は、「ヘラクレイトス的流れ」としての本来の「超越諭的主観性」が文化的・社会的な現象として具体的にいかなる様で「匿名」化され、隠蔽され、歪曲されるかに立ちいろことはしていないが、彼の現象学の発展的な理念は、そうした諸々の「匿名」化、隠蔽化、歪曲化、つまりは物象化の諸現象を根源的に取り除くことにある。)
すでに述べたように、渡辺氏の〃ハイデッガー擁護論〃は、はじめから『シュピーゲル』訣のこうした方向、つまり言語を外的・内的に組織する方向そのものには全く批判の眼を向けることなく、それにどっぷりつかったままハイデッガーについて語ろうとしている。むろん、それがハイデッガーについてではなく、たとえば日本の私小説作家についてならば、同類相求むという感じでわからなくもないが、言語が陥っているかくのことき状況の超克を企図したハイデッガーの思考を明るみに出し、それを〃擁護〃しようとするのに波辺氏のように言語のファシズムの片棒をかついでいたのでは、擁護はおろか逆にハイデッガーを言語のファシズムのなかにおくりかえしてしまうことになりかねまい。
ワルター・ベンヤミンは、『歴史哲学テーゼ』のなかで「過去を歴史的に関連づけることは、それを〃もともとあったとうりに〃認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想をとらえることだ」(『ヴァルター・ベンヤミン著作集』1、二六べージ)、と言っているが、ハイデッガーもアナクシマンドロスの思惟の言葉に関して、「それはもはやわれわれに対して、歴史的に遠いむかしに過ぎ去ってしまった見解として語りかけはしない。したがってそれは、むかしミレトスのアナクシマンドロスという名前の人間において、彼が世界を表象した事情としては実際いかなるものがあったかなどということを歴史学的に、つまり文献学的・心理学的におしけかろうとする無益な企てにわれわれをいざなうわけでもない」(「アナクシマンドロスの言葉」、『ホルツヴェーゲ』、三〇二ぺージ)と言い、思惟の言語は、そのテキストのヴァリアントに拘泥したり、関連文献を博引傍証するたぐいの〃文献学的〃姿勢やテキストの背後に〃作者〃の〃実生活〃のようなものを想定する〃感情移入的・心理主義的〃姿勢??つまりは歴史主義的解釈??によっては近づきえないものであることをくりかえし示唆した。しかし、カント解釈に際して、「言葉が語っているところのものからその言葉が語ろうと欲するものをもぎ取るためには、解釈はみな必然的に暴力を用いざるをえない」(『カントと形而上学の問題、一九六五年、クロスターマン出版、一八三ぺージ)と述べたハイデッガーの一、一〕火はっとに有名であるにもかかわらず、ハイデッガーの言譜にそのような〃暴力〃を用いてアプローチした例はあまりにも少ないのである。
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むろんこれには、カール.レーヴイットが、「もともと質朴で慎み深く寡黙で控え目なこの人がいっしか世界的な有名人とたり、その言葉がドイツ本国をはるかに越えて哲学的な思考を規定している」(『ハイデッガーは語る』、理想社)と言っているように、〃難解〃さをもってなるハイデッガーの言語表現さえもが今日の文化状況のなかでは商品化と感情移入に利する機能をはたしてしまうという不可避的な理由が大いにわざわいしていよう。しかしハイデッガーの言語表現そのものは、決してこうした〃内的・外的組織化〃に迎合するものではなく、すでに一九三五年に行なわれた講義『形而上学入門』のなかで「言語への諸関係を真に変革する革命」(前掲、四一ページ)を要求していたように、むしろ彼の言語表現自身はそうした商品化、感情移入に対して対抗的な位置に立とうとしていた。エラスムス・シェーファーは、『ハイデッガーの言語』(一九六二年、ネスケ出版)においてハイデッガーの言語の特徴を言語諭的立場から詳細に分析し、彼の言語表理が伝統的なドイツ訳語表現に対していかに〃革命的〃な地点に立っているかを証示したが、日本でもかなり早い時川に関口存男がこの点に注目しているのはさすがと言うべきだろう。
「Heideggerは、たとえば〃Sein〃なる動詞のく〈名詞化〉に対して、統計学的と云ってもいいほどの、意味形態論的抗議を向けている。その主著〃Sein und Zeit〃は、要するにく〈名詞化〉によって誤られた西洋哲学の再吟味を企らんだものに外ならたい。SeinはSeiendesではない、Gewesenesでもない、要するに〈名詞〉ではない、nomen actionisえある、しかもnomen actionis以外の何者でもないと云うところに、その哲学的功績があります。だから、彼は、諸種の術語を、みんなnomen actionisで表現しようとしている。彼がich binという際には、それは今までのような〈私がある〉〈私はたしかにゼロではない〉〈私は無にあらず〉〈私は欠けていない〉という意のbin〈実在する〉ではない。bin は〈本当に動詞〉なのです。ich binは、〈われbinをなす〉です。文章を作る以上は、名詞を用いないと簡明に行かないから、動詞をよく名詞化するが、Heideggerは、要すれば名詞化を全然避けて、動詞ばかりであの書物を書きたかったのでしょう(ドイツ語が許しさえしたら)。少くとも、用語は全部〈動詞〉だと思って読まないと彼の云う趣旨はわからない。Dasein, Seinからして既にそれです。」(『ドイツ語学講義、三修社。たお、ハイデッガー自身も『形而上学入門』一九五三年1の第二章「《ある》という言葉の文法の語源学によせて」のなかでこれと似た発言を行なっているが、関口の本書の最初の版は一九三九年に出された。)
したがって、ハイデッガーの言語表現を非合理主義や神秘主義の伝統に組み入れるのは、この言語表現がもっているインパクトをだいなしにしてしまうであろう。ときとしてハイデッガーの言語は、そのナチズム加担も災して、カッシーラーの言った「呪術的言語」つまり、「その内容とか客観的な意味ではなく、むしろ、それを取りまき包む情緒的雰囲気」を特徴とし、「ある効果をひき起し、ある情緒をかき立ててることを目的とした呪術的言語」(『国家の神話、創文祉)とみなされ、ヴィクトール・クレムヘラーが『LTI』(一九四六年)において剔抉してみせたナチスの造語法と同じレベルに属するものとされた。しかしながら、ハイデッガーの言語表現とナチスのそれとのあいだの関係は、いわば芸術作品と商業デザインとのあいだの近さと遠さに、通ずるものであって、両者が言語を〃物〃と化す点では類似しあってはいても、両者のテロスは全く異っているのであり、後者が言語を〃物〃と化すのは、言語を内的・外的に組織するためであるのに対して、前者は、まさにマルクーゼが「人間は極度の物象化に痛めつけられた末、物象化を克服する。美しい身体の芸術??たとえは今□ではもっぱらサーカス・ヴァリエテ・レヴユーなどで示されるような??を身につけた芸人に見られるような軽やかさ、屈託のなさは、真に主体となった人間が物質を支配するときはじめて達成しうる、観念からの解放の悦びを予告するものだ」(『文化と社会』上、せりか書房)と言うような意味で言語を解放するために言語を〃物〃と化すのである。
こうした両義性を理解するためには、ハイデッガーがトラークルの詩に関連して言った〃人間が語るのではない、言語が語るのだ〃という命題ほど示唆的なものはあるまい。この命題は、詩的言語の本来的なレベルについて、言われたものなのだが、今日の文化状況のなかではこうした事態は??その頽落形態において??商品化された言語においても起こりうるのであり、この命題の意昧するところは両義的となるのである。
たとえば今日の広告的言語においては、それが誰によって語られているかは問題ではなく、それ、自体が自動的.匿名的に独語されてゆくのだが、だからといってこの〃主体なき過程〃に〃主体〃をとりもどそうなどというのはヒューマニスト的なはかない夢である。こうした事態は、言語がもはや心的表象の代理物(ジャック.デリダの「声」)ではなく、両義的な意味で物的な事象と化す根本動向に対応しているのであって、言語の〃物象化〃、〃インフォメーション化〃、〃商品化〃はこうした動向にもとづいて言語が物的な事象と化す一つの仕方であり、他方、今世紀のアヴァンギャルド芸術や言語論において〃言語の自律性〃を回復しようとする試みが行なわれてきたのは、こうした一方の物化に対抗するもう一つの(質的に全く異なる)物化の方向を求め、一方の圧倒的な物化(荷品化としての物化)を超克せんがためである。
今日の文化状況のなかでは、この意味で、物化をめぐるヘゲモニー闘争がたたかわれているわけだが、いうまでもなくその主導権は依然、資本主義、官僚主義、近代市民社会のすべてを貫いている近代科学の論理の掌中にあり、その結果、言語の物化は人聞諸科学の理念の方向においてよりも近代科学の理念の方向で、つまり数学的自然科学の諭理によって圧倒的に行なわれているのである。
言語を記号(Signe)として定義したソシュールの思想が、今日、言語学の分野でよりもむしろ文化論の分野で重要性をもっている理由も、こうした文化的状況を背景としている。周知のようにソシュールは、「シニフィエをとってみてもシニフィアンをとってみても言語には言語体系に先立って存在するようだ観念もなければ音もないのであって、存在するものはただ、この体系から生ずる概念的差異と音声的差異だけである」(『言語学一般講義』、一九六八年版、一六六へ一シ)と言い、ある言語記号(シニフィアン)がもつ言語内容(シニフィエ)は必然的なものではなくて恣意的なものであり、後者は前者が形づくる記号的差異によって決定することを明らかにした。ということは、言語がいかに圧倒的な仕方で一義的・決定的な意味を付与されているとしても、それはつねに、もう一つの読みかえの余地を残しており、商品化され風化された言語表現といえどもそれをふたたひ活性化しうる余地があるということだ。しかし、それには言語に対するわれわれの姿勢を根底から変革せざるをえないわけだが、この変革は単に文字や音声現象としての言語に対するわれわれの態度変更にとどまるものではなく、世界に向かうわれわれの姿勢のすべて、つまりはその語の本来の意味における文化への姿勢の変革を要求している。
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ハイデッガーのナチズム問胆を生産的な意味で問題にするには、かつて花田清輝が「戦争責任を、つねに戦後責任との関連において、とくに前者よりも後者に重点をおいてとらえなければならない」と言ったように、単にハイデッガーのナチズム加担の事実的度合を問題にするのではなく、彼がその加担の事実を媒介にしてそれをいかにのり越えたか??とりわけ言語と技術の問題??が究明されなければならないわけだが、しかしだからといって、その加担の事実関係はうやむやにしてよいということには全くならず、それは逆に、当時の文化状況との関連で可能なかぎり厳密に検討されなければならない。まして、『シュピーゲル』誌の〃インタヴユー〃に無批判に立脚した〃ハイデッガー擁設諭〃のように、ハイデッガーはナチの加担者であったというよりもむしろ〃被害者〃であったなどと主張するのは、はじめからハイデッガー擁護を放棄している??あるいは彼を〃擁護〃するとみせかけて彼を現実から遊離した単なる〃アカデミック・フール〃の位置に追いおとすに等しい。というのも、ハイデッガーの本来の意図はどうあれ、彼のナチズム・コミットメントは、ギド・ジュネーベルガーが『ハイデッガー拾遺』(一九六二年、ベルン)のなかに集めたドキュメント(以下の引用はすべてこれに拠る)によっても動かしがたい事実であるからだ。一九三三年十一月三□の『フライブルク学生新聞』には、ハイデッガーの次のような言葉が掲載されている。
ナチス革命は、われわれドイツ的現存在の完全な転回である。こうした出来事のなかでつねに奮起し、覚悟し、つねに粘り強く、つねに前進する者でありつづけるのは君たちだ。君たちの知の意欲は、本質的なもの、単一なるもの、大いなるものを経験せんとする意欲である。
も身近にさし迫っていること、最も広範な義務の問われているものに身を曝されることが君たちには必要なのだ。
たちの要求に強く、真正であれ。
絶はつねに明確かつ確実になせ。
得された知をエリートの私有財産に変じるな。
れを国家の民族的使命のなかで指導者的な人々の必要な原財産として保管せよ。〔・・・・〕
人がその天賦の才と特権とをまず確証し、正当化しなければならない。それは、勇しい出撃の力によって、自己自身を取りまく民族全体の団円のなかで行なわれる。
〔・・・〕。己の国家のなかでわれわれ民族の最も奥深い力の本質を救い出し、その力を高めるために犠牲をあえてする勇気を養いたまえ。教義や《理念》が君たちの存在の規範であってはならない。総統御白身が、そして総統のみが今日のそして将来のドイツの現実であり、この現実の掟なのである。次のことをますます深く肝に銘ずべし??今後は、何事にも決意が必要であり、すべての行為には責任が必要であることを。
ヒトラー万歳!
さらに、同年十月十日付の同紙でもハイデッガーは明らかにナチの片棒をかついで次のような、言辞をはいている。
総督はドイツ人民に逃択を促しておられる。しかし総統は人民に何かを請い求めておられるのではない。総統はむしろ、人民に最高度に自由な決定の最もも直接的な可能性を与えておられるのだ。すなわち、全人民がそれ自身の現存在を意欲するか、あるいは否かを。
〔・・・〕
総統に《国際連盟》からの脱退をしむけたものは、功名心でも名誉欲でも盲目な気まぐれでも、暴力本能でもなく、ただひとえに、わが民族の運命を甘受し、支配する際の無条件の自己責征への透徹な意志なのだ。それは《諸民族の連合》から背を向けるのではなく、逆に、この歩みによってわが民族は、各民族が一つの民族たらんとする際にはまず第一に従わねばならぬ人間存在の本質法則のもとに立つのである。
〔・・・〕
十一月十二日にドイツ人民は一丸となってその未来を選択する。これは総統から切りはなすことのできないことである。人民はこの未来を選択する際、いわゆる外交的な思慮にもとづき、この賛成投票のなかに総統と総統に無条件に譲りわたされたあの運動とを共に含めることなく賛成投票することは許されない。外交も内政も存在しはしないのだ。存在するのはただ、国家の全き存在への意欲だけである。総統はかかる意欲を全人民のなかにめざめさせ、それを唯一の決断に結びっけられたのである。何人もこの意欲があらわとなる日に無縁でいることは許されないのだ!
他方、ハイデッガーのナチズム・コミットメントを他愛のないものであったかのように印象づけている点では、心情的ハイデゲリアンのみならずハイデッガー自身にも責任の一半があろう。というのも、ハイデッガーは十一月三日の発言について『シュピーゲル』誌のインタヴユーのなかで、「この文章は、総長演説のなかにではなくて、一九三三~三四年冬学期のはじめにローカル紙の『フライブルク学生新聞』のなかに出てくるにすぎない。総長をひきうけたとき妥協なしにやってゆけないことははっきりとわかっていた。今日ならわたしはもうこんた文章を書きはしないだろう。一九三四年にはすでに、もうそんなことを言わなくなっていた」(一九八ぺージ)と語り、この発言そのものに対してはさほど責任を感じていないらしいからである。
ハイデッガーは、『フライブルク学生新聞』を〃単なる一ローカル紙〃とみなすが、大学総長という彼の地位と当時の文化的・政治的状況を顧慮するとき、こうした(『ドイツ大学の自己主張』の場合はまだ読みかえが可能だが)およそ読みかえのきかぬ、きわめて一義的な文章が学生たちに与える効果は決して少くなかったように思われ、これではかってパウル・ヒューナーフェルトが「第二次大戦中にヘルダーリンとハイデッガーの作品を背のうの中につめて、ロシアかアフリカの何処がで死んでいった若いドイツ兵士は数えきれないほどであった」と言ったことも、まんざらジャーナリスティックなレトリックではないかもしれないという気がしてこようというものだ。また、ハイデッガーは「一九三四年にはすでに、もうそんなことを言わなくなっていた」と言うが、一九三四年二月一日付のナチスの機関紙『アレマンネ』には、ナチの失業対策によって復職した労働者の集会でハイデッガーが行なった激励の言葉が掲載されており、そのなかで彼は次のように言っている。
だから君たちの責務は、わが新国家の総統が要求されるとうりに労働供給というものを理解し、有給の労働をひきうけることである。なぜなら労働供給とは、外的な困難をとりのぞくだけでも、内的な無気力や疑念を除去するだけでも、意気消沈させる者や煩わす者を寄せつけないだけでもなく、労働供給とは同時に、そして本来、わが民族の新たな未来のなかでの建設と建立だからである。
〔・・・〕
目標は、ドイツ民族共同体のなかの民族同胞としての全き価値ある人間存在にたくましく成りゆくことだ。が、このためには??
この民族の一員としてどこに位置しているかを知らねばならない。
この民族がどのように編制され、この編制のなかでどのように革新されるのかを知らねばならない。
この国家社会主義国のドイツ民族によって何が起こるのかを知らねばならない。
この新たな現実がいかなる苛酷な闘いのなかで獲得され、つくり出されたのかを知らねばならない。
民族統一体の来たるべき浄化が何を意味し、それが個々人に何を要求しているのかを知らねばならたい。
都市化がドイツ人をどこへつれていったか、移住によってドイツ人が大地や土地をとりもどすといってもそれは一体どういうことなのかを知らねばたらない。一八○○万人のドイツ人が、ドイツ民族に属しながら、にもかかわらず、帝国の国境外に住んでいるがゆえに帝国に所属していないという事実のなかに何が存しているかを知らねばならない。
〔・・・〕
それゆえ、君たち〔労働者〕にとってもわれわれ〔学者〕にとっても、〔労働と学問とのあいだに〕生きた橋をかけようとする意志はもはや決して空虚な見込みのない希望ではありえないのだ。労働供給をある真正な学問供給のなかで完全なものにしようとするこの意志はわれわれにとって最もも内的な確実性であり、決してぐらぐらした妄想などではないのである。なぜなら、この意志が欲することのなかでは、われわれはただわれらの総統の傑出した御意志にのみ従うからである。総統に臣従するということはまさに、ドイツ民族が労働の民族としてそのはえぬきの統一、質朴な気品、真正の力をとりもどし、労働国家としての堅牢さと偉大さを獲得しようと毅然として不断に意欲することなのである。
このたぐいまれたな志の人、われらが総統アドルフ・ヒトラーに《万歳》を三唱しよう!
ハイデッガーは、〃インタヴユー〃のなかで「総長をひきうけたとき、妥協なしにやってゆけないことははっきりとわかっていた」と述べているが、上述のような発言を読むとハイデッガーは、「妥協」どころか国家への奉仕、愛国、民族主義、郷土主義、失地回復、労側の精神化、そしてヒトラー賛美を熱烈に語っていて、これでは彼がナチの〃イデオローグ〃とみなされてもしかたがたいように思われる。オットー・ペッゲラーは、「あきらかにハイデッガーの政治参加は、ワイマール共和制の状態、ヨーロッパ全体の混乱状態への懐疑、不安定な姿を呈していた状態からドイツを〃破開〃(アウフブルック)に導きうるという希望、にささえられていた」(『哲学と政治学』、一九七二年、書肆カール・アルバー)と言っているが、当時のハイデッガーのなかには、労働者や中産階級にひろまっていた不満、ワイマール知識人の挫折感に共通するものが大なり小なり鬱積しており、これが〃農民と手工業者〃を中心とした共同体への願望や、まえまえからつもりっもっていた学会アガデミズムヘの反発等と結びついて、ナチスの出現を??たとえ短期間にせよ??熱烈な期待をこめて迎えいれることになったと考えざるをえない。しかしながら、こうしたハイデッガーのナチズム加担とそれに関連した発言が〃イデオローグ〃としてのそれではたく、むしろナチズムに対する彼の〃深読み〃の結果であり、いわば〃ひいきのひき倒し〃になっていたことは確惚しておく必要もあるだろう。
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ハイデッガーが、一九三三年の入党の時点においていかにナチ的〃現実〃の認識を欠いていたかは、当時の彼の〃イデオローグ〃的発言の非ナチ的〃観念性〃によっても推察できるが、ローゼンベルクやボイムラーらとならんでナチの有力なイデオローグであったエルンスト・クリークのような〃本格派〃の目からすると、ハイデッガーはあさらかに日和見主義者であって、真正のナチ・イデオローグとしては容認すべからざる存在であった。クリークの執鋤なハイデッガー攻撃のあらすじをたどってみることは、ハイデッガーの〃ナチズム的〃見解が実はヒトラー・ナチズムとは別の水脈に発するものであることを了解するのに役立つかもしれない。
クリークの攻撃は、ヨハネス・ハルムスがドイツ国語学会の機関誌『母国語』の一九三四年一月号に書いた「ドイツの哲学者のドイツ語について」という一文に端を発する。この一文は〃国語学会〃の公式声明と解してよいもので、第三帝国における今後の哲学的文章のありかたを説き、ヤスパースの『現代の精神的状況』(一九三年)を非ドイツ的な文章だとして排斥し、ハイデッガーの『形而上学とは何か?』(一九二九年)と『存在と時間』(一九二七年)とを模範的た文章表現として称揚する。ハルムスによると、ハイデッガーの文章は、一センテンスの長さが短く、多くの場合、一行をこえず、文章の意味が明解である。外来語は、Charakteristik, Geste, Instanz, These, Transzendenzなど、多数使用されてはいるが、それらには明確な自己規定があり、ヤスパースの使う外来語のように不明確ではない。本来、「ハイデッガーはドイツ語で書こうと欲しているのだ」、とハルムスは言う。彼の行なうおびただしい造語(Wasgehalt, Geworfenheit, Nichtung, nichten・・)にしても、たとえば、das Sein ist---das Nichtsnichete.のように、「狭いわくのなかで、形而上学の難解な事態を皆にわからせる」長所がある。また、ハイデッガーは、「ドイツ語をさまざまなやりかたでいわば新たに発見する」。隔字体などの植字上のテクニックがそれで、こうすることによって「ハイデッガーは、イメージにうったえるやりかたでドイツ語の質朴な事実にたちかえり、新たな表現可能性を発見している」、というわけである。
「ドイツ」的であることにこだわり、ナチズムに媚を売る無理なこじつけをやめさえすれば言語表現の斬新さに対する指摘に関しては不当ではないと思われるハルムスのかくのごとき見解に対して、ナチ・イデオローグのエルンスト・クリークは、自ら編集する『成りゆく民族』誌の一九三四年第二号で次のような激しい??悪意ある??批判をあびせた。
クリークによれば、今日、新たな言語表現が求められているのは、われわれをとりまいている現実がそれを要求しているからであって、言語が言語のためにそれを要求しているのではない。ところが、〃国語学会〃はこうした時代の危機を全く理解しておらず、表面的に外来語の排斥などをとなえているが、外来語をなくすためには、国語学会の機関誌「『母国語』などにはその痕跡すら認められない偉大な言語創造と言語改革のさなかでのみ行なわれるのである」。ハルムスの「論文全体が、まやかしの旗をふってハイデッガー哲学を売りこむ見えすいた口実にすぎたい点は度外視するとしても」、ハルムスが模範としてあげている《Das Nichts nichtet>》という文章は、哲学者にも素人にもおよそ理解できないようなたぐいの文章である。つまり、「ハルムスは、ハイデッガーの言語とともに、《ベルリン人》の言語を同時に称揚しているわけである。すなわち、ユダヤ人哲学者ジンメルを模範として称揚しているのである」。「ハルムスは、ハイデッガーの文章表現を「明解」だとしているが、ハイデッガーの文章はどれをとってみても「何とおみごとなドイツ語」ではないか! ハイデッガー哲学の課題は、「まっすぐなことをゆがめ、単純なことを蔽い、簡単なことを混乱させ、一目瞭然のことを不透明にし、意味あることを無意味にすることなのである」。
国語学会の存在を否定され、のみならずユダヤ人の言語を模範的なドイツ文として推薦したなどという中傷をたてられ、まんまとクリークの挑戦的なわなにはまった国語学会は、色を失なって一九三四年四月十九日、オスカー・シュトライヒャーの名でクリークに抗議文を送る。が、役者が一枚も二枚も上手のクリークはこれを無視。やむなくシュトライヒャーは、機関誌『母国語』の同年、七・八月号で、公開抗議文を発表する。しかしいまさら、当該の文章はハルムス個人の判断であるとか、クリークの批判は偏頗で誇張があるたどと言ってみたところで、問題はそのようなところにはないのだから、ジュトライヒャーの抗議は全く説得力に欠ける。おまけに何をあわてたか、重要な抗議文のなかで、フライブルク大学教授ハイデッガーのことを「ハイデルベルク大学教授ハイデッガー」などと呼ぶ始末。絶好の機会とばかりにクリークは、「言語の小細工師たちへ」と服する一文を書き、国語学会に追いうちをかける。が、「ギムナジウム学校長殿、一度鏡をみたまえ」などという調子からもわかるように、クリークはもともと国語学会など問題にしていない。彼のねらいは、国語学会を粉砕することによりも、間接批判を通じてハイデッガーを論争の場にひきずり出してその〃仮面〃をはぎとることにあるらしく、この時期クリークは『成りゆく民族』誌に続けて挑戦的なハイデッガー批判を書いている。「ゲルマン神話とハイデッガー哲学」という一文もそうで、これはハンス・ナウマンの新著『ゲルマン的運命信仰』(一九三四年)の批判という体裁をとっているが、この一文の意図が、ハイデッガー哲学をゲルマン神話に牽強付会したナウマンの本そのものの批判にょりも、ハイデッガー哲学の非ゲルマン性をあばくことにあることは一目瞭然である。
ハイデッガーの哲学は、クリークによると、アリストテレス、トマス・アキナス、ディルタイ、フッサール、キルケゴールなどといった由来からして、純粋にゲルマン的とはいえないものであるという。ハイデッガーの理論の世界観的基調は、「無」(Nichits) をめざす「関心」 (Sorge) や「不安」(Angust) という概念によって規定されており、この哲学の意味は、「断固たる無神論」と「形而上学的ニヒリズム」であって、これがユダヤ人文学者たちに支持されているのをみてもわかるように、ドイツ民族にとっては、「解体と解消の酵素」になるものである、という。『存在と時間』で「日常性」が主要な問題になっているように、ハイデッガーにとっては、「民族、国家、種族、わがナチズム的世界像のあらゆる諸価値」は関心外なのだ。「『ドイツ大学の自己主張』では、突如として勇ましい調子になるが、そこには一九三三年という年への順応があるのであって、これは、関心、不安、無の教説とむすびついた『存在と時間』(一九二七年)や『形而上学とは何か?』(一九三年)の根本姿勢とは完全に矛盾するところのものだ。このニヒリズムの背後に、ドイツの知識人??元来、ドイツ民族はそんなことに全くかかわりあいがないが??を教会の救いの両腕にゆだねさせようという究極のねらいが隠されているかどうかは、決定せずにおこう」。ゲルマン神話にハイデッガー哲学を結びつけようと努力しているナウマンの試みはばかげているのであって、「プラトンによって《存在概念をめぐる巨人の闘い》として特徴づけられたギリシャ哲学の歴史は、ゲルマン的神々の黄昏や世界改新のゲルマン的理論とは全然無関係である。ゲルマン的理論には、ギリシャ人のもとで鳴りひびいているような同一なるものの永劫回帰の理諭はないのだ」。
ハイデッガーの「おしゃべり」(Gerede)概念は、ナウマンのように、ゲルマン神話の「りす」に結びつけるよりも、一歩進めて、「ブルジョワ陣営のうわさ好みのインテリや敗北主義の文学者、つまりナチズムに加わることができず、といってゲルマン的世界樹木の改新に堂々と反対するには臆病すぎるので、ナチズムの改新連動の壊滅にこっそり従事しているやから」にあてはめる方が妥当であろう。「ハイデッガーの『存在と時間』が出た当時、無と日常的存在のこの哲学が、青年を無気力と政治的怠惰にみちびくものとみなされた、という指摘は正しいのである」??と、おおよそこのようにクリークは、ハイデッガーのナチ・イデオローグ失格を宣言した。
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クリークの以上のようなハイデッガー攻撃は、ナチズムとハイデッガーとのあいだに一線を画し、彼が一九三三年のドイツの公的な歴史の舞台でいかに道化的な役割を演じていたかを明らかにするだろう。しかし、だからといって、ハイデッガーのナチズム加担が全く他愛のない、その〃非〃を認める必要のないものであったわけではさらさらない。ハイデッガーによると、彼はこうした自己の状況を一九三四年の初頭には見ぬき、それを同年二月の総長辞任によって現実化するとともに、以後は教授活動に専念することによって同時に「ナチズムとの対決」を試みだという(『シュピーゲル』、二〇一~二〇二ぺージ)のであるが、少なくとも一九三四年前半期の時点では、彼のそうした「対決」はナチズム批判としての有効性を、発揮しないだけでなく、依然としてナチズムヘの加担を継続しているのである。
たとえば、この年の三月にハイデッガーが行なったラジオ講演「なぜわれわれは地方にとどまるか?」がその一例である。これは、『存在と時間』をはじめ彼の主要作品の多くが執筆された、例のトートナウベルクの山小屋での瞑想を、のちの『思惟の経験より』(一九五四年)を思わせる静謐な文体で淡々と語った、一見〃非政治的〃な文章であるが、これがハイデッガーによって語られ、ナチの川怠した宣伝媒体を通して発表されるとき、それはハイデッガー白身の意図とは別の効果をもってくる。
一九三四年三月一日付の党機関紙『アレマンネ』には、「木曜日、一八時に、マルチン・ハイデッガー教授が《なぜわれわれは地方にとどまるか?》というアクチュアルなテーマについて話す」という予告がのっているが、この講話は、たとえハイデッカー白身はナチ宣伝省の要請を逆手にとり、アクチュアルでないテーマで話すことに成功したつもりになっているとしても、実際には党の政策どうりのきわめてアクチュアルなものになっているのである。ハイデッガーは言っている。
哲学的な仕事は、農夫の仕事のまっただなかに属している。若い農夫は、重い橇を坂道からひきあげ、手ばやくそれにブナのたき木を高くつみあげ、危険をおかして館にすべらせる。牧人は、ゆっくりした、思慮深い足どりで家畜を坂のうえに追いあげる。農夫は部屋で屋根の何枚もの柿板を手ぎわよくそろえるが、わたしの仕事も同じやりかたで行われるのである。」
彼は、「幾百年にもおよぶ、何ものにもかえがたい、アレマン=シュワーベンの土着性」(前掲文)を讃美し、都会生活の虚偽性、あわただしさ、破滅的性格を敵視する。都会人は決して真の「孤独」、「哲学の崇高の時」、農夫たちのもつ「自己存立化」(Eigenstandigkeit)を知ることがない。のみならず、彼らは、農夫に固有の「土着性」をそこない、彼らの「自己存立性」を妨げさえする。だが、こうすることによって都会人は、「いまこそ必要なことを拒否しているのだ。すなわち、農民的存在から距離を保つこと、この現存在をこれまでよりもさらにこの現存在自身の掟にゆだねること、つまりは身をひくことである??民族性や土着性についての文士たちのいつわりのおしゃべりに農民的存在をひきずり出さないために」、と。
ここでハイデッガーが、都会文明の流入によって「土着性」の喪失の危機にさらされている農村に託しながら、哲学の本来あるべき姿を語り、さらに、こうした状況をもたらした都会文明、国家主義、そのリアクションでしかない「血と地」の文学や郷土主義、農民信仰を批判しているのだ、と読みとることは今日ではやさしい。彼が一九三四年夏学期の講義でコルベンボイヤーらのこうした文学を厳しく批判していることも事実である。しかし、それにもかかわらず、このラジオ講演を時代と状況のコンテキストのなかで読むとき、事はそれほど簡単ではない
ナチ党は、一九三三年、世襲農地制と全国食糧組合とを創設したが、これは農村から都市への人口流出をくいとめ、農民を農地へ定着させ、農業生産を高めることを目的としていた。「一九三四年三月十五日の法律では、過去三年間、農業に従事した労働者を都市でやとうことは禁止されることとなった。しかし、このような対策をもってしても都市への人口流出をくいとめることはできず、結局、農村援助隊(Landhife)とか農村奉仕隊(Landjahr)といった制度がもうけられ、農夫に無償労働力を提供する方策がとられた。」(クロード・ダヴィド『ヒトラーとナチズム』、白水社)
こうした状況のなかでは、ハイデッガーのラジオ講演は、完全にナチの農業政策にみあったものとなってしまう。彼が、農民的現存在のなかに都市文明をもちこまぬこと、あらゆる意味においてそこから「手をひくこと」(Hande weg)を説くとき、その哲学的意味がどうあれ、ナチの政策の片棒をかついでいることになるのであろ。都市への人口流入はナチ政権以前からのものであり、それは近代文明の不可避的な動向に属しているのだが、ハイデッガーの演説はいまだ、こうした都市化の問題を文明の根本動向の軌道のなかでとらえておらず、それを精神的な操作によって変更可能なことのように思いなし、さらにこの講演は、農民と自己とを耽美的に固化しているかのような印象を与え、その結果ハイデッガーを第三帝国の「血と地」の作家たち、すなわち、工業化とともに生じた諸問題から逃避し、都会や文明を敵視し、農民の生活形式を美化し、理想化したあの作家たちの近くに限りなく近づけかねないのである。
もっともアドルノはこのラジオ講演「なせわれわれは地方にとどまるか?」のなかに、ハイデッガーがベルリン大学、ミユンヘン大学への招聘の辞退、フライブルク大学総長辞任等の一連の〃非協力〃をナチに対して正当化しようとする彼の「老猪な戦略」をみている(『本来性の隠語』、ズーアカンプ社)が、いずれにせよ、ベンヤミンが言ったように「政治的にみて決定的に重要なのは、私的な思考ではなく、いつかブレヒトがいったように、他人の頭で考える技術なのだから」、すでにみてきたように、ハイデッガー自身の意図にはかかわりなく、彼のナチズム加担とそれに伴う彼の言説が大たり小なりナチスの存続を利することになったという限りで、少なくとも一九三三~三四年のハイデッガーには、たとえば一九三二年以前にブレヒトが「今後は、反動を促進する経済機構の隷属下に組みこまれること、つまり自分の行為とその結果にたいして無知であることが、買収を意味するのだ」と、言った意味での洞察、コシークの言葉をかりれば「全般的操作性」に対する洞察、さらにはグラムシの言った「知識人の有機的性格」への配慮、が欠如していたと言わざるをえないのである。
初出:「心的ハイデゲリアンの陥穽」、『国家論研究』、1976年10月号)