メディア牢獄
大衆文化のパラドックス

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"民衆文化"という言葉は、"大衆文化"という言葉にくらべて、それほど大衆的ではない。また、それは多くの場合、"大衆文化"と混同して使われ、それ独自の意味を発揮することは少ない。そのため、英語のmass cultureは、通常"大衆文化"と訳されるが、ときには"民衆文化"と訳されるこ ともある。ところが英語にはpopular cultureという言葉もあり、これが"大衆文化"と訳されたり、"民衆文化"と訳されたりもするものだから、事態はいささかやっかいなものになってくる。
が、英語のmass cultureとpopular cultureのあいだにも、それほど明快な区別があるわけではない。ドウカイト・マックダーナルトは、有名な「大衆文化の理論」のなかで、high cultureがときにはpopularでありえるわけだから、popular cultureという概念は不都合だとしているが、『大衆文化と 上流文化』の著者ハーバート・J・ガンスは、cultureという言葉は、culturedが"洗練された"とい。 うようなことを意味するように、もともとhigh cultureと同義であり、それに対してmassとは、下層・中流階級、労働者、貧民、そして"衆愚"をも意味するから、mass cultureという言い方は軽蓑語だとする。 いまこうした議論を検討する余裕はないが、いずれにしてもこの議論は、どの呼称が当該の事象に対して最もふさわしいかということよりも、文化そのものがたどってきた歴史とその今目的状況を示唆している。マックダーナルトによれば、「大衆文化の観衆は受動的な消費者であり、彼らの参加は買うことと買わないこととのあいだの選択にかぎられており」、大衆文化は「その全くの受動性、その檸猛な圧倒酌量によって上流文化をおびやかす」と言う。また、ガンスによれば、「大衆文化は…… 上流文化の愛好家がもつ経済的、教育的な機会を失っている人々によって選びとられる」と言う。ここであきらかなことは、マックダーナルトもガンスも、文化を論ずるにあたって"上流文化"を観準に考えており、"大衆文化"とは"上流文化"が通俗化したものだとみなしている点である。しかし、文化を持続的な自己表現と考えるならば、下層階級にも"文化"はあったわけで、それは、準.上流文化としての大衆文化とは区別されなければならない。

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ヘルダーは、"教養ある者の文化"(Kultur der Gelehrter)と"民衆の文化"(Kultur der Volkes)とを区別したが、大衆とは、地域と伝統に密着して生活していた民衆がそれらから切りはなされて近代の都市(そして今日ではマス・メディア)を単位として人工的な集団として再組織さたものである。 十八世紀末から十九世紀に書けてヨーロッパでは大量印刷の技術が急速に発達し、大衆文化の時代がはじまるが、これは、民衆を大衆として再組織する新たな支配のはじまりでもあった。従って、大衆文化の時代は、民衆文化の危機の時代でもあるわけで、実際に、十八世紀末から十九世紀初頭にかけてヘルダー、ゲーレス、アルニム、ブレンターノ、グリム兄弟らがフォークロアの収集や研究をはじめたという事実は、それだけ民衆文化が衰退と消滅の危機にみまわれはじめていたこを物語っている 衰退しはじめたのは民衆文化だけではなく、上流文化も同様にその自律性を失っていった。べーラ.バルトークは一九〇五年ごろからゴダーイとともにトランシルヴァニア地方のマジャール人の民謡を収集・調査し、それを媒介にして彼の上流文化的な現代音楽をつくりだすが、これは、ある意味で、上流文化がすでに内在的な活力を失い、自己以外のものから活力を得なければならなくなりつ つあったことを示す象徴的な事件である。この頃から一九二〇年代にかけて、モスクワ(ロシア・アヴァンギャルド)でもパリ(シュールレアリスム)でもニューヨーク(イーディッシ芸術劇運動)でも、いわば民衆文化の大道芸的なものを活力にして最も現代的な上流文化をつくりだす方向が現われた。ある意味で、この時代の現代的な芸術家たちは大なり小なり民衆文化から活力を得ているのであり、たとえばカフカのように、およそ"非土着的"と思われているような作家も、イーディッシの民衆演劇をスプリングボードにしたのである(拙著『主体の転換』所収「文化的したたかさの底流——イーディッシ演劇」参照 十九世紀末から二〇世紀初頭にかけてのこうした上流文化のレベルでの蓄積があったからこそ、一九二〇年代以降、文化産業はその蓄積を文化資本の蓄積に転換し、商品としての大衆文化を大量生産することに成功するのである。が、このことは、上流文化そのものの側からすると、上流文化がもはや自律的な存在ではありえなくなったことを意味する。すなわち上流文化は、民衆文化の力をかりて白已を活性化したものの、その新たな蓄積を文化産業にみずからゆずりわたす——あるいは売りわたす——ことによって、上流文化としては衰弱していった。アドルノは、「支配階級の意識と社会の全体的な傾向が重なり合うようになった昨今では、文化とキッチの間の緊張関係が解消しつつある。仇敵のキッチを軽蔑しつつ、かといって振り切ることもできないで影のように引きずっていたのは過ぎし目のことで、今日の文化はキッチを白ら司っている」と言い、この一節を次のように結んでいる。 「これは四半世紀前あたり(一九二〇年代)から見られるようになった光景だが、本来ならもっとましな文化の有り様を知っているはずの年輩のブルジョアたちまでが年甲斐もなく文化産業の部門に殺到するようになっている。文化産業はそれほど正確に飢えきった人心の動向を計算し尽していることにもなるわけだが、年輩老たちも、近頃の若い老はファシズムに毒されて骨の髄まで腐っているなどと大きな口を利けた筋合ではないのだ。主体を失った文化の廃嫡者たちは、文化の正当な相続者なのである」(三光長治訳『ミニマ・モラリア』、第96節、法政大学出版局)。 実際、。世界資本主義の先進的な部分に注目した場合、一九二〇年代は、企業家資本主義から独占資本主義への過渡期であり、これは、民衆文化が消滅し、上流文化が大衆文化へ解消してゆく過渡期でもあった。しかし、支配的な文化が大衆文化に二兀化されたとしても、この文化はそれ自体としては.生産する主体をもたず、それを消費する主体しかもたないのだから、その生産主体は外部からうばいとってこなけれぱならない。どんなに複製技術が発達するとしても、その最初のモデルは主体的な生産によってつくられるしかないからである。ところが、こうした主体的なレベルは、いまや民衆文化に求めるしかなくなり、しかもその民衆文化が皮肉にも大衆文化のために弱体化されて息もたえだえになっているのである。こうなってくると、文化は生産的・創造的基盤を失って、単なる客体に頽落せざるをえなくなる。アドルノは、「アウシユヴイツツ以後のあらゆる文化は、そのさしせまった批判ともども産ユ物である」(『否定的弁証法』、第三部第二章、ズーアカンプ社)と言ったが、そうした事態が昂進すれば、文化は"廃物"としての大衆文化に完全に一元化される。

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アドルノの言う"廃物"とは、文化の低劣さや愚劣さを言うための表現ではない。他所でも指摘したように、この言葉は、あきらかに、「現実をもっとも目だたずに定着しているもののなかに、いわ"ぱ現実の齢冊のなかに、歴史のイメージをしっかりととらえる試み」(一九三五年八月九日付G.ショ、レム宛)と言っているベンヤミンの"廃品"に対応している。アドルノにおいても、"廃物"ないしは"廃品"と化した文化は、そうなることによって、かつて考えられなかったような交換価値をもつようになるのである。とりわけ民衆文化は、特定の民衆が創造し、同時に享受するかぎりで、その価値は使用価値にあった。が、創造する主体と享受する主体とが切りはなされ、さらに、その創造する生傷体が衰弱させられてしまうと、残されるのは、享受する主体にとっての価値だけである。享受する主体は、文化を創造することはできないのだから、それは、享受するしかたを"創造"の代理にするしかない。すなわち、享受はいまや、創造過程への介入や追体験ではなく、もはや介入することも追体験することも不可能な完成品として与えられる"作品"を何ものかに関係づけることによってそこに価値(意味)を見い出すしかなくなる。いまや文化の"新しさ"とは、"作品"が何ものかに関係づけ られ、交換されるしかたの"新しさ"となり、そうしたアレンジメントの"新しさ"が独創性にとってかわる。 しかし、ベンヤミンはこうした事態のなかに能動的なものを見た。複製技術と文化産業の時代の大衆文化は、それ以前の——上流文化の剰余としての——大衆文化のように上流文化への権威主義的な憧僚やコンプレックスをもってはいない。今日の大衆文化は、死にかけた上流文化や民衆文化から素材をとってくるかもしれないが、ひとたびそれが大衆文化として享受者に与えられるときには、かつてのような文化的階級差を失うのである。そのため、文化産業は、ときには、くだんの文化作品がオリジナルの"忠実"な複製であることをあえて強調しなければならない。こうした大衆文化の逆説的 な"民主性"は、ベンヤミンにとって、大衆が文化作品に対して能動的な主体となりうる条件である。 文化産業が過剰に生産する文化作品としての"廃品"を大衆が大衆自身の利害と目的に従ってアレンジしなおすならぱ、文化産業の論理は逆転されてしまう。だが、問題は、複製技術と文化産業の時代における大衆がそれほどの自発性を許されているかどうかである。 考えてみると、文化産業があとからあとからマーケットに送り出す"廃品"をみずから回収し、アレソジできるような人々は、いまだ大衆ではないし、またそのようなことが可能な"廃品"はまだ本当の意味での齢伽ではない。人々かだ船となり、文化が"廃物"となるためには、文化作品の享受老に残された主体的な要素、つまり関係づけ、差異づけのアレンジメントの能力までもが最少限までぬき取られなければならない。主体的な要素は、享受老がどんなに受動的になるとしても——享受者であるかぎりは——最少限度必要だが、大衆とはそうした要素を限界までぬきとられ、物の属性すなわ ち受動性のなかにおくりこまれた存在にほかならない。 思うに、アドルノが"廃物"という言葉を用いたとき、彼の念頭には、まず、大量生産の機構に内属している今日の大衆文化の状況があったはずだ。が、ベンヤミンにとって"廃品"というイメージは、彼がエドゥアルト・フックスに関して、「軽蔑された、非正統的なものへの注視が彼の本来の強味をなしている」、「無名な人々や、彼らの手の痕跡をとどめているものに向けられた考察」(好村冨士彦訳「エードゥアルト・フックスー収集家と歴史家」『ベンヤミン著作集2』晶文杜)と言う際に想定されているような、いわばブルジョワジーの没落とともに他のさまざまな金目の美術品にまじってせり市に出されたアソティックのイメージからとられているようにみえる。すなわち、ベソヤミンの"廃品"は、もはやいかなる主体的生産の痕跡もとどめていない大量生産品であるアドルノの"廃物"とはちがって、とりあげかた次第では依然そのような主体的レベルを開示しうる手がかりを残している。ベンヤミンは、そうした洞察を「史的唯物論」と呼ぶが、それは「歴史についての理解を、その脈樽が現在にいたっても感じうるところの、かつて理解されたものの余生として把握する」(前掲論文)。同じことを彼)は、「歴史哲学テーゼ」のなかでは次のように言っている。 「過去という本には時代ごとに新たな索引が附され、索引は過去の解放を指示する。かつての諸世代とぽくらの世代との問にはひそかな約束があり、ぽくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぽくらには、ぽくらに先行したあらゆる世代にひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が附与されているが、過去はこの能力に期待している。この期待には、なまをかにはこたえられぬ。歴史的唯物論者は、そのことをよく知っている」(野村修訳『ベンヤミン著作集1』晶文杜)。 こうした歴史的再把握は、もともと相互主体的活動にもとづいてっくられた文化が、不本意にその主体的生産.再生産過程から切り離されて所有や交換の対象となっている場合にのみ可能であり、そのときには文化をそうした所有や交換の手から奪還することが、一つの歴史的再把握になるだろう。 しかし、文化がはじめから所有や交換のためだけにっくられ、流通させられている場合はどうだろうかp.相互主体的な活動によって対象化されたもの、つまりは文化が、所有や交換のための対象になっても、その対象には痕跡や沈澱としてその相互主体的プロセスが残存している。が、それは所有や交換にとっては無意味なものであり、より多くの人々による所有、より広範かつひんぱんな交換の障害になりさえする。しかし、そうしたレベルを全く取り去ってしまったら、それはもはや文化ではなく物でしかなくなるので、所有と交換に好都合なしかたでそれが最低限残されねばならない。それには、最も平均的な相互主体的活動を用いるのがよいだろう。誰しもが熟知のことを対象化した——という体裁をとった——大衆文化こそが、最も大量に所有され、交換されるだろう。だが、この文化は、それを所有と交換過程からひきはなし、経験の過程にひきこんでみても、その経験を現在の先まで越えさせることはないだろう。

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今日の大衆文化の機能は、かつての上流文化や民衆文化のそれとは全く異なっている。そのウェイトは、経験にであるよりも、むしろ組織化にあるのだ。今日の大衆文化は、それが経験されることを求めてはいない。マス・サーキュレイションの本やレコードは、それらを追体験する相互主体的な経験の沈澱をつくり出すよりも、むしろそれらが売買される交換回路と、それらについての神話的情報が循環する情報回路をつくり出すのであって、読まれ、聴かれる経験の度合とはほとんど無関係であ る。しかも、大衆文化は、同じ大量生産品でも、たとえば食品のカンヅメのような大量生産品とはちがって、その商品価値よりも情報価値——より多くの人々を持続的に組織しておけること——を重視する。従って大衆文化を問題にする際には、その商業的成功すらも情報回路の増植の成功としてみなけれぱならないのであって、大衆文化を生産し散布する文化産業は、単に利潤を獲得しているだけではなくて、社会のすみずみに情報の網の目を増殖させて社会を組織・統合する機能をはたしているの"である。だから、文化を単に経済的なプ目セスとシステムとからだけみるのでは、たとえば、あるインスタント食品が単に食品"商品として利潤をあげるだけではなく、まさに大衆文化として人々の嗜好やライフ・スタイルを規定し組織する側面をもっといったことを総合的にとらえることができない化繊だろう。それに、今日の大衆文化のなかで、ラジオ、テレビ、グラフィック・プリントなどの広告メ ディアを通じてつくられるものがますます多くの部分を占めつつあるように、もともとは金銭の回路を拡張させるために行なわれたことが、大衆文化の回路を増殖させる機能をはたし、それがかぎりなく増殖するにつれて、金銭の回路もおのずから開かれるという構造が出来上がっているのである。 その意味では、今日の大衆文化はもはや文化ではない。かつての文化には、それが上流文化であれ、民衆文化であれ、個々人を現在・過去・未来的地平の他者、つまり社会的・歴史的他者に結びつける教育的な機能、個々人の社会性、歴史性を育成し、個々人を"全体的個人"(『ドイツ・イデオロギー』第一章 Ⅳ—1O〕)に発展させるような教育的機能を一面でもっていた。しかし、今日の大衆文化はそうした 一面を機能転換して、個々人を社会から孤立させ歴史を忘却させるための道具と化してしまい、教育(教え育てる)とは全く逆の管理H教育、抑圧装置にまでなり下がっているのである。 しかし、このような事態は、何ら意外な偶発事ではなく、文化の"主体"が資本であるときに必然的に結果するものであることに留意すべきである。すなわち、本質的には、大衆文化においても、民衆文化においても、また上流文化においても、文化が個々人を結びつけ、ある方向に導くメディアとしての機能をもつ点では変わりないのだが、それが人問的主体それ自身の対象化であるか、それとも資本がすみずみまで浸透した匿名的な主体の相関物であるかによって、その機能は解放的にも抑圧的 にもなるわけである。

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すでにグラムシは、"上部構造"を「政治社会」ないしは「国家」の次元と、「市民社会」ないしは「民間」の次元とに区別し、前者の機能を「国家や《法的》統治のなかで表現される《直接支配》あるいは命令の機能」、後者の機能を「支配的集団が全社会において行使する《ヘゲモニー》の機能」にみ、近代以降の社会と文化の基本動向が「直接支配」のレベルの闘争から「ヘゲモニー闘争」に移行しつつあることを洞察していた。その際、「ヘゲモニー」とは、具体的には、「支配的な基本的集団 によって社会生活におしつけられる指導に対して住民大衆が与える《自発的》同意、支配集団が生産世界におけるその位置と機能とによって手に入れる威信(従って信頼)から《歴史的》に生まれてくる同意」である(『グラムシ選集』3、八八〜八九頁)。グラムシによれば、「《ヘゲモニー》の関係は、すべて必然的に教育的関係であり」、しかも「教育関係は、新しい世代が古い世代と接触して、その経験と 歴史的に必然的な価値とを吸収して、自分自身の人格を歴史的文化的に高次なものに《成熟させ》、発展させるという、とくに学校にかかわる関係に限られることはできない。この関係は、総体としての社会全体のなかに存在し、他の諸個人に対するそれぞれの個人すべてにとって存在するし、知識人と知識人でない人びととのあいだ、統治する者と統治されるものとのあいだ、エリートと追随者とのあいだ、指導する者と指導される者とのあいだ、前衛と本隊とのあいだに存在している」(『グラムシ選 集』1、二七〇〜二七一頁)。 グラムシが教育に注目するのは、「歴史のなかには《純粋》な自然発生性というものは存在せず」、「いかをる《自然発生的》な運動のなかにも意識的な指導、規律の原始的な要素がある」(『グラムシ選集』1、七〇〜七一頁)と考えるからである。すでに大分まえから、われわれは、"教育"とか"拍導"と いう概念に反撥いだくのを常としているが、こうした反援は、グラムシの見方からすれば、支配的な教育や指導がこれまで行なってきた抑圧的性格から来るのであり、むしろ、現状の教育や指導がそ。 のような反撥をひきおこすものだとすれば、新たな教育と指導の方法が創造されなけれぱならないわけである。また、どんなに"自然発生的"とみえることも、それは"意識的指導"の要素が不分明になっているだけなのだとすれぱ、われわれは、知らず知らずのうちに誰かの"意識的指導"を受けていることになるから、そうした"意識的指導"の要素を明瞭化し、われわれを抑圧するために行使される指導とわれわれを解放するための指導とを区別することにつねに気をくばらなければならない。 が、ここでもまた、"純粋"に自然発生的なものは存在しないのだとすれぱ、われわれを解放するための指導は、決して自然発生的に与えられるわけではないことがわかる。従って、実際間題としては、現状の支配的口教育や指導を批判するだけではなく、それにあわせてわれわれ白身が、自己解放のための教育と指導を実践しなければならないのである。 いずれにしても、認識しなければならないのは、学校教育のような狭義の"教育"だけでなく、より大きな、構造化された管理H教育がわれわれの日常生活のなかに浸透しており、それがソフトな支配のために有力な効果をあげていることである。たとえば日本語だが、依然全国ネットを基調とする日本のテレビが、日本語を——単にNHKのニュースのような"標準語"においてだけでなく、さまざまな人工的方言のいりまじった"テレビ語"においても——平均化するのに甚大な影響を与えていることは、多くの調査でも知られている。これこそ教育であって、"日本語。、"日本国家"、"単一民族"といったイデオロギー的合意がこのマス・教育を通じて徹底されているわけである。それかあらぬか、今日、教育、指導、啓蒙などの必要をほとんど自明のこととして受けいれるのは現状肯定派の人々であって、現状に批判的・否定的な人々は、そういうものを不必要で有害なものとみなしがちである。しかし、大衆文化やマス・メディアと全く無縁の状態で生活することが空想的なことだとすれぱ、われわれがその日常生活のなかでつねにすでに——"学校"に入っていなくても、また"通信教育"を受けていなくても——教育され、指導され、啓蒙されているということを事実として認めるべきであり、それを単に意識のうえだけで拒否してもそれらを実際に批判したことにも否定したことにもならないということを認めるべきだろう。すでにグラムシは次のように書いていた。 「しかし、それでも、指導する者と指導される者、支配する者と支配される者が存在するという事実は、事実として残る。この事実を認めたうえで、どうしたらもっと有効な(ある目的が与えられているとして)仕方で支配することができるか、どうしたらもっと土い方法で指導者を養成できるか(政治学、政治技術学の第一章は、厳密にいえば、この問題にあてられている)、指導される者、支妃される者を服従させるための最も抵抗の少ない合理的な路線はどうしたら知られるか、ということを調べ なければならない。指導老を養成するには、基本的な前提がある。つまり、支配する者と支配される者とが永久に存在することを望むか、それとも、こうした区別の存在する必要がなくなるような条件を作り出そうと望むか。すなわち、人類には永久にこの区別があるのだという前提から出発するかそれとも、それはある条件に照応する歴史的事実にすぎないと信じるか、ということである」(『グラムシ選集』1、一〇三頁、傍点引用者)。 ここでグラムシは、さらに、「指導される者、支配する老と支配される者とが存在するという原則を前提するならば、諸々の党が今日にいたるまで、指導者と指導能力とをみがきあげるためのひじょうに適切な様式であるということは本当である」(前掲書、一〇五頁)と言い、"党"の機能に注目する。しかし、彼の言う、「諾々の党」とは、今日、抑圧装置の別名となったところの"政党"ではなく、それらは、「反党とか《党の否定》という党のように、ひじょうに多様な名称で現われうる」のであり、従っていわゆる《個人主義者》も党の人であり、「ある一つの新聞(または一群の新聞)、ある一つの雑誌(または一群の雑誌)も、見ないしは《党の分派》、あるいは《一定の党.機関》である」わけだ。それゆえ、《諾々の党》とは、最も広い意味でのしかも肯定的かつ否定的な意味での文化装置全般であるが、グラムシは、ここで今日支配的な文化装置に対して、それを止揚しうるような文化装置の必要性を問題にする。だが、マス・メディアに代表され、今日の大衆文化を増殖させている支配的な文化装置をむしばみ、やがて新しい文化を生み出すような対抗文化装置はどのようにして可能なのか?

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それのようなもののモデルを直接、既存の民衆文化や上流文化のなかに求めてもだめだろう。とりわけ、タイム.トラベル的な操作で再現された民衆文化に一切合切の可能性を託する民衆文化H形而上学は、解放の文化の不在を慰撫するものでしかない。民衆文化が、民衆の一人一人を互いに拘束しあい、それによって民衆という一つのブロックを現状肯定的に存続させてきた側面もあるわけで、民衆文化を大衆文化に対立させて、後者を否定するために前者を過大評価するのは馬鹿げていよう。民衆文化が解放の文化としてのモデルとなるのは、それが支配的な文化によって収奪されてきたかぎりにおいてであり、それが支配文化との闘争の歴史をもつかぎりにおいてである。従って、その意味では、上流文化もまた——資本主義が企業家的資本主義から独占資本主義への移行のなかで——大衆文化に屈服したというかぎりにおいて、その屈服のプロセスから大衆文化の抑圧形態を批判的に読みとることが可能である。しかしながら、一九七〇年代後半以降に(先進資本主義国で)顕在化してきた逆説的な傾向は、支配システム自身が何らかの彩で大衆文化や大衆社会の一次元性に対する"反省"をもちはじめていることである。 たとえば、アメリカでベストセラーになったマリリン・ファーガソンの『水瓶座時代の共謀』(堺屋太一監訳『アクエリアン革命』実業之日本社)を読むと、これまでの大衆文化をのりこえる新しい文化のための革命がすでに起こりっっあり、それをわれわれは積極的に推進すべきことが本気で主張されているのを発見する。ファーガソンによれば、「ある人問集団がアメリカを根底から変えつつある。その集団にはカリスマ的労働者はいないが、なにか大きな力が潜んでいる。……この"アクエリアン革命"はいままでの社会改革よりも幅が広く、どの革命よりも底が深い。そして、人問の新しいあり方を求め、新しい文化を創り上げようとする」。ドックヴィルは、『アメリカの民主主義』のなかで、「革命の直前には、人心に不満の気持がつのり、改革の中心となる人々のあいだで『世界の顔を急に変えてしまうような新しいやり方』についての意見の交換がもたれる」と言ったが、ファーガソンによれば今日がまさにそうした時代なのであり、それゆえ彼女は、その文化的、歴史的背景と科学的必然性とを論じたのち、"変革の道具"として"ネットワーク"という概念を提唱する。彼女は次のように言っ又ている。 「ネットワークによって小さなグループも大きな社会を変えうる。ガンジーは小さなグループを連合させていって、ついにはインドを独立に導いた。この"小集団に分かれた統一"こそが成功の礎である、とガンジーは語った。『それぞれのグループに分かれている統一の輪がしだいに広がっていき、ついには世界全体と重なるのである』。……いま権力の座は移ろうとしている。息もたえだえのタテ社会から、生命力に満ちたネットワークヘと」。 ファーガソンがここで言っていることは、レーガンの保守反動的な政策にもかかわらず、決して誇張ではなく、アメリカでは実際に、コミュニティの再興、地域的な文化機関の増設、マイナーな文化の擁護といった形で確実に根をはりつつある。しかし、こうした主張が、その"ラディカル"なよそおいにもかかわらず、結局、改良主義的なものであることは、彼女がその「アクエリアン革命」の必 然性をイリヤ・プリゴージソの"散逸構造論"(一九七七年)を世俗化して説明しようとするときにはっきりとあらわれている。すなわち、ブブーガソソによれば、散逸構造論は人問の変革を科学的に説明したものであり、「変革には"ゆがみ"がなくてはならないことや、必然的に変革へと向かう人問の性質」、「混乱が新しい秩序をつくりあげるということ」を明らかにしたのだと言うのだが、こうした言い方から露呈していることは、彼女が属している支配システムは明らかに"変革"を必要としているが、だかパりといってそれはたえざる創造的な変革を可能にする全く新たな——従って資本主義的ではないーシスナムヘ向かうことを求めているのではなく、結局は安定した資本主義の"新しい秩序"を求めているにすぎないということである。適度の"ゆがみ"や"混乱"を許容し、人々の"変 革"への欲求を解消させながら"秩序"を保つような軟構造——これが彼女のめざすところであるようにみえる。 だが、そんなことであれぱ、ブリゴージソなどをひきあいに出さなくても、すでにリチャード・セネットは『無秩序の活用』(一九七〇年)のなかで適度の"無秩序"を内包する都市の積極性について論じ、ニューヨークの都市政策にヒントを与えたし、また、ヴォルフ・ハイデブラントは、「公共官僚制における組織的矛盾」(『ザ・ソシオロジカル・クォータリー』一九七七年冬季号)で、官僚組織はむしろその内部の矛盾によってたえず自己活性化することを論述しているし、さらに、ポール.ピッコーネは、「一次元性の危機」その他(拙訳『資本のパラドックス』参照)で、支配システムがその延命のためにみずから"人工的な否定性"をつくり出さざるをえなくなるパラドックスを解明している。要するに、ファーガソンの主張は、支配的なシステムのなかから——資本主義の高度化の必然性として——出てきたものであって、決してその"外部"から要請されたものでは壱いのである。 だが、支配システムは、それが全体化すればするほどその"外部"をもたなくなるのだから、その変革はその内部からしか起こりえないこともたしかである。その意味では、高度化した資本主義の文化と社会が、その硬直した一次元的組織に代わって"横断的"で"自律的"な無数のネ、トワークをみずからつくり出さなくてはならなくなるというのはパラドックスであり、それが総体的な変革の一つのチャンスになると考えることもできる。すでに一九七〇年代後半のイターアで大規模に展開されたアウーノーア謡は、こうしたパラド)、一ックスを過激にエスカレートさせることによって資本主義そのものの一つの限界地平を可視的にした。むろん、支配システムは、依然そのような方向を抑止する能力をもっており、事実、アウトノミア運動を制圧することに成功したのだが、そこで展開され変革の糸口をつけられた女性、子供、家族、性、労働、教育などの領域は、今日もひきつづきその変革を持続させており、イタリアの社会と文化は確実に変わりつつあるのである。日本の場合も、その支配システムが、女性の社会・文化的機能を"変革"しなければならない必然性と逆説に少しずつ直面しっっあることはさまざまな現象から容易に理解できるだろう。資本主義システムは、消費と情報の回路をより一層増殖させるために、女性をもはや家庭というゲットーにとじこめておくことができなくなった。が、このことは逆説的にも、伝統的な家族の解体、母子関係の変様、女性における抑圧の昂進などをまねかずにはいないのであり、既存システム自身の潜在的な崩壊要因を蓄積することになる。それゆえ、今後は、一次元的な大衆文化から多次元な大衆文化への転換のなかに含まれるこうしたパラドックスこそが、大衆文化を止揚し、解放文化を可能にする鍵をにぎることになるのである。



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