メディア牢獄
コンピューター時代をどう考えるか


コンピューター批判の問題は、これまで、国民総背番号制や図書コード制の批判に象徴されるよう に、管理体制がコンピューターによって個人個人を一方的に支配・統合する点に焦占一があてられてき したがってその批判も、一方に権力措定し、それに対して反権力を対置させるやり方が支配的であ った。しかし、一九八○年代になって急速に顕在化してきたOA(オフィス・オートメーション)ブ ームのもとでは、このような一方的な批判や拒否はほとんど有効性をもたなくなったようにみえる。 国民総背番号制を実施するコンピューターは大型コンピューターであり、それを所有できるのは国 家や大企業のような大きな組織である。それに対して、OAブームで急速に普及しはじめたコンピュ ーターは小型のパーソナルコンピューター(通称"パソコン)であり、これは、大組織でなくても個 人所有が可能である。実際、パソコンは一九八○年代以降、小企業や家庭にも急速に浸透しはじめて いるわけで、日本電子工業振興会の調査によると、国産メーカー一九社が国内向けに出荷したパソコ ンの台数は、一九七九年度で四万六〇〇〇台だったものが、一九八○年度には一一万台、八一年には 三三万台に急増し、八二年度には五〇万台を突破するとみられている。普及した総数は、これに外資 系のパソコンの出荷数が加わるわけだから、一九八○年を契機にしたパソコンの普及率は異常な高さ に達する。
もっとも、星野芳郎は、すでに、「OAフィーバーは遠からず冷却していくであろう。オフコンや パソコンの伸びはやがて天井に達するであろう。そして、大型コンピューターの場合もそうだったが、 とうてい使いこなせないにもかかわらず、必要以上、あるいは人材の能力以上の高性能のコンピュー ターが企業のなかに点在するという風景が、あちこちに見られるにちがいない」(『技術革新を読む目』光 文杜)と警告を発しているし、宣伝につられてバソコソを購入してみたが、プログラミングが難しくて それを思うように使いこなせないユーザーが実際にふえているというニュースもある(『日本経済新聞』80 年11月21日号)。しかし、コンピューター業界はそうした問題を承知しており、そのため、業界はソフ トウエアの開発に力を入れはじめており、機械言語(側-00110101)はむろんのこと、プログラ ミソグ言語(BASIC)すら学はずに自然言語に近い言語でコンピューターを操作できるプログラ ム・パッケージはすでに入手可能である。プログラム・パッケージはまだかなり高価だが、給与計算、 財務管理、販売管理といった決まりきった計算のプログラム・パッケージがLPレコードの価格程度 で出まわるようになるのは時間の問題だろう。そうした既成のユーザーズ・プログラムを専門に作っ ているある企業の経営者は次のように言っている。 「この五年間ぐらいで五人に一台、つまりサラリーマンと言われる人たちの五人に一台まで普及して、 マイコンを理解しないと工場でも現場でも研究室でもオフイスでも仕事ができなくなると思います。 一〇年以内にはたぶん各家庭に一台、約三〇〇〇万台ぐらい入るという見通しをもっています。もち ろん値段はかなり安くなって、八五年ごろは、かなりいい性能のものが一台二、三〇万円ぐらい、九 〇年ごろには同様の性能のものが一台五万から一〇万円ぐらい。物価指数とのかね合いで見れば、い ま自転車を買うくらいになるでしようL(『VOICE』81年7月号)。
こうした予測は、明らかに、現在の日本の経済成長率がこのまま持続するという前提に立っており、 それが必ず実現するという保証はどこにもないが、少なくとも、日本の現在の支配体制がこのまま延 命する場合には、戦後資本主義がテレビや車の浸透したハイパー.アメリカ型の社会をつくりあげる ことに成功したように、今後の支配体制が、誰でもがテレビのようにコンピューターを操作する社会 をつくりあげてゆくことは確かであり、また、現在の支配体制がそのような方向を志向していること だけはまちがいない。
その際、重要なことは、コンピューターの大衆的な普及が、支配にとってどのような利点があるの かをわれわれがあらかじめ知っておくことであろう。大型コンピューターによる支配とちがって、小 型コンピューターの大衆的浸透を通じての支配は、(両者は別々のものでも、また前者が後者にかわ るわけでもなく両者が連動しあうのが今後の支配様式だとしても)、たんにコンピューターの使用に 反対するいコンピューターをヒッピー主義的に拒否するといった立場からでは、それを批判すること も、それに対抗することもできないだろう。というのも、コンピューターが過剰に浸透した社会にお いては、われわれが一方的に外部からコソピューターによって管理.支配されているということより も、ある日気がついたら(あるいは全然気づかぬまま)わたしがコンピューターでわたしを支配して いるといった事態が問題だからである。
パソコンの急激な普及によって顕在化してきた一つの問題は、すでにふれたように、一般のユーザ ーが自分でプログラムを組むのがむずかしく、既成のソフトウェア.パッケージに依存しなけれぱな らないということである。この問題に対して業界は、あらゆる用途に向くソフトウェア.パッケージ を用意してゆこうという体勢をととのえており、ソフトウェア専門の子会社づくりや、たりないプロ グラマーを海外に求めるといった現象が現われはじめている。この分でゆけぱ、ソフトウニアの多様 化と低価格化はそう先のことではなくなるはずだから、パソコンがこれ以上普及するか否かは、ユー ザーが既成のプログラムで満足するかどうか、独自のプログラムをこなす能力をもっている機械を所 有しているユーザーが、"主体性"を放棄して、出来あいのプログラミングに身をまかせるかどうか にかかっていることになる。いまや問題は、機械に対する意識であるよりも、むしろ既成のプログラ 繍ムを抵抗なくうけいれるかどうかという文化の問題であるわけである。しかし、この点に関しては、 惰われわれは、色々な日常機械の使用を通じて数十年以上もまえから、既成のプログラムに従って行動 をすることにならされてきたと言える。
そもそも、既成品とは、その使用法があらかじめプログラムされているもののことだが、ハイパー・アメリカナイズされた今日の日本社会では、ほとんどすべてのものがあらかじめプログラムされた既 成品である。既成のプログラムをそなえたコンピューターも、初歩的なものは、パソコン以前にわれ われの身近にある——すなわち切符や食品の自動販売機である。いまさら言うまでもないことだが、 切符の自動販売機では、乗客がどのような切符(……円の切符、子供切符等々)をどのような貨幣 (硬貨、千円札……)で買うかがプログラムされている。切符の自動販売機を利用する者は、こうし た"ソフトウェア・パッケージ"を使ってコンピューターの"キー・ボード"をたたくわけである。 その場合、この"コンピューター"には一般の使用者は勝手なプログラムを組みこむことはできず、 つねに向こう側から与えられたプログラムに従って理解し、パフォームしなければならないわけであ り、しかもそのプログラムは、使用者(乗客)の使用目的によってではなく、国鉄や私鉄のほとんど 一方的な決定によってプログラムされたものであるが、それにもかかわらずこうした強制は、直接的 な強制ではなく、プログラムを通じての強制であるために、その抑圧的な性格がカモフラージュされ てしまうのである。プログラムは完全に使用者の意志をこえているにもかかわらず、そのハードウェ アの操作が使用者の"自由意志"にまかされているために、使用者はあたかもプログラミングまでも 自由に行なっているような錯覚に陥ってしまうのである。
こうした新しい形態の支配——つまりプログラムを独占し、ハードウエアを"解放"する支配——は、既成のあらゆるハードウェアにつきまとっている。たとえば、ラジオやテレビのハードウェア自 体は、ラジオ・テレビの番組表にのっている放送を受信する以上の可能性をもっているが、われわれ はつねに、NHKと民間放送局によって作られたプログラムの枠をこえることはできない。というの も、われわれはハードウェア(受信機、受像機)を操作する自由はもっているが、そのプログラムを つくる——つまりわれわれ自身がNHKや民放の番組を編成し、放送する、さらにはわれわれ白身が 放送局をもつ——自由は与えられていないからである。ところが、こうした不自由も、放送局が一、二局で、放送時間も一日に数時問だけというのなら顕在化するだろうが、プログラムが多様化し、何 でものぞみの番組が用意されているような条件と環境がととのえられると、プログラミングの主体が あたかもわれわれの側にあるかのような錯覚が生じてしまう。技術革新も、まさにそうした詐術を補 完しているのであって、本当はプログラミングの民衆的革新と奪還が重要であるはずなのに、その方 は不変のままにして、やれ高忠実度だ、ハイパワーだ、音声多重方式だといったハードウェアの技術 革新だけに使用者の関心を向けるのである。テープレコーダーやVTRにしても、どう組みかえたと ころでその構造は変わりようのないプログラムをたんに技術的・ハードウェア的なレベルでだけ"自 由"に組みかえさせて、使用者を——まさにカラオケにおける——エセ・プログラミングの快感のな かにつかのま"解放"するだけの支配装置の機能をはたしてしまう。
プログラムが独占されているためにわれわれの身近なハードウェアの機能がいかに媛小化されてし まっているか、またその逆に、プログラムが使用者の掌中にもどるとき、そのハードウェアはいかに ゆたかな可能性を発揮するかについて、わたしは最近、おもしろい体験をした。非常勤で行っている ある大学で、ガタリやエンツェスベルガーのメディア論の議論に端を発して、わたしを含めた参加 一人一人がカセットニァープコーダーを使って"番組"を製作する試みを行なったのである。最 終的に一〇〇本以上集まったテープをきいてみて言えることは、われわれが意識的・無意識に既成の ラジオ番組——とりわけディスクジョッキー——のプログラミングの影響を受けており、マイクに向 かうとそれを模倣しがちだということだ。しかし、そうした惰性化したプログラミングを打破する可 能性もなかったわけではない。たとえば、自分たちのセックスの実演をステレオで録音してきたもの、 ある党派的な立場からわたしの講座と現状況を糾弾したアジ演説、警察のディスクールがいかに物象 化されているかを如実に示す警察無線の録音、これらは既成のマス・メディアのプログラムには決し て組み入れられることがないというかぎりにおいて、オーダナティヴの位置を確保している。が、た んなる批判的・オーダナティヴ的位置をこえて独自のプログラムを創造することに成功しているもの もあった。その一つは、身体と表現の関係を問おうとした一種のサウンド.パフォーマンスで、その パフォーマンスはマイクのまえで腕立て伏せを連続的に行ないながら(冒頭からハアハアいう声が入 ってきたので、わたしは一瞬「またセックス・パフォーマンスか」と思った)思考し、へとへとにな って言葉にならなくなるまでしゃべり続けるのである。もう一つは、先天的に聴覚を失っている学生 が作ってきたプログラムで、この学生にとって音は想像界に属するのだが、彼は街を歩きながらさま ざまな音をテープにおさめてきた。それは、彼にとっては視覚的な意味と文脈をもっているのだが、 その視覚的体験を共有Lておらず、しかも彼とはちがった形で聴覚世界にかかわっている"正常者" にとっては、一種の"ミュージック・コンクレート"のようにきこえ、まさに彼が聴覚世界に対して はたらかせているような想像力を発揮してきかなければならないような者なのである。つまりこのプ ログラムは——彼自身はあまり意識しなかったようだが——彼が聴覚的世界に対してもたらされてい る関係、そして彼が"正常者"の圧倒的な優位のなかでいつも味わされているものを、逆転した形で "正常者"に経験させるのである。
こうした実験は、国家や大企業による放送プログラミングの独占を一般大衆が奪還するならば、現 在与えられているかぎりの規制だらけの受信装置や録音装置でさえもが、意外な可能性にみちている ことを示唆しているが、他面において、こうした実験的なプログラムは、ガタリがフランスの自由放 送の流行を批判して言った「ラジオ狂的ナルシシズム」に似た状況が今日の日本の社会にも遍在して いることを示唆していなくもない。この一連の実験を通じて明瞭化したことなのだが、テープコーダ ーのマイクに向かってしゃべるということは、生身の他者に向かって話しかけるよりも——それがた とえ衆人環視の下であっても——気楽であり、人によってははじめは大いに抵抗があっても、じきに 苦痛でなくなり、ときには陶酔感すら与えるようになるということである。これは、われわれのなか に、テープコーダーは生身の他者よりもはるかに"すぐれた"聞き手なのだという信仰がっくられて しまっているのでなければ不可能なことではなかろうか?なるほどテープコーダーは、わたしの話 を"黙って""正確"に聞きとってくれる。が、"聞く"ということは正確に記録することだろうか? もし、チャーミングにあいづちをうってくれるテープコーダーが出来れば、われわれはチャーミング な話相手よりもこの装置の方を選ぶだろうか?が、現実には、われわれのなかではそのような欲求 が昂進しつつあるのである。
コンピューターに人問のかわりをさせたい——つまり人問のかわりをするプログラムをコソピュー ターに投入したい——という欲求は、まさにそうした欲求の最たるものである。ジョゼフ・ワイゼソ バウムは、一九六七年に"イライザ"という、人と英語で"会話"できるコンピューター.プログラ ムをつくり、マサチューセッツ工科大学でそのデモソストレーシヨソを試みたが、その結果はワイゼ ソバウム博士にショックを与えた。"イライザ"とは、「患者の言ったことを反復することによって、 忠老の内面をひき出すことを主なテクニックにしている」ロジャー学派のセラピーの技法をプログラ ミソグしたもので、それは、たとえば次のような形で"会話"を行うのである(ひらがなの部分は人聞の語 り、カタカナの部分がコンピューターの反応である)。 ——男ってみんな同じ ドノヨウニ? ——男って、いつもあれをしろ、これをしろって、うるさくてしようがないんですもの ナニカドクベツノレイヲアゲテクダサイ —そうね、ボーイフレンドがここに来るようにって言ったのよ ボーイフレンドガアナタヲココニコサセタ ——彼は私がいっもふさぎ込んでいるって言うんです フサギコソデイルトバ、オギノドクニオモイマス ——ほんとよ。私は幸福じゃないの ココニクルコトニョッテ、ブシアワセガラノガレルタメノ、タスケガェラレルトオモイマスカ? ——何か助けが必要、それだけは確かです タスケヲエルトイウコトハ、アナタニトッテドウイウイミガアリマスカ? ——だぶん、母との折り合いがよくなると思います アナタノカゾクニツイテ、モットハナシテクダサイ ——母が私の面倒をみるんです オカアサンノホカニ、ダレガアナタノメソドウヲミルノデスカ? ——父です オトウサソ ——あなたは私の父にちょっと似ています ドノヨウナルイシテソガアリマスカ ——それほど積極的でないところで、でも、私にそれを気づいてほしくないのだと思います ドウシテワタシカセッキョクテキデナイトオモウノデスカ? ——私に議論をしかけないから ワタシカアナダトギロソヲシナイノハ、ナゼトオモイマスカ? ——私が悪いからよ    (秋葉忠利訳『コンピューター・パワー』サイマル出版会)
ワイゼンバウムがショックを受けたのは、たちまち"ドクター"という名前で評判になったこの装 置に対して多くの精神科医が異常なほど期待を示し、これを使えば一時問に何百人もの患者をあっか うことができると考えたことだった。「セラピストが想像力を駆使して、患者の内的人生に自己移入 するためには、確かに多くの技術がある。しかし、セラピーの過程で必要不可欠なこの要素を、機械 による操作で置き換えてしまえと主張する精神科医がいたとは!これは私の想像だにしなかったこ とである」とワイゼンバウムは言っている。が、それ以上の驚きは、"ドクター"と"会話"する人び とがすぐさまこの装置と「深い感情的交流を持つようになり、しかも断固としてコンピューターを人 問と同等のものとしてあっかおうとした」ことだった。
レディメイドのプログラムが生身の他者のかわりをすることは、他者とわたしとの関係が、 ニセの"他者"(シミュレイトされた"他者")とわたしとの関係にすりかわることであり、しかもこ の"他者"は、決してわたしに反抗したり対立したりしない——"議論"しない——"他者"である から、それは、もはや"他者"というよりもわたしの分身にすぎないのである。すなわち、わたしは 人問=コンピューターと"対話"することによって、他者と出会うのではなく、わたしの分身とナル シシズム的にかかわるにすぎないのである。
問題は、こうしたナルシシズムが、単にあなたやわたしの個人的な好みの問題にとどまらないこと である。というのも、支配という観点からみると、このナルシシズムは、わたしから他者をうぱいと ってわたしを社会から孤立させ、わたしのなかに齢仲小掛かかかいを埋めこむことにほかならないか らである。それゆえ、わたしは、この"わたし"がどんなに操作されていてもっねに"わたし自身" だと思ってしまうので、旧タイプの支配におけるように、不自由と抑圧をはっきりと思い知らされな がら支配されるのではなくて、自分では"自己"に忠実に、しかも"他者"と対立なく、"しっくり" した社会生活を行なっているような錯覚をいだかされたまま支配されるのである。言うなれぱ、わた しはわたしの一都を"植民地"とされ、しかもわたしはそれを自分の"領土"だと思いこむことにな るのである。
こうした完壁に相互主体性を喪失したナルシシズム的社会への準備は着々とととのいつつある。自 動販売機やカラオケになれきってくると、それらのプログラムを組んだ者や組織の姿がみえなくなり あたかもそれらの機械を自分のプログラムに従って使用しているという錯覚に陥る。本当は、使用者 がちょっとわがままになれぱ、たちまち非人問的な本性を暴露するはずのそれらの機械・プログラム を、あたかも"他者"ででもあるかのように思いこまされること、これはプログラミングの独占を通 じて行なう支配のからくりである。
では、プろグラムの独占を奪還する可能性はどこにあるのだろうか?コンピューターの場合、パ ソコンの出現は、原理的には、大型コンピューターを道具にして個々人を一方的に支配する"コンピ ューター化された官僚制"の終焉に導く可能性をもつ。コンピューターという装置そのものはたしか にそのような潜在力をもっている。しかし、星野芳郎至言うように、「パーソナル・コンピューター は、職場の枠をこえて、職場秩序や企業秩序を揺り動かす可能性をかかえている」(前掲書)ため、各 人がプログラミングを自由に行ない、パソコンが内に秘めている大きな技術的可能性を最大限に活用 、できるような条件を国家や企業が無制隈に許すはずはない。最近、通産省が発表した『十年後の近来 来情報社会の青写真』によると、「各家庭はホーム・コンピューター導入で、日常生活は全自動化さ れ、視覚や人問の手足と同じような関節を備えた『動く知能的な家庭用ロボット』が登場し、主婦の 雑用を処理する」(『東京新聞』82年-月17日号)という。こうした発想は一見進歩的だが、実際には現状の 支配関係を維持し、さらにそれを強化するためのものであって、「情報社会」が出現しても"塞庭" や"主婦"とかの観念は不変のままにとどまることをのぞんでいるのである。現に、この記事に付さ れた(通産省が提供したと思われる)「自動化された近未来型の家庭」というイラストでは"主婦" が依然として台所に立ち、"夫"はソファにくつろいで葉巻かなんかをくゆらせているのである。こ れでは、プログラミングの独占を奪還するなどという姿勢が出てくる余地もなく、逆にいまより一層 広範囲にわたってわれわれの生活が公的なものによってプ日グラムされてしまうだろう。 コンピューター普及の現状がいかに反動的なもので雲かは、既成のソフトウ一アですら、それを 自由にコピーすることを法的に観制しようとする動きのなかにはっきりとあらわれている。コンピュ ーター企業二九杜からなるソフトウエア嚢振興協会は、一九八二年中にソフトウ一アの「法的保 護」躍に関する相談室を設置するという(『日本経済産業新聞』81年12月15日号)。これは、最近活発化して きた既成プ回グラムの"海賊版"を排除し、ソフトウェア産業の企業利益をまもるために、ソフトウ ェアの著作ないしは特許権を法的に確立しようとするものである。すでに指摘したように、既成のプ ログラムに依存するというだけでも、現実を規制の枠組でしか見ていないことに通じてしまうのに、 実際の動きは、既成のブ回グラムを個々人が既成という条件付の枠のなかで、"自由一に組みあわせ る可能性(そこにはこの枠組を破壊する潜勢力もある)すらも剥奪し、プログラムの流通を厳重に管理 しようとしているのである。これは、パソコンの世界をラジオやテレビの世界と同じような規制だら けの世界にしてゆこうとするものである。
しかし、おもしろいことに、レコードやヴイデオ・テープのコピーを規制できないように・コンピ ューター・プログラムのコピーを覆することは——その法律が何ない現状ではなおさらのこと ——不可能に近いということである。実際に、最近では、PIPS(ソード電算機)、VISICALC (米.アーツ社)、PAL(パ、ソテル.ビジネスアシスト社)、MDB(日本ソフト&ハード社)などの・買入すれば 三〇万円もするプログラム(それはディスケットに磁気記録されている)を買入し、それをひそか に一日五〇〇〇円から一万円ぐらいの料金で貸す商売が出来つつあるという。これは、ある意味で、 テクノロジーの進歩の逆説であり、そこから個々人が組織や権力と対等にわたりあうことのできる条 件が出てくる可能性がある。
しかしながら、最後に、プログラミングの独占を奪還することも、決してそれ自体が根底的な変革 の最終目的にはなりえないということを確認しておこう。最終の目的は、あくまでもプログラミング そのものの止揚なのである。いうまでもなく、プログラミングとは記号化であり、それにもとづくシ ミュレイツヨンは記号操作であって(それゆえ、記号論理学者や、記号学者が直接・間接プログラ ゾグに大いに役立っわけだ)、それらが現実そのものにとってかわることはない。言いかえれば、プ ログラムは、現実"ゼロ記号"ないしは記号の"ゼロ点"とし、それらとの記号的差異(さまざま な記号差)を組織したものなのであり、それに従ってコンピューターがシミュレイトした世界は、あ くまでも非現実的な世界なのである。この場合、主題を見失わないために、本源的な現実とは身体性 にほかならないと言いきっておくことにしよう。ここでは身体性についてのフッサールやメルロ=ポ ソティの諸考察に立入る余裕はないからである。したがって、プログラミングとシュミレイションは、 それがどんなにオートマティックに行なわれるようにみえるときでも、身体性——つまり個々の主体 の相互身体的な地盤—を根拠にしているわけである。
コンピューターに毒されたプログラプーのことを英語で"ハッカー"(hacker)というそうだが、"ハ ック"とは、辞書によると、「滅多切りにする」、「切り刻む」、「台無しにする」といった意味で、ま さに"ハック"とは、プログラミングとシミュレイションが今日のめりこんでいる事態を示唆してい る。ブライアン.デ.パルマの映画『殺しのドレス』には、女性の患者を滅多切りにする"狂った" 精神分析医が登場するが、広義のプログラミング/シミュレイションの一種である精神分析が、患者 に自己理解のための——つまり患者が自分の現実をとりもどすための——インデックスを与えること を逸脱して、患者の主体そのものと合体しようっまりそれを完全にプログラムし、シミュレイト しよう——という"野望"をいだくとき、このプログラミング/シミュレイションは、患者の主体を 切り刻み、台無しにする一つまり細分化し、物象化するところまですすむはずである。重要なこと は、プログラムされ、シミュレイトされた世界というものはっねに第二次的なものであることを忘れ ず、それが前提している第一次的な世界(生活世界)を解放状態二億個だが、カメラが徹底的な プログラミング機構を装備してしまい、人からカメラを操作する楽しみを奪ってしまった時代(カメ ラの終焉期)になってはじめて、カメラを使って(?)自分の眼で現実(女性の肉体)をのぞき見る("ア クション.カメラ術"の究極理念?)意欲が回復されはじめた(少なくともつかの問は)ように、第 一次的世界の解放要因が、テクノロジーのある種の過剰さのなかであらわれることもないとはいえま い。



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