難民の《保税制度》
日本政府は、一九九X年、ついに単純労働につくことを当面の目的として海外からやってくる外国人の入国を大幅に許すことにした。
これは、識者がくりかえし語っているところでは、いまや安定政権と化した海部政権のもとで、国際的には「経済大国」としての義務と姿勢を要求され、また、国内的には生活水準の高度化によって日本人のなかから安い労働力を求めることがますます難しくなってきたことによる。
実際、「国際分業の法則」から言っても、金のあるところに出稼ぎ労働者が集まるのは道理である。国によっては、そうした労働者が送ってくる外貨をあてにしており、国際的な出稼ぎは、世界経済の構成要素の一つをなしている。
しかしながら、日本は、経済活動の領域を国の外へかぎりなく拡げてきたにもかかわらず、「国際分業の法則」には抵抗してきた。日本は、ひょっとすると、一見資本主義の論理に従っているように見えながら、資本主義とは別のものをめざしていたのかもしれない。ある学者は、かつて、「天皇制は行き着くところ社会主義なんですよ」と言ったことがある。
いずれにせよ、ほとんどあらゆる点で「アメリカ化」しながら、日本は、「日本人は日本人である」という虚構をかたくなに守ろうとしてきた。だが、その間にも、「アメリカ化」はどんどん進み、かつてアメリカが経験した「脱工業化」や「ポスト・サービス化」とやらを二、三十年遅れで経験することになった。
「ポスト・サービス化」とは、当初「愛情」や「好意」で提供されていたサービスに値がつくようになり、タダ働きというものが一切なくなる資本主義のある段階を言う。その結果、人件費はますます高くなるので、サービスの多くを機械化や海外からの安い労働力で代替しなければならなくなる。
アメリカは、しばしば、自国の「ポスト・サービス化」をのり切るために第三世界を意図的に貧困にしておくのだと非難されてきた。なるほど、極度に安い賃金でもがまんして働かざるをえない人々を世界のどこかにプールしておけば、安い労働力を確保することは可能である。
その点日本は、「人道的」であったのかもしれない。日本は「善意」の国である。戦争をすること、他国を貧困状態に置いておくことなどめっそうもないと思っている。だから、成り行き上軍隊をもってしまっても、軍隊をもっているとは公言することが出来ないし、日本が「裕福」にな
っただけ他国を相対的に「貧困」にしているとしても、それは本意ではないと信じて疑わない。
しかし、経済のロジックは、心のロジックではなく、「気持ち」や「意志」を越えて機能するものだ。自分の国だけが他に抜きんでて富裕になってしまうことも、独裁者を援助して民衆の貧困を永続させることに劣らず、他国の人口的貧困化である。
そこで、日本は、そのかぎりなき「善意」にもかかわらず、一九八〇年代になって、世界の国々から非難をあびることになった。外にむかって攻撃的なまでの進出を続けながら一向に内への門戸を開かないというわけである。
一九八〇年代末になると、外国からの出稼ぎ労働者問題は、日夜、新聞・テレビをにぎわせるようになった。企業は、のどから手が出るほど安い労働力をほしがっていたし、海外からの圧力もいや増しに増していた。
法務省は、あとからあとから法の網をかいくぐってやって来る「不法就労者」に手を焼き、いっそのこと窓口をオープンにしてしまったらどれだけ楽だろうと思っていた。また、外務省は、国際信用上、もうこのままではやっていけないと感じていた。通産省が「開国派」であったことは言うまでもない。
労働省が、自国の労働者の就労を保証するために「開国」に反対したのは当然だが、労働市場の「開国」を阻んだのは、もっと文化的な要因だった。「日本人のアイデンティティ」が壊れる――これが最後まで争点になり、この点では「開国」論者も定見がなかった。
安い労働力の不足による経済の破綻や国際信用の失墜を「開国」派から突かれたときの「鎖国」論者の切り札は、「来たるべき文化的混乱に対して十分な用意があるのか」という問いである。こう言われると、文化的多元主義を標榜する心情の「開国」論者も、一瞬言葉につまり、「人間はみな平等なのだから」などと口走って、「鎖国」論者の嘲笑をあびることになる。
残念ながら、深夜のテレビまでもにぎわしたこの「開国/鎖国」論議は、一度として、人類や国家の進むべき本質的な方向という観点から論じられたことはなかったし、そのような観点をおさえているはずの人々は、決してこの種の議論に加わることがなかった。
そしてあの事件が起こった。一九八九年八月、九州・沖縄地方に漂着した難民のなかにベトナム人をよそおった中国人が多数含まれていることが判明し、やがて、それが、すでに数年前から組織的に行われていたことが明らかになった事件である。
初め、新聞やテレビは、この事件をセンセーショナルに報じはしたものの、この事件がもつ未来的な意味を全く認識していなかった。当局もまた、この事件に対して現行法をもって対処したにすぎなかった。そのため、「偽装難民」は、一旦国際救援センターなどに保護されたのち、入管事務所でスクーリングを受け、大多数が「不法入国中国人」と認定されて本国に強制送還された。
当時わたしは、ある雑誌の取材のために、東京の品川区八潮にあった「国際救援センター」を訪れたことがある。JRの大井町駅からタクシーに乗り、東京湾沿いのひと気のない大通りを「みなとが丘埠頭公園」の方に行くと、貨物の引っ込み線が無数に走る地帯にはさまれた殺風景な場所に金網で囲まれた収容所のようなバラック建が見えた。
金網の上には有刺鉄線が張られ、道路とのあいだは線路と深い溝でへだてられている。かつては道路からの通路になっていた歩道橋にも、大きな鉄板が張られ、入口は一か所になっている。そして、その入口には機動隊が常駐し、わたしが金網ごしになかをのぞいていると、すぐに警官がやってきてわたしを尋問した。
金網の向う側には、バレーボールをしたり、散歩をしたり、本を読んだりする東洋人の姿が見える。子供たちは、どこからさがしてきたのか大きなダンボール箱を頭からかぶって遊んだりしている。彼や彼女らは、一見、優雅であり、のんびりした生活を楽しんでいるかのようである。しかし、ナチの強制収容所も、最初の段階ではこんな感じだったのではないだろうか?
しかし、わたしがそんなセンチメンタルな憤りを感じているあいだに、全く別のことを考えている人物がいたらしい。というのも、やがてこの「国際救援センター」が、海外からやってくる出稼ぎ労働者を収容する場所の基本モデルになったからである。
すなわち、一九八X年に労働の「開国」が決ままると、政府は、日本の各地にこれと似たような施設を作り始めた。それらは、大抵、空港と海に近い場所に作られ、一般の日本人が住んでいる地帯を全く通らずに空港や港から直接アクセスできるようになっている。
ところで、おもしろいことに、「偽装難民」事件があった一九八九年に、横浜美術館は、保税制度を逆手に取ることによって「保税美術館」の認可を取付けることに成功した。
保税制度というのは、外国の貨物を関税保留のまま二年以内にかぎり保管しておくことが出来る制度で、元来これは、輸出入の便をはかるためのものであるが、横浜美術館は、この制度のもとでは外国貨物を一定期間展示出来るということに注目し、「保税美術館」の認可を申請したわけである。
これによって、閲覧者の資格は制限されるとしても、「猥褻物陳列罪」などという前時代的な日本の法律のためにはばまれて展示することが出来ない芸術作品をとりあえず展示する道が開けたわけである。
「国際救援センター」を全国に作る構想は、まさに海外からの出稼ぎ労働者や難民を「保税」処置することであり、これは、「保税美術館」の発想と一脈通ずるものをもっている。
一方は品物で他方は人間というところが違うが、外国からの物と人に絶えず一定の距離を作っておき、決して抜本的ななところに手をつけずに結果だけをすり合わせる点は、両者とも全く同じである。つまりは、出稼ぎ労働者や難民の「保税センター」が作られたわけである。
海外からの難民と出稼ぎのは、一九八X年から、以前よりもかなり自由に日本に入国することが出来るようになったが、彼や彼女らが動き回ることが出来るのは「保税センター」のなかだけである。
保税地域では、外国貨物を輸入手続きをせずに、展示することが出来るほか、加工や製造も出来る。これと全く同様に、「保税センター」で出稼ぎや難民の人々は、労働に従事することが出来る。政府は、これによって、彼や彼女らが日本人と自由に直接接触することを避けられると同時に、完全な労働管理のもとで安い労働力を得ることが出来るようになったわけである。
一部の国々は、この措置を人道主義に悖るとして非難したが、いまやレーガンの記録に迫る長期政権を打ち立てたブッシュ米大統領は、「それは日本の国内問題である」として、むしろ、日本が結果的に国際分業の「正道」を守ったことに満足の意を示したため、じきに国際的な非難の声は聞こえなくなった。
かつて石油コンビナートがあった一帯にも巨大な「保税センター」が建てられ、そのなかにはさまざまな工場が作られている。中曽根政権の時代以後急速に進んだ「規制緩和」も、ここでは全く無関係である。官民が一体となった生産が計画的かつ効率的に行われ、ここから日夜、製品を満載したトラックと貨車が出ていく。
日本経済は、これで安泰であろう。しかしながら、最近の東京を歩いていると、気になる変化が目立つ。
それは、町角や店内に以前よりもはるかに多く自動販売機が置かれるようになったことである。スーパーマーケットのなかには、完全なセルフサービス化を行なったところもあり、いままで品物をひとつ一つレジに打ち込んでいた女性(なかには東南アジアからの女性もいた)は姿を消し、代って、品物に貼られたバーコードを自動的に読み取り、支払金額を請求し、客がそれを支払うと、品物を自動的にパックする装置が設けられた。
ウエイターやウエイトレスのいる喫茶店やレストランは高級化し、そのような店に出入りする層とそうでない層との格差は開く一方である。
街にも職場にも、ある程度教養や金のある外国人は増えたが、多元的な文化は一向に育っていない。というのも、彼や彼女らと日本人との関係は、概してキレイごとにおわってしまうからである。
コンフリクトのないところには、新しい文化は生まれないし、まして多元的な文化は生まれえない。
「鎖国」論者は、しばしば、外国人を無制限に入れると犯罪が増え、治安が悪くなると主張し、その例としてベルリンやパリを挙げるのを好んだが、そのような意見は、パリやベルリンがアラブ人やトルコ人を入れることによって得た文化の多元化的側面を無視しているのである。
それにしても、都心から車を三十分も走らせると、「保税センター」があり、その金網の向こう側に熱い「異文化」が温存されているというのは、十年まえにくらべれば、はるかに好ましい状況である。日本人は、この異文化に出会うチャンスを可能性としてはもっているからである。
最近耳にした話だが、品川の「保税センター」から、深夜になると、中国のともベトナムのとも、またタイのともわからぬ(とその人は言う)ナウい民俗音楽が、海賊放送の電波に乗って流されており、既存のFM放送局をあわてさせているという。
出稼ぎの労働者が仕事のすさびに工場の片すみに海賊放送局を開設したのであろうか? わたしも是非今夜聴いてみようと思う。