国際化のゆらぎのなかで 18

秋葉原サイズのニッポン

 秋葉原を歩く。ある土曜の昼下がり。月給日直前のためか、人出がいつもより少ない感じがする。ひょっとして、最近の秋葉原から人の足が遠退いているのかもしれない。家電製品に関しては、都心のいたるところに「秋葉原価格」で安売りする店が出来たために、電気製品といえば秋葉原という定式が通用しなくなったことは確かである。  しかし、秋葉原は、よきにつけあしきにつけ、日本の戦後の「顔」を代表する都市であり、その変化は、とりもなおさず日本のそれに通じる。そして、その点では、日本の「国際化」も、秋葉原サイズで考えた方がよいし、どのみち、日本の「国際化」は、秋葉原が「国際的」であるという以上のことを望むことはできないのではないかと思うのである。  周知のように、戦後の秋葉原のにぎわいは、ヤミ市的な露店から始まった。売り物の目玉は、駐留するアメリカ軍から払い下げられた中古の放出品(ジャンク)であり、やがて、朝鮮戦争で浮上してきた「特需」とともに活気づいた零細産業が生産する電気=電子部品であった。  この時点では秋葉原は、まだ家電の街ではなく、ラジオ屋や工作マニアのための卸問屋街であり、いまのように誰でもが買い物に行く場所ではなかった。しかしながら、トランスナショナルな意味での風通しのよさという点では、一九四〇年代末から五〇年代の秋葉原がいまよりも劣っていたということは言えない。むしろあの当時の方が、アメリかや東南アジアからの、そして日本全国からの「あやしげな」人の出入りが激しかったと言えるかもしれない。  一九五〇年代後半以降、日本経済が復興し、ソニーのトランジスタラジオやトヨタの自動車が少しづつ海外市場に浸透していくにつれて、秋葉原は、家電の街になり始めた。ラジオのパーツを売る露店商的雰囲気の店舗はなくなりはしなかったが、テレビや電気洗濯機を売る店が増えてきた。そしてこの流れは六〇年代末にピークに達し、七〇年代まで続くのである。  おそらく、この時代が一番、秋葉原の「ヤミ市」的性格が薄れたのではなかったか。都心のどこよりも家電製品を安く買えるというので、シロウトが秋葉原を目ざした。時代はようやく消費の「高度化」の第一段階に突入し、人はせっせと家庭の「電化」につとめた。こうして、儲けの規模ではとるに足りないジャンクやパーツの販売は、きらびやかな電化製品の販売の圧倒的な成長のまえでかすんでいった。ラジオやテレビは、もはや、趣味や特殊な要求以外には手作りされることはなくなっていたので、この街の主役はラジマニアやエンジニアではなくて一般の消費者となった。  おもしろいことに、経済的に活気づけば活気づくほど文化的な多元性を失うのは日本の特徴であり、わたしはそれを「利潤率の傾向的低下の法則」をもじって「国際度の傾向的低下の法則」と名づけたことがあるが、秋葉原も例外ではなかった。国際性の基本は、必ずしも外国人がたくさんいることではなくて、さまざまな人間が出入りし、出入りできる多様さとしなやかさをそなえていることである。六〇年代の消費者は、家庭で使う基本製品をそろえるという要求で動いていたわけだから、そこに多様性を求めても無理である。秋葉原は、こうして、ラジオマニアやエンジニアにとっては居心地の悪い街になっていった。  これは、海の外側から日本を垣間見た場合の印象とアナロガスである。高度経済成長以後、日本は、その活気とは裏腹に、その動きが外部には閉ざされているという印象を与えてきたが、外から日本を見たときの社会的印象(ある者は「神秘的」と呼び、ある者は「閉鎖的」と呼ぶ)を、秋葉原は先取りしていた。  円高が進み、海外からの観光客は、日本の「発展」とは反対に、どこかで自分たちが疎外されているという意識をもつことが多いようだが、六〇年代後半から秋葉原は、ある程度のまとまった金をもって買い物に行く者のみが楽しめる街になり、子供の小づかいでも、掘り出しものが買えるような街ではもはやなくなったのである。  しかしながら、いま、秋葉原は、もう一度変貌し始めてる。明らかに、札びらを切る客は減っている。主に家電製品をあつかうデパートのような電気店は、先行き経営が難しいだろう。「何、おさがしです?」とか言って、紅燈街のポンビキを思わせるようなシツコさで迫ってきたパンチパーマのオニーサンたちの姿もめっきりと減った。  ジャンク屋が復活しているのは象徴的なことかもしれない。日比谷線秋葉原駅の周辺や中央通りを越えたラジオストアーの裏側の一帯には、コンピュータ、レーダー、ヴィデオ等々の機器を構成する雑多なパーツ類を売る店が近年増えている。そこで売られているものは、ジャンクというよりも、一流メーカーの完成品からとられた、あるいはそのための新品の部品であり、モデルチェンジなどで不要になったものが流れてきたのだと思う。  そんな店の一軒であるAを訪れ、おそろしく混みあう店内で品物をながめていたら、「ココム禁制品のため、海外に持ち出す際には通産大臣の許可がいります」という但し書きのついた部品が目についた。ココムがずばり出てくるのも「国際都市」秋葉原ならではだが、問題の部品は、トランシーバーなどに使うパワー・トランジスタのモジュールで、定価で買えば五~六〇〇〇円はするものが、たったの七〇〇円で売られている。  こういう店が人気を呼んでいるということは、こうした電子部品でモノを作る人口が増えているということになるのだろうか? 秋葉原は、もともと、製作の街だった。「製作」というといささか大袈裟な印象を与えるかもしれないが、むしろ、手作り的な製作、つまりはウィリアム・モリスの言うところの「レッサー・アーツ」の街である。この「伝統」は失われていないし、この点に執着するのでなければ、秋葉原は、衰退してしまうだろう。完成品をハデに売りさばくことは、秋葉原の「伝統」ではないのだ。  こうした新傾向のジャンク屋とともに、いま秋葉原で目立つのは、コンピュータのハードとソフトを安売りする店である。ヴィデオやワープロの販売では、秋葉原は、ヨドバシやビッグカメラなどに押されぎみだが、コンピュータのハードとソフトに関しては、まだ優位を保っている。現物に触ってみてすぐ買おうとしたら、当面、秋葉原が一番便利だろう。しかし、この優位も、いつまで続くかどうかわからない。すでに、東京の各所にバッタ屋風のコンピュタ・ショップが出現し、秋葉原価格ないしはそれよりも安い価格で製品を売りさばいている。そのとき、秋葉原は、どこで差をつけるのか?  コンピュータ用品を買う場合、たとえば、ハードディスクやパソコン通信のモデム、また、さまざまな用途のソフトを即座に安く手に入れようと思ったら、秋葉原に行くしかない。つまり、どこかに「製作」という側面が出てくると、秋葉原は、依然として、ツヨイのである。  ところで、一つ強調しておきたいのだが、コンピュータというものは、そのハードもソフトも、決して完成品ではありえない。ハードは、あとから周辺機器を買いそろえてグレードアップしていくように作られているし、ソフトも、プログラムを組み合わせて自分流の道具にしてこそ機能を発揮する。ゲームソフトのような一見完結した製品のように見えるものでも、それは、使用者が空想世界を能動的に構築するための道具であり、テレビで一方的に送られてくる画像をながめるのとは格段の相違である。  コンピュータが今後テレビなみに普及した場合、当然、そのハードやソフトは、街のいたるところで売られるようになるだろうが、そのとき、秋葉原は、コンピュータに対してどのようなスタンスをとるのだろうか? むろん、そのときにはそのときで、また新しい電子装置が作られ、それを売りさばくようになるのであろうが、おそらく、コンピュータに関しては、ソフトの「ジャンク屋」のようなもののなかに秋葉原の「伝統」が生き残るだろう。  コンピュータのソフト業は、もともと、意外なおもいつきが勝負のスキマ産業だが、その最も「本来的」な要素を発展させる場としては、秋葉原しかないように思う。秋葉原のなかで、前述のジャンク屋Aとならんで、最近若者たちでにぎわっているコンピュータ店Sをのぞいてみて気づくのは、渋谷や新宿でも目にするソフトのなかにまじってならんでいるミニコミ風のソフトである。パッケージだけ見たのではどんな走り方をするのか皆目見当のつかないソフトもある。  おもしろいと思うのは、コンピュータの普及によって、秋葉原のような電気街が、単なる「物」の街ではなくなってきたことである。コンピュータ・ハードは、確かに「物」であるが、それは、ソフトがなければ意味がない。そして、コンピュータのハードウェアは、その性能が高度になればなるほど、手づくりは出来なくなる。しかし、その半面、情報に関しては、さまざまな加工が可能になるのであり、名人の皮膚上の指が構築するような微妙な世界を情報レベルで構築することが出来るようになるはずである。すでに、コンピュータの操作は、手技のレベルに入り始めている。  が、そうだとすると、電気街は、おのずから、芸術との関係を深めていかざるをえないだろう。アート関係の友人や知人のなかには、先程のAのような店で材料を集めてインスタレーションやパフォーマンスをやる者がかなりいるし、わたし自身、そのような方向の「作品」を発表し、「装置派」の標榜者と見なされたことがあったが、秋葉原をアート的な意味でオシャレな街と感じている人も増えているようだ。  アートといっても、単にLEDをチラチラ点滅させるインスタレーションを作ったり、コンデンサーやICチップを単なるデザインとしてあしらったオブジェを「エレクトロニクス時代のアート」でございと展示するのでは心もとないが、そういうものとの関連も含めて、秋葉原が《エレクトロ・アート》と深い関係がある街であることは否定できないし、秋葉原が《エレクトロ・アート》とのそうした関係を発展させていくならば、実にユニークでおもしろい街になることはまちがいない。  ひるがえって、秋葉原の歴史と可能性とを、日本全体に拡大してみると、日本の経済発展やテクノロジー政策で欠けているものが少しはっきりしてくるかもしれない。高度経済成長の立役者池田勇人が、外遊でフランスを訪れたあと、ドゴールは、彼の印象を「トランジスタラジオのセールスマン」と言ったと報道されたことがある。それは、外側から見た当時の日本の「顔」を表象させるにはまんざら不当な形容ではないだろう。  問題は、その後も日本が、依然として「セールスマン」のイメージしか打ち出せないことであり、初めはツルシのセビロを着ていた「セールスマン」が、ブランドものに変わった程度の変化しかしていないことである。  なぜ、映画会社や都市をまるごと買うのではなく、つまり〈器産業〉に徹するのではなく、〈製作=創造〉に転じないのだろうか? 秋葉原が、バッタ屋やカメラ屋に押されて、手技に注目せざるをえないように、日本は、いずれ、流通や金融のような〈器産業〉にとどまっていられなくなる時期が来るだろう。  秋葉原が、アートの街に転身することが出来るかどうか、これは、九〇年代の日本の帰趨と無関係ではないかもしれない。



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