国際化のゆらぎのなかで 15

権利としての「無国籍」と「無戸籍」

 「在日日本人」という言葉を考え出したのは、たしか津村喬だったと思うが、それは、民族と国家とがつねに不可分離のものとしてとらえられやすい「日本人」を異化するためには効果的な言葉であった。  人は、民族的な意味での日本人としては選択の余地のない仕方で生まれて来るとしても、その人が「日本国民」であるかどうかは、意志的な選択の領域に属する。人は、国籍を所有して、ある国家に属するときその国の国民になるのであって、生誕地によって自動的に国籍が決められるとしても、それを変更することが可能であり、国籍とは、ある意味で、どんな家屋に住むかといったレベルの問題にすぎないのである。  こんなことは、近代国家と個人との関係の常識であり、日本国憲法も、その第二十二条で「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」とし、国籍の絶対性を否定している。  しかし、現実には、〈日本人であれば日本国民であることが当然〉、あるいはその逆に、〈日本国民は日本人だけで成り立つべきだ〉といった意識が依然根強く、国籍は天から降ってくるかのような社会意識がはびこっているのである。ここでは、日本人は「日本人」としての自覚を高めれば高めるほど、国家主義的な「日本国人」になってしまう。  そこで、日本では、日本人が個人としての自覚を高めるためには、自分を「在日日本人」としてとらえ直してみる必要が出て来るわけだが、その場合、意識のなかで理論的に自分をとらえ直してみるだけでは不十分だろう。また、前回のように「外国人」のフリをしてみるというのも一つの方法であろうが、これも理論実験の域を出ない。もっと「客観的」に「在日日本人」である方法はないのか?  一つの方法は、あなたが民族的に日本人であるのなら、国籍を離脱することである。あなたを規定している「日本人」と「日本国人」のうち後者をとりはずすことによって、意識的に日本にいる――つまり「在日」する――「在日日本人」になるのである。  ただし、今回、国籍離脱について六法全書を読み直したり、法務省に問い合わせたりしてみて、あらためて痛感したのは、日本という国は、たとえ国籍を離脱したところで、国家を離れた個人としての日本人に向き合うことが非常に難しいということである。  国籍法第十一条は、「日本国民は、自己の志望によって外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」としており、また第十三条は、「外国の国籍を有する日本国民は、法務大臣に届け出ることによって、日本の国籍を離脱することができる」として、外国の国籍を取りさえすれば国籍の離脱が出来ることを規定している。  しかし、日本の国籍は離脱しても、すでにそのときには外国国籍をもっているわけだから、その離脱は、個人が国家への従属から離脱することではなく、単に手続きの上で「離脱」したにすぎない。これは、憲法が保証している「国籍を離脱する自由」とは根本的に異なるレベルの国籍離脱であり、そこでは、憲法第二十二条に含蓄されている理念が意図的にそぎ落とされているのである。  これは、国家を単なる実利的な管理機構、憲法をその実用マニュアルとみなすのならば、当然帰結するの憲法解釈かもしれない。しかし、国家にはつねに、国家を代表する現政権をこえる理念的側面が含蓄されており、憲法はまさにそうした部分を保証する理念体系なのである。  かつて中曽根康弘は、首相の時代に、「憲法も人間が作ったものだから、実情にあわなくなれば改正しなければならない」と述べたことがあるが、これは、実に浅薄な国家観であると言わなければならない。というのも、憲法を改正する必要が出てくるのは、国家そのものの理念が変革されるべきときであって、実質的な国家機構が実情にあわなくなったときではないからである。憲法は、単に現状を規制するだけの実利的な運用規則ではなくて、未来を方向づける理念を概念化している。  現憲法に関していえば、その理念は、その大半が実現されていないのだから、いまの時点で憲法を改正しようということは、理念の実現を中途半端に放棄することでしかない。改正によって「新しい理念」が構築されたとしても、現憲法の理念(たとえば反戦や政教分離)すら実現できない政権には、新しい理念を実現することなどとうてい出来ないだろうから、安易に憲法改正を唱えることは、反動化にしか役立たないだろう。  憲法第二十二条が言う「国籍を離脱する自由」とは、個々人が国家に対してある場合には距離を取ることが出来るということを保証した理念的表現として理解すべきである。言い換えれば、この「離脱」は、個々人が「無国籍者」になれることを理念的に保証したものであって、外国国籍の取得を交換条件として離脱を認めるなどということを規定してはいないのである。  国家は、現実的な体制、個々の政権としては、誤りを犯しうる存在である。そのとき個々人は、そうした体制を批判・変革するために「集会・結社・表現の自由」を理念的に保証されており、また「無国籍者」になる自由を保証されているのである。  しかしながら、国籍の離脱に関してこのような市民的理念が問題になることはなく、国籍の離脱や無国籍の問題は、もっぱら手続き上の一プロセスないしは「望ましくない」事態とみなされている。  たとえば、法務省民事局第五課・国籍実務研究会編『新版 国籍・帰化の実務相談』では、「国籍離脱の要件としては、国籍離脱をしようとする者が外国の国籍を有する日本国民、すなわち、重国籍者であることを要します」と明言し、「国籍法が重国籍者についてのみ国籍離脱を認めているのは、『国籍唯一の原則』に基づき、重国籍を解消するとともに、国籍離脱の結果、無国籍となることを防止するためです」としている。  これは、むろん、国家体制の側としてはあたりまえの対応だろう。法務省の見解を代弁していると考えられる徳永秀雄は次のように言っている。  「日本国籍を離脱して無国籍となる場合でも離脱を許すときは、国家はその成員たる国民の多数を失う可能性があり、国家の存在自体を危くするおそれがある。したがって、憲法の条項は、個人の利益保護と国際間の紛争の防止・国家自身の利益保護の見地から、無国籍者の生ずることを辞さないという趣旨ではないと解すべきである」(『改正 国籍を渉外戸籍』)。  しかし、すでに見たように、この条項は別様にも解釈出来るし、そうしてこそ憲法の理念が生かされる。国家体制としては、国民が「無国籍者」となり、国家成員が減少するのは問題であろうが、もしそのようなことが起こるとしたら、体制は、なぜそのようなことが起こるのかを考えるべきである。国民を体制につなぎ留めてておけない理由を真剣に受けとめるべきである。もし、その体制が国民にとって魅力あるものであるならば、国民は国籍を離脱しようとはしないだろう。  ところで、法務省の発表したデータによると、一九八五年から一九八七年にかけて「国籍喪失者」と「国籍離脱者」の数は、減少の傾向にある。国籍喪失者とは、「自己の志望により、外国の国籍を取得したことによって日本国籍を喪失した」者のことであるが、一九八五年に七四〇人だったのが、一九八七年には五三一人に減っている。また、「外国の国籍をも有する日本国民で日本の国籍を離脱した」者は、一九八五年に二九八人であり、一九八年には二五九人である。  このなかには、国籍に関して生地主義をとる国(たとえばアメリカ)で生まれ、二重国籍となった日本人、親・親戚がすでに日本と何らかの形で関係をもっている朝鮮・中国人が含まれている(法務省民事局第五課でそのパーセンテージをただそうとしたが、教えてはくれなかった)ので、海外に出ていく日本人が多くなったにもかかわらず、国籍離脱する人口はそれほど多くはないことがわかる。  それは、日本の経済発展と関係があるのだろうか? つまり、日本国人であることが以前よりもはるかに魅力あるものになり、国籍を離脱する者が少なくなっているということなのだろうか?  そういう一面はたしかにあるだろう。外国人のなかにも、日本国籍を取得したいという希望をもらす者が増えているように思う。それは、日本が好きになり、「日本人」(正しくは「日本国人」)になりたいということではなくて、日本を自分の永久的職場にしたいために国籍を取りたいという場合が多いのだが、ずれにしても、「帰化」希望者は増えているように思う。  しかしながら、統計によると、「帰化許可者数」も減少の傾向にあり、「国際化」とは裏腹の現象が見られるのである。一九八五年の「帰化許可者」数は六八二四人、一九八六年は六千六三六人、一九八七年は六二二二人である。  このうち、八〇%が朝鮮人、一〇%強が中国人であり、その大多数は、すでに親兄弟が日本と少なからぬ関係をもっている人たちであるというから、新参の外国人で日本国籍を取得した数は非常に限られていることがわかるのである。  日本は「国際化」へ向かって突進んでいるというが、それは見かけと経済進出だけであって、国の壁は想像以上に厚く、高く、そう簡単に外国人が日本国籍を取ることはできないようだ。  国籍法第五条は、「帰化」を許可することの可能な外国人の条件として以下の六点を列記している。   ①引き続き五年以上日本に住所を有すること。   ②二十歳以上で本国法によって能力を有すること。   ③素行が善良であること。   ④自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によって生計を営  むことができること。   ⑤国籍を有せず、又は日本の国籍の取得によってその国籍を失うべきこと。 ⑥日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴  力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する  政党その他の団体を結成し、若しくはこ  れに加入したことがないこと。  ここで不思議に思えるのは、「帰化」の条件として、国家の転覆や破壊活動に関する注意事項はやけに入念だが、国家の新たな成員として第一に必要な基本事項つまり憲法の遵守に関する条項が見当たらないことである。このことを法務省に問い合わせてみると、即座に答えが返って来たが、それによると、憲法の遵守は、第三項で十分に満たされているというのである。  しかし、「素行が善良である」ということは、イコール憲法を正しく守ることだろうか?この国の現政府のもとでは、憲法に忠実であることによって、逆に警察に逮捕されたり、「反戦活動家」、「左翼」といったレッテルを貼られることもある。自衛隊の存在や軍事費の増強に反対するデモに参加する者や政教分離の原則に反する国家行事に反対する声明を発する者は、いまの政権のもとでは「素行が善良である」者とはみなされない。  「素行が善良であること」などというあいまいな、非理念的な表現からは、そのときどきの政権の価値観にとって「善良」であるというだけの意味しか導き出されることはない。これでは、この国を本来の意味で(国家理念的に)活性化するような外国人は決して日本国籍を取得することができず、ただただ現政権に忠実な外国人だけがわずかに国籍を許されるということになる。  さらにもう一つ問題なのは、日本国憲法第十四条が、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定しているにもかかわらず、国籍法は、国籍を取得した外国人の民族性・エスニシティを尊重せず、「帰化」という歴史的には非常におぞましい記憶を宿した言葉を無反省に用い、日本国籍を取得した外国人は、民族的にも「同化」するものとみなしている点である。しかし、この「同化」は、せいぜいのところ皮膚の色が似ているアジア人に対してしか通用しがたいから、欧米人や黒人は、たとえ日本国籍を取得したとしても、依然「外人」であり続けるというわけである。  こうした差別を制度化しているのが戸籍制度である。戸籍とは、民族的に「日本人」であることを公証する文書であり、そこに国籍を取得した非日本人が登録されるとしても、それはあくまでも日本人ではないということを明記するためになされる点で、極めて人種差別的な性格を有する制度である。このようなものが今日まで生き延びてきたのは、日本が外国人に対して鎖国体制を敷いてきたからであり、民族性・エスニシティから切り離された国家――したがってどのような民族でも国籍を取得して住むことの出来る多民族国家になることをおこたってきたからである。  憲法を遵守するならば、戸籍制度は違憲である。現在、日本には、たとえば国籍を取得しながら戸籍の届け出を「怠たった」り、あるいは日本人の子供でも出生届けを出すことを「怠った」者の場合のように、日本国籍を有しながら戸籍をもたない人が存在するが、これらは、戸籍法第一二〇条によると、「三万円以下の過料」に処せられることになっているが、「三万円以下」といういまとなってはあまり強制力のない金額がすえ置きとなっているのは、戸籍の届け出を怠る者が少ないということもさることながら、潜在的には、新憲法が制定されたにもかかわらず、明治以来の差別的な法律を無批判に引き継いできたことに対する後ろめたさのためである。  そもそも、戸籍が、「届出主義を原則としており、しかも届出の受理についても原則的には形式審査(書面審査)をたてまえとしている」(法務省民事局第五課・国籍実務研究会編前掲書)のは、届け出者のそうした自発性となれあいに依存した形でしかこの制度を維持する憲法上正当な手立てがないからである。  積極的な意味においては、無国籍者とは、かならずしも国家を否定する者ではなく、むしろ国家が個人の居住の自由に関与するのを拒否し、逆に国家に対して市民権を要求する者のことでもあるが、無戸籍者とは、国家が個人の素性やエスニシティの特権化と差別に関わることを拒否し、個人の自律権つまりは人権を要求する者のことでもある。



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