自転車に乗った出稼ぎ女性たち
日本が「アメリカ」や「ヨーロッパ」のまねをすることが「国際化」だと言ってすませられる時代は終わった。真の国際化は、好きならまね、いやなら無視すればよいただの流行ではない。それは、資本の高度化とともに不可避的にやってくる社会的・文化的変化であり、中曽根前首相が呼び掛けなくてもすでに始まっていた変化なのである。
言うなれば美名に包まれた上からの「国際化」と、システム内部からの〈いやおうなしの国際化〉とを区別した方がよいだろう。そして、もちろん重要なのは後者の国際化であり、日本がいま直面しているこのいやおうなしの国際化の度合を確かめることである。
すでにわたしは、欧米化としての「国際化」の点で東京随一とみなされている港区においてすら、こうしたいやおうなしの国際化がしのびより、そこにエスニック・ストリートが生まれ始めていることを見た。そこで。今度は、このいやおうなしの国際化がもっと本格的に進んでいる地区に入ってみようと思うのである。
新宿駅東口から高野の前の通りを抜けて靖国通りに出、その大通りを渡ると有名な歌舞伎町である。二〇数年まえ、わたしはよくこのあたりのジャズ喫茶で夜をすごした。「王城」という同伴喫茶のはす前に「ジャズビレッジ」というジャズ喫茶があり、西欧人もよく出入りしていた。当時「国際的」な雰囲気をもつ場所の一つだったが、七〇年代にはあとかたもなく消えてしまった。ジャズ喫茶などよりも実入りの多い商売が進出してきたからである。七〇年代を通じてこのあたりのセックス産業化が急速に進んだ。むろん、歌舞伎町は六〇年代にも立派な歓楽街だったが、店の種類はいまよりバラつきがあった。いまはほとんど吉原と変わらぬポン引きだらけの街である。
セックス産業地区としての歌舞伎町は拡大し、西大久保一丁目を取り込んで歌舞伎町二丁目をつくった。区役所通りの西側、職案通りの南側の一角である。このあたりには、西大久保一丁目と呼ばれていた当時からすでに飲み屋やつれこみ旅館があったのだが、歌舞伎町に編入されるころには、名実ともに歓楽街となり、いまや旧歌舞伎町(現在の歌舞伎町一丁目)をうわまわる賑わいを見せている。事実上の売春をさせるさまざまな店。ヘタな踊りやポルノビデオをみせ、仕切の板ごしにマッサージ・サービスをする店。各国のホステスがいると称するバー。ホストクラブ。ゲイバー。サド・マゾ専門店。まあ、金さえ出せば一通りの「国際的な」歓楽が楽しめるというわけだ。
こうしたセックス産業を支えているのはいわずと知れた東南アジアからの出稼ぎ女性たちである。彼女たちは、通称「ジャパゆきさん」と呼ばれているが、その内実はもっと多様である。「ジャパゆきさん」と言う場合、そこにはフィリッピンやタイから連れてこられて、もっぱら売春の業につかされている女性たちを指すことが多いが、歌舞伎町で働いている女性たちのなかには、もっと自発的に出稼ぎをしてる女性たちも少なくない。
歌舞伎町で働く女性たちは、暴力団がらみの業者が観光ビザで入国させ、非合法で働かせている者、「芸能プロダクション」を名乗る業者が「外国人タレント」として入国させ、一応合法的にセックス産業で働かせている者、それからその筋では有名な仲介業者を通じて日本の「各種学校」の入学許可を得、個人単位で正式のビザを取って入国してくる者などに分れる。
こうした違いは、彼女らが働く(あるいは働かされる)職場の違いとして明確に現われるが、それを具体的にながめたければ、深夜の歌舞伎町に行けばよい。とはいえ、そのセックス産業の現場を一軒一軒訪ねるには及ばない。終電をやりすごし、歌舞伎町二丁目をうろつくだけで十分だ。
新宿にはいくつかの顔があるが、新宿通りや靖国通りの店が閉まり、駅周辺の人通りが途絶えるころ、逆に活気づくのが歌舞伎町である。終電に急ぐ客たちを送り出したあと、一時間もすると、店の戸口から水商売風の女性たちが姿を現す。彼女たちはみな解放されたように生き生きとしており、それまでの時間が彼女らにとって決して本意のものではないことを暗黙に物語っているかのようだ。彼女らのなかには、二四時間営業のスーパーに立ち寄って買い物をして帰る者もおり、この時間に歌舞伎町界隈のスーパーに行くと、店内が急に華やいだ感じになる。
ある夜わたしは、この歌舞伎町をうろついていて、おもしろいことを発見した。区役所通りのライオンズホテルの角をまがってしばらく行ったあたりだったろうか、小さな店から二人の小柄な女性が飛び出してきた。飛び出してきたといっても、追われているわけではなく、仕事を終えた解放感を全身にみなぎらせていそいそと飛び出してきたのである。戸口で一人が早口でもう一人の女性に「・・・ツァイチェン」と言った。わたしには最後の「ツァイチェン」しか聞こえなかったが、彼女らが中国人であることはそれだけで明らかだった。
一人はたちまちどこかに消え、もう一人は向かいの建物に進んだ。そこが住居なのかなと思うまもなく、彼女はその建物の横に停車してある自転車のカギをはずし、ハデな衣装を付けたまま自転車に乗ってあっというまに姿を消した。
中国女性と自転車。わたしは、東南アジアの都市の朝方の光景を思い浮かべ、妙な感動をおぼえながら、職案通りの方に足を進めた。すると、また一人の女性が路地から自転車を引き出して乗ろうとしてる。顔から判断してタイあたりの人だ。そして、向こう側にもう一人。いや、向こう側にも・・・。してみると、自転車に乗っているのはみな東南アジアの女性たちなのだろうか?
それまで気付かなかったのだが、深夜の一時過ぎに歌舞伎町で自転車に乗っている女性は、ほぼ九〇パーセント、バーなどの仕事を終えて帰宅する東南アジア系の女性なのであった。これは、確実に彼女らが持ち込んだ文化である。
急に自転車が気になりだしたわたしは、目を皿のようにして自転車をさがし始めた。エニイという深夜スーパーのまえに女性用の自転車が止まっている。たぶん、アジアの出稼ぎ女性がなかで買い物をしているのだろう。わたしは、引きつけられるように店内に入った。案の定、店のなかにはフィリピン人や中国人やわたしには出身がわからないアジア人たちが幾人も買い物――というよりも楽しげに遊歩していた。
注意して見ると、この店には普通のスーパーではあまり見かけない品々がある。ぬいぐるみ、カレンダーに動物の顔をあしらったようなほとんどナンセンスに近い「ガジェット」類、ハンディな和英辞典、日本語表現マニュアル・・・。そして、そういう品々の置かれているコーナーには必ず東南アジアの女性たちがおり、品物を楽しげに手に取ってながめたり、仲間とおしゃべりしたりしているのである。わたしは、ふとシンガポールのバザールの雰囲気を思い出した。そこでも、中国人やマレー人やインド人が同じようなテンポと身振りでバザールを楽しんでいた。
歌舞伎町で働く女性のなかには、タコ部屋のような宿泊所と仕事場とのあいだをマイクロバスで移動させられ、個人的な行動を許されない女性たちもいる。彼女らは、非合法で働いているので、そうすることが彼女らにとっても安全なのであろうが、おそらく仲介者と警察とのあいだに暗黙の了解が成り立っているのあろう。法務省も、軟禁状態ならば彼女たちの不法就業を黙認するという線を出しているのかもしれない。いずれにせよ、早朝、歌舞伎町を歩いていると、ラーメン店などで監視付で食事しているフィリッピン女性たちを見かけることがある。監視をするのは、言わずと知れたヤクザ諸氏であり、それは彼らがはいている靴の形ですぐわかる。
こうした女性たちにくらべると、自転車「通勤」の女性たちは「自由」な位置にあり、一応自分たちの意志で行動することがゆるされている。しかし、彼女らは、サービス労働者として同じ能力を持っていても、日本人に比べると安い賃金で働くことになる。言葉に問題があるとかいう理由でダンピングされてしまうのである。そこで、彼女らは、ムダな出費を削減する方法を考えた。タクシーの代りに自転車を使う方法である。
終電がハネたあと、歌舞伎町には客を拾うタクシーが殺到する。タクシーに乗るのは客だけではない。仕事を終えた水商売の女性たちも次々にタクシーを拾って帰っていく。が、注意して見ると、その女性たちはほとんどが日本人なのだ。彼女らよりもいわば下の「階級」のサービス労働者は自転車を使う。当然この世界には、東南アジアの人々がやって来る以前からそれなりの経済格差があったはずだが、定収入のホステスが自転車通勤する姿は見られなかった。水商売の世界に自転車を持ち込んだのは、明らかにエスニックたちなのである。
新宿区は、東京都のなかで最も外国人登録数の多い区である。ということは、区内に居住する外国人の数が最も多いということを意味する。この数年間の統計を見て驚くのは、登録者数が毎年一、〇〇〇人以上の割で増加していることである。八八年一月三一日現在の総数は、一四、五五九人(男六、四二六人、女八、一三三人)で、この四年間に六、四〇〇人が登録している。八七年一〇月一日現在の詳細な統計によるとその国籍別の内訳は、24韓国・朝鮮(五、五九三人)と中国(五、〇二三人)が圧倒的に多く、以下アメリカ合衆国(六八一人)、フィリピン(四一二人)、イギリス(三七四人)、フランス(三三二人)、マレイシア(一三一人)、タイ(一二二人)等々となっている。[欄外注]
韓国・朝鮮と中国からの人々のなかには日本に長く住んでいる人たちが多数含まれるが、最近は、新参の者も増えているという。フィリピン国籍者の場合、四一二人のうち、男性五五人に対して女性が三五七人と、圧倒的に女性が多い。これは、歌舞伎町などの風俗営業で働く女性の多くがフィリピン国籍者で占められていることと符合する。
出稼ぎの人々が取得しているヴィザの種類では、八七年一〇月三一日現在の統計によると、フィリピン人の五〇%が「演劇・スポーツ活動」(4-1-9)で入国しているのを別にすると、「法務大臣が認めた者」という規定の「4-1-16-3」種の取得者が多い。ここには「各種学校」の入学者が含まれ、「各種学校」が事実上、出稼ぎの窓口になっていることを物語っている。
ところで、新宿区の外人登録者数が年間一,〇〇〇人以上も増えている現状で、区はどのような対応をしているのだろうか? 事務処理だけでも大変なのではないか? そうした現状を瞥見するために、ある日わたしは新宿区の外人登録課を訪れた。登録課は、一階のロビーを入って右手奥にある。その手前には郵便局があり、人でごったがえしている。が、登録課のカウンターに近づくにつれて、そのまえに集まっている人々の多くが登録手続きのためにやって来たアジア人たちであることがわかった。二〇人はいる。こんなにたくさんの人が来るのでは、窓口はいくつあっても間に合わないだろう。窓口では女性が一人で事務をさばいており、その奥に並んでいる机の数を見ても、登録課の規模はたいして大きくはない。
他日わたしは、登録課の塙一三課長に実情を聞いてみた。塙氏によると、ここには、期間の延長や住所変更のために来る人も多く、一日平均で三〇人ぐらいになるのではないかという。登録人口が急に増え始めたのは一九八四年ごろからで、実際上、窓口業務はてんてこまいの状態らしい。カウンターのなかに入って氏の話を聞きながら職員たちの仕事ぶりを見るだけで、十分にその忙しさは実感できた。
形式的に言うと、外人登録は九〇日以上滞在する外国人に義務づけられている手続きで、それ自体には居住や生活面での指導業務は含まれない。ところが、現在の日本には海外からの出稼ぎ者に対する専門機関がなく、またそうした来訪者に対する確固としたポリシーもないため、事実上、区の登録課が彼や彼女のめんどうをみなければならないという現状があるようである。
たとえば、外人登録をしている者で医療保護を受けたり、出産手当てを受けたりする者もいるわけだが、そうした申請を左右する証明はいまのところ外人登録証なので、そうした保証の認可の要に外人登録課が位置づけられてしまうということも起こりかねない。これは、ただでさえ多忙なこの課を一層多忙にすることになる。
法制的に見ても、日本の法制度は全く国際的ではない。やりようによっては、いくらでも税金のがれができたり、また「低所得者」という特権を悪用してのうのうと働かずに暮らすことができる側面もある。それは、ある意味では、互いにわかりあっている緊密な関係からなる社会の諸制度に特有の性格であって、日本の諸制度だけを一概にせめることはできないし、そこにはそれなりのよさもある。しかし、現実問題としてそのような親和性はもうとうの昔にくずれ去っているわけであり、とりわけ都会の生活は世界の大都市と変わらぬものになっているのだから、そうした諸制度は、ただただずさんさのみが目立つことになる。
一言にして言えば、日本の法制度は、税制にせよ刑法にせよ、固定した住民、戸籍簿で把握できる住民を対象にした制度であって、「外」からの人間を全く考慮せずに作られいるのであり、「外」に対しては水際作戦で対処するというのが常套手段であった。
外国人の出入国に関しても、管理の主力は入国審査に置かれており、そこではばかばかしい程の厳重さが行使されるかわりに、一旦そこを通過してしまうとあとは全くコミュニケイション機構がないのである。入れたあとどこまで管理できるか自信がないものだから、指紋押捺を是我非でもやらせようとしたり、外国人の問題となると、入れるか入れないかの問題に終始して、一向に具体的な視点が開けないのである。
その点で、外人登録課のようにいやおうなしの国際化の波をもろに受ける部門の側からすると、上から起こった門戸解放や「国際化」の掛け声は、あまりに一方的すぎると思われるだろう。
わたしは、自国の利益しか考えない「外国人労働者反対論」には絶対に反対であるが、とはいえ、外国人労働者どころか外国人一般の受け入れ体制が欠如している現状を目の当たりにすると、諸制度や諸機関の根底的な変革を行なわずに「国際化」をこれ以上進めことはただただ混乱を招くだけだと言わざるをえない。その犠牲になるのは、結局、やって来る外国人である。
しかしながら、問題は、事態がすでに始まっているということであり、あれかこれかの選択を自由にできる状態にはないということだ。国家制度そのもの根底的な変革ができないならば、資本主義そのものの一線から脱落するしかない。歴史は決して一つの状態をいつまでも――しかも日本のために――持続させはしないのだ。いま、日本の諸制度と諸機関は自分自身による変革をうながされているのであり、それをうながしているのは「革命勢力」や「民衆」ではなく、資本主義のシステムそのものなのである。つまり、日本は「下側」からの批判や抵抗のために何かを変えなければならないのではなくて、資本主義の論理を貫徹して生き延びるために自己変革をしなければならないのである。これは、資本の逆説以外のなにものでもない。