国際化のゆらぎのなかで 12

出島の博覧会

 かつて江戸幕府は、二〇〇年以上にわたってオランダ人を長崎の出島に隔離したが、日本の国際化というものは、どうやら、日本中に《出島》を作ることのようだ。  難民収容所のような外なる出島はあまり目立たないにしても、内なる出島は無数にあり、機会さえあればいつでも外なる出島になる用意が出来ている。そもそも「外人」という言葉自体がすでに《出島》である。  そんなことを考えているうちに、ふと思いついたのが横浜博覧会の会場である。以前、新聞や雑誌で見た会場の形態がどことなく長崎の出島を思わせたのを思い出したからである。  「みなとみらい」の《出島》に行けば「国際」に出会えるのではないか? そう思うと急に胸がふくらんできた。この本を書きながら、この二年間、「国際」がムンムンしていうような場所を求めて街をうろついてきたが、期待に応えてくれる場所は全くなかった。 露地に入ると、とたんに日本語以外の言葉が聞こえてくるような場所、黙っていても相手の「思いやり」でことが済んでしまうのではなく、そのつど相手が誰であるかを思いはかりながら自分を表現し、相手に耳を傾ける必要のある場所。せめてレストランでも商店でもよいからエスニック・ミックスの店があちこちにある場所。そういう場所は、この二年間に東京のどこにも出現しなかった。しかし、横浜は違うかもしれない。  横浜駅で下り、そごうに入る。有楽町店とは大分雰囲気が違う。商品のならべ方や売り場のデザインはヤッピーっぽい感覚で統一されている。この建物の上階からゴンドラが出ており、会場に最短距離で入ることが出来る。乗り場の通路から掃車場が見える。その向かい側には古るぼけた倉庫群がある。この風情はなかなかいい。  ゴンドラはじゅずつなぎになっていて、ほとんど待たずに乗り込める。係員の巧みな誘導でゴンドラに送り込まれ、ふと気づくと空中にいるこの感じは、博覧会というよりも遊園地に特有のものだ。とたんに、これから向かう目的地への「異国」的な期待が薄れてくるような気がする。  案の定、ゲイトの雰囲気は遊園地か動物園のそれである。パビリオンのなかには動物がいるのだろうか?   ところで、博覧会というとパビリオン風の建物を作るのがほとんど風習のようになっているが、これはそろそろやめにしてもよいのではないか。大きなテントを張り、なかに物品を並べるやり方は、工業時代に特有の展示形式である。今日の博覧会は、もはや物品に重点を置いていない。物品を並べるとしても、見せるのはその物品ではなくて、むしろその見せ方である。  事実、筑波の科学博でも、パビリオンは物品の展示場ではなくて、映像の展示場つまり劇場であった。が、それならば、何もバラバラにパビリオンを作らずに、マルチプレックス・シアター形式の建物を建てた方がよいのではなかろうか? 少なくとも、すべてを一ケ所に集めようという博覧会の精神からすると、その方が本来的であろう。  カタログを一読してまっ先に行くことにしたのは「国際交流館」である。三菱、IBM、住友といった企業のパビリオンは、例によって映像展であり、その手の内はすでに筑波や仙台の科学博でわかっているので、後回しにすることにした。  とにかく、「国際交流館」のテーマは、「世界から横浜へ=横浜から世界へ」という壮大なもの。ここにはおそらく、二十一世紀へ向けて横浜市が提示する遠大なヴィジョンと、横浜市がこれまで蓄積してきた国際交流の実績が示されているだろう。わたしの胸は期待で高鳴った。  グラフィティ・アート風のナウい絵が描かれたパビリオンの入口を入ると、まず漢方薬か中国料理の香辛料の臭いがしてきた。見ると、「上海館」(上海のコーナのこと)があり、人が群がっている。それは、まさにデパートの「中国物産展」そのままであり、どうやら中華街の店が出張してきて中国の物産を売っているらしい。上海市のアールデコ建築の模型も展示されているから、きっと上海市が直接関わっているのだろうが、少なくともわたしにはその「国際性」が全く感じられない。  物品を買ったり見たりすることによって「国際交流」を果たす(あるいは果たしたつもりになる)時代はとうの昔に終わったのではないか?   以前、筑波の科学博の会場で、遠方から来たらしいおじさんやおばさんが、「外国人」のガイド嬢に片ことの英語で話しかけたり、いっしょに写真を撮ったりしている風景を見たとき、ああ、こういうのも「万国博」の機能の一つなのだなと思ったが、「国際交流館」ではそのような「国際交流」を一度もかいま見ることが出来なかった。そもそもここには外国人があまりいない。  「アメリカ館」と名づけられたコーナではけたたましい奇声とともにぬいぐるみのロボットが楽器を演奏する身ぶりを披露している。その一角には渋谷の竹下通りにあるような出店が並んでいる。一体これはどこの国のデザインだろうと思い、係りの人にたずねる。事情はすぐわかった。  ここは、横浜で店を出している会社が共同で作ったコーナーなのであり、いかにも絵に描いたような人形ショウもこれらの会社の共同出資でアメリカから装置を取り寄せたものだという。要するに、「アメリカ館」といっても、それは日本でイメージされた「アメリカ」のコーナなのであり、ここで異文化体験をしようとしても無理なのである。  「スリランカ館」では、民族衣装を着た女性が「いらっしゃい、いらっしゃい」と呼び声をあげながら紅茶などを売り、やはり民族衣装を着た男性が弓のような器具で宝石を磨くのを見せているのが、デパートなどで見る臨時即売会の「異国情緒」の域を出ていない。  「フィリピン館」では、大使館の職員風(?)の男性が慣れぬ手つきでフィリピンの物品を即売していた。  「インド館」では、一応、美術館風の展示ケースのなかにガンジーやネールやタゴールの彫像が飾ってあるので、ここは「文化交流」に徹するのかと思ったら、ウィンドウのそばに「展示品販売致します」というはり紙があった。  どこもかしこも、販売熱旺盛である。が、販売することだけでは決して国際交流は促進しないのであって、それは日本の経済発展が見事に証明している。  ただし、逆に、販売しなければ、それで国際交流が促進されるかというと、むろんそうはいかない。「国際交流館」のなかで展示にウェイトを置いていたのは、郷土の歴史や産物の紹介を啓蒙的にやった西ドイツのバーデンヴュルク州と、横浜博のテーマ「宇宙と子供たち」をまじめに引き受けて教育的な展示を行なったソ連のコーナであったが、両者の真摯な姿勢は高く評価出来るとしても、これでは、外国に行って全く人と会わずに美術館めぐりをしているようなわびしい「国際体験」しか与えない感じがする。  こんなはずではなかった。「国際交流館」がこんなにヒドいとすると、他はおして知るべしかもしれない。急速に落ち込む気分を元気づけながら、次に、「横浜館」に行く。  このパビリオンのテーマは、「横浜―きのう・きょう・あした」である。これは是非見ておかなければなるまい。しかし、両側に「きのう・きょう」の横浜の姿を映像的に展示した「タイムカプセル」風(すべて「風」である)の通路をくぐり抜けると、そこは、横浜市の「あした」であった。  広いスペースいっぱいに都市の模型がある。しかし、その都市、はスカイ・スクレーパー、無数のビル、鉄道、高速道路、パラボラアンテナのある通信センターといった十九/二十世紀風の都市であって、いまの横浜から細々した一軒家をすべて地上げしてビルをびっしり建ててしまったかのような風情である。おそらく、二十一世紀の都市は、自動車都市からの脱皮を何らかの形で進めることになると思うが、「あした」の横浜は、以前として自動車優先の都市であり続けている。  国際交流がダメ、都市がダメということになると、横浜はどうなるのか? では、テーマにもなっている「子供」をどうとらえているかを見てみようと思い、「子供共和国」に行くことことにする。そこではどのような「共和国」観が具体化されているのだろうか? ところが、地図をたよりに「子供共和国」に近づくにつれて、一瞬、これは場所をまちがえているのではないかという気持ちに襲われる。というのは、見えてきたのは、一時代まえの後楽園の風景であり、それはただの遊園地であったからである。  「子供共和国」というからには、子供たちの文化的・民族的・地域的等々の差異と対立を前提にしなければならないはずだが、そこにあるのは、のっぺりしたディズニーランド文化でしかないのである。要するに、「子供共和国」というのは、ただのデザイン表現だったのである。  博覧会は、何度行っても失望することが多いが、横浜博ほど期待はずれの博覧会はない。おもしろいことに、場内でもらった『朝日新聞YES´89 ニュース』(九月二十三日号)を開いたら、石堂淑朗氏が「YES点描」という欄で次のような横浜博批判を書いているのを発見した。  「いよいよ閉幕近くなって一寸だけのぞいてみた。/YES=イエスという語呂(ごろ)合わせに何となく軽薄なものを感じてなかなか会場に足を運ぶ気になれなかったのである。/後味を確かめるために、原稿締め切りをぎりぎりまで延ばしてもらったが、内容空疎(くうそ)という第一印象がそのままのようである。/もう一度見たいという気持ちがついに生じない」。 まあ、最近の石堂氏は、怒りの身ぶりで俗受けしている人だから、こんな調子で批判をしても、「ああ、またあのオジサンが怒ってる」といった程度の反応しか呼ばないのかもしれない(また、そうだからこそ、場内で配られるニュースにこんな文章が載るのかもしれない)が、しかし、この批判は文字通りに受け取ってもおおげさではないとわたしは思う。  理念には失望したが、せっかく来たのだから、ものは試しと、長時間、列に並んでいくつかの企業のパビリオンを見たが、筑波博で試みられた映像展をコンパクトに破綻なく反復しているだけという感じがした。予算がはるかに少なかったのだろう。しかし、こんなにチャレンジ精神が乏しくて大丈夫なのだろうか?  結局、横浜博は《出島》ではなかった。おそらく、今日の日本では、《出島》すらほとんど存在不可能なのだろう。とすれば、《出島》を作ることの方が、万博を百回行なうよりも国際化に役立つかもしれない。  いずれにしても、博覧会の時代はとうに終わっている。そもそも、人を一つの巨大なスペースに集めるという発想自体が、今日のコミュニケーションとテクノロジーの様式には合わない。一点集約型のコミュニケーションとテクノロジーは、分散型のネットワーク・コミュニション/テクノロジーに道を譲りつつある。  もし、博覧会をやるのなら、なぜ、離ればなれの、それぞれに性格の異なるエリアで分散的に博覧会を開催し、同時にそれらを通信衛星や光ファイバーでネットしないのか? ちなみに、ECは、一九九二年から、そのような意味での〈ネットワーク万博〉を〈無期限に〉開催しようとしているのである。  日本が「国際化」(インターナショナリゼーション)というスローガンを虚しくふり回しているうちに、世界の趨勢は、「脱国境化」(トランスナショナリゼーション)へ向かっている。



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