国際化のゆらぎのなかで 7

《ポスト情報化社会》のためのパーティ

 街を歩いていて、小物を売る店で色とりどりの紙コップやナプキンを目にすることが多くなった。そのうち、あちこちにこうしたパーティ用品を専門に売る店が出来るかもしれない。なにせニューヨークを十年遅れで追っている東京である。ニューヨークには、十数年まえからパーティ用の道具だけを売る店があり、デパートでもそういう品々をまとめて並べたコーナーが必ず設けてあった。  日本ではいまパーティばやりだという。たしかに、わたし自身、パーティの招待を受けたり、画廊や試写会に行って、カクテル・パーティに巻き込まれる度合いが以前より増えた。しかしながら、最初は欧米のカクテル・パーティ風に始まったパーティがやがてカラオケ宴会風になってしまうことがよくあり、パーティというのは、日本社会ではなかなか定着しにくいのではないかという印象を受けることが多い。  パーティと宴会とは、基本的に機能が異なるのだとわたしは思う。日本の「パーティ」でいつも気づくのは、人の動きが非常にスタティックである点だ。立ち話をしている人が固定してしまい、アメリカなどのパーティにくらべて新しい知り合いが出来る度合いが少ない。われわれのなかにはどうやら〈炉端文化〉とでも言うべきものが沈殿していて、それを崩すことが難しいのかもしれない。  欧米のパーティにはホストやホステス(キャバレーの「ホステス」とは違う)がいて、彼や彼女が実にこまめに動き回り、手際よく人を紹介して歩くし、客もよく動く。魅力的な客を独占する者がいると、別の客を連れてきて「あ、失礼、ちょっとご紹介しますワ」とか言って、関係を組み替え、関係が固定するのを巧みに防ぐのである。  日本では、動き回る人は「小者」と見なされるらしく、「大物」を自認する人物は絶対に動かない。動かなくても、あとからあとから人が挨拶に来るのであり、結局、日本のパーティは人々が多様に出会うスペースではなくて、上座に座っている人物に下座の者が「拝謁」するための儀式なのである。  これは、日本では党(パーティ)が、ネットワークではなく、集団や派閥を統合するボスを頂点としたハイアラキー構造になってしまうことと関係がある。関係は、トップがよほど柔軟でないとなかなか変わりにくい。その代わり、関係が安定しているから、全体が一丸となって機能するのには効率的である。  社会というものは、それぞれの歴史と条件をもっているわけであるから、西欧社会と日本のそれとを同一レベルで比較することは出来ない。しかし、テクノロジーと資本の論理で動いている今日の世界は、そうした歴史や個別条件を無視し、結局は、《アメリカ的なもの》(これは、いつまでもアメリカ合衆国の独占品であるとはかぎらない)に従属させてしまう。  パーティがはやるのは、決して「欧米かぶれ」が増えたからではなくて、今日の日本社会が ・ テクノロジーと資本の論理を追及するかぎり ・ それを要求しているからであり、ハイアラキー的ではない、横断的なネットワーク型の社会構造に転身する必要を迫られているからである。  その意味では、日本にアメリカ型のパーティがどの程度普及するかということが、日本の資本主義的・テクノロジー的「成熟」の度合いを示唆するということにもなる。  八九年の年の瀬のある日、わたしは銀座に出かけ、この街にある六軒のデパートで〈パーティ状況〉を調査してみた。方法は、デパートに行き、まず、インフォメーション・カウンターで「パーティ用品はどこにありますか?」 とたずね、教えられた階で物品を観察するという極めて単純なものである。  最初に訪れたのは、有楽町駅の近くにあるSGである。一階の入口を入ると、「ディズニークリスマス」という大文字が目に入った。「ディズニークリスマス」とは何か?それはとうとうわからずじまいだったが、「パーティ用品はどこにありますか?」とたずねたとき、入口の案内嬢がけげんな顔をしたのには少しびっくりした。  「パーティ用品といいますと?」彼女はたずねる。  「ええ、ですから、パーティに使う紙皿とかナプキンとか・・・クリスマス・パーティのでもいいんですが・・・」とわたし。  「クリスマス」という言葉を聞いて彼女の顔にホッとした表情がよみがえり、一階と地下二階の場所を教えてくれた。しかし、一階のコーナにあったのは、クリスマス・プレゼント用の包装紙やクリスマス・ツリーに付ける色とりどりの小物類であり、普通のパーティで使う品々は見当たらなかった。 地下二階のコーナーには、台湾製のミニ・ツリーや東ドイツ製のクリスマス・グッズがまとめて並べられていたが、紙コップや紙ナプキン類は、台所用品のコーナーに置かれていた。  マリオンにあるHKの受付では、「パーティ用品」という言葉は抵抗なく受け入れられた。「パーティ用品」のコーナは七階にあるが、クリスマス・パーティの用品は一階にあるという。一階の天井から下がっているディスプレーに「MOONLIGHT CHRISTOMAS」というまたしてもよくわからない文字が見える。SGではあちこちに赤いリボンをかけた箱や小さなクリスマス・ツリーが飾られていたが、HKでは、もう少し大きなツリーが散在するだけである。  一階のコーナにクリスマス用のラッピング・ペーパー、ローソク、カードなどが置かれているのをざっと見たのち、七階に昇る。あるある。そこには、規模は小さいとはいえ、ニューヨークのデパートでよく見る使い捨てのパーティ用の品々が一応並んでいた。  おもしろいと思ったのは、そのコーナに模様やデザインを替えた胸掛け式のエプロンがたくさん陳列されていたことだ。ここではパーティは、「ホーム・パーティ」に重心が置かれているのであり、パーティとは、奥さんやダンナさんがその場で料理をしながら客をもてなすこととして理解されているわけである。これは、最初に言及した脱工業化社会のための社会装置として要請されるパーティとは若干異なる。  六階の連絡通路を通ってSBに入る。通路から吹き抜けになったロビーが見えたとき、ニューヨークならこのスペースに巨大なクリスマス・ツリーを立てるだろうなと考える。そのためには格好の場所である。しかし、わたしの非常に主観的な印象では、日本では、「高級」な雰囲気を出そうとしている店ほどジングルベルをかき鳴らしたり、ばかでかいクリスマス・ツリーを飾ったりしないようである。  そこでは、クリスマスは、あくまでも販売促進の手段であリ、単なるデザインとして使われるにすぎない。最近のデパートのように、「高級」志向が強くなると、クリスマスは、むしろダさいものになり、お呼びではないということになるのかもしれない。  実際、SBでは、クリスマス用品の小コーナは作られていたが、ツリーや赤いリボンの付いたリースをごてごてと飾り立てるということをせずに、クリスマス・プレゼントになる品々を各階のあちらこちらに分散するというやり方をしていた。館内に流れる音楽も、ホワイトクリスマスやジングルベルとは無関係のものだった。  この点、銀座七丁目のMZは、まだ従来のやり方でクリスマスを受けとめているようだった。館内の柱には大きなリースが掛られ、クリスマス・セールでございという雰囲気を強調していた。  しかし、ここでおもしろいことが起こった。「パーテイ用品はどこですか?」というわたしの問いに対して、三階という答えを得たので行ってみると、そこは「パーティ・ウェア」のコーナで、肩が盛り上がったり、裾が床に引きずりそうに見える女性用の衣装が一か所にまとめられているのだった。「あの・・・男性用はないんでしょうか?」わたしはマヌケた質問をしてみる。  「男性用ですか? 男の方はタキシードかフォーマルスーツですから・・・」とけげんな顔でわたしを見ながら、年配の女店員は、 最終的に紳士服のコーナを教えた。  数年まえから、デパートの女性服の売り場にこの手の服が並べられ、結婚式の披露宴などで、まるで『ベニスの商人』か何かにでも出てきそうな格好をした女性が増えたことに気づいていたが、これを「パーティーウェアー」と名づけられると、「なんじゃ!?」という気持にさせられる。こんな格好をしたのでは、女性は男性の単なるお飾りになるのが落ちではないか?  パーティ用品に出会えなかったわたしは、通りがかった店員にもう一度たずねる。色々説明してから最終的に教えられたのは地階の食器売り場であった。しかし、おもしろいことに、MZには、普通の酒屋なども置いている紙コップと紙ナプキンが食器売り場の目立たない一角に並べられていただけで、「パーティ用品」というコンセプトが存在しないのであった。その代り、正月用品のコーナには多くのスペースが取られ、そこには色々なデザインの箸や楊枝も置かれていた。要するにMZは、「一国資本主義」を貫徹しているわけである。  中央通りに出ると、街路にはMERRY CHRISTMASと記された燕尾型の旗が二丁目の方まで等間隔にぶら下げられているのが見えた。商店会が金を出し合ってやったのだろう。そのねらいは、当然、販売促進であろうが、どこにも商店の名前が見えないこの旗が、逆に、宗教的な感じを与えるのは皮肉である。  四丁目の角のMKに入ると、あちこちの柱に人工の樅の枝束に赤いリボンをあしらったかなり大きなオブジェが取付けられているのが目に付く。この分ではパーティ用品にはお目にかかれないなと思いながら案内カウンターでたずねる。案の定、「パーティ用品と申しますと?」と一回の質問では話が通らない。  結局ここにも「パーティ用品」というコンセプトはなく、パーティの道具をそろえるにはギフト用品を並べたコーナや食器のコーナで皿やナプキンを探し出さなければならないのであった。その代り、女性用の「フォーマルウェアー」のコーナに行ってみたら、先程MZで「パーティウェアー」として展示してあったタイプの衣服があり、そこに「今夜の主役は私」という看板が置かれていた。  MYの一階の吹き抜けになったエスカレータ脇のスペースには、ドイツの街角を型取ったタブローが作られ、そこではドイツから輸入されたクリスマス・グッズを主にした品々が並べられていた。それらは、ツリーを飾るためにも使えるが、買う方は誰かにプレゼントするために買うに違いない。日本では、クリスマスというと、まずプレゼントの交換が頭に浮かぶが、クリスマスにかぎらず、日本のパーティではプレゼントを欠かすことは出来ない。むしろ、パーティとは、人と人との出会いであるよりも、物と物との出会いの場であると言った方がよいかもしれない。  このデパートの場合、六階の一角には、使い捨ての紙皿、紙コップ、紙ナプキン、プラスチックのナイフ/フォーク、さらにはぜいたくな皿や食器、クリスタルのグラス、銀のサーバーなどがひとまとめに置かれ、一見、他のデパートに比べて一番ニューヨークのデパートのパーティ用品のコーナと似た空間になっていた。  しかし、注意して観察すると、全体にどこか実用性に乏しい。ここで買った品物をパーティで使うことは出来るだろうが、そんなことをしたら、ちょっとしたパーティでもバカ金を食ってしまいそうである。むしろ、これらは、贈答品として使うときに格好が付くような品々であって、使うよりも飾っておいた方がよいような気がする。  実際、このコーナは、アクセサリーやブランドもののギフト製品のコーナと切れ目なくつながっており、そちらの方から歩いてくると、そこはすべて贈答品のコーナに見えるのである。 こうして見ると、日本のパーティばやりは、むしろ贈答品の交換ばやりであって、人と人との関係が横断的に変わるという傾向の昂進ではないのではないかと思わざるをえない。贈答品も、それ自体としてはメディアであるから、送り方次第では横断的な人間関係を生み出しうるわけだが、現状では、一定のフォルム(しきたりや慣習)に従って交換されているため、人間関係の方は一向に変わらず、既存の回路や人脈のなかを情報や金だけが動き回るということになりがちである。



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