官際と民際のはざまで
東京にかぎらず、都市のある地区に一〇年以上住んでいる者は、最近の日本の産業構造の急速な変化を肌で感じることができるだろう。かつて「文化工業への転向」という言葉があったが、「情報社会化」とは、重工業の「文化工業化」である。もっとも、「文化工業」という言葉には、油や粉塵にまみれた工場と肉体を酷使する労働からの脱出という近代志向のイメージがつきまとい、この語が使われた一九五〇年代から六〇年代にかけての時代状況が髣髴とする。いまでは忘れられかけているが、東京には、「山の手」と呼ばれる地域にも、歯車のこすり合う音、煙突からの化学的な臭い、どぶの水色をしばしばどぎつい色にする排水等々を目の当たりに出来る場所が必ずどこかにあった。
わたしは、渋谷区の京王線幡ケ谷駅の近くに二〇年以上住んでいるが、近隣の初台、笹塚にくらべて「発展」の遅いこの付近も、産業レベルでは大幅な変化にみまわれた。甲州街道の北側(本町一丁目と幡ケ谷二丁目)にあったゴム・ガラス製品、自動車修理、石鹸・薬・香料などの工場の多くはどこかに移転してしまった。小さなまち町こう工ば場もアパートやマンションになり、この地域の主要産業はサービス産業である。
一五年ほどまえまで、幡ケ谷駅から少し笹塚方向に行った所にストリップ劇場があった。わたしは残念ながら入ったことがなかったが、その最盛期にはこの劇場は、付近の工場で働く労働者の観客でもっていたのだろう。わたしがこの劇場の存在を知ったときには、そこはすでに落ち目になっており、最後はボヤ騒ぎで閉鎖になってしまった。いまにして思えば、七〇年代初めのその時期は、重工業からの転身が始まった時期であり、このあたりから工場労働者が急速に減っていった。
甲州街道の真上に首都高速四号線が走り、スーパーマーケットが出来、地上の駅が地下に入り、幡ケ谷は完全にベッドタウン・エリアになった。わたしが住んでいる甲州街道の南側のエリアは比較的「発展」が遅く、商店街は次第にその客を新宿や笹塚にとられてしまったのだが、それでもよく見ると、あちこちに時代の変化を読み取ることが出来る。
間口は小さいのに電気製品から雑貨までさまざまなものをそろえて安値で売っているディスカウント店(これは質屋の経営)の出現は、幡ケ谷の「脱工業化」のはしりだったかもしれない。それから弁当屋が登場した。ヴィデオを流しながらコーヒーとスパゲッティを食べさせる店も出来た。
近年、町の個人商店でもある種のセルフサービス化がはやりである。店員が細々世話をやく代りに客の自由にまかせ、「レジ」で会計をするというスーパーマーケット方式が、人件費の節減のためだけでなく、ひとつの商店モードとして好んで採用されている。
幡ケ谷駅まえにドトールが登場したのは一九八七年のことだが、同じころ、西原商店街の古い酒屋が思い切ったモデル・チェインジをはかった。新たに経営をまかされた若夫婦が店をフランチャイズ方式の「コミュニティ・ストア」にしたのである。照明の明るいガラス張りの店には、酒や清涼飲料水だけでなく、野菜、雑貨、雑誌、文庫本も置かれ、以前には店の奥にいた若夫婦が新たに出来たレジのまえに立つようになった。
この店に来る客をながめていると、その多様さに驚かされる。この店の横の路地を一〇〇メールほど入ったところに出来た区のスーツセンターは、もとは教育大付属の体育学部があった。その関係で、このあたりには学生相手のアパートがあり、商店街には体のがっしりした若者や運動具をかかえて学生が目立った。つまり、ある意味でこの商店街は学生街でもあったのである。いまは、そのような単一の特長はない。学生も住んでいるが、むしろプロフェッショナルの方が多いのではないか。
幡ケ谷に住んでいて、近年一番変わったと思うのは、街に外国人が増えたことである。しかもその外国人は、白人であるよりもむしろ南米、中近東、アフリカ、東南アジアから来たと思われる、皮膚の色の濃い人たちであり、ときには幡ケ谷駅がニューヨークのユニオン・スクエア駅のような雰囲気をかもしだす。
多民族国家こそ国家がその本来の悪を最小限にすることの出来る妥協的形態だと思うわたしとしては、街に様々な言語と皮膚の色をもった人々があふれるということは大変好ましいことである。それでは、幡ケ谷は、いつのまにか東京で一番エスニック度の高い地域になったのだろうか?
幡ケ谷から南西の方向に行った上原、大山町には昔から外国人が住んでいた。が、大抵は大きな屋敷をかまえた上流の人たちで、その生活仕方も地域住人とは距離を置いているように見えた。が、最近幡ケ谷駅で出会う外国人たちは、「庶民的」であり、スーパー、駅前のディスカウト・ショップ、スパゲッティ店などでいっしょになることもよくある。 八〇年代後半からこうした外国人が増えはじめたとき、わたしは最初その理由がわからなかった。が、あるときわたしは、彼や彼女たちがみな一つの建物に吸収されていくのを発見して、合点がいった。その建物には、「東京国際研修センター」という表示がなされていた。
そこは、かつて医療少年院のあったところで、またその向かい側にはインドネシア留学生会館があった。それは、現在消防学校の寮になっている。インドネシアの留学生会館があったとき、当然このあたりにはインドネシアの若者たちの姿があった。京王線の幡ケ谷駅や、当時は東京駅の八重州口まで通じていたバスの終点がここへの交通路で、その意味では幡ケ谷はもう十数年まえから国際的な場所だったということになる。
しかし、現実には、インドネシア留学生会館は、ある種の真空状態に置かれていた。言い換えれば、(意図的であるかどうかは別として)それはあまり目立たない場所につくられ、一般の日本人から遠ざけられている印象が強かった。もともとこのあたりは、すぐ近くにある代々木葬儀場でよく知られたエリアであり、すぐ隣に大山町の高級住宅地があるにもかかわらず、それにはさまれたこのエリアは、いわば〈気〉の密度が強いのだった。 大人にとっては、全く気にならないことだったが、子供たちのあいだでは、ここはある種の〈魔界〉を形成しており、少年院の庭にもぐりこんで遊ぶというようなことは、「冒険」に属していたらしい。
おもしろいことに、「痴漢」のような出来事は、大抵こうした〈魔界〉の近辺で起きる。そして、一度何かが起きるとその噂が噂を呼んで、事実がパラノイアックに誇張されてしまう。わたしは、以前、このあたりで、若い女性がインドネシア人に「襲われた」とか、「誘惑された」とかいう噂話を何度か聞いたことがある。近所に住む若い女性と会館の留学生が友達になって、二人で連れ合って歩いているというようなことはあったが、それがパラノイアを注入された意識にはえらく大変なことのように見えたのかもしれない。
一九八三年ごろだったか、少年院の跡地に東京国際研修センターが出来ることが決まったとき、住民のあいだから反対の声が持ち上がった。外国人が頻繁に出入りすることによって周囲環境の風紀が乱れるおそれがあるという意見がだされたのである。このことは、地域が、留学生会館の存在から何も学ばなかったということを物語っている。
以前わたしは、駅の近くのビジネスホテルへアメリカからの客をとめようと思い、部屋の予約に行った。すると、ホテルの人は、「外人はちょっと・・・」と言ってしぶるので、「どうしてですか?」と食い下がると、彼は、困ったように、「外人は、火災などの事故があったとき、安全が保証できないので、お泊め出来ないんです」と苦しい言い訳をした。これには、唖然としたが、こうした閉鎖性は、日本で生活するわたしたちの無意識のなかに深く埋めこまれているのだ。
東京国際研修センターは、一九八五年四月にオープンしたが、住民との交渉の過程で建物の総面積が若干縮小された。それは、結果的によかったか、悪かったかはわからない。住民の反対は、このセンターの大本である国際協力事業団の機能を問題にした反対ではなく、むしろ未知の「外人」に対する住民感情に基づく反対であったが、結果的には、この反対のおかげで、国際協力事業団側は、センターの運営事業のなかで住民感情の問題を考慮に入れなければならないことを学んだ。これはよいことである。というのも、こうした住民レベルの国際交流――つまりは「民際」――の積み重ねなしには、国際化は一時的な政府・企業のキャンペーンに終わるのがおちだからである。
では、この研修センターは、住民への単なる「気配り」を越えた民際の試みを実際にどの程度まで行なっているのだろうか? 「国際化」ブーム以前に――おおげさに言えば――地域住民と異文化との交流という問題に直面したセンターとしては、「国際化」が多くの人々の意識にのぼりはじめたいま、どのような展望と試みをもっているのだろうか?
このことを知りたいと思い、ある日わたしは東京国際研修センターに電話をしてインタヴューを申し込んだ。が、例によって本部の許可が下りないとということで、新宿の三井ビルにある国際協力事業団の広報課にインタヴューを申し込まなければならなかった。最終的に、事業内容についてではなく、研修員の生活と地域住民との交流についてのインタヴューということで許可をもらい、センターの総務課長の尾野公治氏と業務課長の長瀬威氏から話を聞くことになった。
センターには、七〇あまりの「低開発国」からの研修生が常時四〇〇人以上も宿泊しており、ここから全国に一〇か所ある他の研修所や企業・大学・地方自治体・各省庁・公社公団などの研修先に派遣されたり、通ったりする。宿泊施設としてはここが最大で、四四一の部屋がある。
ガイダンス(「ブリーフィング」)と語学研修を除くと、幡ケ谷のセンターは宿泊の施設であり、ここでは専門的な研修は行なっていない。そのため、わたしとしても質問がしやすかった。最初インタヴューを申し込んだとき、センターと本部広報課は、質問が事業内容に触れることをおそれたようだ。年間六〇〇〇人やって来る研修員は、現地大使館や進出企業が窓口になっており、研修員のなかには原子力開発などの分野に関わっている者もおり、事業内容についての質問はさしさわりがあるように見受けられた。
センターは、事実上、七〇ケ国の人々が生活レベルで交流する場であるから、単に外国人と日本人との交流といった狭い国際交流のレベルを越えたユニークな場所である。食事だけでも、毎日昼食が二〇種類、夕食が二五種類もつくられるという。さもなければ、宗教・習慣の違う地域からやって来る人々を快適に生活させることが出来ない。
そのため、センターは、なによりもまず、ここで働く日本人の職員(全一九〇人、内常勤スタッフは一三名)にとって多様な異文化との接触の機会を与え、ここで働く職員の多くは、「先入観が変わった」という感想を述べるという。そこでわたしは、尾野さんと長瀬さんに、ご自身がこの研修所の経験を通じて痛感したこと、発見したこについて語ってもらった。
尾野さんは、国際交流にとって宗教がいかに重要かを痛感したという。センターに来る人々の大半は、日常生活のなかで宗教的な習慣や戒律を守っている。したがって、宗教の理解なしには、相手を十分に理解することができないし、また自分と相手との、あるいは複数の相手のなかの違いを尊重することができないという。 長瀬さんも、それを受けて、日本人はここにやってくる人たちとくらべると「無宗教」であり、それは、ある点では相手を差別しないという利点になりえるが、現実には相手の異文化を尊重しないということにつながるのではないかと言う。
四月八日、わたしはセンターが主催する恒例の「懇談会」に行ってみた。これは、センターが、地域住民との交流をはかるため、町会に働きかけて一昨年から始めた「お花見パーティー」であり、わたしも噂を聞いていた。
あいにくこの日は、前日に雪が降り、気温も低く、庭での花見パーティーとはならなかったが、八〇〇人近くの人たちがホールとロビーで歓談した。地域からも、町会や小学校などの関係者などが姿を見せた。それは、この地域ではめずらしい集まりであり、地域の人々にとっては、これまでなかった国際交流の機会であったと言える。
しかし、わたしがこのパーティーで感じたのは、東南アジア(六〇%)、中南米(二〇%)、アフリカ(一〇%)からやってくる人々にとって英語は必ずしも円滑なコミュニケーションの言語ではなく、むしろ彼や彼女らは、自分たちの言葉かさもなければ(たとえカタことでも)日本語で話をしたがる傾向があるということだ。
これは、英語帝国主義に対する反撥のためというよりも、彼や彼女たちにとって、いまや日本語をマスターするということが、まさに日本人が英語をマスターするのと同じような意味をもち始めているということでもある。中南米から来たある青年は、わたしが彼の国の料理への賛美を語ると、逆にその料理がコレステロールの増加ののもとになり、むしろ自分たちはもっと洗練された料理を食べるべきなのだと言った。わたしは、彼の意見をきながら、日本人がその「近代化」のなかで示してきた自己卑下の形式を思い出した。
センターに宿泊している人たちは、みなエリートたちであり、「近代化」に対しては肯定的なのだろう。むろんそのなかからは、単に日本を「近代化」のモデルとしてではなく、とらえるひと、日本に来て逆に日本的「近代化」の矛盾点に気付くひともいるにちがいない。が、そのようなレベルをたがいに自覚しあうためには、「先進技術」を教える・学ぶという関係が一旦越えられなければならない。
それは、センターのような公的機関、そしてそこで「先進技術」を学びに来る者にとっては、ディレンマである。というのも、そのような経験は、ときには現在彼や彼女の国で進められている「国作り」の方向そのものへの懐疑を招くかもしれなからである。