国際化のゆらぎのなかで 6

国際度の傾向的低下の法則

 しばらく日本を離れていて、ふたたびもどってくると、東京はまた一段と「きらびやか」になったように見える。とりわけ渋谷や青山のあたりには、ニューヨークやパリのヤッピー向けの店をそのまま、あるいそれ以上にまねたような雰囲気のブティックやレストランが増えづづけているような錯覚をおぼえる。事実は、自分が東京を留守にしていたあいだに急に増えたのではなくて、この数年間に次第に増えたのだが、そのくらいいまの東京は、他国の街と比較して、外面的な「きらびやかさ」と「活気」に充ちているように見えるのである。  そうした店で特に目につくのは、輸入品である。「内需拡大」で、近年、われわれの周囲にある日用品は多国籍的になった。いま日本で手に入らない海外の有名産品はないと言われるくらい、巷には輸入品があふれている。たとえばニューヨークだったら店を何軒も歩きまわらなければ見付からないないだろうと思われるものをウインドウにずらりと並べている店がある。たしかに、その意味では、日本はいま「国際的」である。  かつて輸入品は「舶来」と呼ばれ、単なる消費財というよりもむしろ異文化や別の社会との間を媒介するものとして「使用価値」を越えていた。先日ある雑誌を読んでいたら、洋酒の流通機構の再編のことが載っていて、そこで「長い間、日本人にとって輸入洋酒は『飲む』ものではなく、『贈る』ものだった」が、いまやそれが「飲むウイスキー」になったと書かれていた。たしかに、輸入品はもはや「舶来」ではない。それらは、海外で作られているというだけで、それらが含蓄しているはずの文化的・社会的コンテキストは、見事に切り捨てられている。  まあ、物は使うものであって、物が崇め立てられるときはろくなことがないが、ここから進んで、「見立て」至上主義のようなものが生まれはじめているのにはうんざりする。つまり、「外国製」だとか「日本製」だとかはもはや問題にならないのだから、問題は使い方の「妙」だという主張である。これに「日本独特論」が加わって、もともと日本は、外物を和風にアレンジするのが得意だったとかいうことになり、完全に外のコンテキストがかき消されてしまうのである。  これだけ物が海外から入ってきているにもかかわらず、その国境の向こう側のコンテキストが無視しされてしまうというのは、一方に猛烈な無意識のナショナリズムがなければ不可能である。舶来コンプレックスから解放されるのはいいことだとしても、「舶来」無視というのも危険である。  先日ロンドンに行ったとき、街を歩いていてたまたまキングス・ロードへ出た。一九七〇年代に、スローン・スクエアのローヤル・コート・シアターでサム・シェッパードの芝居を見て、この通りをチェルシーの方に歩いていったら、通りに「きらびやかな」商店やレストランが立ち並び、古い町並みが急速に変化しつつあるのを目にし、やがてそれが、今度はニューヨークでより大規摸に起こるのを目撃した。これは、あとで、「ジェントリフィケーション」と呼ばれる変化であることを学んだが、その意味でロンドンのチェルシーは、わたしには「ジェントリエーション」の発祥地のように思えてならない。で、そのチェルシーはどうなったろうか、という興味があって、キングス・ロードまで歩いてきたのである。  しかし、かつてあれほど「きらびやか」に見えたチェルシー地区は、十数年のあいだにすっかりさびれているように見えた。むろん、ここにはわたしの心理的係数が加わっているだろう。「ジェントリフィケーション」が世界的に広まり、身近な東京も例外ではなくなった時代には、チェルシーがたえまなくその「華麗化」を突進めるのでもないかぎり、あとからジェントリファイしはじめたところに追い抜かれるのが普通だからである。いずれにしても、久しぶりに見るチェルシーは、二、三年前の原宿ぐらいの雰囲気の街になっていた。  カーライル・スクエアーのベンチで独り言をつぶやいている乞食を一瞥しながら、キングス・ロードを進んで行くと、前方に日本人の一団が見えた。「ショット」の皮ジャンを着たり、皮のベストをつけたり、みな一様にロッカーのかっこうをしている。少し新しすぎるのを除けば、『宝島』や『ポパイ』に出てくる典型的な「ロッカー」のかっこうだ。  女性を含むその一団は、ビュフォールト・ストリートとの角の小さな店の前に来ると、「あった!あった!」という叫び声を上げ、その店のなかに吸い込まれていった。なんだろう? 好奇心の強いわたしは、その後を追った。その店は、「ロボット」と言い、自家製の革靴を売る店だった。なるほど、ここがかの「有名」な「ロボット」か。わたしは、意外な気がした。  ロンドンに行くまえ、わたしはたまたま友人から、ロンドンに「ロボット」という名の店があり、そこで売っている靴は、日本のパンク・ロッカーのあいだで珍重されているのだという話を聞いた。が、わたしは、それがチェルシーのこんなちっぽけな店だとは想像しなかった。原宿あたりの店では、そこの靴を一足三万五千円だかの値段で売っているという。わたしは、なかに入って品物を見てみたい欲望に襲われたが、日本人の集団と一緒になることに抵抗を感じ、ウインドウをながめただけで、そこを通りすぎた。  日本人が海外で日本人の集団を嫌うのは、日本人は三人以上集まると「天皇制」を作るといわれる集団性のためである。わたしは集団で旅行をしたことがないが、集団で行動をすれば、しゃべり方や身ぶりのなかに自然と「統合」の論理や「象徴」を立てる判断様式が出てくるにちがいない。日本人にとって、海外旅行というのは、そうした無意識の「天皇制」からつかのまのがれるという意味もあり、そのため日本人の旅行者は、せめて海外では「天皇制」を目の当たりにするのを避けたいと内心思うのではないかという気がする。  しかし、バターシー・ブリッジの近くまで歩いてきてから、わたしは、自分がそうした日本人海外旅行者のもう一つの意識パターンにまきこまれているのを感じ、あえてそれに抵抗したいという気になった。そしてわたしは、いま来た道を戻って「ロボット」の店内に入った。日本で珍重されている品が、一体いくらで売られているのかを知りたいとも思ったのである。  店には先程の日本人たちはいなかった。十畳あるかなしかの店内には、店のひとが伝票をくっている。棚にずらりと靴が並んでいるが、数はそれほど多くはない。それに、全体としてパンク・カルチャーの店という感じは全くしない。品物をずっと見ていくと、新宿の「ロフト」の前でパンク少年が履いているのを見たのとそっくりの靴があった。値段は付いていない。  靴をとりあげたのを見た店員が、愛想よく近づいてきた。値段は五十五ポンドだった。ということは、日本円で一万二、三千円である。イギリスの靴としては高いが、日本の靴の値段に比べれば決して高くはない。これが日本に行くとどうして三万五千円になるのだろうか?  「高いね」。買う気のないわたしは、こう言って店の人と話をするきっかけを作る。  「ハンド・メイドだからね。日本人はよく買っていきますよ。まとめて買っていく人もいるので、サイズが間に合わないのもある」 どうやら、この店にとっていまや日本人は最大・最高の顧客らしい。  わたしが、興味をもったのは、「ロボット」の靴に対する日本人の異常なまでの嗜好はどのようにして生まれたのかということである。 その日以来、わたしの頭からこの靴のことが離れなくなり、街を歩いていてロッカーの身なりをした若者が歩いてくると、自動的に目が彼や彼女の足元に向いてしまうのだった。しかし、ロンドンでは、滞在が短かったせいもあり、遂に一度も街で出会うロッカーたちの足元に「ロボット」の靴を発見することができなかった。それと似たような底の高い靴を履いている者は何人もいたが、一体に彼や彼女らが履いている靴は安いもので、日本のロック青年たちのような高価で真新しいものを身につけている者は全くいなかった。  パリに戻ってから、そしてパリから最終的にニューヨークへ渡ってからもこのことが気になり、街でロック・ファッションの若者に出会うと、足元を観察したが、「ロボット」の靴を履いているのを発見したのは、たった一度だけだった。それは、ニューヨークで、ロック・ファッションを身につけた若者の一団とすれちがったとき、そのなかの一人の白人の少女が履いていたのだが、彼女や彼らは、明らかにミドル・クラスの子弟たちであり、すさんだ顔をして街にたむろしているパンクではなかった。要するに、おしゃれとしてロック・ファッションを楽しんでいるという感じの若者たちだった。これは、日本の傾向によく似ている。  彼や彼女らにしてみれば、「ショット」の皮ジャンを着たり、「ロボット」の靴を履いたりするのは、おじさんがロンドンで「ダンヒル」のパイプを買い、おばさんがパリで「クリスチャン・ディオール」の香水を買うのとは訳が違うと言うかもしれない。それらの衣装を身に着け、あこがれるミュージッシャンのレコードを聴きあさることによって、国境と距離に阻まれたかの現場に同化しているつもりかもしれない。  しかし、彼や彼女らと、紋切り型のブランド商品を買い漁るおじさん・おばさんたちとのあいだには、たいした相違はないのではなかろうか? 現に、日本で広まっているロック・ファッションは、みな仕掛けられたものである。ロンドンやニューヨークのごく一部の場所で誰かが身につけていた衣装が一月後には「ファッション」として日本に伝えられる。そして、ロンドンの、あるいはニューヨークの個人商店が「ブランド」にされてしまう。なかには、このようなやり方で日本人の目にとまることによって、それまで保っていた質を落としていまう店も現われている。まさに日本的公害というほかはない。そしてまた、そういうファッション情報に躍らされて高い輸入商品を買ってしまう若者たちは犠牲者である。  数年前わたしは、ローマでたまたま、ヨーロッパで発売されているロックやニューミュージックのレコードを片っ端から買い漁っている男と知り合いになったが、彼は、それが営利的にもウマミのある商売であることを説明したのち、自分の努力で日本にはヨーロッパで出た珍しいレーベルの大半がそろうことになるのだと豪語していた。たしかに、それは便利なことではあるが、個々人が苦労して探したり、注文して手に入れるというのも、国境を越えるアクションの一つである。それが、彼のような独占的行為によって弱められてしまうという側面もあるのである。  実際、最近は、洋書も日本の本屋に一番よく集まっていると思っているひとが増えているようだ。これは、ときには落し穴になる。最悪の場合には、日本のマーケットだけ漁っていれば「世界」のことがわかると信じるあまり、たまたま日本のマーケットでロクなものが見付からなかったといって、それがとりもなおさず海外の現場の状況なのだと思いこんでしまう人が現われる。おそらく、「もう西洋から学ぶものは何もなくなった」という発想なども、こんなところから生まれてきたのだろう。  今日の日本は、もはやジャンクあつかいされているマルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」をもじって言えば、《国際率の傾向的低下の法則》のもとに動いている。つまり、今日ほど海外からの物品の輸入が「高度化」している時代はないにもかかわらず、逆に、その高度化が進めば進むほど、国際性の度合いが低下し、海外文化に対する閉鎖的な態度すら生まれてしまうのである。  パリのカフェで「国産」のビールは何があるかとウエイターにたずねたら、彼は、「クロネンブルク」とか「レーベンブロイ」とかの名前といっしょに「ハイネッケン」を挙げた。なるほど、「ハイネッケン」はもとはオランダ産だが、いまでは現地生産を行っている。それは、ある意味では「フランス」のビールであり、「日本」のビールなのだ。とすれば、いまや土地性は、ビールそのもののなかにではなく、ビールの飲み方のなかにしかない。これが、もっと素材性の強い食品になると、フィリッピンで養殖したエビや韓国のフグで「日本料理」が作られたりするように、土地性はほとんど失われつつある。しかし、ここから「見立て」がすべてだということになるのだろうか?   最近、イタリアと西ドイツのあいだでおもしろい裁判闘争があった。それは、スパゲティの「国籍」をめぐるもので、西ドイツのあるパスタ会社が自社のエッグ・ヌードルをイタリアに輸出しようとしたところ、イタリアが、国内法に触れるとして輸入を禁じたところから始まった。イタリアでは、パスタは、硬質小麦と水だけから作られなければならないと法律で規定されており、西ドイツ産のエッグ・ヌードルはこの規定に引っ掛かり、輸入することができないというのである。結果は、西ドイツの会社側の勝訴となり、スパゲッティのナショナリズムは切り崩された。  この裁きを下した欧州裁判所の側からすると、目下EC諸国が一九九二年をめどにEC単一市場の構築に向かって進もうとしているときに、逆に輸出入の国境的な壁を高くするようなことは許されない。  すでにヨーロッパでは、人も物も食品も、脱国境的になりつつあるが、これは、文化的には《場所性》の喪失を意味する。  《場所性》の喪失は世界的なものであり、それをおしとどめることはできそうにない。電子テクノロジーの発達は、その傾向をさらに推し進める。問題は、われわれの身体はつねに場所的なものであり、《場所性》なしに「個人」や「人権」が根拠をもつことができない点である。  とすれば、選択は、相対的なものとならざるをえまい。すなわち、《場所性》の喪失をどのようにして、そしてどの程度にくいとめることができるかである。  「国際化」とともに、物品や食品がますます《場所性》を希薄にしていくとしても、身体は交通の自由化によって《場所性》を失うことはない。ヨーロッパと日本(いづれもある種の「国際化」を推進している)との決定的な違いは、物の出入りの障壁がはずされることと並行して、人の出入りの障壁をとりはずす試みが、少なくとも日本よりは積極的に進められていることである。  最近、出入国管理令を調べていて驚いたのは、日本の入管法は、一九八七年まで「身体障害者」を「上陸拒否」、「精神障害者」を「退去強制」の対象にすべきであると規定していたことである。つい先ごろまでこんな法律が存在していた国に人の出入りの障壁をもっとはずせと言っても無理かもしれぬが、《国際度の傾向的低下の法則》をのり越える唯一の方法は、人の出入りの度合いを強めるしかないのである。



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