国際化のゆらぎのなかで 5

《首狩り族》の活躍

 八十年代に入ってからだったと思うが、ヨーロッパやアメリカの街で奇妙な日本人が目につくようになった。外見は、観光客というよりも旅慣れた旅行者か長期滞在者といった雰囲気だが、マイナー・レーベルのレコードをよくそろえているレコード店やあまりパッとしない古道具店があると、その店を念入りに物色し、これぞと思うものをごっそり買っていく。ごっそり買ってしまうというその買いっぷりは、日本人観光客がルイ・ヴィトンのバッグだとかディオールの香水だとかを大量に買うのと似ているのだが、その品物の選び方は、なかなか目が肥えている。  すでに七十年代の後半に、ロンドン郊外のフリー・マーケット(蚤の市)でこの種の日本人が顰蹙をかっている、というよりも恐怖をまき起こしているのを目撃したことがある。まだ市が開いたばかりというのに、ガラス食器や銅製の灰皿だとかのアンティック小物を日本人の客にごっそり買い占められそうになった店主が、急に売るのを拒否しはじめ、もめているのであった。「ウチはホールセール(卸し)をやってるんじゃないよ」と言うわけだ。が、買い占めようとする日本人の方もさるもので、ブロークンな英語でしきりに「ダブル、ダブル」とまくしたて実直そうなイギリス人店主を圧倒する。傍観者のわたしは、それをいつまでもながめているわけにはいかないので、すぐにその場を去ったが、どうやら彼は、そのコーナの品の大半を倍額で買取ったようだった。  その後、この種の《首狩り族》はヨーロッパやアメリカ、さらにはアジアのほとんどあらゆる都市に現われ、高い円にものを言わせて、品物を買い漁るわけだが、その買い漁り方も次第に広域化し、また高級化し、一千万、二千万という現金をもって単身《戦地》に赴く首狩り族も現われる。  パリで出会った首狩り族の一人の話では、ある時期まではこの種の商売は、実にオイシイ儲けがあったという。まだ競争相手がいなかったから、パリなどの骨董店やフリーマーッケットをのぞくと、二足三文で古い雑貨を手に入れることが出来た。それを日本にもってくると、ときには百倍ぐらいの値段で売れることもあった。  ところが、状況が次第に厳しくなった。困難の一つは税関だ。初めの頃は、「おみやげ」をよそおって税関をフリー・パス出来た。税関職員も、古ぼけた雑貨がこれからもつであろう価格を知るよしもなかった。しかし、だんだん首狩り族の数が増えてくると、「敵」も事情を感知して、根掘り葉堀り聞いてくるようになった。  「飛行機もファースト・クラスじゃないとヤバくなってきてネ、金がかかるネ」、首狩り族氏は言う。「日航のファースト・クラスだと、何百万もする宝石をアタッシュケースのなかに入れていても大抵は調べれれないんだよ。トランクのなかのアンティックなんかフリー・パスだネ。でも、これがいつまで続けられるかダネ」。なぜ日航だと大丈夫なのか、その辺が興味深いところだが、まあ、国とつながりの強い会社に貢いでくれれば、国の方は目をつぶろうというわけなのかもしれない。  一方、日本人首狩り族の進出は、現地マーケットにも異変をまき起こした。素人相手の場末の骨董屋やフリー・マーケットからめぼしい品物が姿を消したうえに、店のなかには、何でも日本人首狩り族に見せれば高く買ってくれると確信して、値段を法外につり上げたり、品物を表に出さなくなる所も出てきた。 八十年代になって、ニューヨークやロンドンのフリー・マーケットが、急速に活気を失ってしまったのは、「ジェントリフィケーション」の進行という点もさることながら、日本人首狩り族の活躍の結果でもあると思う。  かくして、今日、東京には世界の各地から集められた《首》の数々が所狭しとひしめいている。アンティックだけではない。当時よりははるかに組織的なやり方で集められた世界の産品や産物がいま東京に並べられている。 この傾向は、さらに進むだろう。政府は、外国製品の消費がもっと拡大することを願っており、通産省は、そのために最近、大型小売店舗の出店規制を緩和することを決定した。  わたしは、渋谷で育ち、ここ三十年間の渋谷の変化を見てきたが、この十年の変化は実に目まぐるしい。とりわけ西武の進出は渋谷の街の相貌を根底から変えた。そのやり方は、〈草の根〉的に出現した若者文化やファッション文化を吸収するというやり方で一貫している。つまり、金を工面してヨーロッパに出掛け、個人的な創意で珍品やアンティクを物色して日本に持ち帰り、自分の店に並べるという初期の《首狩り族》のやり方を膨大な資本にものを言わせてもっと組織的にやることであり、原宿や代官山で知る人ぞ知る存在であったような小さな店をごっそり一カ所に集めてしまうやり方である。  宇田川町の「ロフト」と「クアトロ」は、まさにそのようなスペースである。「ロフト」は、七十年代末から八十年代にかけて浮上してきたガジェット商品の店を一カ所に集めたといった感じのスペースで、国内外のゲーム、ガジェット、玩具、食器、家具、インテリア化粧品、一時代まえの電化製品などを並べて売っている。  そこから少し先にある「東急ハンズ」との違いは歴然としており、「ロフト」の商品は、明らかに、使用価値よりも象徴的価値の方にウエイトを置いている。わたしは、八十年代の初め頃に「東急ハンズ」が開店したとき、造園や大工仕事や電気工作の実用的な道具が、実際の使用のためよりもむしろ一種のデザイン商品としてディスプレイされているように思えてしかたなかったが、「ロフト」をのぞいてからすぐに「東急ハンズ」の店内に入ってみると、そこが依然として使用価値の世界であることがわかるのである。おもしろいことに、「ロフト」では一度も耳にしなかった「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」というダサい呼び込みの声が「東急ハンズ」では聞こえるのである。  買うという行為が、道具や素材を買うよりも、象徴を交換したり、情報を消費することになるという傾向は、「ロフト」から「クアトロ」へ行くとさらに激化する。ここも、宮下公園から明治通りの一帯に出現した小さなブッティックやファッション・グッズの店と欧米ブランドものの専門店を一カ所にまとめってしまったスペースで、西武的なやり口が如実にあらわれている。  地下一階は「ストリートカジュアル」の階とされ、靴、カバン、メンズファションの小さな店がスペースを区分している。一階から上は、「カジュアルステイタス」、「ニュー&ライトカジュアル」、「オーセンティクカジュアル」、「イタリアンモダン」と名づけられ、それぞれの階に八軒ほどの店がある。 値段は上に昇るほど高くなるようで、四階のある店には十三万円のシャツが並べられていた。エレウノ、ビブロスなどといってブランドものの上着となると、最低十六、七万は必要だ。  「クアトロ」には五階にライブ・スペースがあるので若者が沢山出入りしているが、三階や四階になるとさすが若者の数は少なく、ある種ギャラリー的な雰囲気があたりを支配している。若者は、地下一階や二階の店で比較的安いTシャツや帽子を買い、三階や四階には足を延ばさない。ブランドものを買っている客がたまにあると、それは大体「リッチな」感じのオジサンだ。しかし、この程度の入りでやっていけるのだろうかという疑問を残る。ブランド商品というのは、見かけほど儲からないのではないか?  こうしたスペースは、本来、オジサンよりもせいぜい三十までの「ニューリッチ」の若者を想定して作られているはずである。が、わたしが足を運ぶ時間が悪かったのか、その手の若者に出会うことは一度もなかった。目撃したお客は圧倒的にオジサンだった。  考えてみれば、それは当然かもしれない。服や持ち物にウルさいある友人にいわせれば、「たとえばサ、六本木のキャンティとか白金のギーガー・バーがまとめてマンモスビルのなかに入ったとしたら、あなた行く気になる?行くのはオノボリさんかオジサンだけだヨ」、ということになる。とすると、オノボリさんやオジサンではないウルサ型はどこへいくのだろう? 少なくとも、「クアトロ」のように、目ぼしい店を一カ所にまとめてしまうと、「通」はその上を行かなければならないからである。  ところで、商品の実用的価値よりも象徴的・記号的価値にウエイトを置いている西武のやり方は、必ずしも新しいわけではない。もともと日本では、海外からの品物は「舶来品」と呼ばれて、その使用価値よりもその象徴的価値や機能が多大な意味をもっていた。  その場合「象徴」は、一見、一定の場所や文化「についての象徴」であり、「舶来品」はパリやロンドンに直結した《端末》として機能しているかのような印象を与えた。しかし、「舶来」かぶれは、パリから取り寄せたガリマール書店の仮綴じ本のページをペーパーナイフで切りながらパリの知識人サークルに想いを駆せたり、ダンヒルのパイプをくゆらせて、イギリス人になっちょうな気分にひたっていたのであって、そこから肥大した《ゲットーの想像力》が作り上げた「日本の近代文化」の特殊性は、文化論的に非常にユニークなしろものであることを認めるにやぶさかでないとしても、実質的な他者から遮断されていたという点では、「舶来品」もブランド商品もガジェット商品も、同類なのである。 その意味では、西武は日本近代の商品文化の「正統」を引き継いでいると言えなくもない。「クアトロ」に並べられといる商品は、みなブランドものである。「ロフト」の商品は、ブランド商品とは言えないが、情報やうわさによって生み出された《差異》によってその価値を作っているという点では同じ系統に属している。そこでは実質的な要素は重要ではない。「クアトロ」の地下のある店に「エスニック・シャツ」と記されたプリント・シャツがあったので手に取ってみると、それは、ニューヨークでヒスパニックの人たちがよく着ているカラフルなプリント・シャツであった。彼らは確かに「エスニック」ではあるが、中国人、イタリア人、アフロアメリカン、ウエストインディアン、コリアン・・・と数十の「エスニック」でひしめいているニューヨークで、このシャツが等しく着られているわけではない。それが「エスニック・シャツ」などという名前で通用するのは、おそらく日本だけだろう。要するに、「エスニック」であれ「ウエスタン」であれ、実質とは無関係の単なる《記号差》なのである。  「舶来」信仰は、確かに、輸入品の氾濫で完全にくずれつつある。とりわけ実用品や食品の場合には、それがイタリアから来ようが、ポルトガルから輸入されようが、その距離感は薄れ、せいぜい日本のどこかの地方から届いた品物ででもあるかのような意識で消費される。というよりも、もはやものの《場所性》が喪失し、それが「舶来」であるかどうかなどということは問題ではなくなりつつある。  しかし、こうした傾向にバランスを取るように高級ブランド志向やガジェット趣味が台頭する。高級ブランド商品やガジェット商品は、《場所性》よりも《情報性》を重視する。「ジョルジオ・アルマーニ」というブランドの服は、それが「イタリア製」であるがゆえに「価値」があるのではなく、「ジョルジオ・アルマーニ」というデザイナーの名前のために「価値」を持つのである。  一時期ブランド商品を追い掛けていた者のなかには、最近、たとえば「クアトロ」に並んでいるようなブランドものには見向きもしない者が増えてきているようだ。ブランドものはむしろオジサンが追い掛け、流行に敏感な「トレンディ」は、別のものを追い掛けはじめている。それは、ブランドものがもはや探し求める対象ではなく、一定の場所に行って札びらを切れば誰でも手に入れることができるものになってしまったからであり、特権的な希少性が薄れたためである。  世界のブランドが資本力にものを言わせてみな一堂に集められてしまうという時代になると、同時代的なブランドに特権的な希少性を求めることは出来なくなる。かくして、希少性は、空間軸から時間軸の方に移しかえられ、時間のなかに特権的な希少性が探し求められることになる。  青山、表参道、代官山あたりの店には、一九六〇年代の古着やアンティクーを熱心にそろえているような店があるが、そういう店には、全身六十年代の古着ファッションで身をかためた趣きの「若者」に出会うことがある。 たぶん、「若者」にかぎらず、おしゃれな「トレンディ」たちのブランド志向は、こうした《時間ブランド》の方に傾いているのだろう。  ところで、「舶来」という発想のなかには、《ここ》とは違う《あそこ》を求める志向があり、それが「脱亞入欧」や「近代化」や「立身出世主義」と結びついていたわけだが、こうした側面は、「舶来」信仰が《時間ブランド》信仰に移行するにつれて、完全に時間軸に移し換えられるだろう。すなわち歴史への「国家的雄飛」と信仰である。  いまのところ、ヨーロッパやアメリカの「時間」が物色され、珍重されている。しかし、空間的なものは移動し、蓄積することが出来るが、時間的なものは自ら体験するしかない。「アンティク」とは、所詮は、空間化された時間にすぎない。 それゆえ、時間の特権的な希少性を追及していった場合、それは、「素性」や「血統」といった壁に突き当たる。インスタント・コーヒーのテレビCMに、ヨーロッパの貴族がそれを飲んでいる映像があったが、時間的な特権性をもたないインスタント・コーヒーが、その特権化のために貴族のイメージを持ってくるのは理にかなっている。  しかし、社会や国家はインスタント・コーヒーではなくて、それ自体が歴史的存在であるから、それらは、自ら時間的な特権性を捏造しなければならなくなる。とすれば、《時間ブランド》の行き着く先は、日本では皇室というコンテキストである。アメリカの六十年代ファッションなどに身を固めている「トレンディー」たちが、やがてアキヒト一家のファッションをこぞ って真似るということもありえる。  「舶来」信仰は、前述のような「追い付き追い越せ」的な近代主義と結びつく一方で、現状を批判的に見る「外部」の視点を与えもしたが、《時間ブランド》信仰は、いかなる「外部」も与えないだろう。いまや、時間がそれ自身でフィードバックしなければならない事態に直面しているのである。そしてこのことは、若者文化やファッションのレベルにとどまらず、社会や政治に関しても言えることである。自民党がゆらぐのは偶然ではないのである。



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