国際化のゆらぎのなかで 3

エスニック料理の行方

 一九六三年に奥野信太郎・寺下辰夫・狩野近雄・山本直文の編で柴田書店から出た『東京うまい店200店』には、「そば」「すし」「うなぎ」「天ぷら」「日本料理」等々と並んで「中国料理」「西洋料理」の章があり、最後に「各国料理」の章があるが、そこで取り上げられているのは、ケテル、ローマイヤ、ハンガリヤ、ナイル・レストラン、大昌園、東京園、アントニオ、キャンティ、インドネシア・ラヤ、サモワール、ロゴスキー、山原の十二軒だけである。  沖縄料理の山原が「各国料理」の章に入れられているのが、いかにも時代を思わせるが、それはともかく、「各国料理」の店の数の少なさが目を引く。むろん、この本で取り上げられている店は、編者によって選ばれた店であるから、当時の東京にもこれ以上の数の「各国料理」レストランがあったはずである。しかし、いまに比べればその数は知れており、今日のように、お望みなら一月ぐらいは毎日違った国や地域のエスニック料理を食べることができるといった状況からは程遠かった。とりわけ、東南アジアの料理を出す店は非常に少なく、タイやカンボジアの料理を食べることはまず無理だった。  それが、今日では「エスニック料理」という言葉が定着するくらいさまざまな国や地域の料理を食べさせる場所が増えているわけだが、それははたして、日本の国際度の深化を示しているのだろうか? そうした店が今後もっと増えていけば、それにともなって日本がいまよりもっと国際化するということになるのだろうか?  ニューヨーク、パリ、メルボルンといった移民を受け入れ、移民で成り立ってきた都市では、少なくとも一九六〇年代以前には、新しい移民者がとりあえず始める商売は行商や食べ物屋であった。その場合、レストランの客は、同じ民族的背景(エスニック・バックグラウンド)をもつ者たちであり、今日のように〈ヨソ者〉がもの珍しさからそこに食べに行くという例はそれほど多くなかった。  アメリカ合衆国では、一九六〇年代後半から「公民権」運動やブラック・ミュージックの新しい運動が高まるなかで、次第に消費の側もエスニック文化に関心を示し始めた。すでにチャイナ・タウンやリトル・イタリーは、観光地になっていたが、一九七〇年代になると、あらゆるエスニック・コミュニティの《チャイナ・タウン化》が少しづつ進み、エスニック料理ブームが始まった。  今日でも、たとえばニューヨークのポーランド人やウクライナ人のコミュニティ(あるいはチャイナ・タウンですら)に行くと、コミュニティの人間に食事を供給することを第一義とするレストランが残っているが、大抵のエス ニック・レストランは、〈ヨソ者〉の客を当て込んでいる。つまりここでは、「エスニシティ」は、民族文化の概念であるよりも、むしろ〈多品種少量生産〉的な商品概念にな っているのである。  日本のエスニック料理ブームは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、フランスなどが長い時間をかけて経験したことをほとんど経験せずに、もはや商品概念と化してしま った「エスニック料理」から出発している。そのため、日本のエスニック料理店では、多数の〈異民族〉のあいだで日本人が少し緊張しながらもの珍しげに食事をしているという光景はなく、むしろ、ニューヨークならば七〇年代になって展開したような光景、つまり中ぐらいの〈異国情緒〉を楽しむ〈ヨソ者〉(日本人と外国人観光客)のにぎわいだけが見られるのである。  その点、現地から来た人たちが開店している店は、店の人たち同士のやりとりの言語や身ぶり、客への応対仕方が〈異文化的〉であり、このような店がもっと増えれば日本の都市も〈多文化的・多言語的〉という意味でかなり国際化するのではないかという気がする。しかし、現状は、移民に対して日本が全く消極的であるために、その種のレストランが増えていく可能性はあまり大きくはない。  わたしの印象では、最近はむしろそうした傾向に逆らう動きが出始めているようにも思える。つまり、それしかないからエスニック料理で行くというよりも、エスニック料理やエスニック文化が流行るから人工的に「エスニック」を強調して商売をするという傾向が現われているように思えるのである。  先日、わたしは、友人と西新宿にアフリカ料理のレストランがあるというので行ってみた。ビルの二階にあるその店の入口には、四人ほど客が待っており、それほど広くない店内は客で一杯だった。店内にはアフリカっぽい民芸品が飾られ、音楽もそれっぽい感じのものだ。十五分ほどして、入口で待っていた四人組がしびれを切らして立ち去り、待っているのはわたしたちだけになった。  いつもおもしろいと思うのは、この種の店に予約なしで行くと二十分や三十分は待たされるのが普通だが、列を作 って待っている客のうち最初にギブ・アップしていまうのはなぜか日本人であることだ。外国人は、三十分ぐらいは平気で待っており、ときには列の大多数が外国人にだけになることもある。別に、決心を頑なに守り通すことがよいわけでもないが、文化 の違いを感じさせる瞬間である。  案内された席はバーのカウンターで、テーブルには一応ナイフ/フォークが置いてある。カウンターのなかには黒人の青年が二人いて、酒の注文に応じている。わたしたちは、クスクスとチュニジア風だとかいうサラダとビールを注文した。アフリカ料理というものは、基本的には非常に庶民的な混成料理であり、特に形式があるわけではない。しかし、出てきたサラダは、オリーブがのったりしていて、まるで「ギリシャ風」だった。米粒のようなクスクスの上にかけるソースも、お茶の水の学生街あたりでお目にかかる少し油ぎったトマトソースに何がしかの香料を効かせた程度のものだった。  「グッド?」  食べ終わって、カウンターのなかに目を向けたら、黒人青年が愛敬のある笑顔でたずねた。もう一人の黒人は、カウンターに座っている女性の一人客のお相手をしている。ちょっと英会話教室みたいな雰囲気だが、彼女はとても楽しそうだ。このような店にはそうした付加価値もあるのだろう。わたしの方も、行きがかり上、英語で世間話をすることになる。  「東京? まあまあだネ」「アンタの仕事は?」などというとりとめもない話が続き、わたしが、「どこから来たの?」とたずねると、この青年は一瞬真顔になり、それからイタズラッポイ顔をして、「月からサ」と答えた。  「エ? 月? ぼくは火星から来たんだけど、じゃ、どっかで会ってるかもネ」わたしが切り返す。  これがきっかけで会話が打ち解け、彼は自分の生い立ちを少し話してくれた。彼は、本当はアフリカ諸国の人ではないのだが、営業上アフリカ出身者のフリをしているのだという。その方が客が喜ぶらしいのだが、日本の「エスニック・レストラン」にはこの手の店が多いのではないか? 楽しければいいじゃないのと言えばそれまでだが、演出された人工的「エスニック」空間のなかで、片言の英語を使って異国情緒に浸るというのは、何かわびしい感じがしてならない。  しかし、日本が外から住みに来る人々を礼遇しているかぎり、エスニック・レストランが外地のある種の〈出先機関〉や〈出張窓口〉になることは出来ないだろう。最初はそうであっても、だんだん同化せざるをえなくなる。日本の料理は、これまで、そういう形で世界の料理を統合してきた。それは、統合文化としてはなかなか興味ぶかいものをもっているが、その統合過程は、同時にそうした料理文化を担ってきた外部の人たちを排除する過程でもあった。  この点で、最近、実質的には「エスニック料理」風でありながら、あえて「無国籍料理」の店を標榜するところが出てきたのは、象徴的である。日本では文化はじきにその「国籍」を同化させられてしまうのだから、「エスニック料理」も、最初から「無国籍料理」と名乗っておいた方がよいかもしれない。  渋谷のNHKのそばのSは、「無国籍料理」の店として有名だが、そこでは、「タイ風」とか「ビルマ風」とか「四川風」とかの料理がそれなりの(つまりステレオタイプ化された「タイ風」、「ビルマ風」、「四川風」の)味を出しており、ここで食事をしていると、国別などには頓着せずに自由なデザイン感覚のノリで並べた東南アジアの民芸品と日本人の演奏するライブの民族音楽との効果もあいまって、統合されるまえの日本文化の多様な内実を見せられたような気にもなる。  しかし、よく考えてみると、「無国籍料理」とは、さまざまな国々の料理が〈無国籍者〉としてうさんくさく、かつ自由に自己主張しているような料理のことではなく、むしろ形態はそのままで〈国籍〉を剥奪されている料理のことにすぎない。つまり、〈無国籍〉ではなくて〈非国籍〉なのだ。これは、どこかでデパートなどのお好み食堂に通じるものであり、最近のお好み食堂に「エスニック料コーナー」まであるのは、偶然ではないのである。  考えてみると、日本の社会と文化は、〈懐石料理屋〉と〈お好み食堂〉とのあいだを揺れ動いてきた。時代や社会によって〈お好み食堂〉が目立つときもあるが、〈懐石料理屋〉がなくなるわけではない。「国際化」などというスローガンも、所詮は〈お好み食堂〉にすぎないのかもしれない。では、「国際化」にとっての〈懐石料理屋〉とは何か? それはすでに〈開店〉しているのか? 少なくとも、エスニック料理店に関しては、その〈懐石料理屋〉化はすでに始まっている。  渋谷の宮下公園のそばに、パリからタイ人のシェフを呼び、ロンドンのデザイナー、マルコム・ポインターがインテリア・デザインをしているという「タイ・レストラン」がある。この情報は、いまや都市文化と若者文化の情報通になってしまった編集部のOさんが聞き込んできたのだが、先日、ここに足を運んでみて、日本のエスニック料理店の行き着く一つの極が見事に現われていることを目の当たりにした。  外は、一見ラブホテル風で、入口にパリのレストランではおなじみの小さなメニュー・ボックスがあるのを見落とすと、ここがレストランであることはわからない。まして、そこがタイ料理の店であるとは誰も気づくまい。  非常に重いドアーを引いてなかに入ると階段が地下に延びている。「秘密クラブ」の演出が見え見えである。レストランの内部は、完全に「西洋風」である。マルコム・ポインターのデザインなのだろう、蛇がとぐろをまいていたり、人の顔が浮かび上がったオブジェなどが飾ってある。ウエイターの衣装は黒と白。席に案内されると、「何かお飲みものは?」ときた。「サムシング・ドリンク?」というやつだ。  周りを見回すと、近くに二十四、五の女性だけの四人客がおり、少し先に中年の男と若い女がいる。いかにも「不倫」っぽいカップル。外国人の客は皆無。普通、エスニック料理の店に行くと、外国人の客の方が多く、またそういう店の方が味もよいのだが、ここはちょっと違うようだ。おもしろいことに、どの席でも彼や彼女らはみな一様にワインを飲んでいる。料理の方は「オツマミ」でしかないように。これは、ある点で〈懐石料理〉の発想である。 さて、オーダーの方は、「タイ料理」の店を標榜しているのにこだわって、まずトム・ヤン・グーン(えびのスープ)をとる。これを食べてみれば、この店の料理の水準がわかるはずだ。が、これだけではちょっと間がもたないので、「タイ風春巻」と「パイナップル入チャーハン」というのをとる。ビールは、一応「シンハ」。  カンボジアやベトナムの春巻というのにはよくお目にかかるが、タイの春巻というのは初めてだ。それと、「パイナップル入チャーハン」というのも奇妙である。  案の定、トム・ヤン・グーンの味は、明治屋あたりで売っているいるトム・ヤン・グーンの素を買ってきて自分で作ったものと大差なく、そのほかのものは、マルコム君のオリジナル・デザインになるバカに重いフォークとスプーンがなかったら、千円以下の料金しか請求できないだろうところの味だった。  一皿食べ終わるとウエイターがサッとやってきて片づける。コース料理ならこれでもよいが、ちょっとせわしない。が、そのつどテーブルに来るウエイターが異なるので、二人のウエイターに同じ質問をしてみた。  「K・・・というのはどういう意味?」この店はユダヤ密教の名前を店名にしている。  「神秘的哲学という意味です」  「タイとは関係がないんですね?」  「ございません」  二人とも口裏を合わせたように同じ答えをしたところをみると、そう答えるように教えられているのだろう。じゃあ、「神秘的哲学って何ですか?」「タイ料理の店なのに何でユダヤ神秘主義の名前をつけるんですか?」と聞きたい衝動をおぼえたが、そんなことを聞いてもムダだと思いやめる。  タイのエスニック料理も、日本に来るとカバラの呪文で実質とは無関係の〈情報料理〉になってしまうのか? ここでは、客は、料理を食べるよりも、情報を消費して楽しむのである。が、その点では日本の懐石料理は一つの頂点を形づくっているわけだから、このような方向を歩みだすと、最終的には〈懐石料理〉の精神に回収されてしまうのではないかと思う。  Kでは、支払いはテーブルで行なう。最近こういう店が増えてきた。ちょっと気取った店だと、「ここでお支払い下さい」と来る。これでは、こっちも、「チェック・プリーズ」とでもいわなければならなそうである。それとも、「おニイサン、お勘定」で行くか? ウエイターに現金なりカードなりを渡すと、釣銭やレシートを銀の皿にのせてもってくる。アメリカだったら必ず(チップ制はいまやヨーロッパよりもアメリカの方がより儀式化している)その皿にチップを残してテーブルを去ることになるが、日本でもチップ制が広まるのだろうか?   いずれにせよ、初めは少し日本の文化と社会を揺らがせるかにみえたエスニック料理ブームも、ラブホテル風の入口の秘密クラブ風のレストランで、日本人だけでワインを飲みながらタイ料理風の料理を食べ、アメリカ風に金を払って名ばかりのユダヤ「神秘的哲学」風のおしゃべりをするといったところでおさまりそうである。



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