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ミクロポリティックスへの眼差し

 世の中が一見「平穏無事」を求めて進んでいるかのようである。一九八九年から今年(一九九〇年)にかけて起こった「激動」の諸要素が、決定的とは言えないながらも、それなりの「決着」をむかえている。これは、よい前兆か、それとも悪い前兆か?
 六月二十六日、天安門事件の「首謀者」の一人として逮捕状が出ていた方励之が、保護先の北京米大使館からイギリスに移ることが許された。この事件に対して強硬な姿勢を崩さなかった中国政府としては、これは、「西側」諸国との対決を回避する方向への転換を意味する。
 六月二十八日、日米構造協議の最終報告が発表され、昨年九月から五回にわたって開かれてきた〈カブキ〉協議に「決着」がついた。最初からアメリカ側の提案が受け入れられることは決まっていたのだが、もっとスリリングな場面が展開するのではないかと期待する向きもあった。結果は、泰山鳴動してネズミ一匹である。これでは、日米安保条約の問題が本気で再検討される気配はなく、日米関係は、当面、「安泰」である。言い換えれば、退屈なまま現状が維持される。
 六月二十九日、礼宮と川嶋紀子の結婚式が行なわれ、例によって新聞、テレビは、その報道に時間とスペースをさいた。しかし、マス・メディアをまきぞえにした天皇家キャンペーンとしては、一九六四年に結婚した現天皇の弟、正仁親王(旧義宮、愛称『火星ちゃん』)・津軽華子のときとくらべても、かなり抑えたキャンペーンであった。これでは、このキャンペーンを批判することが恰好の反天皇制キャンペーンとなると踏んでいた人々にとっては、期待はずれである。ここでも、なにやら「平穏無事」路線が選択されているかのようである。
 この分でいくと、十一月に予定されている大嘗祭(天皇の本格的な即位式−−何と、天皇はまだ本当の天皇ではないのである)も、国をあげての排他的な宗教行事としてよりも、サミット的な外交パーティとしての性格が強く打ち出されることになろう。「大嘗祭反対」を叫ぶだけでは、天皇制を異化することも、批判することもできないわけである。
 七月一日、自主独立路線を進めようとしたリトアニア共和国に対して原油供給停止などの強硬「制裁」を加えてきたソ連は、制裁を解除した。これは、ペレストロイカの進行とともに、各共和国の独立志向が強まり、民族闘争も激化して、ついにはソ連帝国が崩壊するという「激動」の構図が一応後退したことを意味する。
 同じ日、東西両ドイツ間に、通貨・経済・社会保障に関する同盟条約が発効し、東独マルクは西独マルクに統合された。半年前にはまだ疑問視する向きもあった東西ドイツ統一は、いよいよ具体化しはじめたわけであり、きわめて平凡な想像力のなかでイメージされたことが歴史の現実になろうとしているかのようである。
 歴史が、このように何の「破綻」もなく進むように見える時代には、歴史の本当の(つまり何世紀単位で見たときに決定的と思われる)動きは、ミクロな部分で起こる。実際、「平和」な時代ほど諜報戦が激化し、歴史の表舞台には登らない微細な(しかし決定的な)出来事が日々起こるものである。
 その意味で、わたしたちは、いま、大事件中心に世界を見るマクロポリティクスよりも、瑣末な事象から世界を凝視するミクロポリティクスに習熟することが求められている。
 というわけで、今回は、劇場未公開のヴィデオを見ながら歴史のディテールを読みなおしてみようと思い、ヴィデオカタログ(『映画・ビデオ イヤーブック 1990』キネマ旬報社を使用)をチェックしてみた。さいわい、「現代」への〈始まり〉と〈終わり〉を特徴づけるテーマをあつかった作品がすぐに見つかった。マーティン・リットの『ザ・フロント』(一九七六)とジョゼッペ・フェラーラの『首相暗殺』(一九八六)である。
 このほかに目にとまったのは、ブライアン・デ・パルマの『BLUE MANHATTANⅡ 黄昏のニューヨーク』(一九六八)、?咤LUE MANHATTANⅠ 哀愁の摩天楼』i一九七〇)、『悪夢のファミリー』i一九七九)、マーク・ジョフィの?嚼「紀末殺人ゲーム』i一九八六)、ドウラホミーラ・クラプカの『トリクローン』(一九八六)、エドワード・ハントの『ブレイン/鮮血の全国ネット』(一九八八)の計六本である。
『ザ・フロント』は、テレビ界における四〇年代の「赤狩り」をあつかった作品で、深刻な事態を見事にパロディ化し、相対化することに成功している。歴史の表舞台には出てこなかったが、この映画のように、実際に、パージされて実名では仕事が出来なくなった「左翼」の脚本家らが、一人の人物(これをウディ・アレンがコミカルに演じる)を秘かに名ばかりの「看板」(フロント)にして仕事をしていたのかもしれない。反対や批判が表に出ることが出来ないような圧倒的権力が支配する時代でも、どこかにはそれをくつがえす要素が生き続けているのである。
『首相暗殺』は、それから三十年後、イタリアで起こったモロ首相誘拐・暗殺事件(一九七八年三月)をストレートに描いている。この事件は、イタリアで七〇年代に起こった新しい反権力運動(「アウトノミア運動」−−党、綱領、イデオロギーに依存せず、「労働」「国家」「権力」そのものを解消していこうとするアナーキズム的な運動)の文脈のなかで生じたものであり、それだけが突然現われたわけではないのだが、映画は、むしろ、少数者の政治テロによって国家に一撃を加えようとする「赤い旅団」の誘拐・監禁行動に焦点を当てる。
 とはいえ、フェラーラは、この事件をテロリスト集団による残虐行為としては描かず、事件を契機に顕在化してくる権力内部の確執、「赤い旅団」の取引を無視してモロを見殺しにする閣僚たち、初めは確固とした反国家的信条のもとで行なわれた行為が、権力のしたたかさを前にしてゆらいでくる「赤い旅団」側の動揺をきめ細かく表現していて説得力がある。
 誘拐者たちは、当初、国家権力というものが首相を頂点とする一枚岩的存在であり、この「最高権力者」を誘拐すれば、国家権力は、その救出のために最大限の譲歩をすると考えた。しかし、映画のなかでジャン・マリア・ボロンテが演じるモロが言うように、国家の動きは、決して首尾一貫したものではない。国家が敵であるとすれば、それは、たえずバラバラに、しかも網状につながりあっており、一つが倒れれば別のものが増殖するような形で権力をなしているのである。
 ある意味で、九〇年代の政治は、イタリアのアウトノミア運動が実験的に提示した〈党の解消〉という路線を制度化するという方向で進んでいるが、このことは、世界から抑圧や支配が姿を消したということを意味しない。
 しかし、デ・パルマがヴェトナム戦争の時期に、それへのアイロニカルな批判を込めながら作った『BLUE MANHATTANⅡ 黄昏のニューヨーク』と『BLUE MANHATTANⅠ 哀愁の摩天楼』(どちらにも、ロバート・デ・ニーロが出演している。スコセッシの『タクシー・ドライバー』は、明らかにこれらの役からそのキャラクターが作られた)を見ると、あからさまな抑圧と権力主体が見える形での支配の時代は終わったという印象を受けるのである。
 デ・パルマといえば、いまでは、依然としてスタイリスティックではあっても、あまり政治性を感じさせない映画人であるが、こうした作品を見ると、その初期には、〈映画を撮ること〉〈映画を見ること〉の政治性を鋭く意識する作家の一人であったことがよくわかる。そして、この路線は、もう少しあとの『悪夢のファミリー』でも保持されており、一見に値する。とにかく、前二作では特に、デ・ニーロらのパフォーマティヴな即興演技とともに、ディテールへの注視の精神がいまの時代にますます斬新なのだ。
『ブレイン/鮮血の全国ネット』は、怪物の脳とテレビ放送をリンクして人々に理由なき殺人や自殺をやらせるあやしげな研究所が出てくるばかばかしくなるくらいナンセンスなC級「スプラッター・ムーヴィ」だが、こういう作品を見ると、いまや、一つの確固たる操作センターによって意識がコントロールされるというメディア支配の構図が無意味になったことを知る。宮内庁がどんなに人々を天皇制になじませようとしても、単一情報を大メディアから放射するマス・メディア支配では、もはや誰の意識もコントロール出来ないのである。
『世紀末殺人ゲーム』と『トリクローン』を詳しくあつかう余裕がなくなったが、クリストファー・ケインの『暴力教室88』の裏返し(教師が悪玉になり、学生が善玉になる)といった感じの前者は、ハッピーエンドに終わるところが安易ながらも、オーストラリア映画ならではの、そこはかとなくただよう世紀末感が新鮮だった。『マッドマックス』にも通じる果てしない無意味さは、「平穏無事」の時代のエートスである。
 後者は、子供向きのドラマだが、今日のチェコを思い浮かべながら見ると、今日のチェコの動きがすでに八〇年代の後半には始まっていたことがわかる。子供のなかに巣食っている権威主義と官僚主義が、ひょんなことで自分そっくりの二人のクローンをもってしまった少年のわんぱくな目でユーモラスに批判されると同時に、庶民の日常生活が生き生きと描かれる。
 こういう映画を注意深く見ている方が、新聞やテレビの大事件報道を追いかけるよりも、歴史の本当の動きが見えるというわけである。
[ザ・フロント]前出[首相暗殺]前出[BLUE MANHATTANⅡ 黄昏のニューヨーク]監督=ブライアン・デ・パルマ/出演=ロバート・デ・ニーロ、ジョナサン・ワーデン他/68年米[BLUE MANHATTANⅠ 哀愁の摩天楼]監督=ブライアン・デ・パルマ/出演=ロバート・デ・ニーロ、チャールズ・ターナム他/70年米[悪夢のファミリー]                                  [世紀末殺人ゲーム]監督=マーク・ジョフィ/出演=トム・ジェニングス、ジョアンヌ・サミュエル他/86年豪[トリクローン]監督=ドウラホミーラ・クラーロバー/出演=レンカ・チメロバ他/86年チェコスロバキア[ブレイン/鮮血の全国ネット]監督=エドワード・ハント/出演=トム・ブレズナハン、シンディ・プレストン他/88年米◎90/ 7/ 4『流行通信OM』


印象的なエゴイスト

【アンケート】
①あなたがこれまでに見た映画の中で、印象的なエゴイストが登場した映画とその人物は?
②エゴイストというと思い浮かぶ映画人(監督、俳優等)と、その理由は?

 エゴイストと一口に言っても、色々なエゴイストがおり、殺人鬼とか、気むずかしい老人などは、概して「エゴイスト」とみなされるようです。わたしにとっては、前者では、『ダーティハリー』でアンディ・ロビンスンが演じたスコルピオという殺人者や『ナイトホークス』でルトガー・ハウアーが演じたテロリストが印象的でした。『uルー・ベルベット?宸フフランクというおっかないオジサン(デニス・ホッパー)も、ある意味では「エゴイスト」なのだと思います。
 後者では、『光年のかなた』でトレヴァー・ハワードが演じたヨシュカという老人がよかったですね。リュック・ベッソンの『最後の戦い』に出てくる「医者」(ジャン・ブイーズ)も、初めはなかなかエゴイスト的でいい感じでしたが、じきに普通の「フランス人」になってしまうので、がっかりしました。
 ところで、こうしたステレオタイプ的な「エゴイスト」ではなく、もっと「エゴ」に根ざしたといいますか、もっと積極的な意味での「エゴイスト」の映画的イメージというと、アンドリュー・ホーンの『ドゥームド・ラブ/宿命之恋』に登場するアンドレ(ビル・ライス)が印象的です。
 なお、ビル・ライスは『デコーダー』にも出演していますが、この映画で電気屋を演じているウィリアム・バロウズは、エゴイスト中のエゴイストではないかと思います。彼やアンディ・ウォーホルが映画の「外」で演じた「エゴイスト」ぶりに比べると、映画のキャラクターは、まだ甘すぎるのではないかという気がします。
[ダーティハリー]監督=ドン・シーゲル/脚本=ハリー・ジュリアン、R・M・フィンク他/出演=クリント・イーストウッド、ハリー・ガーディノ他/71年米[ナイトホークス]前出[ブルー・ベルベット]前出[光年のかなた]監督・脚本=アラン・タネール/出演=トレヴァー・ハワード、ミック・フォード他/80年仏・スイス[最後の戦い]前出[ドゥームド・ラブ/宿命之恋]監督=アンドリュー・ホーン/脚本=ジム・ネウ/出演=ビル・ライス、ローズマリー・ムーア他/83年米[デコーダー]監督=ムシャ/出演=アインハルト、クリスチーネ・F/83年米◎90/ 8/ 2『ニュー・フリックス』




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