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首相暗殺
フィルムで発表された作品は、たとえそれがヴィデオになっても、絶対に、あの光の束のなかに細かな埃がチラチラ舞っている映写室や映画館で見ようと決意していたのだが、実際には、そうはいかない。
ひとむかしまえだったら、以前見た映画をもう一度見たくなったときには、ひょっとして近日中にその映画を名画座や自主上映館で見ることは出来ないものかと、映画館のスケジュールをチェックしたものだ。これが、最近は、違ってきた。わたしの目は、まず自分のヴィデオの棚に行き、そこになければ市販されているヴィデオのリストに行く。そして、大抵の場合、わたしの要求は満たされてしまう。
しかし、何か空虚なものがあとに残る。いずれは、フィルムになり、映画館で映写機の代わりにVTRを使うようになるとしても、いまのところは、映画は映画であり、ヴィデオはヴィデオである。
ヴィデオの特徴は、誰でもが容易に操作出来る個人性と道具性である。ヴィデオを「映画」として上映するためには、見る者がVTRを絶対に操作出来ないという条件を意識的につくらなければならない。
わたしは、最近、映写室風に作られた大教室で学生と映画のヴィデオを見ることが多いのだが、ときとして、上映中、「早送り」をしたい衝動に駆られることがある。それは、わたしが普段ヴィデオを見るときにそうしているからというよりも、VTRという装置のもつ個人性と道具性から来る衝動である。
実際、自分の部屋にあるVTRとモニターで映画のヴィデオを見る場合、映画館で映画を見るときのように、「身を正して」見ることはまずない。大抵何かをしながら見ているし、姿勢も「ふまじめ」だ。こんなことでいいのだろうか?
しかし、ヴィデオアートなどの場合には、寝そべったり、飛ばし見したりして、インタラクティヴな見方をした方がよいことが少なくない。ヴィデオテクノロジーには、目を通さずに脳神経に直接作用したいという潜在的な欲求があり、ヴィデオは、一方で、その方向に向かって「進化」しているからである。
まあ、そんなわけで、わたしは、映画とヴィデオという、基本的に異なる文化のはざまで、うろうろしているわけであるが、その点で、当面ヴィデオでしか見れない映画に接するときには、何とも複雑な心境に陥る。もとのフィルム体験がないのだから、ついつい「ヴィデオアート」として見てしまいかねない。が、一方では、こういう作品こそ、映画館へ行ったつもりで、モニターのまえで「身を正して」見なければいけないとも思う。
一九八七年のベルリン映画祭でジャン・マリア・ボロンテが主演男優賞を取ったジョゼッペ・フェラーラ監督の『首相暗殺』i原題『モロ事件』jは、わたしがどうしても見たい映画の一つだった。が、赤い旅団のテロ事件をあつかっているためか、ヨーロッパとアメリカの名画座で探しても、再上映のチャンスにぶつかることは出来なかった。こうなると、わたしのなかでこの映画を絶対に見たいという気持と、そう簡単に見れてたまるものかという気持とが同時に支配するようになる。
ところが、ある日、わたしは、この映画が日本でヴィデオになっていることを知ったのである。デラ・コーポレーションが輸入したものの、上映の見通しが立たずにいたのが、クラウンでヴィデオ化されたというのである。
わたしは、早速、このヴィデオを「身を正して」見ることにした。七〇年代のイタリアの状況とモロ首相暗殺の謎にかなりよく迫っている。政治映画としては一級の作品だ。オクラになるだけあって、イタリアの当時の状況を知らなければただのサスペンスとしてしか見れないが、状況を知れば知るほど、ディテールが光ってくる。
こういう映画は、日本では、ヴィデオだけで公開された方がよかったのかもしれない、とも考える。話が矛盾してきた。
監督=ジョゼッペ・フェラーラ/出演=ジャン・マリア・ボロンテ、マルガリータ・ロサーノ他/86年伊◎90/ 5/28『ニュー・フリックス』
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