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モントリオールのジーザス

『モントリオールのジーザス』を見ながら、わたしは、ジーザス=キリストやキリスト教とは別のことを考えた。
 たしかに、この映画には、キリスト教的な信仰や犠牲の問題がズバリ出てくるように見える個所がいくつもある。そもそも、本道からハミダシているカソリック神父がキリストについてのアングラ劇をプロデュースするということからして、キリスト教に対する痛烈な揶揄である。
 しかし、この映画は、たとえばブニュエルやスコセッシが、一見キリスト教とは無関係に見える映像でキリスト教的テーマをマジにあつかっている場合とは反対に、キリスト教からはずした観点から見た方がおもしろいのではないかという気がする。
 一つは、都市という観点であり、もう一つは、あらゆるものが商業化される世界のなかで好きなこと・自分が信じることをやり続けるとはどういうことなのかという問題である。
 国際都市といってもニューヨークあたりにくらべれば「地方都市」であるモントリオールでもニューヨークやパリで起きているのと同様の現象が起きている。街のデザインはヤッピーの価値観で〈優美〉になり、教会も、演劇やパフォーマンスを動員して信者のオルグにやっきになっているし、企業は、おもしろいトレンドがあれば、それをマーケットに売り込み、荒稼ぎをしようとする。
 しかし、キリストを主人公にした劇を演じるためにダニエルのもとに集まった人々は、ヤッピーとは一線を画している。
 彼や彼女らは、みなアルバイターであり、いまやっていることに満足していない。コンスタンスは、実力のある女優だが、貧民シェルターのようなところで働いている。ミレーユは、CMの仕事をしているが、自分がそれに全然むいていないことを知っている。マルタンは、ポルノ映画の吹き替えをやり、ルネは、どのようにして食べているのかわからないが、選んだ仕事しかしない。
 別にモントリオールではなくても、好きなことをやろうと思えば、概ね、彼や彼女のような人生を送らなければならない。好きなことや新しいことは、一種のアクシデントとしてしか可能ではなく、「ジーザス」劇をダニエルに依頼した神父のように、理事会やスポンサーをだましながらあのようなイヴェントを打てれば最上なのである。
 だが、ダニエルたちは、「ジーザス」劇をやることによって、そうした〈あたりまえ〉の制約をのり越えた。やりたいことをやり、そして興行的にも成功する。教会の理事会は拒絶しはじめるが、「ジーザス」劇は、モントリオール中の評判になり、ブロードウェイやロンドンへの売り込みを誘う人物(こいつが、典型的なヤッピーのスタイルをしていて笑わせる)も近づいてくる。
 映画のこの辺までのノリは、この映画を見ること自体が一つの「ユートピア」体験になっているかのようであり、見る者を魅了する。しかし、「ユートピア」は永遠には続かない。映画もまた、味気ない〈現実〉に戻らざるを得ない。教会側の反対と規制を押し切っての公演。ガードマンと観客との衝突。ダニエルが十字架の下敷きになり、それがもとで死ぬ。
 ここで、わたしのなかで意見が二つに別れる。ダニエルたちのやったことは、最後には空しく終わるわけだから、やらなかった方がよかったのか、それとも、ユートピア的なものは、みなつかのまの至福なのだから、あれでよかったのか?
 アルカン監督は、それには答えを出さず、暗示的なシーンを提示するにとどめる。最後のシーンで、二人の女性が地下鉄駅の通路でラジカセのテープを伴奏に聖歌を歌っている。彼女たちは、最初のシーンでは、教会で同じ歌を歌っていた。場所、時が変わっても同じようにやれることをやること。そういえば、イエスも似たようなことを言っていた。
監督・脚本=ドゥニ・アルカン/出演=ロタール・ブルトー、カトリーヌ・ビルクナン他/89年カナダ◎90/ 2/ 5『CINEMA SQUARE MAGAZINE』




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