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告発の行方

『告発の行方』の主要な舞台になる「ミル」というバーは、高速道路の下の殺風景な道路沿いにある。なかに入ると、外とはうって変わった喧噪とひといきれにおそわれる。アメリカの地方都市の場末の典型的なバーである。
 客の多くはワーキング・クラスの男たちであり、ブーツをテーブルにのせたり、太い葉巻を吸っていたりする。テレビは常時ついており、カウンターの客の何人かがそれに見入っている。バーテンは、ときどきテレビの方に目をやりながら、てきぱきと注文に応じている。ウエイトレスは一人。バーテンの役目もするが、片付け仕事が多い。空いたグラスを集めてテーブルのあいだを回っているときに、卑猥な冗談を言う客はあとをたたない。 店の奥に別室があり、バーの方から見ると、ポルノショップの奥の部屋のようなある種〈悪場所〉的な雰囲気をたたえている。照明もバーの方とは違うようだ。なかに入ってみると、タバコやマリワナの煙がもうもうとしており、ジュークボックスから猛烈な音でビートのきいた音楽が鳴っている。
「スラム・ダック」という文字が書かれたゲーム・マシーンに筋肉質の男が挑戦している。体をうつむきかげんにして両手でレバーをせわしなく動かすそのかっこうと体の動きは、まるでセックスの真最中を思わせる。
 実際、マシーンの得点表示盤のところには、バスケット・ボールのかごに複数の手が半裸の女を投げ入れている絵が描かれている。とすれば、このゲームにいどんでいる男は、セックスをしているというよりも、集団レイプの真最中というわけだ。
 一九七〇年代になってフェミニズムが社会に浸透し始めてから、アメリカでは女性差別に対する一般の意識が急速に高まり、テレビや新聞で露骨な性差別を表現することは難しくなった。性表現も、表現の自由という見地からすると、制限を加えられないことになっているが、女性の身体に対する侵害というフェミニズムの観点から規制を受けることが多くなった。
 しかし、性差別や性的暴力を否定する意識が常識化したのは社会の一部分であって、アメリカ社会のなかには、まだまだ性差別は残っているだけでなく、それらを煽る傾向もある。というのも、性は依然として生産性の象徴であり、性的に強いということが「男らしさ」の代名詞になる習慣はまだなくなってはいないからである。
 映画の最後に、事件を傍観した大学生ケン・ジョイス(バーニー・カールソン)の回想という形で映し出されるレイプ・シーンで、男たちが一人の小肥りの男を、「短小、てめえもやってみろ」といったせりふをあびせかけて挑発するが、「据え膳食わぬは男の恥」といった意識は、アメリカでも依然失われてはいないのである。
 それが、今後、弱まるという気配はほとんどない。むしろ、それが強いところと弱いところとの差が強まるだけだろう。そして、性的解放は、後者の階層・社会でのみかぎりなく進み、他方では、あいかわらずの性の暴力が続くのである。少なくとも、「生産」や「競争」ということが社会の重要な要素であるうちは、性差別や性の暴力は決してなくなることはない。
 サラ・トバイアス(ジョディ・フォスター)がレイプ相談センターに保護されて、彼女が黒人の担当者から、「避妊はどんな方法でやってるの?」、「最後にセックスをしたのは?」と矢継ぎ早の質問を受け、性器検査をされる様子を見ていると、それらが必要なものだということはわかるのだが、性的関係以外の人間関係のなかに潜在する〈レイプ的暴力〉というものを感じてしまう。そういうものがなくならないかぎり、レイプは、単に、スポーツとか瞑想などのなかに移し換えられて、一時的に中和されるにすぎないだろう。
 映画の最後に、アメリカでは「六分に一度レイプ事件が起こり、そのうち四件に一件は集団レイプである」という説明が入るが、この数字は、アメリカに対して、日本などよりもはるかに「性的に解放されている」というイメージをいだいている者には意外な感じを与えるかもしれない。しかし、レイプの事件率は、性的な解放度が高まれば高まるほど、それに比例して高まるのである。
 性的な解放度というのは、解放されたセックスを実践している社会がどの程度あるかということだけではなく、性的な問題をどこまで自由に言葉として表現出来るかということとも関わっている。この点では、アメリカは、性的解放度の高い国であり、セックスをするかしないかといった(日本では暗黙の了解が尊重されるような)ことも、そのつど明確に言葉にすることが要求される。従って、「ノー」と言われた相手につきまとうことは、暴力であり、日本語の「いや」のようなあいまいな表現は希薄である。
 たしかに、各自の身体が各自の意志で管理されるべきだという観点からすると、相手の体に無断で触れることは暴力であり、レイプである。しかし、日本では、性器に対する暴力的な侵害がなければ、レイプ(強姦)行為とは見なされないことが多い。まして、この映画のように、ダンスとはいえ、女性の方が非常にあいまいな形で抱きあうことを許してしまった場合、相手の男がそこから性的関係に入ってきたのをレイプだと判定されることは難しい。
 この映画の場合にも、最初の裁判の争点は、「和姦」か「強姦」かであった。事実は、踊っていた男がいきなりサラをゲームマシーンに押しつけてパンティを脱がせたとき、サラは「ノー」と言って拒絶したにもかかわらず、強姦し、さらに周囲の男三人がそれに続いたのだが、最初の裁判の結果は、サラが全身に受けた裂傷に対する「傷害事件」として片付けられるのである。
 ある意味で、地方検事補キャサリン・マーフィ(ケリー・マクギリス)のその後の闘いは、このサラの「ノー」を社会に認めさせるための闘いだった。レイプとは、自分の体に加えられる性的暴力に対して「ノー」を言うことを認めさせないことであり、単に性器が侵略されたかどうかではないのである。それを、キャサリンは、暴行の教唆罪と新たな証人の発見によって闘いぬくわけだが、この裁判の過程を見ていて、わたしはアメリカという国の特質つまり現状はどうであれ、言論の自由の保証ということが依然市民的権利の根底にある社会とそれを守る法律の存在を感じないではいられなかった。
 レイプの問題は、結局、性の問題であるよりも人権の問題であり、そしてそれだからこそ、人権意識の弱い日本では傷害事件として評価されるほどの強姦でないと、なかなか犯罪とはみなされないのである。
 もっとも、日本語には、厳密な意味での「ノー」はなく、自己の身体に対する他者の「侵略」を暴力とは見なさないという文化があり、そのことが、人権の問題をあいまいにさせてもいる。しかし、それならば、一挙に、日本人のすべてが自・他の差別を越えたマンダラ的世界に遊ぶことが出来るかといったら、それは不可能なのだから、現状は「文明」の趨勢に従うしかないだろう。日本もどのみち、「ノー」を「ノー」と言わない女性はレイプされ、「ノー」をいままで通り無視し続ける男性はレイプ犯になってしまうという味気ない傾向が昂進するわけである。
監督=ジョナサン・カプラン/脚本=トム・ポトル/出演=ジョディ・フォスター、ケリー・マクギリス他/88年米◎88/12/28『キネマ旬報』




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