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映像のポリティクス

 八年間続いたレーガン政権がまもなく終わる。共和党のブッシュ/クエール組対民主党のデュカキス/ベンツェン組の選挙戦はいまや終盤戦にはいろうとしている。
 アメリカの大統領のパターンを見ると、カリスマ的な人物のあとには実務家が現われ、そしてその実務が結局失敗に帰して、またカリスマ的な大統領が現われるというパターンをとる。
 ケネディはアクの強い大統領だったが、暗殺された彼のあとを継いだジョンソンは、「偉大な社会」と呼ばれる政策を推進し、社会保障の拡充や人種差別の撤廃、都市の再開発を積極的に推進したが、ヴェトナム戦争をとめどもなく拡大してしまった。
 ウォーター・ゲイト事件で辞任し、すっかり悪名を残したニクソンのあとには、副大統領フォードの実務的な暫定政権が生まれたが、それは最初から冷笑されるために存在するかのようだった。一九七六年の選挙で民主党に政権を取り戻したカーターも、最初は理想をもった実務家として評価されたが、経済の落ち込みを立て直すことが出来ず、最後はイランの人質問題の収拾に行きづまり、失意のなかで任期を終えた。彼を襲ったのは「優しい父親」というカリスマ的なイメージを身につけたタカ派のレーガンである。
 もしこのパターンがレーガン以後のアメリカにも当てはまるとすれば、次期大統領は実務家タイプでなければならない。その点、デュカキスもブッシュも本質的にカリスマ性を欠いており、どちらも実務家としてしかとりえがなさそうだから、レーガンに続く大統領は確実に実務家タイプになるだろう。その意味では、今回の大統領選を左右するのは、実質的な路線や政策であり、レーガンのときのように候補者のムードが大いに影響するというようなことはなさそうだと考えられる。
 しかしながら、注意しなければならないのは、レーガンの登場とともにカリスマ性の意味が変わったことである。レーガンのカリスマ性は、役者のカリスマ性であって、実力や権力をそのわが身にたくわえた者からあふれ出るカリスマ性ではない。それは、いわば劇場を出れば、あるいはテレビのスウィッチを切れば消えてしまうようなインスタントなカリスマ性であって、非常に軽いのである。
 大統領選でテレビの機能を効果的に利用した最初の大統領はケネディだが、ケネディの場合にはまだ、テレビ映像のうしろに映像化されない実体としての人物があった。ところが、レーガンにおいては、そのカリスマ性やリアリティは、テレビや映画の映像と等質のものとなり、むしろ映像がなければ実体をもつことができないのである。
 レーガンは、いわば大統領になってからも「ハリウッド俳優」であることを一時もやめなかったのであり、レーガンにおいてキャピトル・ヒルとハリウッドは不可分の関係になったと言える。これは単なる比喩ではなく、実際にレーガンの政治演説にはハリウッド映画からのおびただしい数の引用があり、またレーガンはジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に刺激されてSDI(戦略防衛構想)を推進した。
 こうした状況変化のなかで大統領選を闘うにはしたたかなメディア戦略が必要とされる。単に「カリスマ性」に対して「実務性」を対置するやり方では勝ち目がないし、レーガンがどうしようもなく定着させてしまったスキャンダラスな要素を候補者のなかにどこかでとりこんでいかなければならない。
 八月の共和党大会までは、民主党のデュカキスが優勢という声が強かった。南部や西部に弱いというハンディキャップをうめるために副大統領候補として保守派のベンツェンを選んだデュカキスは、ギリシャ移民の子としてのルーツを強調してブッシュの個性の弱いイメージを圧倒するように見えた。
 ところが、ブッシュ陣営は党大会で弱冠四十一歳にして「ロバート・レッドフォードに顔の似ている」ダン・クエールという予想外の人物を副大統領候補に選出し、マスコミの関心をとりもどした。クエールは、目下、女性ロビイストとの情事や徴兵のがれのスキャンダルをすっぱ抜かれ、その前途はなかなか多難であるようにも見えるが、映像的なカリスマ性とスキャンダラスな要素をそなえている点ではベンツェンをはるかに引き離している。
 政治が映像ショウとしての効果を重視し、そしてテレビがその主要なメディアになるという傾向が強まると、映画の機能が変わらざるをえない。映画はもはや効果だけを追及することはできないだろう。その場かぎりの現象はテレビの専門分野となるから、映画はテレビやヴィデオではとうてい果たすことのできない映像効果をねらうか、あるいは現実の〈ある持続した状況〉を相手にするか、のいずれかを選ばなければならなくなる。
 前者の傾向は、すべてSFXの過剰な採用という流行現象のなかにはっきりと現われており、その効果は確実にテレビの追従を許さないが、後者の方向は、単なる効果にとどまらない政治意識の表現としての映画の復活という現象のなかに現われているようにわたしは思う。
 前者については、ヴィデオ・パッケージやコンピュータ・グラフィックスをふくめていずれ詳しくとりあげる機会があると思うので、今回は、この秋封切られるいくつかの作品を紹介しながら、アメリカ映画から引き出せる現実の〈ある持続した状況〉と、大統領選をひかえたアメリカ社会のなかでいまひろがりつつある政治意識をさぐってみよう。
 グレゴリー・ナバ監督の『エル・ノルテ 約束の地』は、一九八四年の作品だが、アメリカがかかえ、そしてアメリカが責任を負っている最も深刻な問題の一つをリアルに描いた傑作である。
 抑圧的な政治が支配するグアテマラで、軍の暴力によって両親を殺された兄妹、エンリケとロサが故郷を逃れてメキシコ経由で「エル・ノルテ」(北)つまり北アメリカのロサンゼルスに密入国する。インディオの彼らがメキシコ人のふりをして国境を越えるスリリングなくだりもさることながら、やっとのことでアメリカにもぐりこみ、そこで彼らが発見するアメリカの現実の苛酷さには胸が痛む。
 父の知人の紹介で彼らの世話をしてくれることになったスペイン語なまりの強い男(トリニダード・シルバ好演)は言う。「おれらはパブリック・サービスをやってるのさ」。彼は、秘かに国境を越えてやってくるラテン・アメリカの人々に安アパートを紹介したり、労働許可なしで働かせてくれる場所を教えてやったりするのを仕事にしており、そうした「公共サービス」のおかげでアメリカの産業は安い労働力にありつけるからである。
 アメリカの入国管理は非常に厳しいにもかかわらず、その網の目をかいくぐって入ってくるインディオやメキシコ人の「不法労働」がなければアメリカの労働力は不足してしまう。逆に言えば、アメリカではある程度不法入国者を温存しておくことが必要になっているのであり、そのために彼らの生活条件は一向によくならないわけである。
「最も貧しい者でも水洗便所をもっている」「北」を夢見ながらグアテマラの村で畠を耕していたエンリケが、待望の「北」に来て、つかのまレストランで職を得たものの、移民局の役人に追われて、結局、日雇いの土方をするしかなく、最初と同じように(しかし、全く夢を奪われて)土を掘っている最後のシーンが印象的である。
 ロサンゼルスやフロリダにはおびただしい数の「エンリケ」や「ロサ」がおり、また彼らが住み着くスラムでは彼らの次世代が生まれている。職のない親。蒸発してしまう親。アメリカには今日、膨大な数の「ホームレス・チャイルド」がいる。彼らは、子供同士で徒党(ストリート・ギャング)を組み、かっぱらいや盗みをやって生き延びている。まさに、ヘクトール・バベンコが『ピショット』で描いたブラジルの少年少女たちのすさまじい生活がアメリカでも拡がっているのである。
 デニス・ホッパー監督の『カラーズ 天使の消えた街』は、いまやマフィア顔まけの武力抗争をくりかえすところまできた若年層のストリート・ギャングたちの生態と彼らに対応する警察の矛盾した関係をショッキングにえぐり出した問題作である。
「カラーズ」という題名は、彼らが自分たちの派をシャツや衣服の色で区別していることから来ている。『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』(一九八八年五月二十二日号)によると、昨年(一九八七年)ロサンゼルス市ではこうしたストリート・ギャングによる抗争の死者が、二百五人もおり、またロサンゼルス・カウンティでは百九人もの若者が死んでいるという。
 映画でも描かれているように、彼らの多くは黒人とヒスパニックであり、十歳以下の子供たちも含まれている。現在、この地域には予備軍を加えると七万人の若年ストリート・ギャングがおり、そのため「普通」の子供の親たちは、子供がどこかの組のメンバーとまちがえられて抗争にまきこまれるのを恐れ、子供たちに着せる衣服の色に苦労するという。
 彼らがここまで来てしまった背景には、前述のように矛盾した生活を強いられている移民、貧しい福祉と教育、抑えこむしか能のない警察、そして刑をまぬがれやすい若者を麻薬取引等に利用する暴力団組織などの問題がある。
『カラーズ 天使の消えた街』は、若いストリート・ギャングたちのすさまじい抗争をリアルに描くだけではなく、こうした世界を変えようとすることのほとんど絶望的なむなしさを観客につきつける。映画の最後の方で、敵グループを殲滅した「ホワイト・フェンス」(そのニヒルなリーダーをトリニダード・シルバが好演している)の〈組員〉たちが、ロスの美しい夜景を一望する岡の上でギターを弾き、くつろぐシーンがある。それは、彼らが置かれている残酷な現実を忘れさせる一瞬であり、彼らの失われた故郷が距離を越えて姿を現わすユートピア的な一瞬である。だが、次の瞬間それは警官隊の急襲によってふたたび現実に引きもどされる。そして、少年の一人が乱射した弾がロバート・デュヴァルの胸を貫通する。殺し合いを止めることが殺し合いを激化させ、憎しみとは無関係のところでも人が殺される。デュヴァルの死は、まさに何の意味もない死である。
 アレックス・コックス監督が、実在した冒険家ウィリアム・ウォーカーの後半生を描いた『ウォーカー』を見ると、アメリカという国は、結局、こうしたむなしい死やばかげた死闘のなかで発展し、帝国を築き上げてきたことがわかる。
 中南米へのアメリカの侵略は、すでに十九世紀から始まっていたが、ウォーカーは資本家のヴァンダービルドの命を受けてニカラグアに遠征し、死闘の末その地に大統領として君臨する。かつてマイケル・チミノは『天国の門』で戦闘のぶざまさとむなしさを執拗に映像化したことがあるが、『ウォーカー』では、兵士たちの死はそれ以上に空虚である。『プラトーン』の兵士たちの死もむなしかったが、そこにはまだ苦痛や悲しみがあった。しかし、『ウォーカー』にはもはやそんな生ぬるいものはない。
「戦争の犬たち」を連れて中南米を渡り歩き、地獄を見てきたウォーカー(エド・ハリス)は、最愛の恋人がコレラで死ななかったら、ニカラグアに行くことはなかったはずだ。彼は、むしろ死ぬためにニカラグアに行く。しかし、死の欲望と帝国主義は同じ根から発している。死にささげられたウォーカーの生は、同時に西欧化としての「文明」と「民主主義」にもささげられている。だから、「文明」や「民主主義」の秩序の名のもとに人々を処刑することができるのである。
 侵略の欲望を隠さず、反政府軍コントラへの援助を増強したレーガンは、別に新しいことをしたわけではなかった。彼は、ヤンキー帝国主義のロジックに従ったにすぎない。『ウォーカー』では、この歴史を越えた帝国主義が、『戦国自衛隊』にも似たいささかシュールリアリスム的な仕掛けのなかで描かれる。孤立したウォーカーたちのもとに突如舞い降り、アメリカ人傭兵たちを連れ去る米軍ヘリコプター。十九世紀に二十世紀がワープするわけだが、それは、十九世紀の帝国主義者たちがやりたかったことであり、今日の帝国主義者たちがやっていることである。
 帝国主義は、アメリカの領土の外に拡張するだけでなく、その内側にも拡張しようとする。ロバート・レッドフォードの監督作品『ミラグロ/奇跡の地』は、ニューメキシコ州のミラグロという村がレジャーランドの建設によって侵略されるのを阻止する人々の物語である。レッドフォードの好みと思われるが、例によって一人の人物の決断と勇気(あるいは強情さ)が、最初は保守的だった人々の意識を変える。
 アメリカには各自の権利を等しく配分し、共有する「民主主義」の伝統(「アメリカン・パイ」の思想)があるが、同時に、成功を自分の力でかちとることをよしとする「自由主義」の伝統がある。そのため民主主義を守る闘いも、一人の英雄的行為に収斂する傾向があり、『ミラグロ/奇跡の地』にもそれがよく出ている。その意味では、『ウォーカー』と『ミラグロ/奇跡の地』はアメリカの二つの極を示唆しているわけである。
 共和党は、本来、連邦政府の介入を少なくし、地域社会や地場産業を優遇することをタテマエとしてきた。しかし現実には、レーガンの共和党政治は、強い個人や強い組織の抜け駆け的な成長だけをあおることになり、アメリカの地域経済は急速に衰えた。『ミラグロ/奇跡の地』は、アメリカのほとんどの地域が直面している問題が(この映画のように単に侵略企業を排除するというやり方だけで解決されるかどうかは別にして)見えやすい形で描かれている。
 ジム・エイブラハムズ監督のコメディ『ビッグ・ビジネス』でも地域再興のテーマが濃厚だ。ケンタッキーの片田舎を旅行中、産気づいた妻を近くの病院に運び、そこがある地場産業所有の専用病院だとわかると、それをただちに買い占めてしまうニューヨークの大社主。生まれた子供は双子の女の子だった。ところが、たまたま同じ時期にその病院で地場産業で働く貧しい労働者夫婦の子供が生まれる。こちらも双子の女の子。喜劇は、この二組の双子が一人ずつとりちがえられ、そのまま知らずに成長してしまうというところからはじまる。
 ニューヨークで父親の大会社を引き継いだ一方の「異母姉妹」のうち、姉(ベット・ミドラー)は猛烈なやり手で、系列会社の整理統合を進め、ケンタッキーの子会社を(自分たちとのゆかりを知らずに)イタリア系の企業に売り払おうとする。他方、ケンタッキーの田舎で村の人気者として育ったもう一組の「異母姉妹」のうち、姉(リリー・トムリン)はもちまえの反抗心を発揮し、会社の閉鎖に反対して妹(ベット・ミドラーの二役)とともにニューヨークに乗り込む。
 ここから四人とその関係者が入り乱れての抱腹絶倒のコメディが展開するのだが、最終的に「中央」のコントロールを排除することに成功する大詰めもおもしろいが、その間にくりかえされる一見他愛のないドタバタのなかに出てくる「中央」批判がサエている。
 地域の衰弱は、都市部でも起こっているのであり、その深刻さは、これまでマンハッタンを中心に街路文化をあれほど魅力的に描いてきたウディ・アレンが、最初から最後まで室内だけが舞台の映画『セプテンバー』を作ったことのなかにも現われているのではないか? この作品をアレンの「悲劇」コンプレックスのなせる「失敗作」とこきおろしている『ニューズウィーク』の映画評は、いまニューヨークで起こっていることに無知なのである。
 アメリカの大統領制は、同時に家族制のモデルでもある。レーガン以後、家族の再建がことあるごとに強調される傾向があるが、今回の選挙戦でも、デュカキス側もブッシュ側も家族や家庭の問題に力を入れている。しかしながら、核家族を再建しようとするレーガンの保守的な家族政策にもかかわらず、現実には、アメリカの家族は多元化しており、「単親家族」の数は依然増えつづけている。
 マイケル・マン監督の『刑事グラハム』は、殺人狂の意識とそれを追い詰める刑事の意識のかぎりない近さを鋭くとらえている点で出色の作品であり、スリリングなサスペンスに富んでいるが、「平和」な家庭を破壊する殺人者が倒され、「平和」がよみがえる最後のシーンにただようのは、夫/妻/子が共に生活する核家族というものが、非常にあやうい地盤のうえで成立しているということである。
 デイヴィッド・ドルリー監督の『傷だらけの青春』は、ボクシング映画として見るよりも、母親のいない「単親家族」の話として見る方がおもしろい。しかも、この家族には父親(ジーン・ハックマン)の父親(ジョン・マクリアム)が同居しており、彼らはみなボクシングで結びついている。
 この映画を家族映画として見る場合、これまでの家族ものと決定的に違うのは、この家族では父と子が単なる血や愛情だけで結びついているのではなくて、ボクシングの技術を教え/学ぶという関係において結ばれている点だ。これは、アメリカで今日見直されはじめている親子関係である。
 しばしば指摘されるように、デュカキスはベンツェンと比較すれば「左翼」であり、またブッシュに比べればクエールは「極右」である。そのため、事態は錯綜しており、今回の選挙に関しては、彼らの表向きの政策やイデオロギーで彼らの行く末をうらなうことは難しい。
 ただ、どちらが政権を握っても、不法入国者や貧民、国内・国外への侵略と戦争、青年層の暴力と犯罪、そして地域経済の低落の諸問題は避けて通ることが出来ないことは明らかである。また、もう一つ考えられることは、共和党と民主党の両候補のあいだに明確な路線上の違いを見出せないとすると、最終的な勝利をつかむのは、メディア的な効果で他を圧することに成功した候補者だということである。その点で、今後ブッシュがデュカキスとのテレビ討論で敗北したり、クエールがスキャンダル戦争でとんでもない失態を犯すようなことがなければ、ブッシュが大統領の席につく可能性は大きいだろう。この分では、アメリカのもう少し劇的な変革は、一九九〇年代にならなければ起きそうもない。
[エル・ノルテ 約束の地]監督=グレゴリー・ナバ/脚本=グレゴリー・ナバ、アンナ・トーマス/出演=ザイデ・シルビア・グディエレス、トリニダード・シルバ他/83年米[カラーズ 天使の消えた街]前出[ウォーカー]監督=アレックス・コックス/出演=エド・ハリス、マーリー・マトリン他/87年米[ミラグロ/奇跡の地]監督=ロバート・レッドフォード/脚本=ジョン・ニコラス、デイヴィド・ウォード/出演=チック・ベネラ、ルーベン・ブラデス他/88年米[ビッグ・ビジネス]監督=ビル・エイブラハムズ/脚本=ドリー・ピアソン、マーク・ルベル/出演=ベット・ミドラー、リリー・トムリン他/88年米[セプテンバー]監督・脚本=ウディ・アレン/出演=デンホルム・エリオット、ダイアン・キートン他/88年米[刑事グラハム]監督=マイケル・マン/                                [傷だらけの青春]監督=デイヴィッド・ドルリー/脚本=デイヴィッド・ファロン/出演=クレイグ・ファイファー、ジェニファー・ビールス他/88年米◎88/10/30『流行通信OM』




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