130

ニューヨーク映画の戦略

 ハリウッド映画は従来から、アメリカ人が「新しい」ライフスタイルに馴化するのを少なからず幇助してきたが、一九七〇年代の後半から登場しはじめたハリウッドによる〈ニューヨーク映画〉は、いくつかの点で従来の文化装置=ハリウッド映画の方法を〈革新〉している。
『アニー・ホール』(一九七七)、『結婚しない女』(一九七八)、『マンハッタン』(一九七九)は、これらの作品をニューヨークの都市的コンテキストのなかで見るときには、非常に内輪的な「ホームヴィデオ」のような要素をもっている。そのいずれもが、都市的コンテキストをよく押さえており、ニューヨークを知っている観客は、自分自身の「よく知っている」街を歩いたり、そこで誰かと出会ったりするときの意識で映像に対応することができる。つまりこれらの映画は、〈マイナー映画〉の方法を取り入れ、従来のハリウッド映画に顕著だった統合的・無地域的な性格(個別的な地域をあつかいながらそれを一般化する)を脱しているのである。
 これは、一見、ハリウッド映画が、その統合的・全国的な性格を改めたかのような印象を与える。しかし、実際問題として、ハリウッド映画の観客の大部分はニューヨークの都市環境を熟知している観客ではない。彼や彼女にとって、『アニー・ホール』でマーシャル・マクルーハンがさりげなく登場する映画館のまえの街頭がどこであるかなどということはどうでもよいことであり、『結婚しない女』でジル・クレイバーグとアラン・ベイツがソーホーからハウストン・ストリートを越えてワシントン・スクウェアに入ってくる経路が一応現場の街路感覚をおさえているなどということは、大した問題ではないし、また、『}ンハッタン?宸フ初めの方で、ウディ・アレンが友達とおしゃべりをしているレストランがブリーカー・ストリートの「ジョーンズ」というピッツァ・レストランであるなどということは当面どうでもよいのである。
 要するに、ハリウッド映画は、その製作・配給の規模からして、戦略的な方法として以外には〈マイナー映画〉であることができないのである。
 わたしは、ここで〈ニューヨーク映画〉のポーズとしての「リアリズム」を批判しようとするわけではない。映画の現実は、フィルムと観客との《いま・ここ》の相互関係のなかにしかありえない。「ニューヨーク」という「現実」があり、それを映像化した映画があるのではない。つまり、「都市映画」というものがあるとすれば、それは、都市のなかであなたやわたしが経験する《いま・ここ》の多様さや稠密さに拮抗する空間・時間意識を都市的な映像とともに与えるような映画にほかならないのである。
 ところで、このことは、都市映画の映像のなかに「モデル」などを求めないというアンチ・リアリズムの観点が、現実と映像との関係を模写主義的に見る発想の裏返しでしかないということでもある。ここで見失われているのは、現実は一対一対応関係によって成り立っているのではなくて、「構造的なカップリング」の関係によって成り立っているということである。
 そういうわけで、ハリウッドのような無地域的なメディアが親地域的な映像を製作する場合、その多くは、この構造的なカップリングの関係を経験させるよりも、むしろそれを隠し、結局は、映像によって都市を代理=表象させてしまうことになりがちだ。
 事実、八○年代の「ヤッピー」たちは、『結婚しない女』や『クレイマー、クレイマー』を見ながら「ニューヨーク」のステレオタイプ的イメージを形成したのであり、ハリウッドのおかげで短期間に「ニューヨーカー」になりかわることができたのである。
 むろん、映画に戦略を込めるのは映画産業だけではない。観客もまた、それぞれの戦略をもっているわけであり、〈ニューヨーク映画〉のなかには、そうした戦略を可能にする作品もないわけではない。
 ウディ・アレンは、たぶん最初から〈jューヨーク映画〉のこうした「功罪」を意識していた。『マンハッタン』にしても『ハンナとその姉妹』にしても、その都市映像をあえてリアリスティックに「現実」の都市に限りなく対応させてみると、そこにはゾッとするような〈裏切り〉と仕掛けが隠されているのに気づく。たとえば、『ハンナとその姉妹』で、リアリスティックな観点からすればソーホーにあるべき本屋が、ナインス・ストリートのパジェント書店であるのは、決して撮影上の操作ではないのだ。
 が、その点で最もシニカルなのは、まさに〈ニューヨーク映画〉の終焉した時点で作られたロバート・アルトマンの『jューヨーカーの青い鳥?寉G一九八六)である。その舞台となる「ニューヨークのフランス・レストラン」は、言うまでもなくヤッピー好みの場所であり、そこでアルトマンはヤッピーたちを徹底的にからかっているわけだが、映画の最後でレストランの建物からカメラが引いていくと、画面には明らかに「パリ」の街とわかる俯瞰シーンが映るのである。
 つまり、ヤッピーにとっての「ニューヨーク」は、「パリ」でもどこでもかまわなかったのであり、今後〈ニューヨーク映画〉は〈パリ映画〉によってとって替わられうるということである。
[アニー・ホール]前出[結婚しない女]前出[マンハッタン]前出[クレイマー、クレイマー]前出[ハンナとその姉妹]前出[ニューヨーカーの青い鳥]監督・脚本=ロバート・アルトマン/出演=ジュリー・ハガティ、グレタ・ジャクソン他/86年米◎88/ 7/11『月刊イメージフォラム』




次ページ        シネマ・ポリティカ