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フルメタル・ジャケット
『プラトーン』『ハンバーガー・ヒル』『友よ、風に吹かれて』と、ヴェトナム戦争映画が最近ふたたび活気づいているが、スタンリー・キューブリックが『フルメタル・ジャケット』のなかで一歩前進させたものは何だろうか?
それは、戦争が肉と物の闘争である以上にパラノイア(妄想)の闘いであることを戦慄すべき迫力で描いたことだ。
映画の前半部分をなす南カロライナの海兵隊の訓練基地は、肉体的に強靭な殺戮マシーンをつくるだけではない。人を殺すことが性的快楽となるようなパラノイアを隊員たちに充電することこそ、その本来の機能である。そのプロセスはすさまじく、〈まともな〉者は、〈デブ〉のロジャーのように次第に狂っていく。ここでは〈狂気〉が唯一の正常さなのだ。
訓練教官ハートマン軍曹は、最初から最後まで、英語にあるありとあらゆる卑猥語をわめきちらす。彼の口にかかると、「fucking」や「shit」などはむしろ上品に聞こえるほどだ。
英語の卑猥語や罵倒語は、性的なタブーに対する拘束を言語の世界で解放する。ハートマン軍曹の訓練法も、こうした言語的な解放をめざしている。訓練所の外では決して口にしないような言葉(「マリア様がクソをしたくなるくれいピカピカにバケツを磨きやがれ」)を吐き、そしてまた吐かせることによって、日常が次第に性と聖の一体化した世界であるかのようなパラノイアをつくり出していく。
海兵隊員は、銃に女性の名前を付け、毎夜それをいだいて眠ることを強制される。銃を撃つこととセックスとの融合。そして殺すことが生むことだとする形而上学。ここには、アメリカが今世紀の前半に蓄積した俗流フロイト主義のすべてがある。
こうしてみると、南カロライナから舞台がヴェトナムに移る後半のシーンが安っぽい売春婦の後ろ姿で始まり、主役の「ジョーカー」二等兵たちが闘争の末に倒したヴェトコンの女性狙撃兵を間近から俯瞰する−−つまりレイプする者の視点−−シーンで終わるのは偶然ではない。
他のヴェトナムものの映画にくらべて戦闘シーンも多くないし、〈女性らしい〉女性も登場しないが、戦争とセックスと死のパラノイアックな関係をこれほど徹底して描いたヴェトナム戦争映画はなかったと言ってよい。
監督=スタンリー・キューブリック/脚本=スタンリー・キューブリック、グスタフ・ハスフォード/出演=マシュー・モディン、アダム・ボールドウィン他/87年米◎88/ 3/ 1『NEXT』
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