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プリック・アップ

 ホモセクシュアルが〈背徳〉とみなされたり、犯罪として罰せられるような時代は終わった。現実にはまだまだ多くの偏見や差別があるとしても、この二十年間にホモセクシュアルの復権は確実に進んだ。
『プリック・アップ』で描かれているジョー・オートンとケネス・ハリウェルの無理心中事件は、事件のあった一九六七年の時点では、センセイショナルに、そして猟奇的に報じられた。この事件がホモセクシュアルの歴史のなかでもつ意味などはどこかに消しとんでしまった。当時はまだ、ホモセクシュアルが自分を社会で正当化する風潮は弱く、ホモセクシュアルをエスニック・グループのようなマイノリティと同じように考える傾向は全く一般化していなかった。
 スティーヴン・フリアーズの前作『マイ・ビューティフル・ランドレット』は明らかに、ホモセクシュアル復権後の視角で撮られているが、新作『プリック・アップ』も、猟奇的なレッテルをはられている事件に対して全く異なる視角を与えることに成功している。
 ホモセクシュアルに対する認識が(少なくともヨーロッパやアメリカでは)変わっている現在、二人の関係を猟奇的に描いても意味がない。また、あの時代にはホモセクシュアルはこんなに偏見をもって見られていたのですよというような描き方をしてみても、あまりおもしろくはないだろう。だから今日、ホモセクシュアルを映画であつかうということはそう簡単ではない。
 映画の最初で、フラットの管理人が郵便受けから惨事のあった部屋のなかをのぞくシーンが映ったとき、わたしはちょっとがっかりした。これでは、この事件の猟奇性が強調されてしまうのではないかと思ったからである。
 しかし、カメラはジョー・オートンの惨殺死体は一切見せず、ケネス・ハリウェルの服毒死体をちらりと映しただけで、ジョーのエイジェントのペギー・ラムゼイ(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)とジョーの伝記作家ジョン・ラー(ワラス・ショーン)の回想シーンに移っていく。
 ジョーとケネスとがはじめてベッドをともにするときに、そのかたわらのテレビにエリザベス女王の戴冠式の中継画像が映っているシーンや、ジョーが街の公衆便所でクルーズした相手といちゃついているときに警官が来るシーンなどには、ホモセクシュアルが反社会的であった時代への揶揄が表わされていると言えなくもない。
 しかし、『プリック・アップ』は、全体として、ホモセクシュアルの正当性を声高に主張したり、その〈背徳性〉にいなおってみたりするような姿勢とは最初から無縁であるように見える。
 ジョーとケネスの関係は、その意味では非常に〈自然〉に描かれており、二人がホモセクシュアルの関係にあることを一瞬忘れるくらいである。逆に言えば、この映画では二人がホモセクシュアルであるかどうかということはそれほど重要ではないのである。
 これは、まさにスティーヴン・フリアーズの腕のサエと言うべきだろう。ホモセクシュアルは、もはや社会の特殊問題ではなくなっている以上、二人がホモセクシュアルであるかどうかよりも、二人がカップルとしてどうであったかを描くことの方が重要だからである。そのためこの映画は、二人の伝記的事実やその時代状況を一応はおさえながらも、単なるドキュドラマではなく、あくまでも一九八七年の映画になっているのである。
 問題は、ホモセクシュアルよりもカップルであることの難しさである。それは、マチズモ(男性至上主義)や性差別が衰え、〈主夫〉が増え、またホモセクシュアルに対する偏見が弱まった時代にも依然として解決されてはいない問題である。
 ジョーとケネスをカップルの観点から見たとき、カップルであることに対する二人の姿勢は相当ちがっている。ケネスは、相手に自分を与え、相手からも与えられることを愛だと考えている。
 たしかにケネスがジョーに与えたものは多かった。ホモセクシュアルの世界にジョーを引きこんだのも彼だったし、劇作の知識を与えたのも彼だった。ジョーは、独力でロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートに入学したのだから、たとえケネスがいなくてもいずれは役者か劇作家になったかもしれない。しかし、ケネスにしてみれば、両親の遺産をジョーにつぎこみ、ジョーを一人前にしたという意識がある。
 これに対してジョーは、ケネスに対してほとんど義理を感じていない。ケネスといっしょに生活していても、街でクルージィングを大っぴらにやる。ケネスは、それを浮気な夫をもった古風な妻のような態度で耐えてしのぶのである。しかし、ゲイリー・オールドマンがすがすがしいまでに演じているようにジョーは、単なる人でなしではない。彼は、〈与えあう〉形式の愛とは無縁の人間なのだ。
 たぶんケネスは古いのだろう。彼は、愛する相手にすべてを与えようとするが、同時に相手にも同じことを期待する。これは、永らく西欧社会の主流となってきたキリスト教的な愛の形式である。
 一九七〇年代に活発となるフェミニズム運動やゲイ・ムーヴメントがその後の西欧社会に与えた最も重要なインパクトは、こうした愛とカップルの形式の終末を示唆した点だった。与えあうことを幸せと思うカップル、与え、裏切られる男あるいは女は今後も絶えることがないだろう。しかし、そうした愛情は確実に過去のものなのだということが少しずつ見えはじめている。
 単に、夫が外で働き、妻が家事労働をするという形式に問題があるのではない。親が働き、子供は親のやっかいになるということだけが家庭を不自由の場にしているのではない。問題は、家庭が愛であれ金銭であれ、与えあう交換の場になってしまうことにある。
 ジョーにとって、ケネスとの〈家庭〉は、決して交換の場ではなかった。彼は、与えあうというような蒸気機関のような関係(産業革命がつくった愛の形式)とはちがった、もっと自由な関係にリアリティを見出していた。
 彼が街で相手を見つけ、公衆便所でセックスをするのは、うす汚いセックスへの欲望のためではない。むしろ、そこが決して持続的に与えあう場とはならないがゆえに、彼はそこでのセックスを好むのである。
 その意味では、ジョーとケネスが住んでいるフラットが〈公衆便所〉になるべきだった。といってこのことは、彼らのフラットがきたならしい場所になればよいと言おうとしているわけではない。
 公衆便所とは、街路に開かれた都市のフリー・スペースであり、そこでは、一人ひとりがあけすけにふるまう。そこであなたが与えるものは単なる〈排泄物〉と呼ばれる。ここでは人は与えるだけであり、何かを受け取ろうとはしない。というよりも、ここでは〈与える〉ということよりも、膀胱や大腸への拘束から自由になることこそが問題なのである。
 家庭や共同生活の場が〈公衆便所〉になるということは嘆かわしいことだろうか? わたしはそうは思わない。公衆便所がけがらわしいイメージでとらえられ、現実にうさんくさい場所であるのは、それだけ交換形式をこえた愛の形式が依然としてしいたげられているからなのだ。
 ジョーは、そのような愛を体現し、ケネスに殺された。しかし、所有と交換の愛を体現しているケネスもまた、自らの命を絶った。ここには二つの終わりがあるが、すがすがしく生き、忽然と姿を消してしまうジョー(彼の死体は映されない)は、新しい愛の端初を示唆し、終始ぶざまに生き、醜悪な死体をさらすケネスは、所有と交換の愛の確実な死を暗示しているのである。
監督=スティーヴン・フリアーズ/出演=ゲイリー・オールドマン、アルフレッド・モリーナ他/87年英◎87/ 9/20『キネマ旬報』




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