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オールド・イナフ

 街をドラマの単なる書割に使うのではなくて、具体的な街自身の生き生きした表情をとらえるような映画を作るには、あまり予算が潤沢すぎてはダメなのではなかろうか? たまたまニューヨークを舞台にした映画をたてつづけに四本−−『Rーラスライン』A『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン、#タリー・ブラウン、ニューヨーク』、噬Iールド・イナフ』−−見て、そんなことを思った。
 予算をふんだんに投じて撮影所のなかに或る街をそっくり再現してしまうというのはハリウッド映画ではめずらしいことではない。しかし、その場合、街はドラマに合わせて適当に色づけされるので、街自体は、もとのものからズレてしまう。
 その点、低予算で作られる都市映画は、セット代を浮かせるためにロケを重視せざるをえないので、うまくいくと、具体的な街を生き生きとらえることに成功する。ある意味で、すぐれた都市映画は、カサヴェテスの『アメリカの影』でもスコセッシのニューヨークものでも、みな低予算のロケ映画である。
 ダイナ・シルバー製作、マリサ・シルバー監督の『オールド・イナフ』の舞台は、ニューヨークのイースト・ヴィレッジとロワー・イースト・サイドに近いダウンタウンの街路と二つのアパートである。あとは、教会と店の室内のショットぐらいで、明らかに安い製作費で作られている。有名俳優は登場せず、ショッキングなアクションも大げさなロマンもない。
 ところが−−というより、だからこそ−−この映画は街とその人々自身に生き生きと自ら語らせることに成功している。
 ニューヨーク市のマンハッタンは、この十年間に大きな変貌をとげた。情報やサービスに関係のある職業に従事する階級がこれからの新しい支配階級であるという予測のもとに、不動産業者たちは、十数年まえから、マンハッタンをそうした新階級(〈jュー・ジェントリー〉|−〈ヤッピー〉はその一種)のための街にする投資をはじめた。マンハッタンは、住居の近くに劇場、ギャラリー、ブティック、レストランといった〈文化的環境?誤植〉ェ並存している場所として〈ニュー・ジェントリー〉にうってつけだと考えたわけである。
 何かがはじまると行くところまで行ってしまうのがアメリカ社会の特徴だが、この〈ジェントリフィケイション〉も、あれよあれよという間にマンハッタンの街の相貌を変えるところまで進んだ。はじめは、わたしのようにうさんくさい街が好きな者でもこれはちょっとひどいなと思えるほどスラム化していたのが改築、改装されるという程度だったのだが、そのうち、賃貸のアパート・ビルが買取り制のマンションに、庶民的な身なりの店主がいた小売店が気取ったブティックやレストランにといった変化が急激にエスカレイトした。一九八二年ごろだったか、マンハッタンの或る地域の街路標示が従来の黄色の地膚に黒文字のスタイルから緑の地膚のものに変わったのを見たとき、わたし自身は、ニューヨークはもうあかんという気持をいだいた。
『オールド・イナフ』では、〈ニュー・ジェントリー〉の娘ロニーと、賃貸アパートのスーパー(管理人、部屋の営繕もやる)−−この手の脇役ではいつもシブイ演技をするダニー・アイエロが好演している−−の娘カレンとの出会いが中心になってドラマが展開するが、両者の階級差こそが、今日のマンハッタンを特徴づけるものといえる。
 もともとマンハッタンは億万長者と貧民が通り一本へだてて住んでいるようなところがあり、そうした混在性こそがニューヨークのおもしろさであり、ニューヨークを活気づけてきたわけだが、ダウンタウンの場合、アップタウンにくらべてその傾向は大分弱かった。とくに、この映画の舞台になっているファースト・アヴェニューとイースト・セブンス・ストリートのあたりというのは、この十年まえには、金持は決して近づかなかったところだ。
 映画の最初の方で、ロニーが両親や妹といっしょに食事をするシーンがあり、ポスト・モダン調にデザインされた室内が映る。これは、明らかに、一九八〇年代になって、それまでスラム化していたビルを買い取り、改築して作られた室内デザインであって、この時代に他から移り住んで来た〈ニュー・ジェントリー〉の住まいに特有のものだ(こうしたデザインの室内は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にも、主人公の最終的な環境イメージとして出てくる)。
 ロニーの家では、子供たちに対する両親のものごしも、非常に〈紳士的〉で、決して上から押しつけるような態度をとらない。これは、カレンの家庭とは実に対照的だ。〈ニュー・ジェントリー〉たちのあいだでは、子供を一人前にあつかうのを美徳にするような風潮があり、そのため子供の方も早く大人びた態度を身につけるが、心のなかではもっとくだけた親子関係を求めている場合が多い。
 ロニーがカレンに近づいたのも、一面では、そうした家庭の白々しさや退屈さのためだった。文字通り街路が主要な遊び場であるストリーツ・キッズのカレンが口にするのは、ロニーとは異質なストリート・ランゲジ(街言葉)であり、カレンにとってはスーパーでの万引も日常的な遊びの一つになっている。映画は、二人のこうしたバックグラウンドのちがいを、どちらに加担することなく、淡々と描いている。これはなかなかできないことだ。ロニーの家庭がどことなく空虚であるように、カレンの家庭にもそれなりの問題がある。新しく入居した男好きのする美容師と情交しているらしい兄に不信をいだくカレン。しかし、それも生活の流れのなかで過ぎ去って行く。たぶん日常性とはそういうものだろう。それが必ず事件につながるのはお芝居なのだ。『オールド・イナフ』は極力そうしたお芝居を排除する。
 ニューヨークでは、いま〈ジェントリフィケイション〉の功罪をめぐって色々な意見が出はじめている。先日〈下町国際会議〉で来日した社会学者のリチャード・セネットも、〈ジェントリフィケイション〉によって治安はよくなり、ニューヨーク市の財政も上向いたが、文化的・社会的活力の方は落ちてしまい、都市改造としては失敗だったと語っていた。そうした点から『オールド・イナフ』を見ると、ニューヨークがいま何らかの形で維持し、さらに活性化していかなければならないのはこの映画でロニーとカレンとが出会ったようなチャンスを生む街路的環境だということを考えさせられる。
 映画のあるシーンに、ロニーが、「そっちは別の国なのよ」というカレンの静止をきかずに大通りを渡ってどんどん歩いて行くと、街中がプエルト・リコ人ばかりであり、あわてて店にとびこむと、そこできこえてくる言葉もスペイン語であるというのがあった。こうした〈ル界?誤植〉ェいたるところに存在する都市−−これを失ったらニューヨークには何の魅力もなくなってしまうだろう。
監督=マリサ・シルバー/                             ◎85/12/ 2『キネマ旬報』




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