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或る上院議員の私生活

 昨年はヨーロッパ映画の新作や問題作がたて続けに上映され、久しぶりにヨーロッパ映画の光学的な攻撃にわが網膜をさらす快楽に連日ひたることができたが、そのあいまに新着のアメリカ映画を見るにつけ、ふだんよりもそのテーマ性が目についてしかたがなかった。
 アメリカ映画は、もともと、ヨーロッパ映画よりも傾向性が強く、社会システムの一機能を担う側面が強い。むろん、テーマからはみだす部分はあり、そこがわたしなどには映画的快楽の主源泉になるのだろうが、七〇年代には、シングル・ウーマンやアッパー・ミドル的都市生活のテーマがアメリカ映画のなかで目立った。それは、確実にアメリカの社会状況と連動しており、その意味では、映画から社会の支配的動向を推しはかることが不可能ではないのである。
 一種の〈社会学的資料〉として最近のアメリカ映画を見ると、家族と結婚のテーマが特に目立つ。これらのテーマは、ある意味では、アメリカ映画にかぎらず、以前から映画が好んであつかうテーマであったが、七〇年代から八〇年代初頭のアメリカ映画がこれらのテーマをあつかうときには、その否定面つまり家族の崩壊(『普通の人々』や離婚(結婚しない女』A『クレイマー、クレイマー』jを問題にしたのに対して、最近は、むしろその肯定面をあつかっている。
 その点で非常におもしろいと思うのは、ジェリー・シャッツバーグの『或る上院議員の私生活』だ。これは、一九七九年度の作品であり、日本では大分遅れて封切られたわけだが、この作品をたとえばニール・イズリエルの『バチェラー・パーティ』(一九八四)などとくらべながら見ると、時代の一つの変わり目がよく見えておもしろい。
『或る上院議員の私生活』の主人公ジョー・タイナン(アラン・アルダ)は、出世街道を歩む若き上院議員で、家には妻エリー(バーバラ・ハリス)と二人の子供がいる。ジョーは、文字通りの仕事人間で、妻といっしょのベッドにいるときも、仕事のことが頭を離れない。まあ、日本では、「仕事だよ」と言えば何でも通ってしまうようなところがまだあるが、アメリカのミドル・クラス的意識では、こういうのはダメらしい。たとえ、大統領候補の将来が約束されているようなジョーでも、家庭で妻や子供とすごす時間がほとんどないというのでは、家庭は解消すべきだというのがアメリカ的な通念だ。折しも、娘のジャネットは悩み多き思春期にあり、父親の不在は、家庭を次第に「ぬけがら家族」にしてゆくのだった。
 映画は、ここで容易に予想されるように、一人の魅力的な女性を登場させる。ジョーの政治戦略として、反動主義者を叩くことは彼の進歩派的イメージを世に浸透させるうえで非常に有利だが、そのターゲットとして選ばれた最高裁長官候補のアンダーソンの過去の弱味−−人種差別主義者だったこと−−を握っている女性弁護士カレン・トレイナー(メリル・ストリープ)がジョーに近づいてくるのである。
 カレンは、『結婚しない女』と『クレイマー、クレイマー』の女主人公の系列に入るタイプの〈自立した〉女性であり、夫はいるが子供はなく、すれちがいの生活があたりまえのものになっている。だから、この手の女性と、ジョーのような男とが出会うところに生ずる結果は明白で、アンダーソン追い落しの作戦を打合わせるなかで二人の関係は急速に親密化していく。ある意味で、カレンは、ジョーにとって理想的な女で、セックスをしながら仕事の抱負や仕事への野心を話し合うことがかえってオルガスムを高めるような〈仕事人間〉である。その感じは、二人のラブシーンで実によくとらえられている。
 しかし、二人の関係は、そう長くは続かない。ジョーとエリーとの関係はますます冷却しており、それは、エリーがジョーとカレンとの秘かな関係を感づくに至って頂点に達する。また、カレンの方も、妻のまえでなに食わぬ顔をするジョーの偽善に疑問をいだきはじめる。カレンは、アメリカの女である以上に七〇年代の女なのであり、家庭や結婚よりも個と個の関係を重視するわけだ。むろん、ジョーにしてみれば、政治家としての権力を握ることがすべてに先立つのであり、そのためにはエリーとの離婚はプラスの社会的効果を生まないだろうということがわかっている。こうした、理想と野心とが一体となった本能的な権力志向をいだくパーソナリティは、アラン・アルダのイメージによくあっている。
 しかし、七〇年代は、こうした家族観や結婚観に反撥することが主流だったのだし、少なくともそうした傾向を強調する映画がよく作られた。その意味で、七〇年代の終わりに公開されたこの映画の最後のシーンは、この時代の転換点を実によく暗示していると思うのだ。ジョーは、民主党の全米大会の当日、控え室でエリーから離婚の決意を知らされるが、「もう一度だけチャンスを与えてほしい」と彼女をなだめて演壇に立ったとき、熱狂して小旗を振る満員の聴衆のなかで一人だけ小旗をたらして冷めきっているエリーの姿が目に入る。それは、いまや大統領候補となったジョー・タイナンをたたえて高まってゆく観衆の熱狂とは対照的であり、映画を見る者は、シャッツバーグ監督は、このシーンをどう終わらせるのかを考えずにはいられない。
 ところが、ここでタイナン夫人エリーは、それまで握っていただけの小旗をかすかに動かしはじめるのである。映画は、ここで終わるので、次の瞬間、彼女がどのような行動に出たのかは全く不明だが、一九八〇年代は、まさにエリーのような女性が、国旗を−−必ずしも本音からではないにしても−−振りながら家庭に帰っていくという方向へと進んだのだった。
 むろん、七〇年代をくぐりぬけているから五〇年代の映画のように夫−妻−子供からなる核家族の礼讚というふうには行かないが、『バチェラー・パーティ』はあっけらかんと結婚を背定し、『家族の絆』は、いまやアメリカにおけるもう一つの家族形態になりつつある母子家庭の存在を肯定し、『恋におちて』は、家庭の崩壊を描いているように見えながら、実はたえざる再婚の勧めを描いている。『エレクトリック・ドリーム』も、七〇年代の感覚で行けば、結論的に主人公は生身の女性よりもコンピューターの〈愛〉の方を選んだだろう。『D・Cキャブ』にいたっては、国家(ワシントン)・会社(タクシー会社)・仲間・家族という伝統的な一連の権力関係をジョルジオ・モロダーのハイテック・タッチのサウンドと『サタデー・ナイト・ライブ』ばりのドタバタにのせて肯定してしまうのである。
監督=ジェリー・シャッツバーグ/脚本=アラン・アルダ/出演=アラン・アルダ、バーバラ・ハリス他/79年米◎85/ 1/25『流行通信』




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