64

ジョナスは2000年に25才になる

 アラン・タネールの『ジョナスは2000年に25才になる』(一九七六、邦題はのちに『2000年のジョナス』と改題)が終わって場内が明るくなったとき、どこかで「まるっきりゴダールだね」という声が聞こえた。それは、タネールに対する揶揄なのか、それともゴダールとタネールとの単なる親近性を指すものなのか、全く定かではない。が、わたしには意外な言葉だったので、次の『光年のかなた』(一九八〇)が始まるまでそのことを考えていた。
 たしかに『ジョナスは2000年に25才になる』は、たとえばゴダールの『パッション』(一九八二)を思わせないこともない。しかし、『パッション』と『ジョナス……』とのあいだには、俳優をカメラに向かって構成=組織する方法や戦略において根本的な差異がある。そこで何が演じられ、何が表現されたかなどということ以前の問題として、映画は俳優(出演者)たちを組織するが、ゴダールはこうした組織化を脱構築しようとする。彼には、出演者を組織化しない映画を作ること、カメラが〈党〉とならないような映画の可能性を求めることが、つねに映画製作の基底にある。
 その点からすると、タネールは、ゴダールよりも楽天的で、カメラが組織する世界とその組織性とを依然として信じているように見える。そしてそのことがタネールをゴダールよりもより〈啓蒙的〉Aブレヒト的な意味で〈教育的〉にしているのである。最初は、個別的に−−従って統合的には組織せずにカメラが向けられる(その点ではゴダール的だ)−−元印刷工のマチューとその妻マチルド、野菜栽培をする夫婦のマルセルとマルグリット、ジャーナリストのマックスと秘書業のマドレーヌ、高校教師のマルコとスーパーマーケットで働く越境労働者のマリーという四組の男女。が、次第に彼や彼女らは横断的に連合し、つかのま、ある種のユートピア的なコミューン的世界を創り出す。マチューとマチルド夫妻から生まれるジョナスは、このコミューン的世界の持続に対する集団的期待のシンボルであり、グラムシ的な意味での「現代の君主」なのだ。
 グラムシは、『獄中ノート』のなかで、共産主義的な党を「新しい君主」としてとらえる。これは、スターリニズム的な党のことではなく、個々人の「集団的意志」の表現としての「君主」であり、それぞれが「君主」であるような「君主」である。
 しかし、「君主」には、どうしようもなくある種の身体的な持続性がつきまとっている。党を身体になぞらえることから、党の制度化とその抑圧が始まるのだが、それは、身体自身がたえず構築しなおされなければならないものであるにもかかわらず、身体がその惰性的な持続性においてシンボル化されやすいからである。グラムシが評議会マルクス主義者からイタリア共産党の開祖にまつりあげられたときにも、そもそも「君主」を脱構築しようとした彼の「新君主論」は完全に別の方向にねじまげられてしまったが、身体的な持続性への楽天主義がグラムシのなかにあり、それがこの歪曲を動機づけていなかったとは言いがたい。
『ジョナス……』には、映画のつくり方にも、またそこで描かれる問題のなかにも、つねに新しい〈党〉への期待が感じられる。むろん、それは、イタリア共産党やフランス共産党が意味しているような党ではなく、むしろグラムシが本来志向したような工場評議会的・コミューン的で、しかも〈教育的〉な党であり、「共産党」と言うよりは共生党と言うほうがふさわしいような組織である。この映画の登場人物は、マチュー、マルセル、マルコ、マックス、マチルド、マルグリット、マリー、マドレーヌというように、ともにMではじまる名前をもっているが、彼や彼女らは、みなそれぞれに一九六八年の五月革命(Mai68)の記憶をもっている。マックスの映像にはたびたび当時の街頭闘争の記憶がセピアの映像でいりまじる。彼や彼女らにとって五月革命は大文字のMであり、「集団的な唯一性」がつかのまであれ現実化した瞬間である。マドレーヌのタントラへの関心も、またマルセルが人間よりも動物に関心をいだくのも、「五月」の「唯一性」のヴァリエイションとしてなのであり、彼や彼女らは、それぞれに「五月」を一つのユートピアとしてひきずり、変奏しているのだ。
 こうしたロマン主義は、マルセルとマルグリットの農園にやってきたマチューが、温室を即製の教室にして近所の子供たちを遊ばせ教育するシーンや、農園に集まった大人たちが子供の土いじりを見ながら泥のなかをころげまわる想像をする(実際に彼らはカメラに向かってそれを行なったのだ)シーンにも現われているが、それが最も端的にそして?槙エ動的?誤植〉ノ現われるのは、マルコの授業シーンだろう。彼は、校長に紹介され、ただちに授業を始めるのだが、ドーンとテーブルのうえに乗せた大きなトランクのなかから、「おれのおやじは肉屋だった」と言いながら、肉切包丁、マナイタ、メトロノーム、それとひとつながりのソーセージを出す。そしてあっけにとられている生徒たちに向かって、ソーセージをかざして「これが時間だ。さあ君たち、誰かここへ来てソーセージをメトロノームのリズムに合わせながら切ってくれ」と言う。何のことかよくわからぬまま生徒が前に出て言われたとおりにすると、マルコは、切られたソーセージを指しながら、「これが歴史の断片だよ」と言い、歴史と時間の説明に入ってゆく。生徒たちは、彼のパフォーマンス的な講義にすっかり魅了されて聞きいるが、マルコは、終了時間が近づくと、生徒たちに机を二拍子のリズムでたたかせ、そのリズムをスピード・アップさせてゆく。マルコによれば、この二拍子のリズムが昂進する極地には「時間の消滅」があるというのである。むろんここでは革命やユートピアのことが考えられているわけである。
 おそらく、これは、ゴダールには決して受けいれることができない方向ではないかと思う。彼は、「時間の消滅」が幻想であり、それがつねについえ去るものであることを残酷なまでに描いてきた。もっとも、『ジョナス……』のある種のオプティミズムは、この映画が作られた一九七〇年代中期のヨーロッパの政治的な高揚期を一つの関数にしているのかもしれない。わたしは、一九七六年の『ジョナス……』の世界から、一九八〇年製作の『光年のかなた』の世界にひきいれられたとき、ヨーロッパで七〇年代後半につかのま再生した左翼運動が次第に孤立化させられ、その一つの帰趨として、エコロジーやカスタネダ流の〈修験〉の道に向かう方向が急速に進んだことを思い出した。
『ジョナス……』とはうってかわって、『光年のかなた』は、孤立した個人の世界である。映画は、アイルランドの人里離れた荒地に建つ小屋でうさんくさい老人が本に向かっているシーンから始まる。人にではなく、本や物に向かう世界に可能な集団性は、抽象的なものにならざるをえない−−分子論的に、宇宙論的にどんなに〈現実的〉であれ、これは、『ジョナス……』が、タバコ屋に男が入ってきて、店の女とゴロワーズの値段が上がった話をするシーンで始まるのとは大きなちがいである。
 ジョナスは、街のパブでバーテンをしているが、他人と協調することはできない。パブの仕事を放り出して海岸をさまよい、ベンチで一夜をすごしたとき、ベンチのおおいに「セックス・ピストルズ」という落書きが見えるが、ジョナスも異郷で孤独に死んだシド・ヴィシャスの片われである。七〇年代後半に再生した左翼とパンクは相補関係にあったが、パンクは、この時期にはもはや解体されている。だから、パブのカウンターをはさんで、ジョナスは客としてのヨシュカと会ったことがあるにもかかわらず、彼が、ヨシュカのことを知るのは、ヨシュカがジョナスのアパートに投げ込んでいった本を通してなのだ。つまり、二人の関係は、はじめから抽象的なのである。
 日常的な集団から切り離されているこの二人が結びつくのは、彼らの具体的な身体ではない。ヨシュカは、鳥と一体になることを願い、鳥の習性を学び、みずから人工翼を設計して空へ、「何百光年も離れた銀河の彼方へ」飛んでゆこうとしている。彼は、眼を開いたまま死んだように身体を「放下」することができるし、飼っている鳥に傷つけられた身体のケガを土中に下半身を三日間うずめることでなおしてしまう。
 ヨシュカの弟子となったジョナスも、その身体を酷使する。ヨシュカに命じられて車のスクラップを片づけるが、片づけ終わると、その努力をホゴにするような命令が飛んでくる。修行とは、身体へのマゾヒズムとサディズムを通過せざるをえない。その意味では、七〇年代の左翼の一部が一方で〈修験〉に向かい、他方でテロリズムに向かったのは、両者のあいだには一脈通ずるものがあったからなのだ。むろん、身体を「放下」することと破壊することとは同じではない。ヨシュカの遺言状には、「樹の中に入れ……光をのみこめ、おまえは風だ……」と書かれていた。身体を大地や自然と一体化すること−−しかし、それは死以外に可能なのか?
 ヨシュカが鷲に同類とまちがえられて眼をえぐられ、墜落死したあと、ジョナスが、街にもどり、知りあいのヌードモデルと遊ぶが、すぐうまくゆかなくなり、ふたたびもとの小屋に行ってみると、ヨシュカの仕事場だったガレージにはネズミと鳥の死骸がころがるばかりである。が、そのとき、ジョナスの目にヨシュカの幻想が見え、予感につき動かされて外に出ると、大きな一羽の鷲が空から舞い下りる。
『パッション』でゴダールに〈再会〉したときには感じられなかった過ぎ去れる時間を、『ジョナスは2000年に25才になる』から『光年のかなた』への移行の数時間のあいだに痛切に感じてしまったのは、タネールが時間というものをゴダールよりもよりリアルにとらえているからだろうか、それとも、タネールにおいては時間はつねに組織=構成されるので、それはノスタルジアか幻想的な期待しか与えないからであろうか?
 問題は、時間の共生であり、時間の共生を可能にすることが映画のコミュニズム(共生主義)であるが、その共生のしかたは、個々に、そして集団的に唯一・一回的なのであって、同じものを共有するのとは全くちがうのである。とすれば、ジョナスは二〇〇〇年になっても光年のかなたにおいてしか共生することができないだろう。
監督・脚本=アラン・タネール/出演=#ジャン=リュック・ビドー、ミリアム・メジエール他/76年スイス◎84/12/10『月刊イメージフォーラム』




次ページ        シネマ・ポリティカ