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キング・オブ・コメディ

 二月から四月まで七十日間ほどニューヨークにいた。ヨーロッパのものでは、エットーレ・スコーラの『ヴァレンヌの夜』やマルコ・フェレーリの代表作を集めたフェスティヴァルなど、印象深い諸作品に出会ったが、アメリカの商業映画では、『Kンジー』、?48時間』A『ソフィーの選択』、噬gッツィー、『評決』のような昨年度の作品がまだ劇場の目玉になっており、今年度のものは、小品しか封切られていなかった。
 が、そうはいっても、それなりに印象深い作品はあったわけで、とりわけマーティン・スコセッシの『キング・オブ・コメディ』は、わたしが見た今年度上半期封切の作品のなかでは最高におもしろかった。
 この映画の主人公は、例によって偏執狂(パラノイア)的な人物で、映像は、それに対応して、妄想・想像と現実的な知覚とのあいだを往復するのだが、『ミーン・ストリート』ですでにおなじみのこの技法も、ここではごく自然なやり方で使われる。
 ストーリーは実に単純だ。ニューヨークのスタテン・アイランドに母親と住み、テレビのトーク・ショーのスターになりたいと思っている男ルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)がいる。彼は、壁に観客のシルエットまであしらった自分の部屋で、マイク片手に、ジョニー・カーノン流のコミカルな話芸をたえず練習しているのだが、そのうち、彼の目には壁のシルエットが生身の観客にかわり、自分がテレビの喜劇王(ザ・キング・オブ・コメディ)になったかのように思えてくる。
 ある日彼は、崇拝する人気コメディアン、ジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)が、ファンにもみくちゃにされているどさくさにまぎれて、ちゃっかりジェリーの車に同乗してしまう。見ず知らずの男に車に乗り込まれて不快さを隠さないジェリーは、テレビに出るチャンスを与えてくれとせがむルパートに対し、秘書に電話をしてアポイントメントをとってくれればいつでも相談にのると言って、このやっかい者をあしらう。
 しかし、思いこんだら命がけというのがスコセッシの映画の主人公の典型的なキャラクターだ。ルパートは、ジェリーのオフィスに通いつめる。ようやく、秘書に、トーク・ショーのサンプル・テープを持ってくるようにと言わせることに成功した彼は、あの自室の〈スタジオ〉で制作したカセットを喜びいさんで持参する。しかし、この手の売込みが毎日ゴマンとあるプロダクションの方は、彼のテープをまじめに検討する気などは毛頭ない。
 ルパートは、ジェリーと直接話ができれば、問題はすべて解決すると思う。そこで彼は、郊外にあるジェリーの別荘をさがし出し、直接交渉を決行する。これは、ジェリーを怒らせただけで、テレビ界へのたのみの綱は完全にたたれてしまう。
 一方、ルパートとは別に、ジェリーを自分のものにしたいと思って彼をつけまわしている女がいる。このクレイジーな女マーシャを演ずるサンドラ・バーンハードの演技は、ちょっとした見ものなのだが、ルパートのパラノイアとマーシャのクレイジーさが結びつくとき、その結果は見えている。
 マーシャとルパートがどのように知り合い、どのようにジェリーを誘拐するに至るかは、完全にデ・ニーロを食ってしまうバーンハードの演技とともに、フィルムを見てのおたのしみというところだが、誘拐が簡単に成功し、その取引条件が受けいれられて、ルパートはジェリーのかわりにテレビに出、そのあげく、誘拐犯のテレビ出演−−新喜劇俳優の誕生と、一朝にして彼が全米のスターになってしまうというのは、いささか話がうますぎる。
 しかしながら、誰しもが何らかのパラノイアのなかで生き、彼や彼女らの妄想がときには現実になってしまうのがニューヨークだとすると、そこを舞台にしているこの映画で、クレイジーな男の妄想があっさり現実化したとしても不思議ではないかもしれない。
監督=マーティン・スコセッシ/脚本=ポール・D・ジマーマン/出演=ロバート・デ・ニーロ、ジェリー・ルイス他/83年米◎83/ 5/16『キネマ旬報』




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