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遊星からの物体X/キャット・ピープル/メーキング・ラブ/エンティティー 霊体/サマー・ナイト/華麗なる陰謀/トロン


 アメリカの状況はひどいという。失業率はますます高くなり、浮浪者の数もふえ、現地の新聞のなかには「一九三〇年代の再来か?」などという見出しの記事も目につく。最近ニューヨークからやってきた友人の話だと、ニューヨークの公共サービスは最悪の事態をむかえており、道路はますます汚れ、地下鉄はとても乗れたものではないという。
「Fトレインといえば、ニューヨークでは一番ましな線だったでしょう。ところが、このFトレインの冷房がこわれちゃってるのよ。AトレインやBトレインは、もともと冷房がついてないかわりに、天井に扇風機があるし、窓もあいてるんだけれど、Fトレインははじめっからエアコンディショニングの車輛だから扇風機はついていないし、窓もあかないの。それで真夏に冷房がつかないんだから、どんなものか想像できる?」
 ニューヨーク文化には、悪口を言うことが重要な部分をしめているので、ちゃきちゃきのニューヨーカーからこうしたニューヨークの悪口をきいても驚きはしない。わたしは、しばらくニューヨークへは行っていないのだが、二年まえでもニューヨークの地下鉄の車輛の状態は相当なものだった。電気が全然つかない車輛や半分しかあかないドアーなんかは決してめずらしくはなかった。前もって何のアナウンスもなしに別の線に入り、駅に全然とまらずに大迂回するなどということもよくあった。しかし、地下鉄の遅れや運休がひどくて定時に目的地に着くことがあてにならないので、最近は通勤用の私営バスが出来たという話をきくと、ニューヨークはやはり相当ひどくなっているのかと思う。家賃も、この二年間に、場所のよいところでは二倍近くになり、たとえばグリニッジ・ヴィレッジでは、一部屋だけのストゥディオでも最低七百ドルはするようだ。
 レーガンが、社会福祉関係の費用を削減し、貧民の生活や医療対策がますますひどくなったことはよく知られている。ロワー・クラスが一層フラストレイションを蓄積させており、そのかたわらで、ミドル・クラスの連中はひじょうな危機感を感じているようだ。暴動でも起きれば、完全に別世界を作って自衛しているスーパー・リッチとはちがって、ミドル・クラスはまっ先に襲撃の対象になると思っているからである。その意味では、ミドル・クラスがコミュニティの維持に力をいれるのも、また不動産屋が家賃をどんどんつりあげるのも、ミドル・クラスの自衛手段なのかもしれない。つまり、コミュニティ運動は、ミドル・クラスの文化的拘束をかため、家賃をつりあげることは、高い家賃を払えない者を排除し、経済的に同レベルの者だけを地域に集めるのである。
 侵入されることへの恐怖と侵入者を排除しようとする潜在的欲求は、最近のアメリカ映画のなかにも現われている。たとえば、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』は、十万年まえに異星から地球に飛んできた宇宙船が地殻の変動で南極大陸の氷原に浮上し、そこから発掘された〈もの〉(The Thingがこの映画の原題)が息をふきかえして次々に観測基地の隊員たちをおそうという設定だ。単に異星や異次元の何ものかが人間をおそうというテーマは決して新しくなく、ジョン・カーペンター自身、『ザ・フォッグ』で試みており、この映画も、ジョン・W・キャンベルJrのSF『影が行く』の映画化であるわけだが、『遊星からの物体X』のおもしろさは、この〈もの〉は、接触するだけで犬にでも人間にでも同化し、外見上はもとと同じ姿をとりながら、それが突如としておそろしい姿に変身して人間や動物をおそい、増殖してゆくことだ。〈もの〉が仲間の体内にいつ侵入しているかはわからないのだから、隊員たちはいままで自分の仲間や親友だった者たちをも不信の目で見なければならなくなる。
 自分の身近に家族や親友の顔をした怪物や非人間がいるという設定は、ポール・シュレーダー監督の『キャット・ピープル』にもあった。この映画では、神話時代に豹から人間に変身した猫族が人間社会のなかにおり、その者は、人間には気づかれないが、同族同士では通じるものがあるということになっている。この種族に属する者が、人間と性的にまじわると、豹に変身してしまい、人間を一人殺さないともとにもどれない。この映画をみたとき、わたしは、まず今日のアメリカ社会を思った。シュレーダーは、『ハード・コアの夜』で、アメリカの地方都市の典型的な中流家庭の崩壊を痛烈に描いたが、『キャット・ピープル』では、アメリカのミドル・クラスのあいだで全般化しているナルシシズム、他人への不信、異性と親しくなることへの恐怖といった症候群をひじょうに寓意的に描いているようにみえる。猫族の〈人間〉は、人間とセックスするとたちまち凶暴な豹に変身してしまうのだから、その異性関係は、一方が他方を殺すか、あるいは人間と豹という種族の異なる−−コミュニケイションの成立しない−−関係のままでいるしかない。とすれば、殺しあうのでなければ、一方が他方を檻に入れて飼育する以外にないわけで、異性関係は完全な隷属の関係になる。だから、殺されたり、支配したり、従属したりしたくなければ、一人でいるか同性同士が結びつくしかないということになる。これは、目下アメリカで進行しつつある新しいセリバシーとホモセクシュアリティとの錯綜した関係に対応する。
 ガブリエル・ブラウンによると、アメリカではいま、「ゆき過ぎた性革命に対する批判」から「性の〈休息〉。、性を離れた生活を求める「新しいセリバシー」の運動が進みつつあるという。人々は、「〈性のビジネス〉によってしかけられたワナ」に気付きはじめ、「あかの他人どうしがベッドを共にするというありふれた光景に象徴されるような、感情的栄養失調をおこしているセックスを人間関係の基本にしたくない」と思うようになった(山中正剛訳『セリバシー』、講談社)。アメリカでは日本とちがって、一つの思潮や文化が、なだれをうったようにひろまることはないから、この〈新しいセリバシー〉も、アメリカの一部(とりわけミドル・クラス)で起こりはじめた一つの傾向だと考えなければならないが、こうした傾向が生ずる背景には、異性関係が結局は支配と従属、サドとマゾの関係に陥らざるをえないことへの恐怖、不信、不安が横たわっている。
 そういえば、アーサー・ヒラー監督の『メーキング・ラブ』は、目下アメリカのミドル・クラスのあいだでわずかに公認されつつあるホモセクシュアリティをとりあげてはいるものの、ホモセクシュアルへの認識を変えた社会的背景への観点が全く欠如しているために、ホモセクシュアルも単にライフ・スタイルの一つにすぎないものとしてあつかわれている。人間には、本性的にホモ志向とヘテロ志向とがあって、どちらもそれはそれなりにいいじゃないのと言うわけだが、これではなぜ歴史上ホモセクシュアルがマイナーな位置におかれてきたのか、そしていまになってなぜそれがわずかに復権してきたのか、といったことがわからなくなってしまうだろう。とはいえ、この映画の登場人物たちが、この物語の仮空の延長線上で今後どうなるかを想像してみると、魅力的な妻がいながら同性を愛するようになり、いまではニューヨークで同性の伴侶をみつけて生活をしている医師ザック(マイケル・オントーキン)、夫と別れ再婚した妻クレア(ケイト・ジャクソン)、ザックの最初の恋人となるが、永続的な関係はまっぴらごめんだというゲイの小説家バート(ハリー・ハムリン)の三人のうち、ザックとクレアは大して変わらないだろうが、バートは、ひょっとするとセリベイトになるかもしれない。彼がゲイであるのは、彼が単に男とのセックスを求めているからではなく、むしろセックスをしているときにすら孤独でいたからであるようにみえる。
 現在、アメリカのミドル・クラスの人々がある種の孤独感をいだいていることは明らかである。それは、社会的には、スーパー・リッチとプアーの両端に階級が孤立していることからくるミドル・クラスの不安と強迫観念のいりまじった孤立感であり、個人的には、異性から、さらには同性から自由を犯されることを嫌い他人に自発的に距離をおくことからくる孤立感であるが、その根は社会的なものの方にある。ところが、今日のアメリカ映画は、こうした孤立感や孤立を、ことごとく治療のきかない宿命的なものとしてとらえている。『遊星からの物体X』は、〈もの〉におかされているかどうかを調べるためにカート・ラッセルが他の隊員たちの血液をとり、バーナーで熱したワイヤーをそこにさしこむ踏み絵的なくだりがある。まさに、登場人物の一人が言ったように、こんなインチキなやり方で人の命が決定されてはたまったものではないが、映画では、〈もの〉に侵入された者の血液は熱線にふれるとたちまち怪物に姿を変えるのである。『キャット・ピープル』でも、人間と猫族とを区別するものは血であった。これは、孤立者や異分子は焼き殺されねばならない、生きては他者と共存できないという発想であり、そういう発想をアメリカのミドル・クラスが自虐的・パラノイア的にうっせきさせているとしたら、それは、いささか末世的であろう。
 シドニー・J・フューリー監督の『エンティティー 霊体』にも、今日のアメリカ社会の変化に対応するいくつかのテーマを発見することができる。実話にもとづくというこの物語の主人公カーラ・モーラン(バーバラ・ハーシー)は、ミドル・クラスではなく、むしろロワー・クラスに属している。彼女には、十六歳のときに結婚して生まれた長男と、最初の夫の死後別の男とのあいだに出来た二人の子供がおり、いまは生活保護を受けながら彼らを女手一つでそだてている。そのカーラが、全く姿の見えない〈存在物〉に強姦されるといった不可解な出来事につきまとわれた末、精神科医にかかるのだが、彼女にひじょうに同情的な若い医師シュナイダーマン(ロン・シルバー)の説明は、アメリカ人がこれまでさんざんきかされてきたフロイト理論である。シュナイダーマンと彼の上司たちの説明では、カーラの父は聖職者で彼女にセックスを罪悪視させ、その一方で彼女に女を意識していた。そのため彼女は、父に犯されるという強迫観念を潜在意識のなかに蓄積させてきたが、それが、失業という危機的状況のなかで三人の子供を育てなければならない、つまり家族を維持しなければならないという事態にいたって顕在化し、その家族を破壊するおそれのある自由なセックスを自己抑圧し、強姦されるという妄想となって現われたのだという。しかし、そうした分析をあざわらうかのように〈エンティティ〉は彼女をくりかえしおそい、彼女が助けを求めて訪ねていった友達の家のなかまでめちゃめちゃに破壊してしまう。
 この映画でおもしろいのは、こうした〈エンティティ〉が実際に存在するのか、この物語が実際に起こったのかどうかではなく、数十年間にわたってアメリカ人の〈民間信仰〉として機能してきたフロイト的精神分析が全く役に立たない出来事が家族問題との関連で物語られていることである。すでにアメリカ映画では、ブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』のように、精神分析医のうさんくささをあつかったものが少なくなく、精神分析そのものに対する疑問も出てきてはいる。それは、これまでの精神分析が核家族の温存装置として機能してきたことと無関係ではなく、核家族が崩壊し、片親家族や独身者が急増してきた段階では、社会的病理の治療は、父親−子−母親の三角関係を基礎とするフロイト派的精神分析のわくにはまりきらないのである。
 その意味で、カーラの事件に関心をもち、研究班を組織して〈エンティティ〉の実体をとらえようとするパワー・サイコロジストと精神分析学者シュナイダーマンとの確執がおもしろい。パワー・サイコロジストと精神分析学者とのちがいは、後者が人間の本質を〈精神〉や〈内面〉に求めるのに対して、前者はそのようなものを一切認めず、いささかティヤール・ド・シャルダンに似たやり方で、人間を含むあらゆる存在物をパワー・エネルギーの凝集したものと考える点だ。人間は、たしかにそうしたパワーの凝集度が高いエンティティかもしれないが、しかし人間も一つのエンティティであって、他のものと切りはなされた特権的なものではないというわけである。従って、既存の存在者が突如として従来以上のパワーを身につけてしまうこともあるわけだし、〈念力〉や〈洞察力〉のようなものも、みなパワーの凝集度の問題となる。
 これは、ひじょうに唯物論的な考え方であるから、原題の『ジ・エンティティ』を『霊体』と訳すのは正しくないし、問題のエンティティ−−性的エネルギーのエンティティ−−を調べようとする「パワー・サイコロジスト」を字幕のように「超心理学者」と訳すのは誤りなのだ。彼らは、エンティティが「霊」ではなく〈存在物〉であるからこそ、カメラや電子装置を使ってその存在をとらえようとするのである。そういえば、ウディ・アレンの『サマー・ナイト』にも、発明家アンドリュー(ウディ・アレン)が作ったあやしげな装置で「霊媒」を呼びよせるシーンがあったが、この「霊媒」も、むしろパワーの凝集したものと考えるべきだろう。アレンは、すでに一九七二年の『Everything you always wanted to know about sex』(のちに『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』というタイトルで公開された)でフロイト理論をさんざん茶化したが、ここでは、パワーサイコロジーの流行に影響されながらそれを軽くからかっているようにみえる。
 ただし、この映画に登場するパワー・サイコロジストが、結局は従来の心理学者ないし精神分析学者と大差がないのは、どちらも問題を排除によって解決しようとする点だ。カーラのパワー・サイコロジストたちは、大学の体育館に彼女の家の疑似モデルを作り、そこに〈エンティティ〉をよびよせてそれに液体ヘリウムを散布し、凍らせてしまおうとする。そこには、異端者はつねに人間に有害なものであり、協調することのできないものであり、それは排除するよりしかたがないという発想が前提されている。その点、〈エンティティ〉の実在を認めざるをえなくなった精神分析医シュナイダーマンが、彼女に〈エンティティ〉との和解を説くようになるのは、一つの救いである。というのも、和解とは、現状の存続に固執するのではなく、自分も変わり、相手も変わることであり、いまとはちがった状態への変化を許容することだからである。実際、アメリカ人がいま一番恐れていることは、こうした全体的な変化なのである。
 現状を変えたくない、つまり現在の自分の地位や財産を失いたくないと思っている者にとって、経済パニックは一種の恒常的なパラノイアになっている。アラン・J・パクラ監督の『華麗なる陰謀』は、その邦題が示唆するような〈華麗〉な物語でもなければ、また、すみずみまで計算された〈陰謀〉の物語でもない。そうではなくて、これは、はじめは〈華麗なる陰謀〉をも秘めていたアメリカの銀行システムが転覆(原題は〈ロールオーバー〉)してしまう話なのであり、アメリカのミドル・クラスが最も恐れている事態のシミュレイションなのである。
『華麗なる陰謀』は、所詮、金融機関という環境を書割にしたラブ・ストーリーにすぎないが、それは、今日の金融機関が示している病理の一端をかいまみせていなくもない。物語の大筋は、アメリカの金融界の黒幕とアラブ産油国とが結託して、一旦アラブへ流出したオイル・マネーの一部をニューヨークの銀行に預金させ、それをアラブの預金者に支払う利子を大きくうわまわる利率で他の企業に貸付け、莫大な利潤をかせいでいるが、その秘密をクリス・クリストファーソンがあばいたためにアラブの投資家たちがいっせいにこの秘密預金を解約し、ついに世界金融パニックが起きるというもの。今日の金融パニックは、こんな単純な操作で起こるわけではなかろう。これでは、金融パニックの鍵をにぎっているのはアラブの産油国であり、アラブは、世界に金融パニックを起こしても自分の利権だけは守る(守れる)ということになってしまう。しかし、クリストファーソンが秘密をかぎつけたことを知った黒幕(ヒューム・クローニン)が、クリストファーソンを説きふせようとして、「投資にはそれ自身の生命があるのだから、それを適当に導いてやらなければならない。それには、秘密を守ることが大切だし、秘密の財政操作をしなければならない」と言うくだりには一理ある。たしかに、金融システムは、もはや個々人の意志をこえた自己増殖のシステムであり、人間はそれを極力増殖させることを運命づけられているのである。つまり、生産、消費を拡大し、コストを巨大化させなければならないし、それが人間の具体的な生活に役立つか否かには関係なく金融システムの網の目を複雑に増殖させなければならないわけである。その意味では、この映画でおもしろいのは、アメリカ金融界とアラブとの〈陰謀〉のからくりではなく、むしろ、ドルと外貨の流れに右往左往する登場人物たちのむなしい努力である。この映画のなかで何度か、ニューヨークの落目の銀行の外国業務部で行なわれる外貨操作のドタバタ劇がうつし出されるが、『華麗なる陰謀』は、いわば、はじめは人間のコントロール下におかれているかにみえた金融の流れが、結局、人間の手におえぬ〈地球外生物〉的な〈エンティティ〉であることがわかるスラップスティックなのだ。
 それゆえ、世界金融パニックは、今日、アラブ産油国が在米預金をひき出さなくても起こりうるし、むしろ、資本の回路の流れが何かの事故で途絶すればたちどころにパニックが起きえる。そこで、金融システムは、資本の流れを電子の回路に一元化し、不測の事態が起こらないように努めることになる。しかし、問題は、金融操作を情報の操作に転換できるエレクトロニクス・システムが整備されればされるほど、資本の論理に反してしまうことだ。資本は増殖しなければならないから矛盾がいる。矛盾があり、競争があってはじめて資本は増殖するわけだ。つまり、金融システムは、完全な一元化を拒まざるをえない。銀行は、自分のテリトリーに関しては情報の一元化をはかり、資本の流れを監視しようとするが、他銀に対しては情報の隠蔽をはからなければならない。情報装置を他銀よりも高度化してぬけがけをする必要もある。とすると、全体の資本の流れについては、誰もみえないということになる。
 いま世界の銀行はひとつの危機に陥っている。有名銀行がいくつも倒産し、イタリアの民間銀行で最大のバンク・アンブロシアーノも倒産した。しかし、こうした銀行危機は、一九三〇年代のそれとはひじょうに性格を異にしているように思われる。今日の銀行システムは、一九三〇年代とはちがい、コンピュータ化されたエレクトロニクス・システムであり、資本の流れは、当時とはくらべものにならないくらい早くなり、金融の勝負は瞬時に決まってしまう。金融の取引とは、いまや一つのコンピュータ・ゲームなのだ。それはゲームだから、記憶の更新をめぐって取引と操作はどんどんエスカレートする。しかし、銀行はゲーム・センターではないから、こうしたゲームのつけは不況や金融危機として確実にまわってくる。そしてゲームが続くかぎり不況も続く。破滅は、むしろゲームの放棄からやってくる。これはジレンマだ。
 こう考えてくると、今日のアメリカ社会には、コンピュータ・ゲーム症候群とでも言うべき病理が蔓延しており、人々は、一体に、いまの思うにまかせぬ状況はゲーム・マシンの操作盤をちょっと動かすだけで解決できそうだと思う一方で、そのマシンをたたきこわしてやりたいという破壊的なルサンチマンをうっせきさせているようにみえる。そういえば、『遊星からの物体X』のはじめの方で、カート・ラッセルが南極基地の娯楽室のコンピュータ・チェス・ゲームをやっていてコンピュータに負けてしまい、頭にきた彼がメカのなかにコーヒーを流してそれをこわしてしまうシーンがあった。
『ウォリアーズ』の原作者ソル・ユーリックは、最新作の『リチャード・A』という小説のなかで、はじめはほんの軽い気持でホワイト・ハウスの電話を盗聴し、それが昂じて国際政治の機密をつかんでしまい、秘密情報組織とはりあうことになるエレクトロニクス狂の青年リチャード・アクウィリノ(〈賢人〉の意)のサスペンスを描いているが、アメリカでは、支配体制に対抗するのにも、コンピュータやマイクロ・エレクトロニクスの知識がなければだめだといった観念が根をはりつつあるようだ。まさに、権力との闘いも一種のコンピュータ・ゲームと化してきたことになるが、スティーヴン・リズバーガー監督の『トロン』は、それを地で行ったような物語を基礎にしている。この映画では、ペンタゴンにも通じている巨大なネットワークをもったコンピュータ会社ENCOMのコンピュータ・プログラムMCPは、社長デリンジャー(デイヴィッド・ワーナー)にもコントロールできない一匹の生きものと化しはじめており、プログラマーたちは、もともとはデリンジャー社長がつくったプログラム〈デビル・サーク〉の言いなりになっている。これは、まさに、もともとは人間がつくった金融システムにふりまわされ、資本の回転という〈コンピュータ・ゲーム〉をやり続けるしかない今日の銀行家と同じだ。
 それゆえ、このコンピュータ・プログラムの自己増殖をおさえ、プログラムをもう一度人間の手にひきもどす英雄が、ENCOM社の有能な元プログラマーでコンピュータ・ゲーム狂というのは実にうがっている。実際に、人間の全面的支配をもくろむこのコンピュータ・パワーに挑戦するフリン(ジェフ・ブリッジス)は、コンピュータの電子の世界にひきこまれ、そこでさまざまな電子ゲームをいどまれる。すなわち、ライト・サイクル・ゲーム、光電子バイク・レース、レーザー・タンクとフライング空母の攻撃、ソーラ帆船での脱出等である。二十五分間で三十億円という最新のコンピュータ・グラフィックスと台湾のアニメーション技術を駆使して映像化されたこのゲームシーンはなかなかのみものであり、コンピュータ・ゲームのおもしろさを映画の映像的サスペンスに拡大することに成功しているが、それとともに、フリンが結局デビル・サークに勝ち、コンピュータを人間の手にとりもどすという筋書は、アメリカの(ましてディズニー・プロの)大衆娯楽映画の定石だとしても、金融システムにかぎらず、もはや自己増殖する怪物の感がするこの世界を自分自身の手にとりもどしたいと思っている人々の願望をよく表わしている。もともとコンピュータには、それに関わる各個人に対し、自分が主人だと思わせるようなところがあるが、実際には、コンピュータのプログラムが複雑化し、そのネットワークが巨大化すればするほど、コンピュータ装置の端末部にいる個々人は、まさにデビル・サークに専制支配されたプログラマーたちのように、プログラムの奴隷になっているわけで、フリンがたち向かう状況は、すでに現実化しているのである。
 だから、コンピュータ化された世界を混乱なしに統御するためには、コンピュータの操作コードをますます少数者の手にゆだねてゆかなければならない。その意味で、コンピュータ化された世界は、ソル・ユーリックの言葉をかりれば、「電子封建主義」の世界であり、それは民主的に運営されるのではなくて、少数の封建君主によって寡占体制化されるのである。その代わり、情報コードを奪い取って〈君主〉の座につきさえすれば世界は思いのままになるわけだから、世はますます下剋上の様相を呈してくる。コンピュータ犯罪と言われるものは、さしずめ〈水呑百姓〉がテクノロジーの刀で〈領主〉の首をはねるようなものだが、アメリカのシリコンバレーで起きた事件も、この〈電子封建主義〉の時代において〈産業スパイ〉などと断罪されるべきものではなく、むしろ、IBMという〈戦国大名〉と日立・三菱両〈戦国大名〉連合軍の戦いのひとこまと考えた方がよいのである。
 ところで、最近のアメリカ映画は、スペシャル・エフェクトやエレクトロニクス装置への依存が強まっている。『遊星からの物体X』でロブ・ボッティンが腕をふるったスペシャル・メーキャップ、『トロン』のコンピュータ・グラフィックスの映像合成、『ワン・フロム・ザ・ハート』におけるVTR技術……と枚挙にいとまがないが、フランシス・コッポラは、『カイエ・デュ・シネマ』のインタヴューで、新しいテクノロジーへの依存が映画産業の将来をひらくという確信を隠さない。『ワン・フロム・ザ・ハート』以来、彼のゾエトロープ・スタジオのエレクトロニクス装置を三倍も増強したという(?嚮至ァイメージフォーラム?寤鼡續ェ二年十一月号参照)。はたして、こうした傾向はアメリカ映画をどのような方向へ向かわせるのだろうか? 少なくとも、映画の製作過程が高度にエレクトロニクス化されればされるほど、映画製作の実権は、少数者ないしは一人の操作者に集中してゆき、いまよりもはるかに独裁的な体制へ向かってゆく。商業映画は、いつも支配機構の(大衆のではなく)夢を描いてきたが、映画が文化装置として有効性をもちつづけ、それが高度にエレクトロニクス化させてゆくとすれば、それは、今後の社会の支配様式の方向を示唆するだろう。アメリカ社会が、ハリウッドを追って〈ハリウッド〉化したように、映画製作のプロセスで完成する独裁体制を社会がそっくり模倣するにちがいない。
[遊星からの物体X]監督=ジョン・カーペンター/脚本=ビル・ランカスター/出演=カート・ラッセル、リチャード・ダイサート他/82年米[キャット・ピープル]監督=ポール・シュレイダー/脚本=アラン・オームスビイ/出演=ナスターシャ・キンスキー、マルコム・マグダウェル他/81年米[メーキング・ラブ]監督=アーサー・ヒラー/出演=マイケル・オントキーン/ケイト・ジャクソン他/82年米[エンティティー]監督=シドニー・J・フューリー/脚本=フランク・デフェリッタ/出演=バーバラ・ハーシー、デイヴィッド・ラビオーサ他/82年米[サマー・ナイト]監督・脚本=ウディ・アレン/出演=ウディ・アレン、メアリー・スティーンバーゲン他/82年米[華麗なる陰謀]監督=アラン・J・パクラ/脚本=デイヴィッド・シェーバー/出演=ジェーン・フォンダ、クリス・クリストファーソン他/81年米[トロン]監督=スティーブン・リズバーガー/出演=ジェフ・ブリッジス、デイヴィッド・ワーナー他/82年米◎82/10/ 8『映画芸術』




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