html>粉川哲夫『シネマ・ポリティカ』 28

1900年

 ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』がようやく公開される。この映画が一九七六年に完成されたとき、その内容の思想性や民衆的な力づよさについて論じられる以前に、その五時間をこえる上映時間が大きな話題を呼んだ。わたしは一九七九年に、なが年の待望がかなって、このすでに神話化されはじめていた作品をやっとニューヨークのカーネギー・ホール・シネマで見たのだが、そのときのものは、約四時間に編集された短縮版だった。今回、東京の読売ホールで行なわれた試写では、五時間十六分のオリジナル版が、第一部と第二部とのあいだに十分の休憩をはさんだだけで一挙上映された。
 最近の映画にはながいものが多い。日本で公開されたのは再編集されたものだったが、マイケル・チミノの『天国の門』のオリジナル版は三時間四十五分だったし、テオ・アンゲロプロスの『アレクサンダー大王』は三時間二十八分、ウォーレン・ビーティの『レッズ』は三時間十六分といったぐあいで、二時間半ぐらいのものがごくあたりまえに思えるようになってきた。しかし、ながい映画は別に最近の映画技術の産物ではなく、D・W・グリフィスはすでに一九一六年に三時間におよぶ大作『イントレランス』を製作しており、またD・O・セルズニックが三時間四十五分の『風と共に去りぬ』(一九三九)を、W・ワイラーが約三時間の『我等の生涯の最良の年』(一九四六)を製作したことはよく知られている。ただし、一九三〇年代から四〇年代のはじめにかけてのアメリカ映画の上演時間は、一時間半ぐらいであり、一九五〇年代になってテレビが普及しはじめてから、それがだんだんのびていった。
 わたし自身は、映画はながければながいほどよいと思う。ロバート・ウィルソンは、しばしば七時間、十四時間、さらには七日間におよぶ〈オペラ〉ないしは演劇的パフォーマンスを作るので有名だが、映画も十二時間ぐらいのものがあってもよいのではないか。映画がテレビとちがうのは、観客が劇場に自分で出向いていって他の観客といっしょに見る点であって、映画は、テレビのように好きなときに一人でみるわけにはいかないところに意味がある。テレビは、いまや日常的環境の一部をなしてしまい、知らず知らずのうちにわれわれの感覚や思考に影響を与えるまでになっているが、このような現状では、できるだけながいあいだテレビの惰性的な環境から身をもぎはなせるような映像体験がほしいのである。
 しかし、そういうことを可能にするのは断じてテレビ映画ではない。わたしはたまたま、ニューヨークで?嘯P900年?宸ニ前後してハンス=ユルゲン・シルバーバークの『わがヒットラー』という七時間半の映画をみたが、スーザン・ソンタグが『ニューヨーク・タイムズ』で「二〇世紀における最も重要な芸術作品のうち、その二指ないしは三指の一つ」に入るなどとほめあげたのとはうらはらに、映画としては退屈きわまりないしろものだった。この映画は、実は、テレビで一週間かけて放映されるように作られたフィルムを劇場用に編集しなおしたもので、本来それは自分の家で〈散慢〉に見られるべきものなのだ。これをわれわれは、二時半から夜の十一時すぎまで(中間に一時間半の休憩をはさんで)あくまでも映画として見せられたのであった−−客の大半は半分で帰ったが、わたしはしゃくなので最後まで居のこった。
『1900年』の場合、ニューヨークで見た短縮版もそうだったが、それよりながい今回の三百十六分版は、完璧に映画であって、最後まで少しも退屈させないばかりか、その映像空間のなかにあと五、六時間そのまま入っていたいという気をおこさせる。『暗殺の森』や『ラストタンゴ・イン・パリ』にくらべると、一見ひじょうに写実主義的な表現をしているように見えるが、画面が転換する瞬間のなかにフッと眩暈をおこさせるような飛躍とエロティックなリズムがあり、これが見る者の身体的無意識のなかに蓄積されてゆき、筋書を追っている意識の表層のはたらきとは別に、観客をある種の(決して拘束的ではない)陶酔のなかにひきこんでゆくのである。
 ベルトルッチは、あるインタヴューのなかで、この映画を「メロドラマ」だと言っている。ただし、ここで言う「メロドラマ」とは、お涙頂戴のドラマという意味ではなく、大衆によく知られた典型的なイメージを用いた作品という意味であり、それをここでは能動的に用いてみようと言うのである。が、その際問題は、この映画で〈典型的なイメージ〉として提出されているものが、はたして日本の観客にとっても〈典型的〉なものとして映じるかどうかである。
 この映画は、一九七三年に製作を開始し、一九七六年に完成されているが、この時期のイタリアでは、全く新しいタイプの左翼運動が昂揚し、それが既成政党から社会のあらゆる部分にいたる社会全体をゆさぶり、実際にそれを変革して新しい文化を生み出した。〈Aウトノミア〉i自律)と総称される運動はその最もすぐれた部分であったが、既存の共産党がうちだしたユーロコミュニズムも、また次第に台頭するようになるテロリズムも、みなこの時期の変化と関連をもっている。おそらく、一九七〇年代中期のイタリアの状況を知らずに、ヨーロッパの今日の状況を語ることはできないだろうし、フェリーニがなぜ『女の都』でフェミニズムの問題をとりあげたのか、またアンゲロプロスの『アレキサンダー大王』でなぜ〈共産村〉の問題が出てくるかということも、この時代と密接な関係をもっているのである。
 もともとイタリアでは、共産党の勢力が比較的強いこともあって、マルクス主義的イデオロギーの常識のようなものが日本などよりもはるかに広く社会のなかに浸透しており、それはイタリアの百科事典で〈社会主義〉とか〈階級闘争〉などの言葉をひいてみるとすぐわかることだが、一九七〇年代の中期には、マルクス主義イデオロギーも新たなとらえなおしが行なわれ、左翼運動は、ライフ・スタイル、性関係、フェミニズム、都市、環境、メディア、教育などの分野のラディカルな変革にまで進んでいった。その意味では、この時代のイタリアでは、〈マルクス主義的常識〉がさらに一般化し、〈階級闘争〉、〈ブルジョワジー〉、〈プロレタリア〉、〈ファァシズム〉といった概念の典型的イメージがより一層大衆のあいだに浸透したわけである。
 それゆえ、この映画のディテールに注意すると、ベルトルッチは、農民プロレタリアートが階級意識に目ざめ、その階級敵(ブルジョワ地主とファシスト)と闘うといった一見?鮪ミ会主義リアリズム?誤植〉フ映画と似たように見える構図を使いながら、実は、七〇年代の感覚と目的意識で歴史を見ていることがわかる。たとえば、女性たちがここでいかに生き生きと描かれているかということもその特筆すべき点だが、細かな点では、小作農頭の孫で、いまでは立派な闘士に成長しているオルモ(ジェラール・ドパルデュー)が、権力の圧迫におびえて党の弱さをなげく仲間たちに向かって、「党は君自身なんだぜ」と言うシーンがあり、ここには、党を大衆の一人一人から超越した権威とはみない、七〇年代の新しい運動のなかで有力になる方向がさりげなく挿入されている。
監督・脚本=ベルナルド・ベルトルッチ/出演=ロバート・デ・ニーロ、ジェラール・ドパルデュー他/76伊・仏・西独◎82/ 8/10『流行通信』




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