あとがき
映画は終わった、と思うことがある。
といってもそれは、フィルムがヴィデオのような電子媒体に取って代わられるといった形式的なレベルの変化を考えてのことではない。フィルムは、アーク灯がもはや使われないのと同じように、いずれはなくなるだろう。すでに映画の技術的な側面は、かなりの程度電子化されている。だが、映画を映画たらしめているものは、必ずしもフィルムではない。むしろ、映画を映画たらしめているものが、フィルムを必要としているのだ、と言った方がよいかもしれない。
では、映画を映画たらしめているものは何か?
映画作品は、くりかえし上映されるが、一本の作品を通して見ることをその形式にしている。途中で止めて見直したり、一つのショットを静止画にして凝視するようなことは、少なくとも観客としてはしない。むろん、技術的にはフィルムをヴィデオと同じように見ることは可能であり、映画編集の過程ではそうしている。が、映画はそのようなことをしないことにおいて映画たりえているのであり、その意味では、映像をヴィデオプロジェクターで映画として見ることも可能なのである。
だから、映画が終わるということは、このような〈観像文化〉が終わるということであり、いまの形態の映画館がなくなるということである。すでにハリウッドの映画産業は、ヴァーチャル・リアリティを応用したインタラクティヴな映像館を計画しているし、現に、ゲームセンターやテーマパークなどは、その前形態を具体化していると言うこともできる。
しかしながら、映画は終わったという意識をいだきながら映画館に赴くと、そこにはまだ確実に映画の〈観像文化〉が生き残っており、しかもニューヨークやサンフランシスコのような映画の危機をくりかえし経験してきた都市でそのことをより強く実感するのである。本書にもそのようなレポートがいくつか収められているが、ニューヨークの映画館の雰囲気は、劇場のそれに近く、観客の反応は実にアクティヴである。
先日、ニューヨークのダウンタウンの小さな映画館にハーヴェイ・カイテル主演の映画 Bad Lieutenant を見に行ったら、上映前の時間にCMをやっていて、その音がやけに大きかった。すると、数人の観客が、映写室の方をにらみながら、「音をさげろ」とどなりはじめたのだが、映写室からは何の反応もない。そして、「誰もいないぞ」という声がしたとき、わたしの前の席の男がスッと立って後ろに行った。しばらくしてCMの音が下がり、その男が後ろのドアから姿を現わすと、場内から拍手が起こった。ニューヨークで映画を見る楽しさは、こういう観客と一つの場を共有できる点だ。こういう文化がなくなるとすれば、それは貴重な損失である。
しかし、他面で、映画は、基本的に個々人を「一色の酒に酔わせ」、ひとまとまりの「観客」に統合する傾向がある。ハリウッド映画は、そうした機能を最大限に使って人々を啓蒙し、調教して、「アメリカ人」と「アメリカ的生活様式」というものを浸透させてきたわけだし、一見プロパガンダ映画とは見えないスタイルの映画が、いかにナチズムを受け入れるドイツの「大衆」を作ってきたかは、ジークフリート・クラカウアーが『カリガリからヒトラーまで』のなかで詳細に分析した通りである。つまり、映画には支配と教育の機能がとりついており、それが映画を存続させてきた側面も見逃せないのである。
だから、映画の時代の終わりは、管理と教育の様式が大きく変わる時代にほかならない。人々を一ケ所に集め、「一色の酒に酔わせ」る方式の管理や教育は、はやらなくなるだろう。が、管理と支配それ自体はなくなるわけではないから、人々が一見自由勝手に行動しているようでいて、結果的に同じ方向にからめとられてしまうような構造的・無意識的な管理はますます高度化することになる。
教育も、教室に一定数の学生を集めて講義を聴かせるようなこれまでの学校のブロイラー方式から、ばらばらの個々人がコンピュータ・ネットワークや通信衛星を通じて結びつくアクセス方式に徐々に移行するだろう。その点では、学生が授業料を払いながら、馬鹿な教師や小役人づらをした助手などにあれこれ命令されたり、出席や試験で苦しめられることはなくなるが、他方では、電子装置への従属と依存は強くなり、フィジカルな支配をなつかしむようになるかもしれない。
映画は、政党や学校そして本と同じように、過ぎ行く時代の制度である。が、問題は、政党よりもネットワークが、学校よりもアクセス・テレビジョンが、本よりも電子ブックが、いまより解放的な人間関係や創造的にラディカルな知を約束してくれるわけではないのと同様に、ビデオが映画の歴史的蓄積と可能性を受け継いでくれるわけではない点だ。そのため、映画の終わりは、それが振り撒いてきた生臭い要素の終焉である以上に、それが果たしてきた解放と発見の機能の放棄になりかねない。
だから、映画は、「主流」の映像メディアとしての位置をヴィデオにゆずり渡すとしても、その独自の機能としては、逆にいまよりもユニークな位置を保持しつづけるかもしれない。
ヴィデオ、CD、FAX、電子ブック、インターネット、サテライトといった、わたし自身もいま現に利用の度を深めている新しい諸メディアを見渡して見て、たとえば、アメリカ社会のトータルな動向や現状を単なる知識や情報としてではなく、思考と発見の経験素材として提供してくれるメディアは、まだ一つもない。というよりも、新しいメディアは、何か一つを手がかりにすれば、そこにすべてが集約されているといった機能の仕方をしない方向で進んでいる。
わたしは、この本に収めた映画作品評の多くで、アメリカの大衆文化や日常生活のなかで作動している政治を論じている。むろん、映画に登場する家族や街が、そのままある社会の「現実」であるわけではないし、それらを「現実」に短絡させるのは単純すぎる。しかし、映画のなかのある家族や街が、ニューヨークやテキサスのようなある「現実」と映画のなかで関係づけられたということのなかには、一つの「現実」認識と「現実」をどうするかという〈政治〉が潜在していると言わなければならない。
作品からそうした〈政治〉を引き出していくことは、いわゆる「社会派」の映画批評がやってきたような、映画をダシにして「政治」やイデオロギーを語るのとはわけが違う。逆に、一見非政治的に見える作品からも〈政治〉を引き出すような見方が多様に、くりかえしなされてこそ、映画作品は、単なる「作品」としての孤立した装置としての機能から解放されて、社会や時代の、えてして映画の「外部」と見なされがちな要素との連関を回復するのである。
本書を抜く方法論があるとすれば、それは、映画にとっての単なる「外部」を政治主義批評の余分な条件や、調和主義の批評がお義理で残しておくメタファーとしてではなくて、同じ〈生地〉の延長とみなし、それれを映像との相互関係のなかで取り扱うこと??かもしれない。「かもしれない」というのは、本というものは、それが自分で書いたものであっても、その〈生地〉は、著者の個人的領域をかぎりなく越境しつづけるので、著者は、必ずしも自分の本の性格を見抜く特権的な位置にはいないからである。
四年まえ、作品社の増子信一さんから勧められて、担当の内田眞人さんと作業を始めたとき、それが本書のような大きなものになることは予想しなかった。当時わたしは、週に最低四、五回は映画館や試写室に通い、毎週映画評を書いていたので、やがて、問題の本をどこで仕切るかという問題が生じてきた。「アメリカ」をテーマにしてまとめる方向がうまくいきそうだったが、わたし自身のなかで「アメリカ」をどこで決着づけるかがはっきりしなかったし、「映画評論家」ではないつもりだったので、とりあえずの職業的看板のような映画論になるのは避けたいと思った。
そんなわけで、本の計画は無期延期の形になった。その間に、わたしは、ヴィデオやコンピュータとの縁がますます深くなり、その分だけ、以前のように「映画評論家」気取りで映画論を書くことが少なくなったことも手伝って、わたし自身のなかでも映画の本への興味が薄らいだ。状況的にも、ブッシュ政権は、アメリカの一つの極限を暗示させるように感じられたが、まだその行く着く先は見えなかった。
予想しなかったのは、増子さんが、いささかもこの本の計画を捨てておらず、それどころか、いっそのこと、わたしの映画論を「すべて」収録した本にしてしまってはどうかという提案をしたことだった。わたしは、若干うろたえた。「すべて」ということだと、わたしはある時点で、映画論を書くのをやめなければならないではないか。
が、よいチャンスというものは重なるもので、増子さんからあらためてそんな話をもらったあと、映画評を書くために『ゴッドファーザー PART III』の試写を見ているときに、ふと、この映画評でわたしの本をしめくくってはどうかという気持ちがわきおこった。そして、ふだんは校了まぎわまでタイトルで悩むのに、突如として『シネマ・ポリティカ』というタイトルまで思い浮かんだのである。
『ゴッドファーザー PART III』の評のなかでも書いているように、わたしが一般のメディアに初めて書いた映画評は、『ゴッドファーザー』を論じたものであり、それが、アメリカの社会と政治をその瑣末な日常的イメージのなかから考えていくきっかけを与えた。その意味で『ゴッドファーザー』はわたしにとって重要な作品であるわけだが、映像の好みからすると、わたしは、ハリウッド映画のなかでは、『ゴッドファーザー』よりも『ブルース・ブラザース』の方が好きだし、ハリウッド作品よりもオフ・ハリウッドの作品を好んで見ている。だから、本書を『ゴッドファーザー』から始めて『ゴッドファーザー PART』でしめくくるのには、若干抵抗があった。しかし、『ゴッドファーザー PART III』にただよう終末の雰囲気は、アメリカというものの一つの終わりとハリウッド映画の終末とを同時に示唆しているように思え、本書をしめくくる場所にもってくるのに格好だと考えたのである。
実際に、この映画の前後からアメリカの商業映画は、従来の活力を失っている。『許されざる者』から浮かびあがる〈政治〉は全くサエたところがないし、『ジェラシックパーク』のような気を引く映像にしたところで、みなヴィデオ・テクノロジーの方から取ってこられたものである。全体としてスリラーやフィルム・ノワールへの傾斜が強いのは偶然ではなく、むしろそのなかに今日のアメリカ映画の〈政治〉が露出しているのだとしても、底が浅いように見える。
アメリカ映画は、とはいえ、当分は滅びはしないだろうし、アメリカ社会もまた、コルレオーネ家のような衰退を迎えることはないだろう。むしろ映画の方は、これまでオフ・ハリウッドの作品が示してきたような方向強め、ある種のミクロ化と〈多形化〉に向かい、社会の方も、ハリウッドが好んで映像化してきたような「大アメリカ」の傾向を完全に捨て去る方向で進むことになるだろう。いずれにしても、わたしは、本書をまとめながらそんな時代の転機を実感したのだった。
最後になったが、本書に収めた大小の文章を書くきっかけを与えてくれた編集者の方々にお礼を申し上げたい。そのなかには、映画評を書いたことのない人間に広い紙面をさき、『ゴッドファーザー』評を書かせた阿藤進也さん、友人の伊藤昌洋の仲介を受けて、わたしを映画のプロフェッショナルの世界に引き入れたキネマ旬報社の植草信和さんをはじめ、持続的にわたしの批評活動を支援してくれた方々が数多くおられるが、ここではお名前を列記することはしない。サンクス・ア・ロット!
作品社の増子信一さんには、構成、写真の選択、デザイン、レイアウトの手配をやっていただいた。増子さんの献身的なサポートがなければ本書は決して形をなさなかった。心から感謝する。
一九九三年一一月一九日
粉川哲夫
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