バベルの混乱





目次



1 情報と造反

バベルの混乱は恐くない
企業の文化戦略はもう古い
電子時代は徹底的にエキセントリック
衛星ジャックで情報の乱世が始まった



2 肉体の変貌

カウチ・ポテトは無害な麻薬か?
エレクトロニクスが終わらせ、始めるもの
肉体が脳髄のとりこになった
アンドロイドの作り方
パフォーマンスが始まる〈スペース〉



3 過激なコミュニケーション

資本主義のエアポケットで過激なことが花開く
日本のラジオが電子広場になったとき
8ミリ映画が新しくなるとき
自由ラジオとは何であったか
パソコソ通信でコミュニケーションを重層化する
メディアに統合はいらない



4 資本主義と情報技術

サイバーテクノロジーの政治
情報技術としてのユダヤ主義
エイズと〈伝染メディア〉の終焉



あとがき





1 情報と造反


バベルの混乱は恐くない

 テクノロジーの発達というものはバベルの塔の建設に似ている。それは、天まで届く一つの統一世界を作ろうとするのだが、出来上がる世界はますますバラバラのものになってしまうのである。
 しかし、バベルの神話を否定的に受けとるのはまちがいなのではないか? バベルの塔の建築者たちは、はじめから決して統一された世界など求めてはいなかったとも考えられるからである。
 エレクトロニクスに関心のある人は、ほとんど無秩序とも言えるその多様化ぶりにフラストレーションをおぽえるはずだ。実質的にちがった機能をもっているわけではないのにキャプテンがあり、パソコン通信がある。ワープロとコンピューターは一つにならないのか?コンピューターのプリンターとファックスのそれとを共有させられれぼスペースは大分節約できる。レコード、コンパクトカセット、CD・・・音楽メディアはいずれCDだけになるのだろうか? べーターかVHSかという議論が一VHSの優勢によって一おさまってきたかと思ったら、8ミリビデオが問題を再燃させた。ファミコンでコンピューター通信がでぎるというけれど、じゃあ何十万もするコンピューターを買わなくてもニューメディアの恩恵にあずかれるのか・・・等々。
 モデルチェンジの早さも利用者をとまどわせる。ワープロも半年たてば旧機になってしまう。ひところは16ドットのプリンターが標準だったのが、いまでは24ドット以上が最低条件だし、フロッピーニァィスクや通信機能の付かないワープロなんて話にならないということになった。
 新製品の出現もとどまるところを知らないから、"成熟〃するのを待つということは不可能になる。待つことは見のがすことであり、使うことをあきらめることである。だから、いまニューメディアの流行を追えば家のなかば秋葉原のラジオ・ショップのようになり、あきらめれぼ家のなかば茶室のようになってしまう。中問が存在しにくい。
 しかし、消費者にとっては腹立たしいこのような状況は、テクノロジーが可能にする表現の多様性や豊かさを前進させる点ではむしろ好ましいのである。よく、ニューメディアの未来図でさまざまなメディア装置が一つに統合されたイメージが描かれることがあるが、これは、メディアを事務処理の道具に用いるには好都合だとしても、芸術や思考の媒介にするには好ましくない、無秩序や混乱のないところには新しい表現は生まれないからである。
 それに、統合されたニューメディアの世界というものは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』的な世界であり、メディアが強力な管理装置になってしまうような世界である。おそらく、バベルの塔に言語的混乱が起きなかったとしたら、それは恐るべきファシズムの城砦と化しただろう。その意味では、いまの"混乱"状態はむしろ健康なことなのだ。
 この"混乱〃は、現実をどうっかまえるかという方法の"混乱〃から来ているわげだが、この"混乱"は、実は、現実を把握する仕方の自由さと多様さをあらわしてもいる。
 ニューメディアのことを論ずる場合、「ハード」と「ソフト」ということが言われるが、実際には両者は決して切り離すことができない。ニューメディアの「ハード」と「ソフト」との関係は、鉛筆と文字との関係とは異なるのである。
 ワープロの「ハード」を設計するためには、言葉一ソフト一をどうとらえるかが先行しなければ不可能だ。だから、会社によるさまざまな機種一ハード一のちがいというのは、根本的には言語をどう認識したかという「ソフト」のちがいなのである。そして、それがいま大いに「混乱」しているわけだから、言語のとらえ方がいまほど多様な時代はないということにもなる。
 要するに、ニューメディアの「新しさ」が発揮されるのは、その「ハード」のちがいの根底にある「ソフト」のちがいを極力発揮させるときだということを強調しているにすぎない、
 そう考えると、また、ワープロにせよビデオにせよ、機種の選択にあまり苦労しないで済む。むろん、これはビジネスの発想ではなくてアートや哲学の発想である。情報を効率よく整理するという発想では決してない。むしろ、情報を効率よく整理するための道具として売られているニューメディアでおもしろく遊ぶための一提案にすぎない。
 効率的な整理という点では、自動読み取り装置一スキャナー一がもっと発達しなければ話しにならないだろう。いま、データーをコンピューターにファイルする場合、人が情報を読み、キーをたたいている。この作業があってはじめてデーターべ−スが出来、さまざまな検索が可能となる。これが、もしすべて自動の読み取り装置で行なわれるとすれば、人はファイル化の苦労をせずに、完全に整理された情報をいつでも利用できることになる。
 しかし、これはあくまでも、誰がやっても同じ結果になるような均質的な情報のレベルでの話であって、人によって読み方のちがう小説やそのっど見方が変わりうる映像を自動読み取り装置にまかせるわけにはいかないのである。これは、ビジネスとアートとの分かれ目であり、ニューメディアに対する姿勢を根本的に分かつものである。
 映画『ザ.フライ』一デイヴィッド・クローネソハーグ監督一の主人公は、着るものを選択するわずらわしさから逃れるために同じ服を何者も用意している。これは、人問の体をいくらでも複製できるとする彼の理論にみあったライフスタイルだが、その理論に従って作られた物質転送装置は意外な混乱を巻き起こす。クローネンバーグのものとしてはやや単純なこの映画を見ながら、テクノロジーの二面性を考えた。



企業の文化戦略はもう古い

 先日、メルボルンのテレビ局から国際電話がかかった。最近の統計ではこれまで貯蓄に精を出してきた日本人がだんだん貯蓄をしなくなっているが、それは今後日本社会にとってどのような影響があるのかを聞きたいというのである。
 オーストラリアがこのような問題に関心を示すのは、日本人の消費傾向の変化が今後のオーストラリア経済にとって重要な意味をもっているからである。日本はオーストラリアにとって最大の輸出先であり、日本の内需が今後どのような方向に進むかは、オーストラリアの経済を左右するのである。
 近年にわかに強まった「内需拡大」の動きは、日米貿易の「不均衡」を解消することがねらいとされている。そのため、内需はアメリカの商品を買うという方向で拡大されるわけで、これは、日本企業の海外進出に恐れをなす諸外国にとっては、必ずしも問題解決の方法とはならない。というのも、自国の商品を日本に売りたいのはアメリカばかりではなく、ヨーロッパ諸国も同じであるが、いま進行中の「内需拡大」政策はアメリカ経済の枠のなかを動いているため、他国にとっては必ずしもそれが実際の輸出払太になるとは限らないからである、
 日本がいま輸入している商品のうちの三分の一が消費財であるが、一九八五年には消費財の輸入は五分の一にすぎなかった。消費財は、原料などとは違って文化の係数がつく。ある一定の文化の下地がなければ、消費財をさばくことができない。そして、この傾向は、情報化が進めば進むほど強くなり、ものを売るためにはまず一定の文化を浸透させなければならなくなる。
 日本の場合、この文化係数は圧倒的にアメリカ型であり、実際に文化はアメリカから輸入されている。早い話、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」という文化一電化、水洗トイレ、シャワー等はその基本用品一がなければ、日本の消費社会は成立しなかったであろうし、また、現在進みつつあるあたらしい消費主義は、「ヤッピー・カルチャー」一インテリア、エレクトロニクス、グルメ志向はその代表的な商品一がなければ決して拡大しないだろう。
 こうした圧倒的なアメリカ支配に対して、諸外国は危倶を感じており、オーストラリアも今後日本の「内需拡大」がどのような展開を示すかに神経をとがらせているわけである。
 統計によると、日本人の貯蓄率は、一九八六年に二十一・三%だったのが、一九八七年の八月までに早くも十七%に落ちている。これは、それだけ消費が拡大したと考えてよいが、だからといってこれは、ムダ便いの傾向が拡大しだということを必ずしも意味しない。「消費」という概念自体が、従来とは違ってきているのだ。
 少しまえの社会学事典を見ると「コマーシャリズム」の項にはっぎのような説明がある。「商業主義・営利主義。使用価値あるいは、文化的価値を無視し、市場における交換価値・金銭価値を過度に指向する行動様式をいう。資本制社会は商品生産社会であり、商品の生産と販売をつうじての利潤追求が、この社会の原則である。」
 言うまでもなく、今日このような見方で「コマーシャリズム」や「消費主義」を論ずることはできない。それは、利潤を追及する「商業」そのものの性格が変わったからではなく、「商品」の形態と機能が変わったからであり、情報による再編成が進んだからである。
 かってのコマーシャリズムが「使用価値」や「文化価値」を無視することができたのは、商品の中心が「物」であり、その恋意的な使い方の幅がそれほど大きくなかったからである。それに対して、商品の中心が「情報」に移ってくると、その使い方はほとんど無限になり、何らかの方法でそれを規制しなければ、コマーシャリズムということ自身がなりたたなくなる。情報は、使われ、流れるまではいわぼ無であり、それがどう使われたかによってその「意味」が決まるからである。
 言いかえれば、「使用価値」を考えないコマーシャリズムは存在しなくなってきたのであり、「使用価値」と「交換価値」との明確な境界線が見えなくなってきたのである。むろん、これは、商業がまえよりも「人問らしく」なったというわけではない。商売は依然として商売であり、利潤の追及をやめたわけではない。しかし、商品の情報度が高まれば高まるほど便用者が使い方の恋憲性と戯れる機会をより多く得ることは確かであり、生産者の側としては、不確定性が増えるわけである。
 一九二〇年代のアメリカで開発された大量生産の方法は、こうした不確定性をミニマムにしようとするところから生まれた。大量生産の時代の始まりを情報化時代の先触れとみなす考えもあるが、わたしはむしろ情報化以前の「工業化時代」の最終地点に大量生産と大量消費を位置づけたい。
 このことは、大量生産の典型であるインスタント食品について考えてみれぼよい。イシスタント食品には使用価値があらかじめインプットされているのであり、その使用者は、それを勝手に「使用」することはできない。インスタント食品を独自のやり方で調理することは円能だし、そうしているひともいるだろうが、肉や野菜といった原料に比べればはるかに独目の調理を行なえる度合いが薄いのである。インスタント食品は、むしろ説明通りに調理した方が平均的な味が出せる食品である。っまりあらかじめ商品にインプットされた情報を実際の「使用」情報に交換することがこの商品にはふさわしいのである。
 これは、「使用者」を商品の奴隷にし、商品にあらかじめインプットされた情報を忠実に守るだけの「消費者」を生みたすことになる。これまでの「コマーシャリズム批判」はみな概ねこうした背景に基づいて行なわれてきた。ところで、日本人の「貯蓄志向」は、しばしば、将来の生活に対する不安といった観点かb説明されることが多いが、他方でそれは、旧タイプのコマーシャリズムに対する抵抗といつ要素を秘めている。日本の大量生産・大量消費時代は、高度経済成長から始まるわけだが、H一本人は、市場に急速に出回り始めた大量生産品を買い、次第に、独自の使用法というものを失っていったが、他方では、そうしたアグレッシブな消費主義に巻き込まれまいとせっせと貯金をした面もあるのである。
 しかし、当初は消費主義への潜在的な抵抗を意味していた貯蓄も、やがて貯蓄の勧めとセットになった金融ビジネスにとりこまれていく。商売の側としては、消費の恋憲性を大きくするような形の貯蓄を許すことはできない。それは統合されなければならない。かくして、住宅ローンを初めとするさまざまな形のローンが貯蓄に導入される。いまや、貯蓄は消費者が金をためて好きなものを買うためになされるのではなく、売手があらかじめプログラムした方向の枠のなかで行なわれるようになる。これも、大量生産・大量消費時代の最終段階で起こったことだ。
 さて、一九八○年代以後、日本の産業はポスト大量生産の時代に入った。商品は大量に生産されるにしても、その作り方は以前にくらべて「多品種少量生産」的であり、インスタント食品のような大量生産品の申し子ですら「使用者」の"独自"な使い方をある程度考慮せざるをえなくなった。
 統計でも明らかなように、大量生産のやり方で市場に出回る商品一だとえば冷蔵庫、洗濯機、掃除機一は、一九七〇年代にひと通り家庭に浸透した。以後市場を延ばすためにはもはや大量生産品では不可能になった。多品種少量生産はこうした背景のなかで登場する。これは、ある意味で、生産や流通の側が消費者を思い通りにはできなくなったということである、消費者の使い方を待って初めて生産が完結する度合いが強まるということは、生産の側としては不確定な要素が増え、生産のコントロールがしにくいということにもなる。
 こうした傾向が最も熾烈な形で現われるのは〈情報商品〉の分野においてである。情報産業は「情報を売る」というが、その情報の使い方まで指定するわけにはいかない。物には物の「属性」というものがあり、その使われ方はある程度予想がつく範囲のなかを動くので、それをあらかじめコントロールすることはそれほど難しくはない。たとえば机を食べ物にする人はいないし、冷蔵庫を冷房装置として購入する人は少ない。しかし、情報は、使用されて初めてその生産が完結するのであって、その作り手が全く予想もしなかったような使い方がしばしぼなされるものである。だから、その最初の生産は、その使い方の一つの見本を提示するにすぎないのである。
 たとえば、「ミック・ジャガーが来日する」という情報があったとする。それは、最初プロモーターなり放送局なりによって"生産〃されるわけだが、この段階では、それは事実であるか、そうでないかという単一の意味しかもっていない。が、それが流通するにつれて、「ミック・ジャガーが来日する」→「パニックが起こる」といった意味を惹起することもありえる。情報操作とは、情報のこうした恋憲性に基づいてなされるわけだが、情報を操作するのは情報の「送り手」だけではなく、情報の「使い手」も同様である。
 情報化時代のコマーシャリズムは、こうした情報の操作性を考慮しなければならない。情報資本主義時代の産業が、大なり小なり文化に意を用いなければならなくなったのもこのためだ。これは、一時代まえの資本主義からすると大変やりにくいことかもしれない。が、いずれにせよ、今日の産業は、たとえそれが文化や情報の産業でなくても文化を操作するということに関心を示さないわけにはいかない。というのも、文化は、流通させた商品を消費者にどう使わせるかを規定する力をもつからである。
 こうした変化は、当然、都市の商業空間や生活空間にも及ぶ。情報という観点からすると.「仕事」と「生活」とのあいだには本質的な区別は存在しない。たとえば現在でも、文筆のようなく〈情報労働〉の場合、それを仕事場やオフィスで済ませ、そのあと「仕事」とはきっぱり区別された「生活」を楽しむということは、どこかで無理が出てくる。自宅のベッドで寝ころんでいるときにふと思いついたことが仕事の決定的な部分をなすということも少なくない。これは、肉体労働や工場労働以外のあらゆる労働にも言えることであるが、その度合いが、〈情報労働〉においては極めて大きいのである。
 いまや仕事場と生活空間との厳密な区別は成り立たなくなる。とりわけ生活空間の仕事空間化は著しいものであり、多機能電話、AV、ファクシミリ、パソコン、コピー機といった"仕事"用具が生活空間を彩ることになる。こうして、いまや、家庭は"工場"つまり情報生産・処理の"工場"となり、生活は"仕事"となる。
 そのため、従来の「生活」には存在した「くつろぎ」や「レジャー」の部分は、家庭の外に求めなけれぼならなくなる。セカンドハウスをもったり、「ヘルス・リゾート」で週末や休日を過ごすことが要求されるようになるのもこのためだ。
 他方、情報生産や情報処理の"仕事"に満たされた生活空間のなかに質的な差異を設けることによって"仕事〃と"非仕事〃とを区別しようとする傾向も現われる。つまり、どこかにルーチンワーク的な退屈さを含んでいる"仕事"としての〈情報労働〉と、もっと自発的な要素の多い"仕事〃とを区別することによって、仕事空間化した生活空間のなかに「生活世界」の要素を回復することである。
 たとえばビデオを見るということは、知覚神経の使い方としてはパソコンで画像処理をする仕事と大差のない〈情報労働〉であるが、それを何かの直接目的に結びっけなけれぼそれは「遊び」として存在する。生活空間が過剰に情報環境化するいまの状況下では、こうした差異づけを徹底させていく以外には、わたしたちが生活を取り戻す方法はなさそうでお、る。
 その意味で「インテリジェント・ビルディング」という言い方は、非常に象徴的である。「インテリジェンス」は、今日、ぽぽ「情報」一インフォメーション一と同じ意味で用いられているが、この言葉にはもともと「叡知的」「知的」といった意味がある。今日では、「知的」という意味も、単に「情報をもっている」といった意味に解されることが少なくないが.「知的」ということは単に情報に精通しているというようなことではないし、まして「叡知的」とは、もっと形而上学的な意味合いをもつ。
 つまり、今日の最先端の仕事空間が「インテリジェント・ビルディング」であるということは、それが、単に0Aの完備した空間であるということにとどまらず、それが「叡知的な」空間にならなければならないということを潜在的に含んでいるのである。
 このことは、商業空間と都市との関係についても言えることだ。商業は、もはや物だけを売買するのではなく、むしろ情報を売買するのであり、しかも情報の売買とは、情報と金とを交換するというようなことにとどまらず、情報を使う、消費するということを意味するのだとすれば、商業空間とアート・ギャラリーとの区別はほとんど消滅するだろう。商業空間は、物を売買しやすい空間であるよりも、情報を使い、「再生産」するのに適した空間であることが要求されるのだ。
 従来の商業生問は、概ね機能主義的な建築によって占められていた。一面では情報も機能主義的にとらえることが可能であり、「インテリジェント・ビルディング」などはその最たるものかもしれないが、機能主義的なだけのスペースからは創造的な情報は生まれないだろう。だから、今日の商業スペースは、アートやパフォーマンスのスペースから多くを学ばなげればならないのであり、前者と後者との本質的な差異がちちまりつつあると言ってよい。
 情報とりわけ電子化された情報による社会の再編成は、生産、労働、生活、商業等々の意味を変えた。そこでは、「叡知的なもの」が「情報的なもの」にすり替るということが起こると同時に、「情報的なもの」が何らかの意味で「叡知的なもの」を含意するという傾向が見られる。
 ポスト・コマーシャリズムの時代は、その意味で、極めて現世的であると同時に、いままでになく「形而上学的」な時代でもある。商業と、宗教、神秘主義、オカルト等々とが一見何の矛盾もなく結ひつく時代、商業生問と伽藍のスペースとが限りなく近づく時代。ここでは、コマーシャリズムと教育、文化事業、PRとの関係は切り離せないものとなり、かつて流行した----どのみち販売促進とは切り離せない----「企業の文化戦略」なるものは、ひどく時代遅れなものとなる。



電子時代は徹底的にエキセントリック

 かつて「アトミック・エイジ」とい二言葉が流行したことがあったが、二〇世紀後半は、「アトミック」よりも「エレクトロニック」一つまりは「電子時代」とい三言葉によって特徴づけられる。
 事実、「電子」を冠した言葉が増えているが、それは個人的な心情のレベルから国際政治や地球的環境のレベルにいたるまで、電子回路の介在しない問題が少なくなったからである。しかし、この「電子」問題は単に「ハード」としての電子回路・機器の問題ではない。「電子」が介在することによって、これまで一定の有効性や価値をもってきた問題が根底から再検討されることを要求されるのである。
 これは、まさに「電子」が歯車と決定的にちがうからである。歯車は単に筋肉や心臓の延長.変形でしかなかったのに対して、「電子」は脳髄や神経の延長・発展でもありえるために、人問的世界がまるごと電子的に操作可能なものとなり、分業や単独的一専門的一な考察ということが成り立たなくなる。その意味では、「電子」が何かに冠されるとき、それはトータルな検討と考察が要求されており、それはもはや従来通りの運用が不可能になっているということでもある。「電子出版」がよい例である。電子出版は、単に印刷・出版の処理技術が「電子化」されるだけにとどまらない。電子出版は、一面では、ペンをキーボードに、紙をヴィデオ・スクリーンに変える側面をもっているが、それ以上に重要なのは、これまでの出版に内属してきた特性や矛盾を極端な形で顕在化する点である。実のところ、ヴィデォ映像化した文字やそれにともなう映像処理は出版の問題ではない。それは、文字通り映像の問題であって、今後印刷文字の映像化が急速に進むとしても、それは出版の延長としてではなく、むしろ映像事業の延長として考えられるべきである。
 もし、紙がヴィデォ・スクリーンに替わるだろうということだけを出版界が懸念するのならば、早急に映像業に転ずる方がよいだろう。そうした傾向はかなりの程度進むはずだ。活字印刷の書物がこれまでのような力をふるうことはできなくなる。
 しかし、電子出版の問題は、紙の上の文字が存在することを前提としたうえでの問題であり、グーテンベルク以来続いてきた書物の最終的な展開の問題である。ここには、独占的な力を誇ってきた本の終末があるとともに、本というメディアの可能性が最終的に開花する終末論的な事態が横たわってもいる。
 それゆえ、電子出版の可能性を論ずるためには、書物と他のメディア  とりわけ映像メディアーとの根本的な相違を考えなければならない。それは何か?
 それは、決して印字技術的な相違ではありえない。電子出版には、映像メディアと同種の電子回路が介在するのだから、その根本的な相異は読者のレベルに帰結する。当面、電子出版は、現在の執筆→編集→印刷・製本→配本→読書の過程を電子的に合理化する段階にとどまっているが、電子出版の究極には、個人の家や店舗に置かれたプリントアウトと製本の統合装置で「印刷物」を受け取るというところまで行くだろう。これは、技術的には、コンピューター通信におけるプリントアウトのプロセスと大差ない。とすれば、出版とコンピューター通信とはどこで差異づけをしたらよいのか?
 すでに日本でも、データーべースやネットワークと契約して、必要情報をそのつど自分のプリンターでプリントアウトしている人はかなりいる。それをファイルして自分用の「本」を作っている人もいる。アメリカでは、最初からそうした自主的編集一正しくは編集・印刷.製本)を目的として情報を流しているコンピューター・ネットワークがある。このような形態の「出版」が日本でも活発になることは充分に予想できる。
 こうしたフリー.パブリッシング(あるいはフリー・リーディング)に対して電子出版が依然として独自性を発揮できるとしたら、それは、われわれが最初からパッケージされたものに対していだく欲求とは何かを考えなければなるまい。いつでも消すことのできるヴィデォ.スクリーン上の文字を見て、好きな部分だけプリントアウトするフリー・リーディングと、必ずしも読みたいものだけで構成されているわけではない本を読むのとでは、読者の姿勢は全く異なるのであり、出版はこの点を顧慮せずに電子出版を行うことはできないだろう、その点が明確でなければ、電子出版は早晩、コンピューター通信業と区別できなくなる。
 実際には、今後、伝統的な出版.印刷業は新しい情報処理業に浸食されるにちがいない。現在でも、データーべース事業はすでに事実上の「出版」業である。また、統合印刷システムを使い、出版杜が印刷もやってしまうとか、その逆に印刷会社がコンピューター回線を通じて執筆者やデザイナー一またフリーの編集者とも一結びついて、出版杜を介さずに「出版 を行なうという傾向も出てくるだろう。
 しかしながら、このような傾向が光進するなかには、本というメディアに内属するパッケージ性とプログラム性が最高度の可能性を発揮する機会があるのだということを強調しておきたいと思う。これまで、本がもっているこうした性格は、本というメディアの限界と考えられることが多かった。出版社側が読者の欲求を予測するプログラム性と、一旦詰めこんだら自由な組み替えが難かしいパッケージ性一これらの限界は、パソコン通信によっていとも簡単に越えられてしまうだろう。
 だから、出版は限界と思われてきたことを逆手に取って可能性に転じるしかないのである、この状況は、速報性という点ではラジオやテレビに劣る新聞がその「電子化」において迫られているものとよく似ている。
 コンピューター化されたデーターの場合、それを検索するスピードや規模は、詳細な索引や目次のついた本の比ではない。コンピューター情報は、検索技術が進めば進むほど、拾い読みすら必要ではなくなるのであり、最終的に必要なものだけを瞬時に呼び出すことができる。そのため、コンピューターを散漫に「読む」ということは無意味であり、それはコンピューターの機能に反することになる。
 本は、これとは逆に、なんとなく読むうちに何かを発見することに適したメディアである、本は、ランダム・アクセスが可能だとしても、本来、リニァー・アクセスに向いたメディアであり、べージごとに読んで行く読書過程のなかで生ずるハプニングにおいて最も有力な機能を発揮する。このことは、映画とヴィデォ、LPとCDとの相異にもあてはまる。
 いずれにしても、本は、検索の「不自由さ」とリニアー・アクセスの「冗長な」持続性を強調するような内容と流通方法を顧慮しなければ意味がない。今後生き残れる本は、どちらかと言うと硬い本や内容の濃い本である。全部読み通して見なければわからないような難解な本もよいだろう。
 ただし、本の生ぎ残りのために導入される電子出版がこうした方向に向かうとは必ずしも考えられないのは皮肉である。というのも、日本で言うところの「デスクトップ・パブリッシング」のような電子出版のシステムは、現在の執筆・編集・印刷・製本・流通を合理化するシステムであり、大量の部数の本を限られたスタッフで出版するのに向いているからである。むろん、少部数の出版も可能だが、この装置のために要する億単位の投資を償却するためには、その合理的機能をフル回転せざるをえず、たかだか初版三〜五〇〇〇部の「硬派」出版物には当分ぜいたくすぎるのである。
 そのため、電子出版は、本の体裁をとりながらも、結局、ビデオ映像のようにどんどん読み捨てられる出版物−雑誌、文庫本、実用書等々1の分野で普及することになるだろう.これは、本の内容をも変えてしまう潜勢力をもつ電子出版の可能性としては不十分であるが.この結果、最もドラスティックな変化をこうむるのは流通分野である。その度合は、出版杜が印刷業や電子産業に併合されるよりもはるかに大規模でドラスティックであり、東・日販の独占体制は根底からゆさぶりを受けることになるだろう。
 コンピューターの技術者たちは、電子テクノロジーのもつリゾーム状の流通機能にもかかわらず、日本社会に根強く残っているツリー状の流通性格にフラストレーションを感じることが多いようだが、電子メディアの浸透とともにそうした性格は急速に薄まって行くはずだ、これまで支配的だった中央集権的なシステムを、今日の支配的なシステム  電子システム
  のなかにいる人々が批判し、解体して行く現象。これは、電子出版の分野だけでなく、今日の社会の全域で浮上しつつある逆説現象である。


衛星ジャックで情報の乱世が始まった

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 その映像は黄、青、赤の太いタテ縞を主にしたテストパターンのうえに白文字をのせた静止画像で、そこには次のような言葉が記されていた。「こんぼんわ、HB0。キャプテン・ミッドナイトより。ひと月一二・九五ドルだって?ばかいうな。「ショー番組や映画のチャンネルはご用心]」
 一九八六年四月二七日午前零時三二分、東部一帯のHBO(HOME BOX OFFICE)の有線テレビ画面に突然この画像が現れたとき、HB0はジョン・シュレシンジャーの『コードネームはファルコン』をテレビ上映していたが、その画像は映画の画面のうえにすっぽりとかぶさった形で現れた。このようなことをするためには、HB0の入力系統に介入するか、あるいはHB0がその放送を全米に流すために使っている通信衛星による中継系統に介入するしかない。前者は、HB0の内部の者ならば可能である。後者は、よほど高度な技術がなければ不可能だ。
 事件の翌日の新聞一だとえば『ニューヨーク・タイムズ』一は、このことをさほど大きくはとり上げなかったが、日がたつにつれて、この事件は話題を呼び始めた。これは衛星通信をジャックした初めての事件であるだけでなく、CATVと衛星放送との問ですでにくすぶりはじめていた諸問題を一挙に公衆の場にさらすことにもなったからである。
 事件当時たまたまニューヨークにいたわたしは、通信技術に関心のある友人や知人がみなこの事件を一つの"快挙"とみなしていることを発見するとともに、彼らがこのような事態を以前から予期していたことを知った。
 小説家のソル・エーリックは、「わたしが小説で示唆したことがついに起こった」と言って満足げだったが、彼は『リチャードA』一邦訳『狙われた盗聴者』集英杜一という小説で、電話から衛星通信にいたる情報技術に精通した一人の主人公を登場させながら、今日の情報政治の逆説に鋭い光を当てていた。
 HB0は、もともとペンシルベニア州とニューヨーク市をサービス・エリアとするローカルなCATV局だったが、一九七三年にタイムニワイフ社によって買収されたのち、一九七五年にはCATVの業界では初めて、通信衛星を通じてアメリカ全十のCATV局をネットする方法を採用した。
 CATVは閉回路だから、それを有料にすることはできる。しかし、有料の回路はどうしても地域的なものとなり、"より多く"という資本の論理とはそりが合わない。そこで、こうした地域的な閉回路を全米に開く方法として、衛星中継という手段が採用された。この方法は、CATVの限られたサービス・エリアを一挙に拡大するもので、やがてCNN(Cab-le News Network)やMTVが採用し、CATVの一つの延命策となっていった。
 しかし、問題は、CATVの回線から衛星回線に流された信号は、衛星の電波を受信する装置さえそろえれぼ、CATVの場合のようなケーブル契約をしなくてもタダで受信できてしまうことである。
 通常、HB0の番組一最新映画の放映が多い一を地方に放映する場合、HBOと契約したCATV局が自局のパラボラ・アンテナでHB0の衛星電波を受信し、それを地域の視聴者に有線で流すという方法をとる。この場合、視聴者は、月一二・九五ドルの受信契約料を払わなければならず、さもなければ、たとえケーブルが通っていても、HB0の番組は映らない。
 ところが、この一〇年間に衛星放送の受信技術は飛躍的に進み、一般家庭でパラボラ・アンテナを設置し、通信衛星からの電波を直接受信する装置のコストも極度に安くなった。最近の新聞の広告欄には、アンテナを含めて一セット九〇〇ドルなどという安い製品も出はじめており、これをテレビ受像機かビデオ・モニターに接続すれば、HB0の衛星回線はもとより、現在、米大陸の上空に上がっている三五個あまりの通信衛星から地上に放射されるさまざまな放送や通信画像を見ることができるのである。これでは、とてもわざわざ金を払って見る気になれなくなるのも無理はない。




 実際、衛星テレビの普及はめざましく、日本でも受信用パラボラ・アンテナとコンバーターは、電子産業界の目玉商品になりつつある。また、一時は明日のニューメディアとしてCATVに期待をかけていた業界も、このごろでは、商業放送の未来は衛星テレビにしかないといった判断すら下している。
 しかし、通信衛星がこれだけ身近なものになりつつあるにもかかわらず、とりわけ日本では通信衛星を「地上三万六〇〇〇メートルに打上げられたアンテナ」としかとらえていない貧しい現実がある。
 たしかに通信衛星には、テレビ塔の高さを大気圏まで引き延ばしたような面はあるだろう。そして、現状では通信衛星はそういう面で使われていることが多い。とくに日本の場合はそうだ。
 しかし、通信衛星にはもっとラディカルな機能があるわけで、それを徹底的に発展させなければ、ニューメディアはひとつも「ニュー」ではないとわたしは思うのである。
 たとえば、東京タワーから発射されるTV電波は、各家の屋根に付けられた八木アンテナで受信されているが、東京タワーと八木アンテナとの関係は一方的であって、これを相方向にするのはそう簡単ではない。
 これに対して衛星テレビの場合には、送信機さえ用意すれば受信用のパラボラ・アンテナがそのまま送信アンテナに使え、各家から電波を衛星に送り、それを衛星の中継装置を介しでふたたび地上に降ろし、日本列島のどの地域にでも送付するということが可能なのである、これは、テレビ塔の放送技術とは根本的にちがうテクノロジーであり、こうした側面を延ばすために衛星を使うのでなげればおもしろくないと思うのである。
 そのとき、テレビ塔や放送塔のもっている中央集権的な機能は、多様で分散的な機能によってのりこえられるだろう。現在のところ、通信衛星は地上のアンテナで送信するよりも広範囲のエリアをカバーできる点で評価されているが、むしろ、地球上に分散した個人がいかなる相手とも結びつけるという側面を発展させるのでなければ、衛星はそのポテンシャルの半分以上を捨てることになる。




"キャプテン・ミッドナイト〃事件は、衛星放送の特権的状況に対して二つの衝撃を与えた、その第一は、通信衛星技術の特権性がくずれたことであり、もう一つは、通信衛星業界の"倫理的"特権性が失墜したことである。
 衛星通信の受信技術は近年、、非常にポピュラーになったが、送信技術の方は依然として高度な装置と技術を必要とする。衛星まで電波を飛ばすことはさほどむずかしいことではなくアマチュアの衛星通信も許可されているが、衛星放送の場合には、信号はすべてデジタル化されており、また、地上から発射された電波を衛星の中継器一トランスポンダー一に入れるには、暗証番号を知らなければならない。そのデコーダーの部分は、なかなかアマチュアの技術では歯が立たないのである。
 ところが、キャプテン・ミッドナイトは、通信衛星ギャラクシー1のトランスポンダー二三号の"鍵"をいとも簡単にこじあけ、しかも、相当強力であるはずのHB0の衛星信号のうえに、カラーの文字信号一歩、青、黄の縦シマの背景に白い文字で前述の文章を打ち出した一をすっぽりとかぶせてしまったのである。いよいよ"衛星ハッカー"の時代が始まったのか。これには、被害者のHBOだけではなく、通信衛星の業界のすべてが大いにあわてた、通信衛星の業界があわてたのは、いったん空中に打ち上げられると、あとはデジタル化された"鍵〃だけが頼りのトランスポンダーが、簡単にジャックされ、海賊放送に使われるとなると、放送事業そのものが成り立たなくなるおそれが出てくるからだった。
 すでに、飛躍的に発達した受信装置の普及によって衛星通信技術の特権性はくずれていたが、業界は、この"電子民主主義〃に対して、スクラソフリングと法的処置で対抗しようとしてきた。
 スクランフリングというのは、信号をいったん暗号化することであり、番組を契約した者だけが持つことのできるデコーダーでもとにもどすシステムである。テレビ会議の衛星信号や有料の衛星放送は、スクランフリングがかかっている。HB0は一九八六年からそれを始めた。全米にふえつつある衛星放送受信者にタダで見られてしまうのを防ぐためである。
 しかし、エレクトロニクスの進歩は、高性能のパソコンを普及させ、たいていのスクランブル装置の"暗証コード〃を解読することをも可能にした。今日のアメリカでは、警察無線から衛星通信にいたるすべてのスクランブル信号を解読できるようなデコーダー・システムをひそかに販売している会社もある。スクランブル信号をデコードするデスクランフリングの装置を内蔵したレシーバーも何種類も市販されている。つまり、スクランフリングはもはや衛星放送の商業的未来を保障してはくれないのである。
 法的な保障も、あまり頼りにはならない。アメリカには「一九八五年ケーブル条例」というのがあり、CATVから流さ.れた衛星の信号に関しては、この条例を適用することが可能である。この条例は、暗号化された信号を無断で受信することを禁じているから、スクランブルのかかった衛星信号を自分のパラボラ・アンテナで勝手に受信することは、それがCATVから出たものである場合にかぎり、犯罪行為とみなされる。ちなみに、受信者には一万ドル、デコーダーを売却した者には五万ドルの罰金が科せられる。しかし、条例を守るかどうかは、利用者の"道義〃に期待するしかないし、また、すべての衛星放送にケーブル条例を適用することはできない。
 これは、まさにテクノロジーの逆説である。テクノロジー、とりわけ、電子的な情報テクノロジーは、高度化すればするほど、従来の意味での"利潤〃や"価値〃という概念を根本から突きくずす。このことは、年々性能が向上しながらもコストダウンするワープロやコンピューターのことを考えれば十分であろう。




 現時点において最高度の通信技術が投入されている衛星放送の分野で、放送・通信能力と資本主義的な効率とが矛盾を起こすということは、決して偶然ではないのであって、これまで粁余曲折を経ながらも一応、発展の一途をたどってきたように見えた資本主義システムも自らが生み出した電子情報テクノロジーとの出合いのなかで、根本的な自己変革を余儀なくされようとしているわけである。
 わたしは、こうした事態を資本主義の〈情報資本主義化〉と呼ぶが、資本が"貨幣"ではなく、"情報"をモデルとするようになるこの段階は、資本主義の新しい段階というよりも、資本主義の完成・終末段階である。考えてみれば、「貨幣」はもともと情報であり、メディアであったわけで、その"貨幣"が、いま明確に〈情報〉としてとらえなおされるということは、貨幣資本主義の最終的な完結にほかならない。つまり、「貨幣」は〈情報〉として自己を完結させるのである。
 従ってこのことは、資本主義がもうすぐ終わりになるということでは決してない。それは、むしろ、資本主義がこれまで表現し、実行してきたすべてのことを"情報"の角度から表現し、実行しなおすということであり、資本主義がこれまで「競争」、「国家的独占」、「インフレ」、「戦争」といった形で行ってきたものも、すべて〈情報〉という角度から徹底的にとらえなおされることになる。これは、単に理論的なとらえなおしではなくて、すべてが情報の論理で動くようになるということでもある。ここでは、もはや価値を数量化された貨幣的価値で測ることはできない。価値は情報価値ーつまり情報効果の度合い一となり、貨幣の量には換算できなくなる。
 衛星通信が直面している重大問題の一つはまさにこのことである。高度のスクランブル・システムを作ることは膨大な金を要するから、結局のところ、衛星通信は、その自由な受信を許容せざるをえなくなるだろう。そして、その場合、衛星番組は、それが有料であるか否か、どれだけ視聴料を集められたかどうかによってではなくて、その番組が情報としてどれだけ影響力をもつことができたかによって評価されるようになるだろう。その意味では、番組にCMがあるかないかは大した問題ではなくなる。すべてがある意味での"CM"になるからである。"キャプテン・ミッドナイト事件"の捜査が進むにつれて、衛星放送の業界は、もう一つの衝撃を受けることになった。
 七月二二日、フロリダの衛星中継センターで働いていたジョン・R・マクドゥガル(二五歳)が、FCC一連邦通信委員会一の追及に対して、自分が衛星ジャックを行ったことを自白した一これは、自作の装置で"衛星ハッカー〃をやったと思っていたエレクトロニック・フリークたちを幾分がっかりさせもした一。当初、この衛星ジャックは、アマチュアのハッカー的人物のしわざとみなされたが、FCCが調査を進めるうちに、あの映像をHB0の番組にすっぽりかぶせることは、アマチュアの送信装置では不可能で、少なくとも直径七メートル以上のパラボラ・アンテナの付いた装置がなけれぼいけないことがわかった。
 そこで、プロ用のバラポラ・アンテナを持っている者のうち、その可能性がある五八○ヵ所がリストアップされ、やがてそれが一二ヵ所にしぽりこまれた。立ち入り検査の結果、セントラル・フロリダニァレポートが"キャプテン・ミッドナイト〃の拠点と断定されたのは、送信装置と問題の画像を作れる編集装置に該当するものがここにあったことと、衛星に電波が発射された日時から算定される発射位置がこの施設の場所と合致したからである。
 事件は、マクドゥガルが電波法違反の罰金五〇〇〇ドルを払ってケリがついたが、これで事件が解決したわけではない。
 というのは、マクドゥガルがHB0の競争相手の依頼でこの衛星ジャックを行ったと考えることもできるからである。また、HB0自身の"ヤラセ"という疑いももたれている。つまり、"キャプテン・ミッドナイト事件〃は、ハッカ1的な人物が仕掛けたいたずらにとどまらず、業界内部の深い対立と矛盾を暴露しかねない事件であることが明らかになってきた、
 企業活動にとって陰謀や策略は決して珍しいことではない。しかし、"キャプテン・ミッドナイト事件"は、衛星通信技術と衛星通信業界そのものの将来と直結した事件であるという点で、一方の企業が他の企業を出し抜くための権謀術数のレベルをはるかにこえている。
 これからの衛星通信企業は、衛星中継器が容易にジャックされることを覚悟しなければならないと同時に、"今日の友は明日の敵"とでも言うような油断のならない競争関係に身を置くことを要求されるわけであり、これは技術自体の本質的な傾向から要請されるのである
 要するにすべてが次第に情報資本主義の論理で動くようになるから、その論理からはずれるものは排除されるだろう。さもなければ、情報資本主義のシステムは生き延びることができない。しかし、その場合、これまでのように、国家や統合的な中央組織が全体を一つの論理に従わせるようなことはできないだろう。情報の論理には中心は存在しないからである。むしろ、全体がゆらぎを起こすなかで、情報資本主義の論理にはずれるものがおのずから排除され、消滅するという形をとるだろう。
 日本のような国家主導型の資本主義システムにおいてすら"民営化"が進められたのは、情報資本主義化がいよいよ資本主義の趨勢となったことを示唆している。それは、単に産業システムの内部だけではなく、政治システムにも浸透しはじめている。ロッキード事件においては金が問題であったが、リクルート疑惑では、情報が政治の要になってきている。そこでは誰かが陰謀を仕掛けたというよりも、情報自体の特性1つまり"恋憲性"や"伝播性"−によって、支持されるものと排除されるものとが判定されるのである。情報資本主義の時代とは、情報の乱世であり、情報的下剋上が日常茶飯事となる時代である。



2 肉体の変貌


カウチ・ポテトは無害な麻薬か?

「カウチ・ポテト」という流行語には、いまひとつわからないところがある。普通この言葉は、毎日テレビやヴィデォばかり見ているメディア中毒のことをさすが、この言葉をはやらせるのに一役買った雑誌『ニューヨーク』がヵウチ・ポテトをあつかった記事には、ひどく明るい顔をしたヤッピーっぽいカップルがいっしょにカウチに腰をおろしてテレビ一ヴィデオ?一を見ている写真がそえられていた。二人の雰囲気は、およそメディア中毒とは縁遠い感じで、これでいったら、日本人などは、みなカウチ・ポテトになってしまうのではないかと思ったものだ。
 先日、ニューヨークヘ行ったとき、グリニッジ・ヴィレッジのエィス・ストリートを歩いていたら、観光客向けのみやげものを売る店のウインドーに、「カウチ・ポテト・ドール」というのが並べられているのを発見した。それは、明らかに「キャベツ人形」の表情を模して作られており、これまた、メディア中毒のイメージとはほど遠い感じがした。
 メディア中毒というと、わたしには、まずデイヴィッド・クローネンバーグの映画『ヴィデオドローム』の主人公マックスが思い浮かぶ。この映画には、「カソード・レイ・、・・ツジョン」つまり「ブラウン管布教団」という施設が登場し、そこはテレビのブラウン管を四六時中見つめている暗い表情の人々でごったがえしている。また、この映画の主人公は、次第にヴィデオ映像のなかの世界をより現実的なものと感じるようになり、最後には自分の肉体を破壊して、ブラウン管のなかの世界にはいってしまうのである。
 メディア中毒でもうひとつ思いだすのは、西ドィッのダニエル・ペッファーの映画『ゴースト・ウィーク』である。ここには、映画館からヴィデオ・カメラで映像を盗み、それを電話線で送って、カセットに収め、レンタル・ヴィデオ屋で売るといったメディア・ジャック的なファニーな話が出てくるが、そのクライマックスは、海賊テレビの放送局を開設する資金を得るために、男が二四〇時間ぶっ続けでテレビとヴィデォを見る賭けに挑戦する話だ。そのあげく、この男は、知覚機能が変質してしまい、電波を直接受信できる体になってしまう。これは、明らかに今日のテレビ過剰社会を風刺しており、決して「明るい」映画ではない。 
 ジェフ・リーベルマンのアメリカ映画『リモート・コントロール』も、ある点ではメディア中毒の話である。ヴィデオのレンタル・ショップで『リモート・コントロール』という名のヴィデオを借りて、それを見ると、映画の途中から見ている自分が映像のなかの殺人者と同化してしまい、そぼにいる者を無差別に殺すようになってしまう。これは、実は、別の惑星から地球に潜入したエイリアンが仕掛けた罠であり、それに気づいたヴィデオ屋の店員がエィリァソの本拠に行き、そこを破壊する。ヴィデォの大量コピーをやっているその本拠でトップの座を占めているのが「日本人」の顔をした連中だということでもわかるように、この映画も、メディア中毒をあくまで批判的にとらえていることは確かである。
 ヵウチ・ポテトというのは、どうやら、こうしたメディア中毒とは違うもののような気がする。そこには、「ヵウチに腰をおろして、ゆっくりヴィデォでも見ようや」といった気楽な風情があり、メディアに対する批判的な対応は少しも感じられないのである。「カウチ・ポテトっていうのはどうなの? 『ニューズ・ウィーク』によるとカウチ・ポテトの会まであって、一万人も会員がいるそうじゃない。ニューヨークではどうなの?」
 わたしはニューヨークの友人にたずねてみた。それによると、「カウチ・ポテト」という言葉は、日本で考えられているほどはやっているわけではないらしい。彼自身、あまり使ったことがないと言っていた。「ただ、それはコカインと関係があるんじゃないかな。ポスト・コカイン現象がもしれない..」
 友人は、気のなさそうな表情でこう言った。
 これは、わたしも考えていた側面だった。ニューヨークでは、いまでも、コカインの常用者の数は少なくないが、レーガンがやった麻薬撲滅キャンペーンのせいか、全体としてはその数は減りつつある。もともとコカインは、マリワナなどに比べると高価であるため、ある程度の収入がなければ常用することは無理である。レーガンの麻薬撲滅キャンペーンは、麻薬の末端価格をっりあげることになったため、遊び半分にコカインをすっていた者は、手をひく傾向を生んだ。
 ベスト・セラーになったジェイ・マキナニーの小説『ブライト・ライツ、ビッグ・シティー』の主人公は、雑誌杜に勤めるヤッピーのなりそこないであるが、彼はコカインの常用者であり、この小説は、コカインを吸ってハイになった主人公の意識が描かれているということもできる。
 すべてが二人称で書かれているこの小説は、次のような文章で終わる。「ゆっくりとやらなけれぼならないだろう。きみはすべてをみなもう一度学びなおさなけれぼならないだろう」。
 この小説は、一九八四年に発表された。ここで描かれている風俗やライフ・スタイルは、概ね、一九七〇年代末から八○年代初めのマンハッタンのそれである。このころからニューヨークにはヤッピーが増えてきた。マンハッタンは、デヴェロッパーの不動産投機の戦場となり、町並みがどんどん変わっていった。この時代のマンハッタンを知る者は、近年東京で起こっている変化などには決して驚かないだろう。
 小説は、ただのフィクションではあるが、『ブライト・ライツ、ビッグ・シティー』のような小説の場合には、それを使って逆に現実世界を照射することが出来る。その際、わたしが興味をもつのは、この小説の主人公は、このあとどうしたかということだ。彼は、「きみはすべてをみなもう一度学びなおさなけれぱならないだろう」と言ったが、彼は、どうやりなおしたのだろうか?
 その点でおもしろいのは、この小説にもとづいてジェームズ山ブリジズが監督した映画(邦題『再会の街』)である。この映画は、当然のことながら小説とは若干違っている。一つは全体として登場人物たちがヤッピー風になっていることであり、もう一つは、原作がニューヨークの見直し一自分の見直し、再出発一を主題にしているのに対して、映画は、ニューヨークヘの訣別を示唆している点である。
 小説を読むかぎり、この主人公は、ニューヨークをどんなに呪ったとしても、ニューヨークをはなれた生活など絶対に考えられないことがわかる。したがって、主人公の最後の言葉は、マンハッタンでの再出発が暗示されている。
 ところが、映画では、主人公の故郷はニューヨーク郊外が、どこかの地方に想定されていて、それがしばしば、死んだ母親の思い出といっしょにフラッシュ・バックするのである。最後のシーンでも、主人公が朝方のソホーを歩いていて、パン工場のまえを通りかかり、トラックに積まれているパンを見て、かって母親が台所で手作りのパンを食べさせてくれたときのことを思い出す。この分でいくと、映画の主人公の方は、「すべてをみなもう一度やりなおす」ためには、ニューヨークの外に出なければならない。
 こうして見ると、『ブライトニフイツ、ビッグ・シティー』の小説と映画は、たがいに正反対の方向を向いていることになるが、両者のあいだにヤッピーを投げ込んでみると、彼らの最近の意識変化が浮き彫りになる。一九八○年代の初めごろマンハッタンに住み着いたヤッピーの意識変化は、まさにこの小説から映画への変化なのである。話が少しやっかいになってきたので詳しく説明しよう。
 小説『ブライトニフイツ、ビッグ・シティー』は、八○年代にマンハッタンに住み着いたヤッピーたちに受け、ベスト・セラーになった。しかし、そこで描かれている世界は、決してヤッピー−の世界ではなく、以前からマンハッタンではよく見られたボヘミアン・タイプのニューヨーカーの世界である。しかし、ヤッピーたちは、まさに、ウッディ・アレンの映画『マンハッタン』が決してヤッピーの映画ではないにもかかわらずそれを自分たちの映画だと思い込んだように、『ブライトニフイツ、ビッグ・シティー』を自分たちの小説だと思い込んだ。そして、たぶん、この小説の主人公のように、コカインにも手を出したのだろう。しかし、ヤッピーは、その素性からして、ボヘミアンではない。彼らにはアングラや反体制への志向はなく、おどかされれぱドラッグなどすぐやめてしまう。彼らは「反社会的」なことにもファッション性があれば手を出すのである。
 一九八六年ごろを境にして、ヤッピーの郊外志向が高まる。あこがれのマンハッタンは、思ったほど魅力的ではないことがわかった。マンハッタンにはクレイジーてなければ住むことができない。ヤッピーのなかには、むろん、クレイジーな者もいるが、ヤッピーの平均的多数は「健全なる市民」であり、マンハッタンが歴史的に継承してきたドギツイ部分とはソリが合わない。
 マンハッタンはヤッピーの進出を当て込んだデヴェロッパーたちがヤッピーの好みに合わせて街を改造したことによって、スラムやうさんくさい一角は次々に消えていった。そのあとには、値の張るマンション一コンドミニウム)や高級レストランなどが出来たわけだが、ニューヨークは、いくらシェントリファイしても、所詮はパリにはかなわない。
 高級レストランで食事して、芝居やオペラを見るとしても、日常的な娯楽としては、ヴィデオが手軽である。八○年代を境にしてCATVは急速にチャンネル数を増やしたし、衛星放送も普及する。テレビは、もはや従来のダサイ全国ネットの「白痴番組」ばかりではない、こうして、郊外に逃れたヤッピーたちはヴィデオ/テレビ映像に「中毒」していく。
 カウチ・ポテトは、七〇年代の末から八○年代の初めにマンハッタンのアブナイ雰囲気に惹かれてやってきたヤッピーたちが、ひとしきりニューヨーク・ボヘ、・・アゾのアブナィ生活を模倣したあと、「このままじゃ、仕事をやっていけない」ことを痛感したところで身につけた〈保身の文化〉である。それは、いかにも「安全」大好きのヤッピーたちにふさわしい転身である。
 しかしながら、一見コカインより安全に見えるヴィデオやテレビの電子映像にも危険な要素はある。のめり込めば、電子映像は、ときには麻薬以上の幻想効果や現実遊離の作用を発揮することもある。ヤッピーたちは、決してカウチの上で安閑としてはいられないだろう。最初は〈無害な麻薬〉だと思っていたものが、やがては『ヴィデオドローム』や『ゴースト・ウィーク』や『リモート・コントロール』の世界のような事態にヤッピーたちを引き込まないという保証はない。
 わたしの考えでは、新しい文化はつねに過剰さと過激さのなかで生まれる。ヤッピーがつねに二番煎じの文化でしかないのは、ヤッピーが我が身の安全ばかりを考えている「種族」だからである。ヤッピーは、ニューヨークのさまざまな文化を広めはしたが、それ自身では何も新しいものを作らなかった。
 カウチ・ポテトにしたところで、電子映像に関係のある文化としては中途半端なものであり、たとえばジャージー・コシンスキーが一九七一年に発表した小説『ビーイング・ゼァ』の主人公チャンスにくらべれば、まったくの子供だましである。この小説は、マス・メディアや心理学の専門家のあいだにも多くの反響を及ぼしたのち、一九七九年にハル・アシュビ−によって映画化(邦題『チャンス』)されたが、ラジオとテレビを通じてしか「外界」を知らない主人公をピーター・セラーが見事に演じたこの映画はニューヨークのインチレクチュアル・コミュニティーで非常なリアリティーをもって迎えられた。言い換えれば、チャンスのように電子メディアに深入りして「映像世界」と「現実」との区別があいまいになってしまうというのは、七〇年代末のニューヨークではすでに一つの現実であったということである。
 わたしは、当時そうした状況下のニューヨークに住み、それがいずれはニューヨークのクレイジーな小世界を越えて全般化するだろうことを予感しながら、やがて『メディアの牢獄』一一九八二年一におさめられる諸々の文章を書いていた。ちなみに平野甲賀が装丁してくれた『メディアの牢獄』のブックカバーには、ヘッドフォンをつけ、リモコン装置を手にした男がラジカセを聴きながらテレビに見入っているイラストがデザィソされている。
 そんなわけで、わたしは、「カウチ・ポテト」現象には何の新しさも感じることが出来ない。電子メディアとわたしたちとの関係は、いまや、ブラウン管と目の関係を越えて、電子回路と神経系との関係に達している。たとえば、「ホロワォニクス」と呼ばれる分野では、音を通じて脳に直接映像を知覚させる実験が進められているし、また「エレクトロニック・メディシン」の研究も行われている。
 モニター・スクリーンのなかの世界を単なる「虚構」や「シュミレイション」と見なすのは、もはや単純すぎるのであり、「現実」、「虚構」、「幻想」といった概念自体がもはやある限定のなかでしか通用しない事態が進行しっっあるのである。カウチのうえでのんびりしてはいられないのだ。



エレクトロニクスが終わらせ、始めるもの

 シドニー・ルメットの『キングの報酬』を見ながら、ふと映像空間の自由性について考えそれが今日の空間そのものの問題を考えさせるきっかけをつくった。そのとき画面に映っていたのは、ハッカー風の青年が、コンピューターのキーボードをあれこれ操作しているうちに、コンピューター・スクリーンが急に輝き、そこに中東資本のダミー会社の名前がスクロールしはじめるシーンだった。
 このシーンは、おそらくルメットにとって絶対に必要なシーンというわけではなく、ハッカ1風の青年もそれっきり姿を現さないのだが、わたしには、いまや巨大な権力となったアメリカのテレビ・メディアの恐ろしさを強調しようとした他のシーンよりも、このシーンに一番リアリティーを感じた。
 考えてみると、このシーンは映画の映像空間とヴィデオのそれとのちがいに抵触しているのである。最近の映画には、コンピューターやテレビのモニター画面をそのまま映し出したシーンがしばしば登場するが、大抵の場合それは、映画の画面をぐっと引き立てるし、またモニター画面の方も、それによって実際以上にナウくなるのである。これはなぜだろう?
 映画の映像空間は情報がぎっしりつまった〈閉空間〉である。たとえ情報の密度が低いとしても、それが閉じられた空間であることには変わりない。そしてこの傾向は、映画の撮影・フィルム処理技術が高度化するにつれて強まっていった。
 これに対して、ヴィデオ映像は、ある一定時間に限れば〈閉空間〉だが、それはいつでも解消可能であり、全体としては開かれた空間になっている。とくに、回線に接続され、リアルタイムの情報を画面に映し出すヴィデォの場合には、その映像空間は、つねに未知のものに対して身を開いている。
 空間にはもともと、閉ざすモメントと開くモメントとがある。空間の具体的な現象は、こうした"閉ざす"力と"開く"力とのはざまに開かれるわけである。
 映画とヴィデォが、それぞれにこうした空間の異なる本質を体現しているとすれば、両者の出会いによってつくり出される〈場〉や〈スペース〉が、それぞれが単独につくり出すものよりも緊張をみなぎらせているのは当然である。実際に、ヴィデォの場合にも、そこに映画の映像を映し出すと、その画面がひどく活気づくことが少なくない。ヴィデォ撮影の方が手軽な時代に、金をかけたテレビCMでは依然としてフィルムを使うことが多いのもこのためである。
 しかし、ヴィデオにとっては、映画がそれによって活性化されるほどには、映画は必要ではないだろう。ヴィデォは、それ白身で閉じることも開くこともできるからである。
 その意味では、電子画像の出現は、活字や映画の出現にまさるとも劣らぬ空間革命をもたらさずにはおかないはずだ。
 活字は、映画以上に〈閉空間〉をつくり出す技術であり、それはまさに、〈閉空間の文化〉とでも言うべきものを構築してきた。近代の文化とは、この〈閉空間の文化〉の別名でありその閉じた空間を集約する唯一の中心が一番問題であるような文化だった。
 開かれた空間には、当然のことながら唯一の中心というものはありえない。むろん、"開かれた"と言ってもまったく"閉じる"部分がなければ〈場〉も〈スペース〉も成立しえないから、そこには暫定的な"中心"はある。しかし、その中心はつねに移動可能なものであり、全体としては〈多中心〉なのである。
 空間の性格が変われば事物のリアリティーも変わらざるをえない。近代空間は自閉的だったので、そこで構築される事物の理想形は、石や金属に象徴されるようなソリッドなものとなった。これは、都市をも変化させ、近代都市は、いつのまにか建物や道路が姿を消してしまうようなフレキシブルな場であってはならないものとなった。また、秩序や安定を価値とする社会性やモラルも、近代の堅固な建物や整然とした街路とアナロガス一類似一な関係をなしていた。
 今日、インテリア・デザインよりもサウンドスケープ・デザインが、軍人的な身ぶりよりも「みっともない身体」が、そして秩序よりも廃壇がリアリティーをもちはじめているのは.近代が終末に達しっっあるからである。ポスト・モダンとは、単なる流行語ではなく、むしろそうした終末への過渡期にほかならない。『マッド・マックス』から『フレートニフソナー』、『最後の戦い』、『未来世紀フラシル』そして『マックス・ヘッドルーム』シリーズにいたる映画/ヴィデオ映像のなかで、パンク的な身なりや廃壇が主要な位置を占めているのは、決して偶然ではない。
 しかし、われわれのリアリティー感覚の急激な変化とはうらはらに、ソリッドな事物と形式によって構築された世界は依然として増殖しつづけている。この状態がこのまま続くとき、われわれはもはやそういう世界をリアルとは思わなくなりはじめているのだから、それを放棄したり破壊したりすることに抵抗をもたなくなるだろう。その行きつく先は、地球の廃撞であるかもしれない。
 ポスト・モダンは、その意味で、空間のかってない自由性を展開すると同時に、単なる近代ではなく歴史そのものを終わらせてしまうアブナィ可能性を秘めてもいるわけである。



肉体が脳髄のとりこになった

 その日、家に戻ると、郵便局から大きな段ボール箱が届いていた。カナル・ステーションの消印のあるその航空小包は刀根康尚からで、送料は五二・五〇ドルもかかっていた。早速ガムテープをはがしてなかを開けると、いぎなりなっかしいにおいがわたしの鼻を襲った。それは、ニューヨークのスーパーマーケットのにおいであり、中身は、ニューヨークの大抵のスーパーマーケットでお目にかかるインスタント食品だった。わたしは彼のバフォーマティブなコンセプチュァリティにすっかり感心してしまった。というのは、ストーブ・トップのコーソブレット・スタッフドニ・・ックス、ダンカン・バインズのファッシ・、・・ックス、ティオサンチョのタコ・ディナー、ベティ・クローカーのハッシュ・ブラウン・ポテイトズ、ゴールデン・グレインのライス・ア・ロニ、マコーミックのスウィート・ベイジル・リーヴズ……といったインスタント食品は、わたしの記憶のなかで映像=情報化している「ニューヨーク」と遅延的差異を生み出し、ニューヨークでならぼ「ジャンク・フード」として一蹴してしまうインスタント食品には決して存在しない、ある種の肉体性を身に付け、刀根はわたしを一挙にパフォーマンス・スペースのなかに引き込んでしまったからである。
 この肉体性は、たとえわたしが広尾のインターナショナル・マーケットなどで同じものを見つけたとしても決して生じえないだろう。これらのインスタント食品が身に付けている空気のにおいを一緒にパックし、速度の技術一航空便一で適度の遅延を作り出すこと一こうしたバフォーマティブな時間操作によってのみ可能となる肉体性なのである。
 インスタント性がますます高度化し、これまで「インスタント」的だと思われてきたものがもはや「遅い」ものになるとき、それらは、アートの地平に一歩近づくのである。ポラロイド写真の可能性も、その意味で、電子映像からの即時性の遅れのなかにあると一言うことができる。
 このことは、写真をセックスとの関係で考えるとき明確になる。写真とセックスとのあいだには深い関係があるが、写真とセックスは、全く逆向きの時間性をもっている。写真は限りなく即時性へ向かって進み、セックスは遅延を追求してきた。写真装置が、カメラ・オブスキュラからインスタント写真へ、さらにはビデオ映像に向かうプロセスは、ひたすら時間を短縮し、瞬間性・同時性へ向かうプロセスである。それに対して、セックスが素朴な前戯から硝酸アミル一射精抑制剤一や筋肉弛緩剤へ向かうプロセスは、無暗問的な「生ける現在」へ向かうプロセスである。
 おそらく即時性への願望は、映像をカソード・レイ・チューブや液晶モジュールのスクリーンではなくて、脳に直接投射するテレパシックな技術にまで向かわせるだろう。写真の究極地平は、肉体なき脳髄、もっと正確には、全く量をもたない脳髄である。地方、無暗問性への願望は、性器が肉体全体の量にまで増大すること、肉体そのものが性器と化することを実現しようとする。永遠にオルガスムスの状態にある脳髄なき肉体がセックスの究極地平である。
 こう考えてくると、写真とセックスとは、たがいに相補的な関係にあることがわかる。写真はセックスに対してコンプレックスを感じ、セックスは写真を強迫観念にしているのだ。しかし、二〇世紀の文明史は、写真がセックスを圧倒する歴史だった。セクシュアリティやエロティシズポは、肉体よりも映像のなかにより強度に集約されていった。肉体は脳髄に支配され、性器は映像=情報になった。性交は他者とのインターコースではなく、情報化した肉体とのマスターベイションとなった。
 これは、二〇世紀を支配するテクノロジーが、結局は、遅延の技術ではなく、速度と瞬時性の技術であったからだった。硝酸アミルが、筋肉弛緩剤が、そしてLSDが遅延の技術だとしても、それは所詮、遅延を瞬時に実現させるための速度技術の一つにすぎなかった。
 すべての時間性は、いまや、無数の瞬間的な点の不連続つまりはデジタルな時間性になった。
 こうしたプロセスが日常化するきっかけを作ったのは、テーラー・システムを導入したヘンリー・フォードの自動車工場だったと言えるかもしれない。自動車製作をアセンブリー・ライン上の何百もの工程に分割するということは、自動車という物をデジタル情報に分割することを素朴な形で行うことだった。こうして物は、より一層「脳髄」に近づいていった。
 当時、こうしたアセンブリーニフィンの工場は労働者を「訓練されたゴリラ」にするという批判が提起された。この批判はチャップリンの『モダン・タイムス』にも引き継がれている。しかし、実際には労働者はそれとは逆の道を歩んだ。アセンブリー・ラインは、高度な消費社会の成長とセットになっており、労働者は、肉体をもてあます代わり、セックスには最高度に専念できるといった古代的な余暇を手に入れたのではなくて、消費という精神=情報労働を手に入れることになった。フォードの自動車工場は、一九一四年にすでに、八時間労働と、他社より高い給料の雇用制度を導入し、労働者は、工場では相当程度情報化された「肉体労働」に専念し、工場の外では、大量生産や画一化されたレジャー1つまりは素朴に情報化された物  を消費することによって情報労働に従事した。すでに消費社会の出発点において、肉体が脳髄を離れて過激なまでに怠惰になる余地はほとんどなくなりっっあったのである。
 電子テクノロジーは、遅延の時間性と脳髄なき肉体を最終的に終わらせる。すべてが瞬間的な即時性になり、肉体は脳髄化する。時間は電子情報の時間、つまりは光速度をモデルとして再構成され、肉体と精神は、電子情報化されたシステム、つまりはコンピューターに統合される。
 それゆえ、いまや、時間性と肉体性は、コンピューター化された電子システムとの関係で考えるしかない。しかし、このことは、全面的に電子化され、遅延の時間性とセクシュアルな肉体性が完全に喪失されたかにみえる状況のただなかに、奇妙なしかたでそれらがふたたび出現する可能性があるということでもある。たとえば、ポラロイド・カメラは、その最も進んだ機種においても、即時性という点では、ビデオコーダーにはかなわない。しかし、撮影からフィルムの定着までの一分問という遅延が、このカメラにある種の肉体性すなわち電子肉体性を付与するのである。
 このことは、今日のテレビ映像の世界にどっぷりっかった子供たちがなぜ手づくりの食事よりも、インスタント食品にひかれることが多いのかを説明する。電子情報化社会の申し子たちにとって、インスタント食品はもはやインスタントではない。電子映像(としての食品)というはるかにインスタントなものがある以上、インスタント食品はそれだけ遅れており、その分だけそれはある種の肉体性を獲得しているわけである。



アンドロイドの作り方

 技術は、いつの時代でも一定の水準に達するとアンドロイド創造の願望をあからさまに示すようだ。
 ヴィデォニァクノロジーは、最初、与えられた被写体を模写するメディアとしての機能に甘んじていたが、いまや、アンドロイドを創造しようとする姿勢をはっきりと見せ始めた。
 たとえばコンピューター・グラフィクスは、もはや何かを模写するのではなく、ヴィデオ映像を自律した"存在者"としてそこに"置く"ところまで達しようとしている。
 こうしたアンドロイド願望は、ヴィデオだけでなく、電子テクノロジー一般の傾向であり、それは映画や広告のなかでも見出せる。
 ズビクニェフ・リブチソスキーのヴィデオ『ステップス』をこの点から考えてみるのはおもしろい。これは、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のオデッサ階段の場面にヴィデオ映像を合成したもので、銃をかまえる赤軍の兵士に混じってアメリカ人観光客がハンバーガーを食べているといったシニカルな映像が頻出する。
 リブチンスキーの作品でおもしろいのは、古い映像と新しい映像とがモンタージュされたことではなくて、この操作によって、それまで被写体/カメラの関係であった映像が電子的なアンドロイド関係になったことだ。
 合成するためにリブチソスキーが撮ったヴィデォ映像にも被写体はあるわけだが、リブチンスキーは、被写体の背景をヴィデオ的な操作で消してしまい、被写体を文字通り宙づりにする。
 こうなると、この被写体1−映像は、他の映像のなかの被写体1−映像とまるで舞台の共演者のようにたわむれ、このアンドロイド的被写体をあてがわれた映像の被写体1−映像の方も、アンドロイド化しはじめるのである。
 ところで、アンドロイド問題を早くから自分のはっきりとした主題にしてきたのはローリー・アンダーソンである。彼女は、以前から自分の身体的要素と電子テクノロジーとの関係に深い関心をもっており、彼女のパフォーマンスは、磁気テープを張った弓で録音ヘッドのついた「バィォリソ」を弾くときにも、口のなかにマイクを仕込むときにも、またヴォィス・モジュレーターで自分の声を男の声に変調するときにも、すべてこの関係への関心のうえを動いていたといっても過言ではない。『What You Mean We ?』でローリーは、チャールズという彼女自身が作ったアンドロイドを登場させる。これは、アンドロイドと言っても、彼女が変装して撮ったヴィデオと、それと彼女とが対話しているように作ったヴィデオとを合成したもので、アンドロイドとしては最も単純な部類に属する。
 ローリーは、このチャールズを「他我(もう一人の自分一」一アルダー・エゴ)と呼ぶ。わたしがおもしろいと思ったのは、ローリーにとって、アンドロイド創造の願望が「アルダー・エゴ」を実体化したいという欲望にもとづいていることだった。
 チャーリーとローリーとのやりとりには、夫婦か恋人同士のような趣がないでもなかったが、ローリーはつねにチャーリーをリードしており、多くの場合彼を彼女に従属させている感じがした。つまりチャーリーは、ローリーのペットか従僕のイメージを与えるのである。
 アンドロイドを「アルダー・エゴ」とみなすこの考え方は、"表象主義"的である。これは、どこかに「心・身」二元論を隠し持っており、その分裂の観念的埋め合わせとして身体を電子的なもので代替できる/したいという願望に支配されている。
 しかし、そうした代替が可能であるかどうかは別にして、もしそれが実現される場合には.アンドロイドはペット/従僕になるか人問の支配者になるしかない。
 電子テクノロジーによってアンドロイドを創造しようとする試みのつまらなさは、結局は.他者と自己、身体的なものと電子的なものとの〃同一性"を前提し、他者性とコミュニケーションをささえている"差異"への認識が欠如しているところにある。
 ワルター・ベンヤミン以来、テクノロジーの複製的性格にっいてはくりかえし論じられてきた。しかしながら、複製とは必ずしも「同じもの」を生みだすことではない。活字の文字や缶詰のような「同じもの」を作る複製技術は最も単純な複製技術であって、より進んだ複製技術はそれぞれに異なるものを生み出すのである。
 電子テクノロジーがいま直面している最大の課題の一つは、それがどこまでファジーで一回的な現象を引き起こせるかということである。
 これは、「アルダー・エゴ」ではなく"他者"としてのアンドロイドをいかに創造するかという問題でもある。
 その方法の一つは、アンドロイドをパフォームすることである。注意しなければならないのは、アンドロイドを作ることあるいはアンドロイドにさせられることと、アンドロイドをバフォームすることとは、決して同じことではないということである。というのも、パフォーマンスは、それが身体の脱"エゴ〃的な脱同一性の次元に関わっているかぎり、反復のなかに差異を挿入し続けるからである。



パフォーマンスが始まる《スペース》

 演劇が〈スペース〉の演劇であるということは自明のことであるように思えるが、実際にそのことが実感されるようになったのは、一九五〇年代になってパフォーマンス一ハプニング一がさまざまな実験を行なってからだった。
 あえて形式的な言い方をすれば、近代演劇は〈スペース〉を構築しようとしてきた。〈スペース〉が問題であるにせよ、それは、あらかじめプログラムされた観念によって構築されており、それは、"主体"としての〈スペース〉ではなく、役者やスタッフたちの"自己表出"を詰め込むための"容器"だった。〃主体"は役者やスタッフ、そして観客の側にあって、〈スペース〉は決して"主体"ではないと考えられた。近代における"劇場"とは、まさにそのような意味での"容器"以外の何ものでもなかったと言うことができる。
 しかし、どんなに"容器"的な劇場であれ、〈スペース〉の強制力や影響から無縁でいることはできない。〈スペース〉が、厳密な演出によってその機能のしかたをすみずみまで計算しつくされたとしても、劇場をとりまく環境  たとえば都市  の影響を完全に予測することはできない。それは、映画の劇場のように劇場をつねに同一の条件に置けそうな場合でも同じことだ。かつて、アメリカ合衆国でワルター・ヒルの『ウォリアース』が上映されたときに各地で起こった乱闘さわぎ一死者が何人も出た一は、誰にも予想できないものだった。同じ映画が都市によって全く異る反応をひきおこすのだ。
 この場合、劇場に「都市の論理」をもち込むのは観客だが、〈スペース〉の不確定要因は観客だけではない。どんなにその身体をトレーニングした俳優であれ、自分の身体がその演技のなかで予想通りに"動く"ことはまずないのだ。第一、そんな予定調和的なアクションは演技ではありえない。そもそも、身体は偶然性の〈スペース〉である。ここでは、すべてのプログラムがはぐらかされ、裏切られる。演技は、そうした性格に抵抗するか、順応するか、あるいはそれを思いっきり解放するかしかないだろう。その際パフォーマンスは、こうした偶然性のプロセスを示すことに徹しようとする。従って、演劇とパフォーマンスのちがいは戦略のちがい、身体のポリティクスの相異にすぎないのである。
 が、それにもかかわらず演劇  とりわけ近代演劇  は、役者や観客の身体一偶然性の場一を解放するよりも、むしろそれを拘束し、コントロールしようとしてきた。役者が"ノリ"のある演技をすること、観客が"感動"すること、芝居が"盛り上がる"こと一これらは今日でも演劇の価値規準になっている。しかし、そうした"ノリ"や"感動"や"盛り上がり"は、〈スペース〉の錯覚や忘却にもとづいているのではないか?
 かつてブレヒトは、「もはや観客を酔わせたり、さまざまなイリュージョンを授けたり、この世界を忘れさせたり、自分の運命と妥協させたりしようとはしなくなる」ような「非アリストテレス的劇場」を構想した。そこから、現代演劇の〃長征"か始まった。
 だが、その一つの到着点は、自然発生性への素朴な信仰だったように思える。"アングラ"は、身体の自然発生性や偶然性を思いっきり解放しようとはした。しかし、劇場は依然として"容器〃にとどまった。この容器のなかば、いままでになく沸騰したが、その反面、自然発生性や偶然性一つまりは解放の力としての暴力や野性の力一をすっぽりと包み込んでしまう劇場の"容器"的機能は高まって行った。
 劇場は、一つの合法的な「野性生問」となり、やがては、すべての自然発生性の突出を防御する管理装置の性格をおびて行った。劇場には、支配システムや制度のなかでは許されない"自由"があったが、それは体制のなかの不自由を埋め合わせるものになって行った。劇場のなかで役者や観客はつかのまの"解放"を味わうが、そこから一旦外に出ると、それを忘れることを要求された。
 このことは、六〇年代のパフォーマンス・アートの場合にも同じである。ある点で、ハプニングは、政治システムや支配的な体制のなかでハプニングを起こすことができない不自由さの代償行為でもあった。しかし、それにもかかわらず、六〇年代流のハプニングが一つの管理装置になるよりも、むしろ「自然消滅」の一途をたどったのは、それが一幸か不幸か一劇場のような固定した〈スペース〉をもちえなかったからだろう。(その意味では、パフォーマンス.アートの"長征"は今日でも続いており、〈スペース〉の条件が変わると、急にパフォーマンスが活気づいたりする。)
 ただし、劇場があるということと、それを固定した〈スペース〉にしてしまうこととは決して同じではない。劇場を演劇の"容器"としてではなく、住居、集合、出会い、闘争、通過、つまりはわれわれの身体的アクションの自由な〈スペース〉とすることは可能である。
 今日のテクノロジーとともに進行している事態を直視するならば、構築された〈スペース〉などというものはナンセンスである。電子テクノロジーは、ブロック化された場を解体し、それらを文字通りの〈スペース〉として相互に融合させてしまうからである。とはいえ、今日、こうしたテクノロジーを駆使して、劇場としての〈スペース〉の構築を強化しようとする傾向が顕著である。コンピューター化された舞台、ヴィデオ、モニターが役者の身体以上に雄弁であるかのようなポスト・アングラ演劇。そこには別の可能性があるとしても、その多くは、かつての自然発生性信仰の裏がえしとしてのプログラム信仰でしかないように見える。
 舞台にコンピューターを導入するのならば、それを劇場の外部のコンピューター回線に接続してしまうべきだ。ヴィデォ・モニターも、劇場の閉回路のなかだけでなく、テレビ放送や衛星通信の回路に接続して、脱劇場的な〈スペース〉を形成すべきだろう。そのとき、電子テクノロジーに誤って刻印されているプログラム化と操作可能性の神話の虚構が暴露されるだろう。〈スペース〉とは身体が創り出す場であり、また身体は〈スペース〉によって意味づけられる身体である。従って、諸々の場が、今日、電子テクノロジーの浸透によって定住性や土着性を失い、そしてそれらのネガとしての漂泊性や放浪性をも失っているのと同様に、今日の身体は、それがかつてもっていたアウラ的な"迫力"や持続的な"獲嚢さ"を持ちにくくなっているわけである。
 この変化は、極めて根底的な変化であるため、こうした身体に対して「機械的な身体」を対置してもこの状況を異化することはできない。メイエルホリドやブレヒトの時代にはすぐれた異化効果をもっていた「機械的な身体」も、いまでは自然な"美しさ"をたたえてしまうのだ。
 そのため、今日のパフォーマンスにとって身体問題は、究極的に〈電子的身体〉の問題に帰着する。電子的身体とは、電子的に構成された身体であり、それは機械的身体のようなギクシャクした"不完全さ"をもっていない。それは、"人問的"身体と何ら区別のつかない相似物であり、つまりはアンドロイド的身体なのだ。ちなみに、アンドロイドとロボットとの違いは、後者がつねに"不完全な"人問であるのに対して、前者はつねに"完全な"人問である点である。
 しかし、アンドロイドは、単に人問を模造するテクノロジーが発達したために可能になるのではなくて、人問自身が電子テクノロジーの諸性格の方に同化することによっても促進される。それは、テクノロジーの問題であると同時に社会問題でもあるのであり、人は以前よりもはるかに電子の言葉をしゃべり、電子の身ぶりを行うようになっている。身体的な反応の時間性は、ぐずぐずした持続性から瞬時に変化しうる点的な時間性にとってかわられようとしている。
 電子的身体は、映画のなかのアンドロイドのような一個の統一体としてよりも、現実にはもっと分化された形で出現する。人工知能をそなえたアンドロイドがまだ登場しないからといって、電子的身体はまだ存在しないとは言えないのであり、すでにテープレコーダーや留守番電話といった形で電子的身体の諸装置は存在するのである。電子的身体のわかりやすいイメージとしては、映画『二〇一〇年』でさまざまなところに幽霊のように出現するデーブ・ボーマン一『二〇〇一年宇宙の旅』で行方不明になった船長一の身体を思い浮かべるのがよいだろう。
 電子的身体の出現は、フリーク的な身体の有効性を終わらせる。パフォーマンスも演劇も、結局のところフリークの身体をモデルとして身体性を構築してきた。機械的身体にしたところで、それは機械やロボットの身振りでフリークを演じたものにすぎない。機械時代のフリークが、ロボットなのだ。しかし、電子自体においては、人問が人問に対してフリークであることはできなくなるので、もしパフォーマンスや演劇がフリーク的身体に執着するとすれば、パフォーマンスと観客のすべての"人問的"身体が何らかの電子的身体に対してフリークであるしかなくなる。従ってそれは、電子システムを"超越者"とした電子的儀礼の形態をおびることになるだろう。それはおもしろい可能性ではある。
 しかしながら、電子的身体の出現は、そうした身体のフリーク化という伝統そのものを終焉させる可能性をあわせもっている。そこから何が出てくるかは、この事態が始まったぼかりなのでわからない。が、わからないからこそパフォーマンスのチャレンジする領野があるのであり、パフォーマンスにとってはこの事態の意味が荘漠としていれぼいるほど望ましいと言うことができる。
 混沌としての〈スペース〉、儀礼のための〈スペース〉、そしてフリーク的な身体と"聖なる〃身体  これを無効にするものとしての電子的身体のたえざる確認。すでに肉化している電子的身体の発見。器官という観点からながめることのできない器官なき電子的身体の再知覚。概念的に言えることは大してない。レッツ・バフォーム!




3 過激なコミニケーション



資本主義のエアポケットで過激なことが花開く

 情報という概念が転機に達している。情報は、もはや伝達され、流されるものであることにとどまらなくなりつつある。情報はいたるところに遍在することを求めている。それは、エレクトロニクスのテクノロジーの出現によって情報が、もはや活字情報のようにパッケージされ、それが稼動されるあいだおとなしく息をひそめて活動を休止しているようなものではなくなったからである。
 すでに活字化された情報でも、情報はたえず伝達やパッケージ化に反抗し続けてきた。たとえば、どんなに厳密に設定された「送り手」と「受け手」とのあいだだけで伝達されるように規制・操作された活字情報でも、それが一旦「受け手」によって読まれると、それは「受け手」とその周辺の情報環境に何らかの影響を及ぼさないわけにはいかない。さもなければ、それは決して読まれなかったのであって、読まれた以上、その情報は、その規制や操作を越えて遍在化の自己運動を起こしはじめる。まして、「受け手」が、読んだことを誰かに語るならば、それは、もはや最初に設定されたフォルム(インワォルム=情報=形式)を越えてしまう。
 そのため、情報概念は、いまになってはじめて撞着を起こすのではなく、もともと撞着を起こしていたのであり、だからこそ「情報操作」というものが存在してきたのだと考えるべきだろう。ただ、今日の問題は、そうした撞着が、これまで以上に極端な形で出てきたということなのだ。
 電子メディアは、原理的には、メディア・デモクラシーを可能にする。電子情報は、一旦それが生産一表現一されると、いたるところに遍在し、誰でもが使用できる状態を作り出しうる。これは権力(それは、単に国家や大組織にとどまるのではなく、すべてを中心化・集約化する力の総体である一と階級の廃絶を招来するだろう。従って、現在の権力にとっては、このような情報は、何らかの方法で規制されなければならないということになる。情報は誰にとっても遍在可能であるにもかかわらず、ある特定の人々にしか使えないようにすること、流通の経路を限定すること−これが「情報操作」の基本である。
 今日、地球のまわりには、さまざまな機能をもった五、○○○個近い人工衛星が打ち上げられており、それらから地上に向かっておびただしい種類の電子情報が放射されている。それらの一部は、別に専門家ではなくても、市販の装置を使って傍受することができる。しかし、その多くは複雑にコード化されたシステムをそなえ、簡単には傍受できないようになっている。つまり、情報は遍在していても、それは一般の人々に対してはシールドされているのだ。
 しかし、電子テクノロジーは近代テクノロジーを自己否定する性格があり、このテクノロジーを用いるかぎり、どんなに規制しようとしても、どこかでその規制を越えて遍在化H現実化してしまう。実際、今日では、複雑な暗号装置によってプロテクトされているはずのスパイ衛星の情報ですら、傍受される可能性がある。そこで、別のレベルからの情報規制が強化される。
 イデオロギーの規制のためではなくて、極秘の技術情報が海外に漏れることを禁ずるためにスパイ防止法を制定しようとする動きが日本でもあるが、アメリカでは、すでに一九八四年一〇月に、ジャーナリストのサミエル・ローリング・モリソンが、スパイ活動法(一九一七年制定一を適用され、逮捕されている。アメリカのスパイ衛星が撮った「建造中のソ連の航空母艦の写真」を秘かに入手し、それをイギリスの軍事専門誌『ジェーンズ・デフェンス・ウィークリー』に売ったというのが、その逮捕理由である。モリソンの写真は、衛星から直接傍受したものではないらしいが、今後はそのような行為に対してスパイ活動法が適用されて処罰されることもありえるだろう。
 日本でも、たとえば静止気象衛星"ひまわり2号"の電波を傍受することは技術的には大して難しくない。しかし、それを傍受するには気象庁長官宛に「届け出」することが義務づけられている。気象庁が受信状態を知るための調査資料にするというのが表向きの理由だが.それだけではないこと佳言うまでもない。
 電波法第五九条によると、「何人も法律に別段の定がある場合を除く外、特定の相手方に対して行われる無線通信一公衆電気通信法第五条第一項の通信たるものを除く。以下第百九条においても同じ一を傍受してその存在若くは内容を漏らし、又はこれを窃用してはならない」とされている。これに違反した場合には、「一年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する」一策百九条一とある。つまり、電子情報を誰でもが使用できる状態で遍在化させることは、そのテクノロジカルな可能性に反して、法律で規制されているのである。
 この規制は、メディア手段の側から見ると、情報の流通過程の規制であって、生産過程の規制ではない。ただし、それは、権力の寛容さのためではなくて、情報の生産過程を規制することが難しいからである。情報の第一次的な生産過程は身体であり、生産過程を徹底的に規制するにはこの身体を拘束しなければならない。それは、実際に、強圧的なやり方と教化的なやり方の両方で行なわれている。法的規制は前者であり、学校教育や宣伝は後者である.
 しかし、物品や地理的な土地よりも情報や情報環境の独占と管理が権力であるような時代には、情報生産の過程をコントロールしすぎると、権力自体が地盤を失うおそれがある。権力の地盤が物から情報へ移行したのは、情報を物よりも容易に、そして大規模に独占し管理できるテクノロジーが発達したからであり、そうしたテクノロジーとして電子テクノロジーが現在その最先端にあるわけである。
 電子情報は、遍在しうるのだから、それを独占できるならば、文字通り全体的な支配権力が成立するはずである。しかし、そのためには、情報を過剰なまでに生産し、その遍在化つまりは流通と供給の回路を規制するしかない。情報そのものではなくて、情報環境を規制・操作するのである。
 しかし、情報環境は、純粋に情報の流通回路からだけ成り立っているのではなく、そこで新たな情報が創られる場でもあるから、情報環境の完壁な管理などできるわけはない。そして、情報生産とその再生産との場の重層的な関係は、ますます複雑になるばかりであり、ここでも従来の意味での情報管理は成り立たなくなってきている。
 情報そのものを管理するには、情報生産の過程をコントロールすればよい。実際に、戦前の天皇制教育や思想管理のように、考えること一最も第一次的な情報生産の一つ一すら禁じようとする情報管理が存在した。しかし、それは、システムの自己活性化の必要性からも、またテクノロジーの発展の逆説の結果によっても、不可能になってきた。スパイにもれるからといって国家は科学研究をやめるわけにはいかない。マスメディアも、形にはまった大量生産的情報を反復生産していたのでは、誰もそれに関心をもたなくなってしまう。また、タイプライター、ワープロ、コピー機等の普及によって本や雑誌を作ることは誰にでもできるようになり、生産レベルでは権力が介入できない部分が広がった。性器を露出した映像や天皇を露骨に非難した映像を流通させることは権力の妨害を受けるが、それらを作ることだけならぼ、ヴィデオコーダーやコピー機の普及によって自由性を獲得した。
 ある制限内では、こうした情報を自由に流通させる回路を組織することも可能であり、実際に、"ニュースレター〃式のプリント、ワープロとコピー機による小冊子、自主制作のヴイデオテープ、サウンド・カセット、ソノ・シート等が商業ルートとは別の回路で流されている。つまり比較的小さな範囲では、情報の規制が効力を失っているのである。
 ただ、これらの情報は、パッケージ化され、物品の形態をとっているので、外部からの規制を一切受けないようにするには、手渡しの流通回路を越えることはできない。郵便や宅配の物品流通回路は、この種の情報にとってまだまだ大いに利用可能性が残っているが、既存システムに属する流通回路に比して経費的に割高だという点で、すでに管理を受けていると言わなければならない。従って、オルタナティブな情報がこのような回路を大いに利用していった場合には、郵便料金や宅配料金の値上げということでその情報環境が規制される可能性が強い。
 この点では、ミニFMの自由ラジオは、既存のいかなる物品流通回路も用いないという点で、そうした規制からまぬがれている。ある限られたエリアに電子情報を遍在化させてしまうことが、システムの規制下の回路を使わずに可能である。このラジオ放送は、たしかに一般のラジオ放送と同じFM帯(76−90M肋)を使うけれども、それを使うことはフリー一自由・無料一である。周波数帯一スペクトルゥム一とはそれ自体としてはフリー・スペースであって、誰かが敷設した流通路ではない。
 しかしながら、ミニFMの相対的に自由な情報環境は、決してテクノロジーの浸透の逆説や資本の情報化によって生じたのではない点は注目すべきである。ミニFMが可能なのは、単に、まだここまで管理が進んでいなかったという管理社会には稀な"前近代"的条件のためにすぎないのである。おそらく、これは、天皇制と無関係ではないだろう。資本主義の延命のためには、あらゆるものを情報としてとらえなおすことが要求されている状況下で、情報化できない部分一性や天皇一を残しておくという"遅れ"がこのような"前近代性"を可能にしてもいるからである。
 先進資本主義国では、この十年間に周波数帯の権力闘争が進んだ。それは、一見、帝国主義時代の領土分割とそれに対抗すると民族解放闘争とが同時に起こったかのようであった。その結果、極端な例として、イタリアでは、周波数帯の多くを市民勢力が所有した。すなわち、FM帯は、一九七六年にそれが万人に解放されて以来、一挙に出現した弱小のラジオ局が自分たちの周波数をわれ先に確保した。もはや、そこには全く"空地"はない。送信出力の弱い放送局は、大企業がはるかに大きな予算を投じて運営している放送局の強い電波におびやかされているが、依然、自分たちのスペースを保持している。
 これに対して、アメリカでは、市民ではなく、民間企業が周波数を独占した。市民の利害を代表することをたてまえとするパブリック・ブロードキャスティングの百倍ぐらいの数の民間放送が周波数を分割独占した。ニューヨーク市のような大都市の場合、もはや周波数の"空地"はない。そのため、日本のようにミニFMの自由ラジオを行なう余地はない。周波数が強い電波で一たいていは二四時間一埋められているので、そこで"微弱電波"を出しても打ち消されてしまう。
 イタリアの場合、市民が自主管理している放送局がかなりたくさんあるから、FMの電子情報環境は、まだ管理から自由である側面を相当残していると言える。これに対して、アメリカでは、大企業がそれを独占してしまっているので、大企業の利害にみあう範囲でしかその情報環境の自由性はない。アメリカの権力システムは、国家よりも企業が全面に出て機能するのを特徴としているが、FM周波数帯をほとんど全部民間放送に分割的に独占させてしまい、市民や個々人が直接アクセスすることを制御するというやり方は、このシステムに見合ったものであろう。
 その点で日本は、まだ"空地"が多い(一都市にFM局はせいぜい二局一ので、"微弱電波"を用いた放送で市民や個々人が空中波帯という最も電子的な情報環境を自主管理することができるのである。日本の場合も、市民が周波数帯を国家や民間の大組織にまかせずに市民自身の真に公共的(パブリック一なスペースとして自主管理していくのでなげれぱ、いずれはアメリカのようなやり方でこの"空地"が埋められ、そこから一般市民や個人が締め出されることになるだろう。しかし、当面はまだ、このはからずも解放されているフリー.スペース一自由で無料の解放空間一を使って、システムを単に存続させるためのものではない情報生産と情報環境を割れるだろう。
 ただし、その意味では、第三世界の方が、皮肉にも、情報環境を最もラディカルに使える可能性をもつ。というのは、電子的な情報環境の管理は、そこに供給される情報そのものよりも、むしろ環境や情報の回路の方をあらかじめ独占しておくというやり方で行なわれるため、そうした独占が1たとえばアメリカのようには  進まない国々では、逆説的に自由な状況が存在するからである。
 ポストンで出ている『ワールド・ペイパー』一一九八七年三月号一は、「造反テクノロジー」という特集を組んでいるが、そのなかで紹介されている刺激的なメディア運動はすべて第三世界のものである。
 チリのサンディエゴで『HOY』という雑誌の編集をしているヘルマン・、・ニフスは、現在チリで急速に広がりつつあるヴィデオ・カセット運動について報告している。
 ミラスによると、チリのテレビ・ニュースのうち、八一パーセントが政府の広報であり、反対派の活動についてのニュースはわずかニバーセントにすぎないという。そのため、チリにある三つの放送局が毎晩九時半に始める一時間のニュース番組では、チリがいまいかに"平和"であるかが報道される。
 これは、むろん事実に反するわけで、より客観的な報道を求める大衆の欲求は、テレビ放送よりもヴィデォ・カセットに現実との接点を見出す方向を強めた。その発端は、コスターガブラスのアメリカ映画『ミッシング』一一九八二年一だった。この映画は、チリでは公開禁止になったが、人々はそのヴィデオ・カセットを次々にコピーして回したため、ヴィデオを通じて広まってしまった。
 ヴィデォ・カセットでニュースやルポルタージュを流すという方法は、ここからヒントを得たものである。現在、チリにはTELEAMALISISと、VITEL NOTICIASという二大カセット・ニュースがあり、多くの予約視聴者を獲得している。『テレァナリシス』は、ピノチェットのクーデター後発禁処置を受けた雑誌『アナリシス』の編集方針を引きづぐものであり、『ヴィテル・ノティキァス』は、ピノチェット政権の抑圧とそれへの闘いをリポートし、一九八五年十月三〇日の女性たちによる平和行進デモ一これは厳しい弾圧が加えられた)のヴィデオは、西ドイツ、フランス、ベルギー等で賞を受けた。
 どちらも、毎月一五日と三〇日に予約者に新しいヴィデオを送り、予約者は古いヴィデオを返却するシステムになっており、年間予約視聴料は、米ドルで六〇ドルである。
 チリには、ヴィデオコーダーは一九八七年の時点でまだ一二万台程度しか普及していないが、人々はこれらのヴィデオを文化センターや組合事務所などで見、毎回四〇万の人々一人口の約三・五パーセント一がこのヴィデオ・ニュースに接しているという。
 これは、放送と出版の不自由から生じたネットワークであるが、それはすでにチリの"破壊活動"的メディアとして次第にしたたかな根を張りつつあるのである。
 ブラジルのリオ・デ・ジャネイロのカルロス・カスティロは、リオ・デ・ジャネイロで目下人気を呼んでいる海賊テレビについて報告している。
 ブラジルのテレビは、TV GLOBOの独占下にあり、その内容は退屈である。海賊テレビはこうした背景から生まれた。現在ブラジルで最も有名な海賊テレビ局は、リオのTV−ENTO LEVOUとサンパウロのTV CUBOの二つである。『ティヴエント・レヴォウ』は、文化人類学者、ヴィデオ・プロデューサー、俳優、デサイナー、写真家、建築家、TVダバーといった「ヴィデオと電波のゲリラ」たちによって運営されており、放送の技術水準は低いが、たとえば『TVグロボ』の会長のテレビ出演の際にその声だけを別の声とすりかえてしまう一これを「TVダブ」と言う。スイスの海賊テレビは、サッチャーが来たとき、そのテレビ演説をそっくりすりかえた一といったゲリラ活動で人気を呼んでいる。『TVクボ』は、もっと政治的にラディカルな局であり、この局は、究極的に「電波の農地改革」を目ざしている。すなわち、コミュニティとマイノリティを重視した小さな局を全国につくり、その相互的なネットワークを形成し、権力への不服従を浸透させることである。
 そのため、『TVクボ』は、体制的な『TVクロポ』の音声に突然、「緊急のお知らせです家を出ないで下さい。第三チャンネルにお合わせ下さい」といったスポットを入れる人これも「TVダブ」一ことも辞さない。番組では、ポータブル・カメラを多用した街頭インタヴユーでバンバン街の声と映像をリアル・タイムで流す。
 ブラジルでこうした非合法のテレビがさかんなのは、一つには、ブラジルでは不法電波の探知車が全国で六台しかないという権力の"ずさんさ"にもよるが、政界の内部に彼らの「農地改革」を支持する議一見がいるという権力の多様さに負うところも大きい。
 それにしても、日本の自由ラジオは、個別的には非常におもしろいことをやっているのに、全体としてはほとんど政治的な力をもたず、また既存のラジオにもテレビにもみながうんざりしているのに、海賊局が全く出現しないのはなぜなのだろう?



日本のラジオが電子広場になったとき

 いまの現状からすると、フリーなメディアとしてはテレビよりもラジオの方がはるかに可能性があるという気がする。その機能を一〇〇パーセント発揮できるなら、テレビの方がおもしろいはずなのだが、日本の現状ではテレビがアメリカのパブリック・ブロードキャスティング並みのしなやかさをもつことは当分ありえないだろう。
 電子テクノロジーが発達してきて明らかになったことは、電子メディア――とりわけ電子映像のメディア――はなるべく構成を加えない方がよいということだ。テレビ・カメラは、映画のキャメラ――映画の人はこう英語風に表記する――とはちがって、被写体をカメラに合わせるのではなく、逆に、被写体にカメラを合わせるときに最もすぐれた表現機能を発揮する。
 だから、カメラはずっと0Nのままにしておいて、そこに被写体が入ってくるのがいいわけだが、現状では映画の場合と同じように、ディレクターのキューが出てから出演者がしゃべりはじめるのである。これでは、ヴィデオ・カメラのラディカルな表現機能を五〇パーセント以上殺してしまう。
 ラジオの場合も、その昔「パック・イン・ミュージック」や「オールナイト・ニッポン」がおもしろかったときには、ラジオが「もう一つの別の広場」つまりは電子広場になった。イタリアのように、FM放送帯の全部が電子広場化してしまうということは無理だとしても時間をギチギチ区切らないで、飛びこんで来たニュース、思い付きのおしゃべりをバンバン流すことをもっと過激にやれぼラジオはおもしろくなるのだ。
 日本の場合、そういう広場化が起こりにくいのは、スポンサーや管理部門が目先のことしか考えていないからである。てんでメディアの機能を知らないのである。メディアの効果は視聴率なんかではもはや測れないのに、それがわからないのだ。
 この点に関しては、わたし自身大変おもしろい経験をしたことがある。以前、わたしはFM東京系の「FMフレッシュウエーブ」という深夜番組にたびたび出演して、竹田賢一、平井玄、山下美津子らと勝手なおしゃべりをした。それは、日本のラジオの平均的な現状からすると信じられないほど自由な番組で、わたしは仲間内でこの番組を「FM東京の自由ラジオ」と呼んでいた。「FMフレッシュウェーブ」が始まったのは一九八三年一〇月で、それは一九八五年の四月まで続いた。わたしが関わるようになったのは一九八三年の末からだったが、毎週火曜の午前二時から三時までのこの番組は、インディーズ・コーナーとミニFMコーナーとに分かれ徹底してインディペンデントなマイナー・メディアの紹介を行なった。
 最初、この番組の製作者の横田義彰氏から出演依頼の電話をもらったとき、出演を0Kしてから「ヤバイ」という気をいだいた。というのは、当時、日本では、ミニFMの自由ラジオ・ブームが起きており、それに深く関わる者の一人としてわたしは、自由ラジオを既存のラジオとは全く別のところに位置づけていたので、そんなことをやっているわたしにFM東京がアプローチしてくるのは、"とりこみ"のこんたんがあってのことかもしれない(?!)などと思ったからである。NHKやFM東京が自由ラジオのことをありのまま紹介するなどということは土台無理な話だと思ったわけである。
 ところがそれは全然ちがっていた。この番組でわたしは、自由ラジオの理念や現状を大いにしゃべらせてもらったし、ヨーロッパやアメリカでとってきた自由ラジオやコミュニテイ・ラジオのテープ――そのなかにはイタリアの獄中者たちが作った番組のテープもあった――を思う存分かけ、ときには、録音――大抵、深夜に行なわれた――まえにおしゃべりをしていた友人たちをスタジオに引き連れて行って、マイク慣れした人たちとは一味ちがうメディア談義をやったりもした。スタジオは、FM東京のキレイなスタジオではなく、青山にある横田氏の現音舎の狭いスタジオだったが、ぽぽ毎月一度はこのスタジオで自由ラジオ以上に自由なおしゃべりを楽しんだのだった。
 はじめは全然わからなかったのだが、「FMフレッシュウェーブ」がこれほど“自由”であることができたのは、この番組がノー・スポンサー番組であったからだった。午前一時から二時までと、午前三時から四時まではスポンサーが付いていたのだが、丁度この時間がスッポリ空いていた。日本の民間放送では、その内容はスポンサー次第だと言っても過言ではない。その伝統が強固なので、スポンサーの付いている番組は、たとえスポンサーが口出ししない場合でも、制作側が自己規制をしてしまい、結局、あたりさわりのないものになってしまうことが多い。
 その点「FMフレッシュウェーブ」はラッキーだった。局としては、この時間を空けておくわけには行かないので、予算を切り詰めた外注番組で埋めようとしたのだろう。横田義彰氏はそれを実に創造的に活用したわけである。わたしは、横田氏と会うまで、既存の放送界に自由ラジオ的な精神の持主がいるということに考えが及ばなかった。
 だんだんわかったのだが、日本のような一見どうしようもなく硬直した放送の世界にも、自分の担当する短い番組で思いきり自由なことをやろうとしている人たちがたくさんいるのであり、条件さえ与えられれば日本のラジオやテレビをアメリカやオーストラリア(プロフェッショナルなラジオがいま一番おもしろいのはオーストラリアのラジオかもしれない)以上のものにできるのにとくやしがっている人がいくらもいるのである。「FMフレッシュウェーブ」は、生放送ではなく、録音番組だったが、横田氏は、ドラッグの話だけはひかえてほしいと言った以外は、一切内容の規制をしなかったし、内容規制のためにテープを編集することはなかった。この番組でしゃべっている自分の声をあとで聴いてみると、自分でも信じられないくらい楽しそうにしゃべっている。それは、わたしにとって原稿を書くよりもはるかに解放される体験だった。
 その解放感はリスナーにも通じたようで、ときおり、わたしは未知の人から熱い支持の便りをもらった。講演をしに行ったときなどに、この番組を聴いたという人が話しかけてきて、「おもしろいけど、あんな番組がFM東京でよくやれますねえ」と言われることも何度かあった。やれるんです、局の人や製作者がその気になれば。「FMフレッシュウェーブ」で過激な体験をしてしまったわたしにとっては、いまのラジオ番組がちょっとやそっと変わるくらいでは決して驚かないだろう。あの番組の電子広場的な自由さを録音ではなく、ライブで実現し、誰でもが少なくとも電話を通じて自由に番組に参加できるようなニュー「FMフレッシュウェーブ」が誕生するまで、ラジオヘのわたしの思いはまだ当分、日本の外に向いてしまう。



8ミリ映画が新しくなるとき

 パソコンに刺激されてゲーム・ブックが出来たように、またテレビの普及によってとり残されたラジオが逆にラディカルになることがあるように、新しいメディアに触発されて旧メディアが活気づくことがある。メディアの逆説である。
 活字メディアだけでなく、映像メディアの場合にも、最近そうした逆説現象が目立つ。一時はテレビやヴィデオに追いつめられた映画が逆に活気づいている。それは、35ミリの商業映画よりも、16ミリや8ミリの映画において著しい。
 8ミリ映画なんて、8ミリヴィデオが出来た時代にはもう話にならないと思っている人もいるだろう。たしかに経費も、ヴィデオの方がはるかに安い。普通の8ミリ・カメラで一回に撮れるフィルムの時間はたったの三分だ。ヴィデオ・コーダーならその四十倍も連続撮影ができる。ところがこの"時代遅れ"の映像機械がいま映像マニアのあいだでは逆におもしろがられている。
 先日わたしは、もう十年近くも使わずに放っておいた8ミリ・カメラをひっぱり出して三分間映画を作ってみた。ドラマや記録を撮ることもできるが、それはVTRの方が楽だ。8ミリ・カメラでしかできないことをやれないものか、と思案したあげく、8ミリ・カメラで駒撮り撮影をすることにした。花の生長を毎日一騎ずつ撮って、その三〇日分を一度に映すと、瞬時に花が咲くように見えるという例のテクニックである。
 わたしはこれを、街の表情をとらえるために使ってみた。三脚に8ミリ.カメラを固定し.数秒に一枚ずつシャッターを切る。本当は一時間に一枚ずつ振れぼおもしろいのだが、フィルムを使い切るのに何日もかかってしまうのでそれはあきらめた。
 現像したフィルムを映してみておもしろかった。ヴィデオでも映画でもない映像がそこに現われた。映画とスライドの中問存在といったおもむきもある。ふと思いつき、スライド映写機の映像をこの8ミリの画面に重ねてみた。スライド・フィルムはニューヨークの街頭で撮ったものだ。奇妙な画面が出来上がった。この映像をいっしょに見ていた友人がやおら立ち上がってスライド映写機をかかえ、画面を左右上下に動かしはじめた。わたしも、一少し重かったが一8ミリ映写機をだきかかえてゆらせてみた。パフォーマンスである。
 こんなことをやっていて、あらためて思ったことは、ストップモーションこそがフィルムによる映像の一番おもしろいところではないかということだった。ヴィデオにもストップモーションはあるが、現在の技術特性からいくと、ヴィデオは連続撮影に向いている。映像のスピードを自在に−しかも技術的に簡単に  変えられるのは、フィルムの特権だ。
 このことは、当然、スチール写真についても言える。それどころか、スチール写真の最もおもしろい部分は、連続した時間を映像によってたち切るところにある。ヴィデオは既存の時間に順応するが、スチール写真は、最初から既存の時間とは別の時間を作ることを要求されている。
 メディア技術が行くところまで行って、古いメディアが新しいメディアと同じレベルに復権する。そんな時代が始まった。



自由ラジオとは何であったか

 かつて、「自由ラジオ」という言葉が「ミニFM」と対比的に使われることがあった。三年以上もまえのことである。当時マス・メディアではミニFMブームが起きており、そのような状況であえて「自由ラジオ」という言葉を使うことには特別の意味があった。
 下から起った運動というものは何でもそうだが、最初は名前がない。やっている当人が自分たちの思い入れで勝手な名前をつける。一九八一年に津野海太郎とわたしが、いまで言う「ミニFM」を構想し、具体的な準備を始めたとき、わたしたちの頭にはイタリアの「ラディオ・リベーラ」(自由ラジオ)のことがあった。
 イタリアでは一九七六年に、FM帯は地域住人のものだということが最高裁で認められてしまって、誰でもが自由にFM放送局を開けることになった、という話を聞いたとき、わかしは、新しい社会・文化運動はこれしかないという気がした。実際に、イタリアでは、さまざまな自由ラジオ局が媒介になって雑誌、娯楽、政治などの運動が活気づいたし、フェリックス.ガタリは、イタリアの自由ラジオ(とりわけボローニャのラディオ・アリチエ局)に触発されて、彼の「スキゾ分析」や「横断性」の理論を発展させた。そのため、津野やわたしの頭には、実際に放送を始めるまえから「自由ラジオ」という名前だけは決っていたのである。
 しかし、それはやがて、わたしたちの予想した以上のものになった。わたしたちが「自由ラジオ」と呼んでいたものが、「ミニFM」という名で別の展開を示したからである。
 運動とは偶然の産物である。イタリアの自由ラジオ局の多くは一九七六年に開局しているが、そのきっかけはこの年の最高裁判決だった。しかし、この判決は、むしろ予想外のものであって、それによって誰でもがFMの放送波帯を自由に使えるようになると予想した者は少なかった。そんなことは、それまでの国家の性格からすると"狂気の沙汰"に思われた。わたしたちの場合にも、自分たちのやっていることがブームになるなどとは予想もしなかった。ブームや運動の勃発は、さまざまな歴史的蓄積がふとしたことから堰を切って溢れ出すことから生ずるようだ。あとになってみると、「ミニFMブーム」にもさまざまな歴史的蓄積があるのだった。
 ミニFMブームの発端は、一九八二年の八月に東京の青山のマンションで開局されたKIDSというラジオ局である。この局は、インディペンデントのミュージックニアープの会社を作ろうとしていた人たちがふとしたきっかけから始めたラジオ局で、電波法で勝手な使用が許されている「微弱電波」を逆用して微弱出力のFM放送を開始した。
 わたしは、週刊誌でKIDSのことを知ったとき、「アイデアを盗まれた!」と思った。というのは、わたしは、「微弱電波」を利用すれば電波管理の厳しい日本でも無許可で自由ラジオを開局できるというアイデアをすでに何度か雑誌に発表し、仲間をさそってその実験を試みていたからである。
 しかし、それはわたしの思いすごしであることがすぐわかった。当時わたしは、いくつかの雑誌に毎月メディアについてのエッセイを書いていたが、ある雑誌のコラムの担当者がKIDSの関係者へのインタヴユーを仕組んでくれた。そして、そのときわたしは、彼らがわたしたちとは全く別の方向からミニFMに近づいたことを知った。しかも、おもしろいことに、彼らが最初に使った送信機は、わたしが偶然秋葉原で見つけてきて仲間たちと放送実験に使ったものと同じ製品なのだった。
 その後わたしは、大阪のアメリカ村では大分以前から一種の自由ラジオが行なわれていることを知った。また、一九七九年には八王子市でFM西東京というラジオ局が「海賊放送」を行ない、熱烈なファンに支持されながら、電波法違反で閉居に追いこまれたということを知った。中.高校時代にワイヤレス・マイクにアンテナをつけて、近所の友達と放送局ごっこをやっていたという大学生にも多数出会った。要するに、最終的にマス・メディアが「ミニFM」と命名したところの運動は、最低五、六年の歴史的蓄積をもっていたのである。「ミ二FM」という言葉が定着しはじめたとき、わたしは津野海太郎と『これが「自由ラジオ」だ』一晶文杜一という本を作った。そこには、わたしが初めてガタリからイタリアの自由ラジオのフランスヘの飛火とその展開を知らされ、ひどく元気づけられた記念すべきインタヴユーや、イタリアの自由ラジオ局の紹介、和光大学に開局された「ラジオ・ポリバヶツ」、二人の主婦が始めた「セタガヤ・ママ」などの報告が収められている。
 その「編者あとがき」のなかでわたしは変につっぱったことを書いた。その文章はいきなり、「この本は、たまたま、いま全国で加熱しつつある"ミニFM放送"(別名"スタジオ遊び)ブームの渦中に出版されることになったが、本書はすでに二年まえから計画され、そのねらいも、現行の"ミニFM放送〃ブームのなかで行われていることを解説したり啓蒙したりすることとは無関係であるしという書出しで始まるのだ。
 ここには、わたしの気負いと、「ミニFM」ブームヘのうんざりした気持が強く働いていた。日本にもイタリア並みの自由ラジオを、と勢いこんで始めたことが、「ミニFM」なるものに足をすくわれ、骨抜にされるような気がしたからである。実際に、当時の「ミニFM」には、横長のテーブルのうえにオープン・リールのテープレコーダー、ミクサー、プレイヤー、マイク、そして申し訳のような送信機を並べてDJごっこをやる"スタジオ遊び"が多かった。わたしたちが「微弱電波」に注目したのは、それ以外に日本では合理的に電波を飛ばす方法がなかったからであり、しかもこの方法をうまく使うと意外に広範囲のエリアに電波を飛ばせるからであったが、「ミニFM」は、電波を飛ばすことにはほとんど関心をもっていないように見えた。こんなものとわれわれの「自由ラジオ」とがいっしょにされてはかなわないという思いが、「編者あとがき」には濃厚に現われている。
 そのため、当時のマス・メディアでは、「ミニFM派」と「自由ラジオ派」とが区別され、前者の明るさ、軽さ、ファッション性に対して後者の「ネ暗さ、深刻さ、政治性」が強調されたりもした。わたしは、成り行き上、「自由ラジオ派のイデオローグ」ということになり、「ミニFM派」からうさんくさく見られたりした。わたしが「ミニFM」一の可能性一を誤解していたように、「ミニFM派」の人たちも、「自由ラジオ」というと、第二次大戦中のレジスタンス放送のような政治プロパガンダを行なうラジオ局を想像したりした。
 たしかに出発点においては、二つの方向のうちどちらかを選択する必要があった。「ミニFM」をやろうと思えば、ある程度のオーディオ機器が必要であったし、出力は弱くても送信機はステレオ用てなければならなかった。「自由ラジオ」の場合には、既存のラジオとは別のネットワークや放送スタイル・態度を作ることが第一で、音質やスタジオの体裁は二の次だった。
 しかし、やがて、問題は装置にはないことが明らかになってきた。はじめ「ミニFM」として出発しても、次第に「自由ラジオ」に近づく者もいたし、「自由ラジオ」として出発しながら「ミニFM」と同じことをやるようになる局もあることがわかった。それと同時に「ミニFM」も「自由ラジオ」も日がたつにつれてはじめとはちがったものになってきた。
 ブームの多くはマス・メディアのなかのブームであって、下側からのものであることは少ない。そのなかにはマス・メディアが最初から仕掛けたブームもあり、そのためマス・メディアがそれについて報道しなくなるとブームの方も終わりになることが少なくない。
 ミニFMブームもマス・メディアによってたきつけられた。KIDSは、マス・コミ対策に熱心だった。わたしも大手の新聞にKIDSの讃辞を書いたことがある。しかし、、ミニFMブームは単にマス・メディアのなかのブームではなく、一つのメディア運動であった。その証拠には、マス・メディアのレベルでは一九八四年の春をピークにしてブームは退潮したにもかかわらず、実質的には一九八四年の後半は、ミニFMと自由ラジオの定着期だった。
 横長のテーブルに女子大生のDJをはべらせてキャアキャァやる式の、ミニFMの雰囲気とスタイルは、「オールナイト・フジ」に吸収され、"スタジオ遊び〃的な要素が強い、ミニFM局でも独自のコンセプトと方向をもっているものだけが生き残った。それは、地域を電波で満たすことに関しては大したことがなかったが、放送スタイル、放送に関わっている者同士の人問関係、局と近隣の店・住宅との関係などの点で新しい社会関係を生み出した。ミニFMとはっきりと自分を区別した自由ラジオが増えはじめたのも一九八四年だった。それまでは自由ラジオは主として世に逆らう人たちのラジオ局だった。
 わたしは、ある時期から、ミニFMでも自由ラジオでもどちらでもかまわないではないかと思うようになった。それは、いずれの場合にも主要なことは一つ一つまり集団の質の変革という問題だからである。ミニFMにせよ、自由ラジオ一出力がミニであり、FM帯で電波を出すことはたしかなのだから、今後は「ミニFMの自由ラジオ」と呼ぼう一にせよ、それらが既存のラジオと決定的にちがうとすれぼ、それは放送を担当する者同士、放送とリスナーとの集団的な関係が決定的にちがうのである。それが同じならぼ新しいラジオは必要ではない。
 もっとも、日本のラジオとりわけFMは他の国々のそれにくらべて非常に特殊な状態にあるので、いま日本にアメリカやカナダやオーストラリアなどにある"普通〃のFM局が出現しただけでも大事件になる。電話によるリスナー参加一フォーソ・イン一、地域に密着した番組、地域住人に一部の時間帯を解放するパブリック・アクセスといった双方向性のあるラジオ局は日本ではいまのところ皆無だからである。それに誰も満足してはいないことは、一九八五年に横浜FMが開局し、少し柔軟性のある番組作りをしただけですごい反響があったことでもわかる。そもそも、一都市に一、二局しかFM局がないなどという国は少ないし、英語まじりのDJ番組はあっても、その他は全部日本語の放送であるような国もめずらしい、日本には日本人しか住んでいないだろうか? とんでもない。こういう状況がミニFMの自由ラジオの出現の要因の一つであったこともたしかだ。
 しかし、ミニFMの自由ラジオの可能性は、欧米のFM局以上のものであり、イタリアの自由ラジオですら実現できないようなものを内包している。いずれは、日本にも欧米なみのFM局が少しずつ増えてゆくだろう。が、ミニFMの自由ラジオは、そうした上からの"自由化"によっては決して実現できないような可能性をもっているのだ。だから、ミニFMの自由ラジオは、欧米のものも含めた既存のラジオには決して出来ないようなことを目差すべきだし、その方向は、この八年あまりのあいだに十分スケッチされたと思うのである。
 ミニFMの自由ラジオをやっていると、なぜかその電波の到達距離があまり気にならなくなってくる。これは、アマチュア無線とは決定的にちがう点だ。アマチュア無線ではなるべく遠くの相手と交信することを目差したくなる。これに対して、、ミニFMの自由ラジオは、厳格な規制が存在することもあって、サービス・エリアが限られてしまう。合法的にはせいぜい半径五〇〇メートルといったところだろう。そのため、放送は未知の人々に対してよりも、既知の、あるいは人よそ予想のつく人々に対してなされることになる。これは、広場でハンド・マイクを使うのに似ている。見渡せば人の顔が見える。その際、電子装置は、単に話し手と聞き手とのあいだを同じ一本の線で結ぶのではなくて、そこに集まっている人々の横の多重な関係を強める。広場で使う拡声装置の音量はあまり大きすぎてはならないのは二のためだ。大きすぎると、聴衆は強制的に一つにまとめられるのを一たとえばヒトラーの演説を聞くように一甘受するか、そういう強制を嫌ってその場を去るかのいずれかになり、聴衆相互の構造的な関係は生まれない。
 ミニFMの自由ラジオは、ある意味で、ウォークマンやヘッドホン・ラジオの時代の自由ラジオである。もともとそれは、どこの家にもトランジスター・ラジオが一台や二台はころがっているという状況がなければ生まれなかったが、個々人がFMラジオをもち、その音量を自由に変化させることができる条件を満たすヘッドフォン・ラジオは、ミニFMと組み合わさっておもしろい効果を発揮する。既存の放送スタジオでは、放送する者同士はヘッドフォンでつながっている。それは、慣れないとひどくわずらわしいが、ヘッドフォン・ラジオは、こういうことを日常化した。ミニFMの自由ラジオ局では、マイクを握っている者、ミクサーをいじる者、かたわらで放送をながめている者がみなヘッドフォン・ラジオをかけていることがよくあるが、ミニFMの自由ラジオの常として、いままでミクサーをいじっていた者や、かたわらで傍観していた者が今度は放送者になってマイクを握るとき、この三者を結びつけているのはFM電波——ラジオというエレクトロニク・メティァなのである。
 しかしながら、ヘッドフォン・ラジオ自体は、孤立化のメディアであり、ヘッドフォン・ラジオを聞いている者同士が新しいコミュニケイション関係に入ることは少ない。それは、通常、ヘッドフォン・ラジオがもっぱら放送を受信するためだけに使われ、放送のマイクと同時に用いられることは少ないからである。ヘッドフォン・ラジオのなかには、送信装置を内蔵しているものがあるが、ラジオが個々人を一つの集団に結びつける機能をもっているのに対して、現状の通信装置は、別にヘッドフォン・ラジオに内蔵されているものにかぎらず、同じチャンネルで多くの人々が勝手に送信するのには向いていない。
 そのために、限られた空間のなかで、ヘッドフォソニフジオをつけた者同士が、一台のミ二FMの自由ラジオの送信機に接続されたマイクを互いに回わしたりして会話をかわすときにのみ、ヘッドフォン・ラジオは、孤立化の装置としての機能を脱して、新しいコミュユニケイション装置となるわけである。
 それにしても、ミニFMの自由ラジオが露わにしたコミュニケイション状況というものは、いささか"異常"に見えるかもしれない。というのも、わが身に備わった肉体器官だけで十分にコミュニケイションが果たせるはずなのに、至近距離の会話のためにラジオや送信機を使ったりするからである。そんなまわりくどいことをする必要があるのだろうか? ラジオというのは、情報を遠くに伝達することが最大の機能ではなかったのか?
 従来の情報論に立てばこうした疑問はもっともである。実際にラジオからニューメディアにいたる情報装置は、いまでもこうした方向で"発達"している。しかし、情報装置の発達は、必ずしも個々の人問のコミュニケイションの発達を意味しなかった。
 身近な者同士ほどコミュニケイションを欠くということは、いまに始まったことではないが、その疑問は、むしろ電子メディアの発達とともに亢進した。たしかに電子メディアは情報を宇宙的距離で移動・伝達することを可能にするが、その情報はあらかじめコード化され、パッヶ−ジされた情報であって、コミュニケイションの媒体としての情報ではない。情報を電子装置で遠くに送ろうとすれぼするほど、その情報の抽象度は高くなり、肉体性を失うからである。
 その一方で、われわれは、電子装置に依存することに慣れ、たとえばカメラを買うのに現物を見るだけでは不安で、カタログを見てからはじめて現物に接した気になるのと一脈通じる仕方で、電子装置による確証がないと現実と接した気になれないような状態に体質が変わってきている。これは、いまではちょっとやそっと電子装置との関係を断つぐらいではもとにはもどらないほど深い変化なのだ。
 とすれば、方法は、毒をもって毒を制するしかない。ラジオならば、それを情報伝達の手段とはしないことだ。ラジオがもっていたコミュニケイションの機能だけを純粋培養することだ。ミニFMの自由ラジオは、はからずもそういう機能を知らず知らずのうちに利用していた。そしてそのために、ミニFMの自由ラジオは、その電波が非常に限られたエリアしか飛んでいない場合でも、それに関わる者の集団性を変え、新しい人問関係の流れを作り、さまざまな活動や運動の交流場となってきたのである。
 むろん、ここで述べたことは、ミニFMの自由ラジオの最もラディカルな本質的側面である。全国にある、ミニFMの自由ラジオ局の具体的な形態は多様であり、それをささえている人々の層も多様である。しかしながら、ラジオ局の多様さがそれをささえている集団の質的多様さであり、その両者がたがいに活性化しあうという点については、一つの共通性が見出せる。局のなかには、合法的な中継や若干の非合法的手段(つまり出力を"微弱電波"よりも増強すること)によって一定数のリスナーを保持しているところもあるし、リスナー対策を全く偶然にまかせているところもある。が、実際に、ラジオ局が触媒になって新たな交流が生まれているところは、必ずしもちゃんとしたリスナーのいるところではなく、むしろその逆のところなのである。
 放送をしている側にとっては、未知のリスナーから電話がかかってきたり、投書をもらったりするのは非常にはげみになるのだが、それ自体が新しい関係を作るのではなく、関係の核は、局に直接関わっている者同士のなかにある。その意味では、ミニFMの自由ラジオはパフォーマンスに似ている。演劇は観客を前提とするが、パフォーマンスは、第一に、バフォーマー=やる人のものだからである。そして、どんな形態の演劇にもその核心にはパフォーマンスがあるように、パフォーマンス性を欠いた演劇は、もはや演劇としてもダメなのである。今日、演劇がパフォーマンスに強い関心を示しているのは、演劇が活力を失いつつあるからだが、むしろ既存のラジオこそミニFMの自由ラジオから活力をとりもどさなけれぼならないところにきていると言えるだろう。
 ラジオだけではなく、活字メディアもテレビもコミュニケイション・メディアとしての機能を失いつつある。それは、コミュニケイションの第一の場が実は、情報の「送り手」と「受け手」とのあいだにあるのではなく、「送り手」同士の場、「受け手」同士の場のなかにあるということを忘れているからだ。
 とりわけ雑誌や新聞は、執筆者同士のあいだや記者と記者とのあいだにコミュニケイションを期待しない隔絶したホテル・ルームのようになっている。ホテルにはまだロビーはあるが、活字は割付られてしまうともはや横断的な関係をもつことはできない。ラジオやテレビでも、時間で厳密に区切られた番組同士のあいだには何のコミュニケイション関係もないのである。これでは視聴者は、メディアから集団性を追体験することはできない。各自が勝手に何かを情報として引き出し、あとは捨てるしかないだろう。
 しかし、コミュニケイションを無視した情報とは何か? 重要なのは、コミュユニケイション——連帯である。情報手段としてはマス・メディアより劣っているはずの、ミニFMの自由ラジオが、マス・メディアよりはるかにおもしろい側面を発揮するのはこの点に関わっているためなのだと思う。
 最後に、ミニFMの自由ラジオは、いま、日本だけでなく、アメリカ合衆国、中央アメリカ、カナダ、スイス、イギリスなどでも少しずつ関心をもたれはじめていることを記しておく。それは、特にカナダやスイスの場合、巨大出力の放送が原因となる電磁波公害に対してミニFMの自由ラジオは極度にクリーンである点とも無関係ではないようだ。


パソコソ通信でコミニケーションを重層化する

 コンピューター通信のそもそもの始まりは、中央コンピューターを遠隔操作することであり、その機能は「通信」というよりも中央コンピューターが集積しているデーターを別の場所から自由に得ることだった。
 これが端末同士の通信、さらにはそれぞれに自律したパーソナル・コンピューターによるパソコン通信に向かうのは、ハードウエアの飛躍的な発達と小型化のためである。端末はもはや端末ではなくなるのであり、端末の一つ一つが自律的に情報を組み替え、蓄積し、全体として増殖する"網の目"一まさしくネットワーク一を形成するのである。ここでは、かつて中央で絶対権をふるった中央コンピューターは、一種の交換機になり下がる。
 パソコン通信においては、この点が非常に重要だ。厳密に言うと、パソコン通信とコンピューター化されたデータベースを利用することとは根本的に意味が違うのであって、パソコン通信におけるデータとは、ユーザーの一人一人が持ち寄って出来上がるものであり、中央があらかじめパッケージとして用意したものであってはならないのである。
 いま日本でもパソコン通信のネットワークが増えてきて、ネットワークヘの加入者は一〇万人ぐらいいるのではないかと思うが、そのうち半数以上はいわゆるROM一リード・オンリー・メンバー一つまりボードを読むだけで書き込みをしようとしないメンバーである。
 これは、ネットワiクのボードにひんぱんに書いている者の側からすると気を滅入らせるものであり、ネットワークによっては、「ROMおことわり」をあらかじめ取り決めているところすらあるが、現実には日本の場合、パソコン通信をデータベースないしは単なる電子雑誌としてしかとらえない傾向はまだ強い。
 大型コンピューターからパソコン、そしてさらにパソコン通信へとコンピュータiの使い方が広がるなかで重要になるのは共同性や連帯の意識である。ある情報を共有したい、ある情報を提供してそれを発展させたいという意識がなければ、コンピューター通信は決して広がることはできないだろう。
 わたし自身が通信に興味を持ち始めたのは、アメリカの友人たちが「ピースネット」のような場を使って実にしなやかに情報交換一というよりも"情報パーティー"ーをし、それぞれの活動や交友関係を広げ一そしてときには相互批判的に解体し一でいるのを見るにつけ、これは、自由ラジオとどこかでクロスする"電子広場〃としての機能をもっているなど思ったからだった。
 しかし、すでにサービスを開始していた国内のネットワークの現状をながめるにつけ、どれもコンピューター・マニアの技術情報の交換ばかりが目につき、食指が動かなかった。「ピースネット」のようなネットワiクは日本にはまだどこにもなかった。それなら国際回線を通じて「ピースネット」に加入するしか仕方がないと思い、最初はもっぱらその目的でハードをそろえた。
 ところが、ハードをセットしてそのテストを行う段になって、松岡裕典さんや室謙二さんが仕事で使っている「WENET」というネットワークにゲストでアクセスさせてもらったところから、実態が変わってきた。
 というのは、ことコンピューターにかけては行動力のある室さんは、アクセス上の面倒を見てくれるなかで、「粉川さん、いっそのことボードを一つ持たない?」と一言い出したからである。そして、数日後には「東京アンダーグラウンド」一のちに「自由ラジオ・カフェ」に変更一というボードが「WENET」のなかにできてしまった。
 わたしが、ハードを買いそろえたのには、もう一つ理由があった。それは、下北沢の「ラジオホームラン」というミニFMの自由ラジオ局で毎月一回「マンスリー・エンド」という番組を担当していて、次第にそのリスナーや"見物人〃のための内輪のメディアが欲しくなり、ワープロを買わなけれぼならなくなったことだった。
 わたしは、タイプライターは高校生時代から使ってきたが、ワープロを使って日本語の原稿を書くことはしなかった。原稿とは、編集者への"手紙"なのだという意識があったのかもしれない。しかし、最初から複数の読者を相手にするニュースレターの場合には、わたしの手書き文字は芸術的でありすぎた。そして、それまで無視していたワープロに関心が向き始めたとき、たまたま津野海太郎さんが、ワープロをずぼり「パーソナルな印刷機」と定義している文章を読み、わたしの決心は固まった。
 ところが、いったん決心してしまうと、ニューヨークでいじったことのあるコンピューターの記憶がどっとわき起こってきて、急に欲が出てきた。日本語をタイプするだけではなく情報処理やファイル化もしたいというわけだ。
 しかし、値段と図体の割に、プログラムをいろいろ差し替えることのできるパソコンは、どれも不十分な気がした。英語処理に関しては、ほとんど"表現装置〃に近い機能を発揮するところまで達しているにもかかわらず、日本語に関しては邦文タイプに毛のはえた程度にとどまっているように見えた。
 高級な言語処理の方はあきらめ、印刷と通信の機能だけに目的を限定したとき、わたしの関心はおのずからワープロに向かったわけである。
 日本では、「ワープロ」と「コンピューター」が区別されているが、これは誤解を招きやすい。
 ワープロというのは、文字処理機能を専用にしたコンピューターのことであり、コンピューターであることには変わりがないのである。しかも、最初は文字通り簡易コンピューターだったワープロ、とりわけハンディワープロ一あるいはポータブルワープロ一が、最近では通信、計算、画像処理などの機能を持ち、ますますパソコンに近づいてきた。
 わたしが最終的に購入したのは、通信機能をそなえたハンディワープロだったが、自由ラジオのニュースレターを作り、そして通信をやる目的にはこれで十分だった。
 これで大きなネットに入っていくと、ちょっと自転車で車道のど真ん中を突っ走るような趣がないでもないが、本格的なコンピューターとは違ってマニュアルな部分が残っているため、コンピューターを自分の体の一部分と感じるような中毒に陥ることはない。
 このハンディワープロを使ってわたしは、一〇人ほどのメンバーたちとメディア、日本語.天皇制、サイバー・パンク、映画、コンピューター文化、電磁波公害などについて意見を交わしあった。また、「マンスリー・エンド」についてのニュースとレジュメを「自由ラジオ・カフェ」のボードに書き込み、通信のメンバーに番組の内容・近況を知らせるとともに.いったん書き込んだものを再編集してプリントアウトし、ニュースレターの"版下"を作った。さらに、加入している別のネットワークに同じ文章を入れて横断的なコミュニケーションを試みた。こうして、ラジオ放送とパソコン・ネットワークとミニコミとがリンクし、相乗作用を起こし始めた。
 といっても、これらはみな規模の小さなメディアばかりであるから、その相乗作用は決してハデなものではない。いままでミニFMにしか関心のなかった人がパソコン通信に関心を持ち、その両方に加わるようになったとか、その逆にパソコン通信の側の人がミニFMに近づくとか、『MONTHLY END』という極めて不定期のニュースレターを通じてこの両方に興味をおぽえるとかいう程度のことである。
 ただし、これによってわたしは、メディア・ミックスによるメディアの能動的な使い方の一端を理解できたような気がする。
 それは、メディアは巨大化させるよりも重層化させる方がおもしろい効果を発揮するし、また重層化させるためには、メディアは余り大きすぎてはならないということである。メディアには、大なり小なり集団形成の力がある。電子メディアとともに「電子広場」、「電子共同体」、「電子国家」といったものが生まれる。しかし、電子メディアはそうしたものを形成することによって個々人を単一のシステムのなかに統合してしまうこともある。現実には、マスメディアは、そのような文化の均質化を行うことの方が多いのである。
 それを避けるためには、メディアを重層化するしかない。人間の神経細胞に比べれぼどんなに高度の電子メディアの複合度でも単調であるから、それは幾百重に重層化されてもされすぎることはない。しかし、そうした多重化を実現するにはサイズがある程度小さくなけれぼ不可能なのである。
 パソコン.ネットワークは、そのなかのボードが分岐すれぼするほどよいし、また一つで多様なネットワークよりも、自律した無数の小さなネットワークができる方がよい。
 そしてさらに、それらは、他の文字・音・映像メディアと連合して重層的なスペースを形成する必要がある。日本のパソコン・ワープロ通信の今後の展開に期待しよう。



メディアに統合はいらない

 この数十年のあいだに、メディアヘのアクセスは極度に「自由」になった。個々人が映像や音を記録し、遠隔地と交信出来るメディアは一般化している。しかし、それは、多くの場合、いわばカプセル化されたさまざまなウィルスが市販されるようになったのと大差ないようなところがある。つまり、感染や伝染の"自由"は、たしかに拡大されたが、それによって各自の経験が一っ一の病)に統合されてしまう不自由さの方は、一向に変わらぬどころかむしろ強まったのである。
 メディアニァクノロジーの歴史は、情報をより広範囲に、そしてよりスピーディーに伝染させる技術の歴史だった。「コミュニケイション」の原語に「伝染」、「メディア」に「細菌の培地Lという意味があるのは偶然ではなく、コミュニケイションは、依然として疫病への感染を理想的モデルとしており、どんなに高度な電子メディアでも、それが細菌やウィルスのように機能することが暗黙に求められているのである。
 こうした発想が生きのびるかぎり、メディアが自由なコミュニケイションを可能にすることはないだろう。たしかに、感染とは経験の共有ではある。同じウィルスに感染した者同士が「同病相隣む」ことはできる。しかし、自由とは、統合ではない。個々人のそれぞれ異なる可能性が思いきり解放されるのでなければ、自由であるとは言えないはずだ。
 メディアを〈ウィルス・モデル〉から考える発想をストップさせよう。それは、ファシズム的なコミュニケイションの基礎をなすものであり、そこでは自由は、それにもかかわらずの形でしか可能になることはない。どんなに狙獺を極める疫病に対しても、感染者の反応はそれぞれ異なるように、どんなに統合的なメディアであっても、それを用いる者はどこかで自分の経験の差異を保持してはいる。しかし、それは、状況へのある種の反抗の結果であって、メディアにとっては予想外のことなのである。
 メディアの自由は、既存メディァヘの反抗のなかにしかないだろうか?・自由なメディアというものは、メディアという概念白身によって最初から相対化されているのだろうか?
 メディアをコミュニケイション装置と考えるかぎり、メディアは、既存メディァヘの反逆のなかでしか自由なものになることはない。すべてのメディアは、支配的なテクノロジーのなかから生じるからである。わたしたちは、与えられた  それ自体としては経験の統合を目的理念にしている  諸装置を逆手に取りながら自由な表現を獲得しているのだから。
 しかし、メディアは、装置である以前に、〈スペース〉であるとは考えられないか? 経験が統合されるにしても差異化されるとしても、個々人が出会う場がなければコミュニケイションは成立しえない。メディアは、媒介装置である以前に出会いの場であり、しかも人工的に構成された場=スペースである。
 ウィルスがメディアとして機能するためにも、人と人、人と動物などを出会わせる場がなければならない。コミュニケイションの媒介という点では、むしろこうした場こそがメディアなのであって、その場に聞入した「ウィルス」が起こす媒介作用は第二次的なものにすぎない。
 なぜ、第二次的なものが第一次的なものと見なされるようになってしまったのだろうか?おそらく、出会いの場のなかで生じるさまざまな差異が無視されて行ったからだろう。たとえば、広場のベンチに腰を下ろしている人々がそれぞれの思いをもつこと  それはもはやコミュニケイションとは見なされなくなった。それぞれはバラバラでも、ひとつの持続時間のなかでさまざまな行為と経験が推移すること−これは、もはやコミュニケイションとは考えられない。逆に、熱烈な口調で演説する人物の熱気が広場の聴衆に〈伝染〉し、全体が一つの熱気に包まれるような状態になるとき、「コミュニケイションが成立した」と言われるのである。
 しかし、実際には、「全体が一つの熱気に包まれる」などということはありえないし、聴衆が一つの意識に馬心依するということもありえない。どんなに単純なコミュニケイションのなかにも、それに加わる者一人ひとりの勝手な理解と思いの部分がある。パワフルな音響でもはや他のことを何も考えられないほどの呪縛力で迫るロックコンサートにおいてすら、熱狂のさなかでふっととてつもない思いにかられたりすることがよくある。「広場の孤独」はディスコミュニケイションの一現象ではなくて、自由なコミュニケイションの必要条件なのである。
 それゆえ、メディアがこのように経験を差異化する側面を鮮明にすることと、そのような差異化をめざすメディアの探求とがなされなければならない。
 最近わたしは、極度に統合的なメディアがその使い方を少し変えるだけで統合のメディアから出会いのメディアに転換されてしまう実例にふれる機会があった。それは、ニューヨークのぺーバー・タイガーニァレヴィジョンという自由テレビ局が放送衛星を使って行なった「ディープ・ディッシュ・TV・プロジェクト」である。
 ベーパー・タイガー・TVは、アメリカのなかでも最も積極的に「フリー・スペース」としてのテレビを目ざして来たテレビ局である。が「テレビ局」とは言っても、これは日本で考えられている「局」のイメージからはほど遠い。それは、商業局のマンハッタン・ケーブルニァレヴィジョンが一般に開放しているパブリック・アクセス・チャンネルの一つを利用し、毎週水曜の午後八時三十分から九時までの三十分間だけ存在する馬なのである。
 アメリカのケーブルニァレヴィジョンにあるパブリック・アクセス・チャンネルは、日本のテレビから見れば途方もなく"自由なメディア"である。ニューヨークの場合、一時間三万円以内の費用でスタジオと必要機材が使え、あらかじめ録画したヴィデオでもライブでも.自由に放送することができる。時間帯はびっしりつまっているが、早めに予約すれば毎週決まった時間帯を確保できる。市や州によっては地域住人に無料でスタジオを開放しているところもある。番組に対する内容的な規制はほとんどなく、あるとすれば、視聴者からの抗議や圧力である。
 が、パブリック・アクセス・チャンネルは、決して自動的に生まれたわけではない。ラジオの場合も同様だが、パブリック・アクセスは、市民レベルでの要求と運動を通じて獲得された成果である。従って、マンハッタン・ケーブルニァレヴィジョンは、一種の"慈善事業〃としてそのチャンネルのいくつかを一般に開放しているのでなくて、地域住人とヶ−ブル提供会社との緊張関係の結果としてそうしているにすぎない。
 一九七〇年代になってケーブルニァレビが新しいメディアとして認められるにっれて、ニューヨーク大学のジョージ・ストー二−教授を中心とする「ヴィデォ・アクセス運動」が起こり、一九七六年には「ローカル・ケーブル・プログラマーの全国連合」一NFLCP一がつくられた。一九七九年には、四百のコミュニティが地域のCATVで定期のパブリック・アクセス番組をもつようになり、一九八二年までにそうしたコミュニティの数は千に達した
 パブリック・アクセスのテレビは、その内容よりも、まず、それが地域住人の出会いの場である点で重要である。それは、公園や広場のように体と体、顔と顔の関係で人々を出会わせるとはかぎらない一ただし、放送現場に視聴者が自由に訪ねて来る点では〈広場〉の性格を保持している一が、電話やヴィデオニアープの送付といった電子的な方法でも人を自由に出会わせる。内容は、むしろ、こうした出会いによって決定される。
 電話との接続は非常に重要であって、番組を電話と結んで常時視聴者の参加を求める場合にはなおさらのこと、番組終了後に積極的に視聴者の電話を受けることは、パブリック・アクセス番組の必須条件だ。パブリック・アクセスにとって、番組は、こうした出会いを触発するための手段にすぎないのだとすら言える。だから、パブリック・アクセスニァレビの「自由なメディア」としての本領は、番組が終わったときから始まるとも言える。この電話がきっかけになって視聴者が、その〈局〉のより広い活動一たいていのパブリック・アクセス局がさまざまな地域活動に関与している)を知り、他の人々と出会うチャンスをつかむ。初めて電話をかけて来た人の名前と住所はメイリンク・リストに登録され、何かの集まり・催しの折にはそのっど情報を受け取ることになるからである。「ディープ・ディッツユ・TV・プロジェクト」は、こうしたパブリック・アクセスニァレビの一つであるベーパー・タイガーが、地理的な単位としての地域をこえた、より大きな出会いの可能性を試してみようとした最初の試みだった。ヶ−ブルだけでなく通信衛星のチャンネルも、単なる情報伝達一伝染一のためだけでなく、出会いの場として用いることが出来るはずだからである。
 アメリカ合衆国の上空には三十五あまりの通信衛星が上がっており、一九八六年ですでに五〇〇個近い数のトランスポンダー一中継器一が作動していた。そのうち二百九十二はデ、.ター通信に用いられ、百九十六がヴィデオ映像用である。その百九十六のトランスポンダーのうちフルタイムでテレビ映像を中継しているのはその四十九パーセントにすぎないが、それでも、百チャンネル近くが衛星でテレビ放送を行なっているわけだから、衛星テレビはもはや実験段階を越えている。実際に、自宅に大きなバラポラ・アンテナを設置して衛星テレビを見ることは、アメリカでは一つの流行にすらなっており、すでに全米で百万人以上の受信者がいるという。
 しかし、衛星放送は、当然のことながら、そのままでは統合のメディアであり、従来の全国ネットとは比較にならない規模と効率で人々の経験や情報を統合する力をもっている。そこでは、地域性は消滅し、時差は意味をなさなくなる。衛星放送は、全世界の人々が全く同じものを共有するという"不自由なメディア〃の理念を完壁なまでに実現してしまうのである。「ディープ・ディッシュ・プロジェクト」は、衛星テレビのこうした極度に統合的なメディアを転換しようとする。そのプランはべーバー・タイガーのなかにすでに二年まえからあったが、実現の見通しが出て来たのは一九八五年の十二月にポストン・フィルム/ヴィデオ.ファウンディジョンから二万八千ドルのグラントを得られることが決まってからだった。ちなみに、衛星のチャンネルの使用料は、一九八六年には一時間あたり七百ドルであり、そのほかに信号をデジタルに変換する装置の使用料として一時間あたり=丁四百ドルかかる。プロジェクトは、グラントを得ることによって、毎週一回三十分の番組を十回放送できることが決まった。全予算は、七万二千五百六十ドルであるが、これは、商業テレビが一回のニュース・ショーに費やす予算の半分にすぎない。
 地球的規模の統合メディアである衛星テレビを機能転換しようというのだから、べーバー・タイガーの作った番組を衛星のチャンネルで流すというだけではどうしようもない。衛星テレビを出会いの場にするためには、衛星回線そのものを全米的規模でパブリック・アクセス化しなければならない。
 一九八五年十一月、ペーパー・タイガーのディディ・ハレック、カリン・ロゴフ、デイヴィッド・ブルックス、マーサ・ウォーナーらは、NFLCPに登録されている全国のパブリック.アクセス局(ニューヨーク州だけでも百四十四局ある)に数千通の呼びかけ文を送り、この「全国パブリック・アクセス・ショウ」への参加をうながした。究極的には、各局に七分以内のヴィデォを送ってもらい、それを編集して放映するのだが、べ−パー・タイガーが出したテーマは、中央アメリカ、人種差別、女性問題/性差別、核兵器と戦争、労働、ゲイの権利、住宅、農業、環境問題、青年、教育といったアクチュアルな問題である。
 これに対して、ただちに四百通ほどの返事と送付されるべきヴィデォの梗概が送られて来た。そして一九八六年二月までに三百本近いテープが届いたのである。そして、二月の末日には、すべての方向が決定した。
 四月二日からスタートしたこの「第一回全国衛星アクセス・ネットワーク」は、通信衛星ギャラクシー1の第22チャンネルを用い、全米に放映されたが、それをパラボラ・アンテナと受信装置を持っている人たちだけにとどめないように、各パブリック・アクセス局は、放送を生中継または録画して、地域のケーブルに流すことになった。また、各局は、番組終了後にパネル・ディスカッションを準備し、その結果をペーパー・タイガーに還流させた。さらに、番組のなかで取り上げられた問題一だとえば労働、住宅、教育等)に直接関与している地域団体は、番組に触発されて新たな番組なりメッセージなりを作る機会を拡げ、地域のラジオ局で論議をひき継いてもらうという方法をとった。
 わたしは、第一回の「プロモーション」、四月十六日の「アクセスの把握−第一修正条項とわれわれの権利」、四月二十三日の「労働者が製作する  全国各地の労働者によって製作されたテレビL、四旦二十日の「子供がプレイバックするー子供の作るテレビ」をライブで見る機会を得たが、いずれも、番組が始まってから数分後に、ニューヨークのペーパー.タイガーや中継した各地のケーブル局に電話が殺到し、さまざまな意見がよせられた。このプロジェクトだけで決定的に何かを変えたと言うわけにはいかないとしても、「ディープ.ディッシュ.プロジェクト」が衛星の電子回路を出会いの場にすることに成功したことだけはたしかである。
 出会いの場としてのメディアは、必ずしも「小さなメディア」によって可能になるとはかぎらない。大きなメディアでも、それがパブリック・アクセスを十分にもつ場合には、自由な出会いの場になりえるのである。「小さなメディア」でも、すでに均質化されたコミュニケイシヨソや集団のなかでは、統合を細かく行なうメディアにすぎないこともある。メディアが大きいか小さいかということは、出会いの決定要因ではなく、むしろ出会いの質を決定するファクターなのだ。どんなにたくさんの人々や集団が出会っても、その一つひとつが独自性をもっているのでなけれぼ、その出会いは、結局のところ、統合とかわりがない。こうしてふたたび、出会いの場としてのメディアと「小さなメディア」とが再会せざるをえなくなる。「ディープ・ディッシュ・プロジェクト」に参加したパブリック・アクセス局は、程度の差はあれ、所詮は「小さなメディア」であった。その番組の多くは、地域の"素人"によって作られ、カメラ・ワークも音取りも、プロフェッショナルな局の番組にくらべれば相当"稚拙"だった。しかし、その一つひとつには、それを作った人々と地域の〈肉体的近さ〉のようなものが感じられ、どれ一つとして同質のものはなかった。これは、メディアの小ささを意識し、それに執着することなしには不可能なことだろう。「小さなメディア」への執着と忠実さが多様な差異を生み出したのである。
 日本の場合、「小さなメディア」の試みは依然として活発である。ガリ版やワープロによるミニコミ、自主製作の一「インディーズ」よりももっと小規模の一音楽テープ、聴いているのはたかだか数十人という場合も多いミニFM等々、マス・メディアとは全く異質のメディアが根づいている。
 しかし、その反面、日本では、大きなメディアにおけるパブリック・アクセスの余地は決定的に欠如している。それは、事実上皆無に等しい。これは、日本では、マス・メディアだけではなく、公園や公民館を含む公共のあらゆるスペースが、啓蒙・教化・支配という〈伝染〉のメディアになっているためであり、その傾向は当分変わりそうにない。
 とはいえ、アメリカでパブリック・アクセスが天下り式に与えられたものではなく、市民側からの要求と運動によって獲得されたものであるように、待っているだけではいつまでたっても日本のマス・メディアにフリーなスペースが設けられることはないだろう。見すこされている可能性は、まだいくらでもあるように思う。
 たとえば、民間放送一とくにAM放送一には、スポンサーの付かない番組、買い手が付かなくて穴埋め番組でお茶をにごしている時間帯がかなりある。こうした番組や時間帯を買い取って聴取者の"広場"にしてしまうことは可能である。時間帯と局にもよるが、その値段は思ったほど高くはない。民放にとってスポンサーは、最も影響力のある存在だから、放送時間を一時間百人で買い取って、それを出会いの場にしてしまうことは十分に可能である。さいわい、いま放送界は一つの危機に直面している。とりわけラジオの場合、AMからはスポンサーが離れつつあり、またFMは、来るべき多局化時代をまえにして少しずつ内部に競争原理を導入しなけれぼならなくなっている。「公器」といったおごりをかなぐり捨てて、買ってくれる者には相手かまわず放送時間を売らざるをえないという傾向が強まっている。
 これは、ある意味で非常に危険な状況でもある。ファシストが金に糸目をつけずに放送時間を買い取って、いまよりももっと均質的な放送を流すことも可能だからである。十年ほどまえ、民放のテレビのスポットにおよそ場ちがいな雰囲気の老人が現われ、家族や老人への忠誠や愛国を説き始めた。それはひどくこっけいだった。多くの人は、その十秒スポットをじょうだんだと思った。しかし、この老人  笹川良一が言っていたことと彼自身のイメージは、今日のテレビのなかにしっくりおさまってしまった。彼はいまでは、笑われるところか、尊敬の対象にすらなりかねない。笹川は、メディアの〈伝染〉効果をよく知っていただけでなく、放送時間は内容に関係なく誰でもが購入でぎるものだということを知っていたのである。
 日本のマス・メディアは、現状では、それを経済的に支配している者たちの思うがままになっている。実際、昭和天皇が「重態」から「崩御」に至った期問の日本のマス・メディアは、ほとんど統制メディアだった。そのため、メディアに対する大衆の1というよりもわれわれの大衆的無意識のレベルの一反応は屈折した形をとらざるをえなかった。
 一九八六年の「衆参同日選挙」をマス・メディアは、自民党の「圧勝」と報じたが、それから三年後、マス・メディアは竹下内閣の「支持率」の急速な低下と自民党の来たるべき「崩壊」を報じている。が、この三年問に自民党白体にも、また自民党を支持する大衆の側にもある種の変化が生じたことはたしかだとしても、三年まえの「衆参同日選挙」を、また今日の「支持率低下」を事象そのものとして受け取るのは単純すぎる。「大衆」とは、われわれ一人ひとりの無意識部分の総体であって、それは、いわばフェルナン・ブロデールの言う「長持続の歴史」に従って動く。その本質的な動きは、二年や三年で変わるものではなく、「圧倒的な支持」と見えるもののなかには意地の悪い拒否があり、また、「不支持」と見えるもののなかには、別の形の支持がある。といっても、わたしは、最近ますます不人気の自民党を元気づけようというわけではない。わたしの考えでは、日本の戦後政治は、自民党にもかかわらず存在してきたのてあって、大衆  大衆的無意識は、つねに「自民党」、「社会党」、「民社党」、「公明党」、「共産党」といった表面的な枠組みの下にあるものを支持し、拒否してきたのである。
 選挙に関して言えば、それはコミュニケーション論的には、全国的・地方約メディアヘの"参加祭り〃でもあるのであって、人々はそれによって屈折した形での「パブリック・アクセス」を楽しむのである。自民党を「支持」したのは、そうすることによってしか自分たちの参加一パブリック・アクセス)がメディアに反映されないということを人々が知っていたからにすぎない。ということは、もしわれわれが選挙のようなあらかじめプログラムされている不自由なメディアとは異なる自由メディアを与えられるならぼ、自民党の「支持率」は全くちがったものになるだろうということだ。その意味においてはメディアの支配者たちは、当面、絶対に自由なメディアを許すことができないわけであるが、このことは市民の側からすると、市民の自由はメディァヘのアクセスをかちとらなければ不可能であり、そうせざるをえないということでもある。
 マス・メディアが自民党の崩壊を報じ始めたことは、その意味では、日本のマス・メディアが幾分統合メディアからの離脱を開始しはじめている徴候である。日本のコミュニケーション状況も、いまや過激さを回避できなくなったのだ。



4 資本主義と情報技術


サイバーテクノロジーの政治




 パソコン、ワープロ、ファクシミリ、衛星放送コンバーターといった「ニューメディア」が一般家庭に浸透するにつれて、「サイバーコンシャスネス」とわれわれの脳とが一体化し、「グローバル・ブレイン」が出来上がるというおめでたい説がはびこりはじめている。そんなことで「グローバル・ブレィソ」が成立するのなら、アマチュア無線家は三〇年以上もまえから「グローバル・ブレイン」を形成していたし、最新のメディアの渉猟に疲れを知らなかった糸居五郎のようなDJも「サイバーバンカー」だったということになる。確かにニュ−メディアが作り出すサイバースペースは脳がその「外部」に溶け出すことを可能にするが、同時に脳の方は、こうした事態に直面して自閉的な性格を強め、逆にグローバルな性格を失う傾向を示しもする。
 サイバー・コンシャスネスとグローバルな意識とは必ずしも結び付かないのであって、グローバルということであれば、コンピューターやサイバーテクノロジーとは無縁の古代の詩人や宗教家の方がはるかにグローバルなブレインを共有していたということもできる。サイバーネイテイッドなテクノロジーが最も頭脳的であるというのは素朴なテクノロジー進化論である。歴史的にみて、テクノロジーは石、木、金属、ガラス、合成樹脂、半導体、超伝導等々のテクノロジカル・スペースにおいて、"同質"の可能性を完結させてきた。そこでは、進化論的な比較はできないのであって、もしサイバースペースに脳の能力があるとすれば、歯車のスペースにも"脳"の能力があったと考えなければならないのである。機械テクノロジーは筋肉を、コンピューターニァクノロジーは頭脳を拡大するという「人問拡張の原理」はくだらない。「超能力」つまりテクノロジーの可能性の最高度の発揮は、いつの時代においても特権階級によって享受される。もし、サイバースペースが古代の「霊能者」がやったことを万人に解放するとすれば、今日の「霊能者」はサイバーテクノロジー以上のことをやらなけれぼならないわけで、したがってサイバーテクノロジーの浸透は、そうしたテクノロジーの浸透がなければ「霊能者」になれたかもしれない人々をふるいにかけ、その大部分を"無能"と判定する試練を強いるのである。それゆえ、新しいテクノロジーの浸透は、人問がひとつのエポックのなかで築きあげてきた諸能力を再チェックされるプロセスでもあるわけで、それらの大部分は無効にされてしまうのである。
 こうした変化が最も見えやすい形で現れるのが、リアリティーの感覚においてである。以下において、まずサイバーテクノロジーの浸透によってわれわれのリアリティー感覚がどのように変化するかを少し見てみよう。もし、サイバーテクノロジーの時代における「超能力」があるとすれば、それは現在起こっているドラスティックな変化の地平の向こうにおいてでしかないだろう。




コンピューター通信は、いまのところまだ文字情報を主に送りあっている。これは、通常のコンピューター通信では電話線を通信ラインとして用いているからであり、現在の電話線の周波数帯域が非常に狭いためである。このラインを用いて画像を送ると、画像は文字よりもはるかに情報量が多いから、送受信に文字の場合とは比較にならぬほどの時間をとられてしまう。通常の電話線を用いる「テレビ電話」が静止画なのはこのためである。
 しかし、電話でさまざまな画像を送れるようになるのは時間の問題だろう。光ファィバー・ケーブルが銅線にとってかわれば、電話線で高画質のヴィデオ映像を送ることも可能になる。西暦二〇〇〇年までには日本列島全域に光ファイバー・ケーブルが張りめぐらされることになっている。アメリカのベル研究所は、西暦二〇〇〇年までに空中波による通信をすべて光ファイバー・ケーブルの通信に切り替える予定だという。これには、空中を飛び交う電磁波の公害や秘匿不可能性をおさえる目的もあるらしい。
 電話線を通じてあらゆるタイプの映像を送受信できるようになったとき、われわれのリアリティー感覚はどのように変化するだろうか?
 SFは、こうした問いに対して示唆に富むヒントを与えてくれるようにみえるが、実際には、進んだメカの氾濫する周囲の環境ばかりが強調されていて、それらにとり囲まれた人間たちの方は旧態依然としており、そのリアリティー感覚はわれわれとあまり変わらない姿で記述されている。「サイバー・パンクSFの旗手」として有名なウィリアム・ギブスソの『カウント・ゼロ』一早川書房一もその例外ではない。前作『ニューロマンサー』では、コンピューターのなかの世界と"現実"世界一身体的世界一との境界線があいまいになっている部分がかなりあり、それがかえってこの小説の新しいリアリティーになっていた。ところが、最新作では、極く月並みのリアリティー感覚に逆戻りしてしまい、コンピューター・スクリーンのなかの世界と身体的世界とがきれいに書き分けられているのである。これではもはや「サイバーパンクSF」と呼ぶことはできない。
 しかし、これは必ずしもギブソンや今日のSF作家の責任ではないかもしれない。そもそも、サイバースペースが作り出すリアリティーは本当に新しいのだろうか? それはひょっとして旧いリアリティーを若干粉飾したものにすぎないのではないか?
 これまでの支配的なリアリティーは移動のリアリティーである。大きさ、スピード、動きといったものは、すべてこのリアリティーに属している。サイバースペースの生みだすリアリティーは果たしてこの種のリアリティーを越えているのだろうか?
 現在われわれが普通に使っているコンピューター・ネットワークにログインして、そのいずれかのボードに入っていくとき、それがある種の移動感覚を生みだすことがある。そのボードが空間メタファーを用いていればなおさらである。「広場」「ロビー」「会議室」といったボードを選択するキーを叩きながら、実際にコンピューター外の"現実"の広場やロビーや会議室に入っていく感覚をもつようになるのは決して異常なことではない。
 近い将来こうしたボードが、単なるメタファーによってではなく映像で空間性を出すようになることは十分考えられることであり、その場合にはコンピューター・スクリーン上で疑似身体的リアリティーを感じることがますます多くなるはずである。
 このような変化は、確実に文字の世界を二次的なものにしないではおかないだろう。文字世界は、身体をある場所からある場所に運ぶという〈移動の技術〉を補完するものとして繁栄した。あるいは、それはむしろ移動の技術のプログラムとして機能してきた。逆に言えば文字世界はいつか身体的レベルで実現されるべきものとして存在したのである。
 しかし、そうだとすると、サイバースペースは、これまで文字がやってきたことを"完成"するにすぎないのではないか? またそうだとしたら、サイバースペースに住む人問がひとつも新鮮でないとしても決して不思議ではないだろう。




 サイバースペースとは、〈居合わせる〉スペースである。あらゆるものを一つの場の中で居合わせる。そこでは、「移動」や「消滅」を経験することはできるが、それらはすべて操作的なものであり、身体を移動の「零点」とするものではない。したがって、サイバースペースのリアリティ は、個々の物の動きによるリアリティーであるよりも、全体的・場的なものとなる。
 そのリアリティーが、身体スペースのそれよりも、はるかに"信仰的"となるのもこのためだ。いうまでもなく、リアリティーはレフェレソシアルなものであり、その基礎はすべて「ウアドクサ」(原信愚)とのレフェレソシアルな関係で決まる。あるスペースが"真実"だと信ずることがそこでの映像やメタファーを"リアル"なものにする。サイバースペースでは、この度合いが他のスペースよりも昂進する。
 しかし、だからといって、サイバースペースがとりわけてメタフィジヵルであるという主張は、素朴すぎるだろう。くりかえすが、サイバーテクノロジーがとりわけメタフィシカルであるのではないし、またサイバーテクノロジーがその本質において「ホーリスティック」であったり、メタフィジヵルであったりするのではない。すべてのテクノロジーにそのような要素があり、それを強調する固有の用い方があるのである。
 サイバーテクノロジーが一見「コスモロジカル」であり、認識的であるよりも宗教的なのは、われわれがまだこのテクノロジーに慣れていないからである。早晩われわれは、このテクノロジーの〈非形而上学性〉にうんざりさせられることになるだろう。
 こう考えることもできる。サイバーテクノロジーが、現在、機械テクノロジーなどに比べて一見「メタフィシカル」なのは、この技術がとり巻かれている環境条件のためではないかと。つまり、サィバネイトな電子テクノロジーとともに出現する「グローバル・ブレィソ」的、「ホログラム」的、「ホロニックス」的なリアリティーは、このテクノロジー自身から来るのではなくて、テクノロジーの諸形式がどう変わろうともつねに変わらずにとどまっているものの方から到来するのではないかということだ。「新しい」テクノロジーは、そうした〈古層〉を隠したり、暴き出したり、強調したりするにすぎないという解釈も成り立つだろう。が、そうだとすれば、そうした〈隠蔽・非隠蔽〉の作用において有力なテクノロジーとそうでないテクノロジーとを区別することはできる。そして、その点では、サイバーテクノロジーがそうした〈古層〉の比較的強力な〈非隠蔽〉機能を持っているということを認めるのにやぶさかではないのである。4
 サイバースペースは、むろんそれ以前の技術とは全く異なるポテンジャリティーを持っている。問題は、そのポテソジャリティーを本当に発揮したときどのような事態が生ずるかである。
 サイバーテクノロジーのポテンシャルは、身体技術ではなく複製技術である。確かに文字も複製技術の産物であり、すべての情報技術は複製技術であるが、複製されるのは文字そのものであって、文字世界は決して複製世界ではない。それは、何らかの抽象を伴う世界であり、〈似たもの〉一イマーゴ一が同時出現する世界ではない。
 複製技術は、写真とともに始まった。やがてそれは、映画、蓄音機、ラジオ、テレビヘと拡大されていく。そこでは、潜在的には、確実に文字スペースとは違ったことが起きていたはずである。
 イマーゴが同時に出現するということは、移動の終りを意味する。複製技術以前には、何かが同時に存在するためには、移動の技術と記憶の意識とが存在しなければならなかった。ある人がA地点からB地点に移動するとき、わたしがその人のA地点での記憶を持っているからこそ、B地点に移動したその人が"同一人物"であることがわかるのである。これに対して、複製技術は、何も移動することなく、そしてわれわれが何も記憶することなく"似たもの〃をいくつでも出現させる。
 移動の文化の終りは、活字世界の終末に尽きるものではない。運動や冒険のためには移動するとしても、コミュニケーションのためには決して移動しないということが常態となるだろう。すでにその徴候がいくつも現れている。
 かつて、家を引っ越すとき、その庭に植木があったとしたら、それを荷物といっしょに移転することは、ごくあたりまえのことだった。しかし最近は、それをそのまま放置してしまい、引越先で買い直すということがむしろ普通になってきている。犬や猫のような有機的身体を持ったペットの場合でも、引っ越すときに捨ててしまい、引越先で新たに買い直す人が出はじめている。これは、ジョルジュ・ランジユランの『蝿』が描くところの「物質送達」装置の理念を素朴な形で先取りすることであり、人間でも移動する代わりにそのつど廃棄し、そのつど作り直すというアンドロイド願望の形を変えた現れ方である。
 サイバー・テクノロジーによる「物質送達」とは、実は物質の移動という意味での「送達」とは本質的に異なるレベルに属している。そこでは何かが移動するのではなく、ある場所とある場所とに〈似たもの〉が同時に出現し、その一方が廃棄されることによってフィジカルな移動に似た現象が生ずるのである。これは、手品の常套手段である。両方の手に〈似たもの〉を握っておいて片方ずつ時間をずらして見せれば、一方の手から他方の手に物が「移動」したかのように見える。
 電磁波による送受信は、まさにこの手品をシステム化したものである。電磁波とは、一つの場所から他の場所へ物が移動するような意味で伝播するのではなく、それは個々の場をすっぽりと包む形でトータルな場を作る。無線とは、移動の技術にもとづいているのではなく、同時性の場の技術にもとづいている。そのとき電波が一方から他方に"届く"ように見えるのは、送信機と受信機とが、まさに手品師の役割を果たすからである。すなわち、送信機と受信機との違いは、機能の違いであるよりも時間的位相の違いなのであって、両者は、手品師が一方の手を開いているときに他方を閉じるのに似た時間差をたがいに作り合うのである、
 電波における移動の虚構性は、テレビ会議のような双方向の同時性のメディアにおいて明確になる。そこでは、移動よりも〈居合わせる〉という感覚の方が支配的であり、すべての動きや嵩は相対的なものとなる。5
 サイバーテクノロジーの"絶対的〃な限界を最も平明に例示しているのはSDIである。それは、このテクノロジーが発展させたものと、その発展のために乗り越えにくくなった条件との間でバラドキシカルに現れてしまったディレンマを露呈させている。
 SDIは、身体的な認知が全く介入しない戦争を想定している。それは、すでに現在の兵器において採用されているテクノロジーであり、ミサイルの標的は人間の目で判断される必要はない。電子兵器が自らその電子の目によって行なう判断の方が正確無比であるという前提に立って今日の戦争システムは構築されている。
 しかし、今日の戦争は依然として人問の戦争であり、イデオロギーや民族紛争のような"人問的"側面をあえて残している。テクノロジカルな可能性としては全く同じ外観や形態の戦闘機やミサイルを作ることができるにもかかわらず、"人間的"な戦争のルールを守ってたがいに異なるデザインや国籍を明確にするサインを掲げている。ここでは、まだ野戦時代の「武士道」的なルールが維持されている。
 しかし、SDIにおいては、戦争の全プロセスがコンピューター化されるために、そのような要素は完全に断ち切られるはずである。したがって、この戦争では、敵機を欺くということは日常化し、兵器のデザインや旗で敵味方を区別するなどというのどかな闘いは存在しなくなる。外見上は、いやそれどころか、戦争のあらゆるプログラム上においてすらも「そっくり同じ」ミサイルが飛来し、その国籍の判断に迷うという事態が恒常化する。これは、コンピューター化された複製テクノロジーの皮肉な結果である。複製技術が高度化すればするほど複製品の差異を識別することが難しくなるわけで、それだけますます高度な認知技術が要求されることになる。
 ここにおいてSDIは、実は「認知論」の最も困難な問題に直面している。ある物がある物であるということは、一体どういうことなのか? しかも、あらゆる物を複製できるとすれば、認知論的な差異とは何か?
 現在、SDIのプロジェクトにおいて最もホットな課題が認知の問題であり、それを可能にするようなAIの完成であるのもこのためである。一説によると、東芝機械のココム違反問題は、目下日本が官民一体となって開発中の「第五世代コンピューター」のノウハウをアメリカが最も有利な立場で利用するための戦略として仕組まれたという一このことは、ココム事件以前に書かれたリチャード・エナルス『スター・ウォーズ イニシァティーヴの問題』{一九八六年刊〕でも間接的に予知されている)。
 しかし、SDIのAIプロジェクトが何万人の学者さらには何千人のアーティスト一なにせこれは「直感」の問題でもあるから)を雇おうとも、この問題は解決不可能だろう。なぜならば、認知技術の発展は、同時に複製技術の更なる発展をうながさずにはおかないので、認知の技術はますます困難な状況に立たされるからである。
 複製技術の高度な発展がパラドキシカルな形で教えていることは、絶対的な認知というものは存在しないということである。言い換えれば、すべてが「同じ」ように見える物をいくらでも複製できるという状況下では、あるものの認知とはあるものを「臆見」(ドクサ)として「独断」するということ以外ではありえないということである。SDIの戦争は、その意味で、完壁なゲームとしてしか不可能であり、結局は、大統領なり首相なりが、あるいは完全にランダムな決定を行なえるようなコンピューターが、「敵」と「味方」をデタラメに定めるのでなければ、その想定自体が不可能になるのである。



情報技術としてのユダヤ主義




「ユダヤ的なもの」について語ることの困難さについて、カフカは、あるエピソードを紹介している。彼の『変身』が『ノイエ・ルントシャウ』誌で言及されたとき、評者のロベルト・ミューラーは、「カフカの物語芸術には、生粋のドイツ的なものがある」と書いた。ところが、カフカの友人マックス・フロートは、『ユダヤ人』誌の論文のなかで、「カフカの物語は、現代の最もユダヤ的なドキュメントの一つである」と書いたという。この二つの事実を対比しながら、カスカは、「難しい問題です。ぼくは、二頭の馬に乗ったサーカスの騎手でしょうか? 残念ながら、ぼくは騎手ではなく、地面にねころんでいるのです〉、とフェリーツェに語っている。2




 マルクスは、「ユダヤ人の秘密を、ユダヤ人の宗教のなかに求めるのではなく、宗教の秘密を現実のユダヤ人のなかに求めようではないか」と言った。彼は、「安息日のユダヤ人ではなくて、平日のユダヤ人」、「現実的、世俗的なユダヤ人」をみることを強調している。それは、カフカにおいては、まさに「地面にねころぶ」ことである。彼は、ミューラーが言う「生粋のドイツ的なもの」のなかに"市民社会的〃なものを、フロートが言う「最もユダヤ的」なもののなかにユダヤ主義−神学的にとらえられたユダヤ的なもの1を洞察し、両者に対してきっぱりと距離をとる。



「ユダヤ教は、市民社会の完成とともにその頂点に達するが、しかし市民社会はキリスト教世界のなかではじめて完成する」、「キリスト教は、ユダヤ教から出てきたが、それは、ふたたびユダヤ教へと解消した」と、マルクスは「ユダヤ人問題のために」のなかで言っている、その際、キリスト教が解消したところのユダヤ教とは、「金」を神とし、「実際的必要、エゴイズム」を信仰とする「宗教」である。「人問は、それゆえに、宗教から解放されずに、宗教の自由を得、生業のエゴイズムから解放されずに、生業の自由を得た」。



「安息日」と「平日」のユダヤ性を最近まで維持してきたのは東ヨーロッパのユダヤ人ーイーディッシーだった。そこには神秘主義化したユダヤ主義だけが存在するのではなく、多様な要素を混在したまま一つのフォルムを形成するしたたかな文化が存在した。エヴリン・T・ベックやハルトムート・ビソダーは、カフカが一九一〇年代にイーディッシ演劇に傾倒し、それが彼の作品に影響を与えていることを論証している一『主体の転換。、未来社参照——、イーディッシ演劇には、ユダイスムの要素と、ボードビル・ショウやアメリカン・ミュージカルにまでつながる民衆的・混成的文化の要素とがあり、概して、その歌や——言葉の側面には前者の要素が、その身ぶりや踊りの部分には後者の要素が顕著である。カフカは、おそらく.イーティソシ演劇のなかに両要素の一つの総合  従って「市民社会」以前の/を越える社会形態の痕跡  を直感したのだろう。彼は、作品のスタイルのなかにイーティッシ演劇の混成文化的・ドタバタ的要素を継承すると同時に、ウルトラ・ユダヤ主義であるシオニズムに対しても一定の理解を示す。すなわち、「シオニズムは、大多数の生きたユダヤ人の手に届く外側の先端部においては少なくとも、より重要なものへの通路にすぎません」——『フェリーツエヘの手紙』、S・フィッシャー書店)。




 民族性をその"内容"においてではなく把握する一つの方法は、それを技術の特性としてとらえることだ。その際、ユダヤ人性は〈記憶の技術〉と伝承の技術つまり情報技術において卓越した特性を示す。ユダヤ人にとっての最高の聖典ーモーゼの五書  てある『トーラー』は、特別の訓練を受けた専門技術者によって羊皮紙に忠実に転写され、世代から世代に伝えられた。「トーラー−」とは、ヘブライ語で「教養」、「教えること」という意味だ。が、『トーラー』は、、それ自体ではまだ生きた情報とはならない。それは、解釈され、使用されることによって情報として流通する。その方法は、『タルムード』に要約されているが、これは、『トーラー』の諸解釈を系統化し、要約したものにすぎない。解釈方法は、もともと口伝によって伝えられた。そのため、『トーラー』は、「書かれた律法」と言い、『タルムード』は、「口承の律法」という。しかし、『タルムード』は、原理ではなく、手がかりにすぎない。




『トーラー』と『タルムード』は、二重の意味で言語の同一性、「言呈叩と事象との合致」を予防する。『トーラー』は、書かれるが、それは個々の読者によって——今日の本の場合のように——黙読されるためではなく、多数の人々によって解釈され、語りつがれるためである。そして『タルムード』は、全六三巻という彪大な形態においても、読まれ、参照されるというより、『トーラー』にはかくも多数の解釈があり、しかもそれは要約にすぎないということを物的に黙示し、『トーラー』の伝承をさらに多様化し、活性化する機能をもつ。『タルムード』は、変調器であり増幅器であり、シンセサイザーなのだ。キリスト教は、『聖書』に対して、これほどの情報差や情報の変調を許さない。『聖書』の言語は、結局、同一性の言語であり、キリストという超越論的な人格−主体と事象との合致をもって真理とする方向を進むことになる。それは、情報の伝承、差異化ではなく、情報との一体化をめざす。その理想は、無歴史性−瞬間性であり、すべてのもの、すべての人  情報場  が、いま・ここにおいて"聖なる"情報と無媒介的に一体化することである。キリスト教が、市民社会の理念を先取りするのはこの点においてであり、その理念においては、人やものは、歴史や時間を越えて、端初1"聖なる"情報に結びつくのであり、キリストの体験に各人がいま・ここにおいて合体するのである。




情報論的にみると、キリスト教は、情報の通過点・通路、情報場に"中心"を措定する。つまり、どのような情報がその"場"に流れる際にも、いま・ここにおいてしか流れないようにあらかじめプログラムされている。これは、『トーラー』や『タルムード』の情報の流れ方とは極度に異なっている。キリスト教にとって、身体は、最終的に消滅せざるをえないそれは、キリストと一体化し、いま・ここの存在となる。ユダイスムにとっては、身体は、移動する情報場であり、かつてあり、そこにあることができる。情報場に"中心"が設定されてはいないからである。一つの情報場と他の情報場とは、たがいに波紋を起こしながら結びつき、くりかえしのない流れをつくっている。




 身体に対するキリスト教とユダヤ主義との異なる対応は人造人問や人工知能に対する発想のちがいとして現われる。『タルムード』によると、アダムはちりを集めて作った「形のない魂」に魂を吹き込んで創造された。十七世紀にボヘミア地方に広まった「プラハのゴーレム」伝説は、プラハのラビがゴーレムという人造人間を造る話である。これは、グスタフ・マィリンクの小説『ゴーレム』——一九一五年——でとりあげられているし、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』——一九二六年——にもひきつがれている。イスラエルのワイツマン研究所ではじめて[後記:これは正確ではない。GOLEM Iの前身に同研究所によるWEIZAC(1954)がある]コンピューターが作られたとき(1964)、それは「ゴーレム I」(GOLEM I)と名づけられた。しかし、現在のデジタル・コンピューターとゴーレムとのあいだには大きなちがいがある。すなわち、前者は、身体を消滅させてロゴス  つまりはキリストの原情報  を無限に遍在——同一なるものの永劫回帰——させるための技術の一つであるのに対して、後者は、情報の流れを限りなくひき移す  トランスミットする技術である。




 ゴーレム伝説は、一面で、情報の流れを閉ざされたゲットーのなかで、情報の新たな流れ、情報場の新たな出現を願望する人々の願望を表現している。滞留した情報は、身体に沈澱し、記憶され、新たなトランスミッションを待つが、それは都市の街路にも沈澱する。プラハの街路は、そうした記憶装置として、特別の位置に立っているようだ。F・マリオン・クロフォードは、『プラハの妖術師』——一八九一年——のなかで、その登場人物にこ三言わせている。「プラハの街路は、人問の脳と同じ原理でつくられているから、曲がりくねった道や、暗い横丁や、陰気なアーチ道が沢山あって、どれがどっちに通ずるのかわかったりわからなかったりなのだ。プラハの地形が、絶えずその住人を迷わせるのは、人問の脳の渦巻きが、脳のなかにある考えを迷わせるのと同じなのだ」(木内信敬訳、国書刊行会)。
 このような街路では、ときとして、もはや記憶のキャパシティを越えた情報が出口を求めて異常な"放電〃を起こすことがある。グスタフ・マィリンクは『ゴーレム』のなかで、ゴーレムの出現を次のように説明する。「むし暑い日に電圧が耐えられんとこまであがっていって、しまいにぱっと稲妻になって放電するみたいだな、このゲットーの空気中にいつまでも変質せん想念が徐徐に欝積していって突然ぱっと放電するんだとは考えられんかね?1つまりそれはわしらの夢の意識をぱっと明るみに連れ出すような魂の放電で、それが自然界じゃ稲妻を生むみたいにーここじゃ幽霊を生むんじゃないかな」——今村孝訳、河出書房新社——。「魂の放電」とは、情報の放電である。


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 市民社会はゲットーを解放する市民社会においては、"ユダヤ人〃は存在しないはずだ。そこでは、歴史や民族は消滅する。しかし市民社会は、「現実的な個体的人問が抽象的な公民を己がうちに取りもどし、個体的人問としての彼の経験的生活のなかで、彼の個人的労働のなかで、彼の個人的境遇のなかで類的存在者になるL——真下信一訳『ユダヤ人問題のために』、大月書店——ことを可能にしないだろう。市民社会の終末は情報社会であり、そこでは、エレクトロニックスの情報テクノロジーがそれまでのあらゆる価値規範を解消してしまうので、新たな情報価値規範を作るために、情報のゲットーを建設しなけれぼならないからである。
 電子テクノロジーは、新宿と渋谷、ホンコンとニュiヨークとの情報距離を解消し、空間的なゲットーと情報の空間的所有を無意味にするとすれば、新たなゲットーは、時間のなかに作られるしかない。が、そうだとすれば、すべての造反もまた、「社会のユダヤ的狭隆さ」をめぐってではなく、時間の「ユダヤ的狭隆さ」——今日では、時間の日本釣忙しさと吝薔さ——をめぐって惹起されることになる。



エイズと〈伝染メディア〉の終焉


1

 西洋的文明の最高の皮肉とは、それはその存続のために戦争と難病を必要としたということだろう。この文明が発達するためには、戦争と病気のもたらす危機がたえず大きくならなければならない。世界を破滅させることのできる兵器や疫病が生まれなけれぼ、"世界"的規模の文明は生じえなかった。
 核兵器やSDIによってこのことを容易に理解しやすい戦争に対して、病気は一見、文明が歓迎せざる災禍のように見えるとしても、現実に病気は文明が進歩するための歴史的メルクマールをつくってきた。古代の癩病、中世のベスト、ニハ世紀の梅毒、一九世紀の結核、二〇世紀のガン、二〇世紀末のエイズはすべて、社会を"世界〃化し、テクノロジーを高度化する要因になってきた。
 実際、こうした方向を明確な現実のもとに組織的に進展させようとするのが資本主義システムである。資本主義とは、ノアの箱舟が残りさえすれば、あるいはアダムとイブが残っていれば、他の人類はすべて滅んでもかまわないかのように機能するシステムであり、「超人」を一人残して全人類の滅亡の危機が深まれば深まるほど、資本主義は完成に近づくのである、
 むろん、ここで言う資本主義は、「社会主義」や「共産主義」を標袴する国々のシステムの対概念ではない。そういうものは、イマニュエル・ウォーラーステインも言っているように、「あくまで現在の現象であるにすぎず、したがって、歴史的・資本主義的な世界システムのなかで起こっている現象であるにすぎない」——川北稔訳『史的システムとしての資本主義』、岩波書店——。資本主義とは、より大規模でより持続的な資本蓄積をめざそうとする歴史的な〈運動〉であり、それは、〈現にあるもの〉をことごとく〈未来〉のために投資する。その際、その〈未来〉は、〈現にあるもの〉の将来の形態ではなく、何よりもまず、〈現にあるもの〉をその存在のしがらみから引き離し、資本として循環・交換可能にする力をもちさえすれぼよい。
 こうした資本主義の世界化は、一五世紀から一六世紀のヨーロッパではじまり、一九世紀末までに地球全体をおおうに至ったが、交通機関の発達とともに疫病はこのシステムの発達に貢献した。商品とは、依然としてマルクスが言ったように「労働の対象化」であり、脳・脊髄的身体の諸活動の物象化である。資本主義的な交通機関は、そうした商品をより遠く、より広く流通させようとする。しかし、交通のテクノロジーだけがいくら発達しても、「労働の対象化」が限りなく進まなければ、資本主義的な交通システムは成立しえない。そしてそのためには、身体自身を限りなく対象化できる自己疎遠性を身につけなければならない。
 疫病は、他者および自己の身体に対して距離をとらせる文化装置——〈距離の文化〉——としては極めて効率が高い。病気の身体を気づかったり、嫌悪したりすることは、身体を自己対象化するためのトレーニングであり、「労働」の正当性を保証するものとなる。村上陽一郎の『ペスト大流行』——岩波書店——によると、ヨーロッバでは、二二七四年にレッジオのベルナーボ公がペスト患者の隔離条例を発布して以来、各都市がこれにならって隔離規制を設けたという、が、この時期は、ペストの大流行が一応終煉した時期であり、この条例は事実上、ペスト患者を衛生的に隔離——実際には患者遺棄——することに役立つよりも、"病人"と"健康者"、"病気の身体"と"健康者の身体"との差異を社会的に明確化することの方により一層役立った。





 ペストの大流行を資本主義システムの発展に活用したのは印刷術である。グーテンベルクの活版印刷術は、"息のかかる"距離でのオーラル・コミュニケイションに対して〈距離の文化〉が定着するにつれて普及していったが、他者の身体が致命的な病気の感染源となりうることを最も強烈な形で人々に教え、〈距離の文化〉の定着に貢献したのはペストだった。
 資本主義にとってコミュニケイシヨソとは"伝染"であり、情報の伝播とは"伝染病"である。グーテンベルクの印刷術は、ベストの大流行が終焉すると、それをメディア化した形でひきついだ。ピエールニァェィユによると、「ニハ世紀を支配した精神病理はサタニズムである」が、この「サタンの〈伝染〉は、印刷術によってかなり容易になっていた」——中川米造・村上陽一郎共監訳『病の文化史——下——。、リブロポート——。いわば、活版印刷本という新しいメディアがネズミやノミに代わって活字の"ペスト菌〃を伝染させた。
 このメディア化されたベストとして最も顕著な例が一四〜一七世紀における魔女狩り・ブームである。森島恒雄の『魔女狩り』——岩波書店——によると、一五世紀の後半から「魔女の異端性を論証する専門的な魔女論がにわかに、しかも続々と、現われ始めた」。とりわけヤーコプ.シュブレシガーの『魔女の槌』——一四八五年——は、「魔女裁判官必携の、理論と実践両面にわたるまさに『魔女のすべて』であった」。本書は、ピエールニアェイユによると、一四八六年から一六六九年までのあいだに、リヨン、フランクフルト、ニュールンベルク、ヴェネツィア、パリで少なくとも三四版を重ねたと言われ、森島によると、「この時代としては珍しい一八折のポケット版がつくられた」。
 魔女狩りとは、教会権力がスケープ・ゴートを担造することによって社会的矛盾のはけ口をつくり出すことではない。それは、単純すぎる説明理論にすぎないだろう。むしろ魔女狩りとは、ベストによって焚きつけられた新たな身体変革の——プロセスであり、やがてプロテスタント的倫理として〈労働〉つまりは身体の自己対象化を当然のこととする文化を生み出すための一過程であった。その点で魔女狩りは、決して中世の「不合理な伝統」の復活や残津ではないのであって、プロテスタントがカソリック以上に魔女に対して不寛容であったのは当然であった。
 マルチン・ルターは、「魔女を皆殺しにしたい」と語ることをはばからなかったが、プロテスタント教会の実力者ジョン・ウェズリーが、「魔女を黙殺することは聖書を黙殺するのに等しい」と言っていることは文字通りに受けとるべきである。すなわち、魔女の存在は書物——聖書は活版印刷によって普及した——の存在を否定するのである。魔女とは、悪魔と結託して超能力を発揮する者とみなされるが、魔女によってひき起こされるのは身体異常つまりは病気であり、なかでも性器や生殖に関する病気が多いと考えられた。魔女裁判の記録は、大抵魔女の身体的特徴が一般人とは異なっていることを強調しており、魔女の身体的特徴を極めてセクシーなものとして記述している。魔女とは、まさに活字メディアに対立するオーラルなメディアの代表であり、活字文化の定着のためには魔女に代表されるオーラルな身体が徹底的に変革されなければならなかった。
 メディア論的に考えた場合、魔女の"誘惑"はペストのように"伝染"するわけではない。それは、魔女が意志し、その身体を自己操作したときのみ可能である。ペストの伝染は、それがウィルスによって媒介されることが判明する以前から、それが人問の意志を越えたものであると信じられていた。ベストのメディアは、身体の自己操作性を越えた自己増殖的なものであった。活版印刷は、こうしたペスト的メディアの自己増殖性を積極的に体現した最初のメディアである。
 しかし、資本主義システムは、疫病の理念をより徹底化させようとする。それは、一四世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストの記憶を捨てることができない。もしベストが操作可能なものになるならば、このシステムはよりしたたかな疫病をつくり出さなければならない。資本主義システムはチャレンジなしには生き延びることができないからである。
 そうしてみると、一九世紀になってローベルト・コッホが結核菌を発見したときとは、それは、まさに活字メディアを越える新たなメディアの必要性が告知されたときでもあった。活字メディアは、依然として身体をモデルとしたメディアである。従ってその自己増殖性には限りがあるし、その操作は読者−身体にゆだねられている。それは、読者−身体をその意志に関わりなく変革してしまう資本主義的メディアとしては不十分である。それゆえ、資本主義システムはウィルスをこそメディアにしなければならない。もしそれが可能ならば、資本主義システムは、ペストの理念を意のままに現実化し、身体をつねに永続する〈ペスト〉状態に置くことができる。そこでは身体は死滅しはしないが、対象の完結としての死に限りなく近く自己を対象化することによって、身体を資本として投資し続けることができる。




 一九世紀末から二〇世紀初頭に電磁波による通信技術が発明され、やがてラジオやテレビの時代がはじまったとき、ペストの理念は活字よりもはるかに理想的に実現されるようになった。電子メディアはベストの効果をもつように見えた。メディアの"ペスト的〃効果と機能についてはここでは省略しよう。わたしは本書で日本のマス・メディアの"ペスト的〃な諸症状をくりかえし記述・批判してきた。日本の資本主義システムにとって、電子メディアは有効な"伝染病〃として機能している。人々は、それを自ら操作することに絶望しており.システムはその絶望を利用して、人々の身体を改造しつつある。ベスト患者の身体は、「神」か「悪魔」の手にゆだねられるしかなかったが、〈電子的ペスト患者〉の身体は、最終的にアンドロイドになることが想定されている。
 しかしながら、電子メディアの発達がより徹底した形で進んだ国々では、電子メディアは資本主義システムを裏切りはじめている。電子テクノロジーの発達と浸透は、電子装置のコストを年々引き下げ、個々人が電子的なメディア装置を所有し、利用することを可能にしたため、電子メディアの"ペスト的"効果が薄れできたからである。たとえば一九七〇年代のイタリアではじまった自由ラジオは、同じラジオ・メディアが身体に自己対象化を強制するのではなく、逆に自発的な自己対象化をうながすことを明らかにした。また、アメリカ合衆国やカナダでは制度的にも通信衛星への個人的・市民的アクセスが可能であるために、マス・メディアの機能は従来のものとは大幅に変わりつつある。マス・メディアは必ずしも〃伝染"の機能を発揮しないのであり、場合によっては資本主義システムにとっては不都合な身体の〈脱距離化〉をうながすことが明らかになってきた。
 おもしろいのは、まさにこのような時点でエイズが登場したことである。エイズすなわち〈後天性免疫不全症候群〉は、一九八三年にその病原体がウィルスであることが確定された。エイズのウィルスは、血液、精液、唾液、涙等の体液のなかでも発見され、エイズはそれらの直接交換によって生ずる。エイズは、身体の最も第一次的な〈脱距離化機能〉に対する挑戦であり、他者の身体に対して〈距離〉をとらなければ、免疫システムの機能低下  つまりは〈感染〉機能の飛躍的向上を招くのである。それゆえエイズにかかれば、その患者はあらゆる疫病に感染しやすくなり、その感染の多様化と敏感さは電子メディアの比ではない。
 情報の"伝染"度からすれば、もともと電子メディアは〈分子メディア〉にはかなわないしかし、ペストは、ウィルスの伝染効率の点では抜群だとしても、情報〃伝染"のためには使いにくい。伝染病をメディアとして用いるためには、それがある程度統御可能でなければならない。その点で、性病は極めて有効なメディアだった。
 実際、一五世紀から一六世紀初頭にかけて急速にヨーロッパに広まった梅毒は、イギリス人の意識と社会的身ぶりとを変え、ピューリタンという新たな社会集団と勤勉に労働する身体とを生み出した。そしてこのピューリタンによって建国されたアメリカ合衆国は、大陸の資本主義をさらに前進させた。労働がすべて賃金に換算されるシステムは、梅毒のメディア作用なしには定着しえなかったのである。
 梅毒は活字の普及が生み出した〈距離の文化〉に対する反動としての肉体主義の結果としても理解できるが、ピューリタニズムはこの肉体主義を時代錯誤的なものにした。
 エイズは、一九六〇年代と七〇年代に定着した〈脱距離化の文化〉の反動として姿を現わす。すでにエイズは、フリー・セックス、ドラッグ——マリュワナを回わす際の唾液の交換、ヘロインを注射する針による血液の交換)、ホモセクシュアルといった文化を後退させつつある。これらの文化は、一九五〇年代のアメリカで一つのピークに達したメディア的文化(赤狩り、マリリン・モンロー、ローゼンバーグ夫妻……)に対する造反として生まれ、ピューリタニズム的資本主義にゆらぎを与えた。資本主義は再編成されなけれぼならなくなった。六〇年代後半から七〇年代初めにかけての「反体制」文化はこうして生まれたが、それがいま最終的にエイズによって結着をつけられようとしている。




 一九七〇年代末にニューヨークを中心にしてエイズが急速に広まる以前から、「反体制」文化やボディ・ポリティクスはすでに衰退しはじめていた。六〇年代のヒッピーとヒッピー・カルチャー、ニュー・レフトやニュー・ジャズは、一次元的な資本主義システムとマス・メディアからのドロップ・アウトを通して生まれたが、七〇年代末から八○年代にかけてのヤッピーは新たな——"多元化"した  資本主義システムとマス・メディアのただなかから生まれた。六〇年代にはそれだけ読めば済む『ヒッピー・ハンドブック』はなかったが、八O年代には『ヤッピー・ハンドブック』が出版され、それが新たなヤッピーを生みもした。ヒッピーにとって身体はすべての拠点であるが、ヤッピーにとっては身体はいつでも交換可能な〈情報場〉にすぎない。それゆえヒッピーは、各自のイディオシソクラティックな身体的偏癖を基準にして行動し、思考しようとしたのに対して、ヤッピーはシステムによって保証された情報価値を基準にして動く。
 ヤッピーは、いわばエイズと情報の時代のピューリタンである。『ヤッピー・ハンドブック』——平野次郎訳、ダイヤモンド社——によると、ヤッピーは「結婚してもヘルペスにかかるのを避けるために事実上の独身を通すことが多い」と書かれている。が、他面では、「ヤッピーの新独身主義は、彼らがセックスのために使う時間を持ち合わせていないことだけに起因する」。「皮肉なことにヤッピーたちはセックスを行なう時間が少なければ少ないほど、セックスについての本を多く読むようになる……ディナー・パーティでこうした話がいつ出てくるかわからないからである」。これらの記述は、いずれもステレオタイプ的なものであり、それらを完壁にみたすヤッピーは存在しないかもしれないが、ヤッピーの傾向を的確に表わしている。
 ハッカーもある点でエイズ文化の地盤を準備した。ハッカーには六〇年代のヒッピーや「反体制」的知識人の造反文化が流れ込んでいるが、最も造反的だと思われるようなハッカーのなかにも、〈距離の文化〉が明確に見出せるのである。
 バークレーのコミュニティ・メモリー(誰でもがアクセスできる"公衆端末"をもったコンピューター・ネットワーク)の創立者の一人であるリー・フェルセンステインは、一九六四年のフリー・スピーチ運動に加わったニュー・レフトであり、MITハッカーとは異なり.コンピューターを通じて人々を出会わせること、ロバート・ハインラインが『二一〇〇年の反乱』で描いたような官僚制の打倒と「革命」を夢見る青年であったが、フェルセンステインの仕事と生いたちにかなりのページをさいているスティーブン・レヴィの『ハッカーズ』——アンカー・プレス/ダブルデイ——によると、「運動のなかでバークレーの荒っぽい、勝手気ままな社会活動に深入りした多くの人々とはちがって、リーは、とくに女性との緊密な人問関係を避けた」という。「彼はドラッグを常用しなかった。彼はいかなるセックスにも関わらず、フリー・スピーチに同伴したフリー・セックスには無関心であった」。彼の「親友」はマシーンであり、彼の「ルーム・メイト」はコンピューターだった。本書の終わりの方でレヴィは今日のフェルセンステインについて次のように書いている。

 リー・フェルゼンステインは、スーツを着こなし、女性に言いより、聴衆を魅惑するすべをすでに身に着けていた。しかし、重要なのは依然としてマシーンであり、人々へのそのインパクトだった。彼には次のステップのためのプランがあった。・・・「われわれは、いまより一層共生的な、人問とマシーンとの関係を見出さなければならない・・・・」と彼は言った。

 フェルセンステインは、ハッカー第一世代のMITハッカーのように、特権的な領域のなかにとじこもるためにマシーンに執着するのではなく、人々の「共生的」な関係を掘り起こすためにそうする。これは、ある意味で、CBから衛星通信にいたるあらゆる電子メディアをオルタナティブに使おうとしたメディア・アクティヴィストが経験した方向である。
 しかしながら、これは資本主義システムの逆説的部分であり、それはこのシステムの致命傷になるわけだから、エイズは、最先端の疾病として、電子メディアのこうした逆説的な方向を転換しなければならない。言い換えればエイズは、ヤッピーの〈距離の文化〉とともに、ハッカーの逆説的なく距離の文化〉——つまり〈距離をとる〉のは戦略であって、結果的に人々をオーラル・レベルで出会わせてしまうハッカー文化1をもとりこまなければならない。そしてそのためには、エイズはもっと猛威をふるい、人々にその身体的接触を恐怖させ、コンピューターネットワークを通じてのみコミュニケイションをもつような最高度の〈距難の文化〉を定着させなければならない、ということになる。しかし、問題は、そのとき資本主義システムはもはやそれ自身であり続けることができるかどうかである。5
 エイズは、これまで自明のものとしてきた「身体」と「国家」という概念を根本的に考え直すことを要求している。わたしは、そのうちでもとりわけ国家に対するエイズの影響に関心を持っている。
 エイズは、身体の免疫機構を崩壊させるが、それは同時に国家の"免疫機構"をも崩壊させうる。だからこそ、各国はエイズ対策にのり出したわけであり、そうした対策のなかに各国の国家観と身体観が現われる。アメリカは、いち早く国際的規模での対策に着手した。オランダは、国内のエイズ患者に対して極度に寛容であり、日本は、明らかに外国人締め出しに通じる「エイズ立法」制定の構えに出ている。「免疫」(IMMUNE)という言葉は、ラテン語のIM+MMUNUSつまり「義務や職務から免れていること」から出ており、もともと国家や法との関係が深い。それゆえ、伝染病がすぐさま国家の法的規則の対象になるのは決して偶然ではない。むしろ、「免疫」は国家の必然的条件であり、国家の存立と「免疫」とはともに補完的な関係にあるのである。
 考えてみると、「免疫」は国家概念を身体に強制したところに生ずる概念である。身体に免疫機構があるというのは近代医学の発想であって、それが身体に実体的に存するというわけではない。むろん、それに類する機能は存するわけだが、それを「免疫」として規定することは近代の発想なのだ。
 インド(むろんインドだけではないが)を旅する者は、大半の者がしぼらくのあいだ下痢に苦しむ。しかし、やがてそれはおさまり、屋台で売っている食べ物や生物を食べてもそう簡単には下痢をしなくなる。近代医学の発想からすれば、これは「免疫の成立」ということになるが、免疫のオーセンティックな理念からすると、ここから一歩先んじてあらかじめ薬物を投与して下痢を防ぐということになる。「免疫」とはまさに抑止の概念を含んでいるのであり、それは、防衛と直結した発想なのだその意味で、エイズに対する各国の対応を見てみると、そこには防衛に対する各国の姿勢の違いが現われており、エイズは逆にこれまでの防衛観に変更を求めてすらいる。
 ところで、防衛とは、暴動や侵略の危険があるからなされるのではなくて、むしろそれらを要請するのであり、核兵器による防衛はますますその性格を強くしている。防衛や免疫には、対抗という概念が前提されているから、たえざる脅威がなければ自己の機能を充実させることができないのである。
 してみると、エイズの蔓延は、核兵器の国家的"免疫機能〃の衰退と無縁ではないかもしれない。最近ソ連がアメリカに対して大幅な軍縮提案をしているが、核の外交力は近年衰える一方である。軍事は依然抑止の力を持っているし、戦略丘ハ器は作られているが、核はもはや一九五〇年代の抑止力を持つことはできない。それは、最近のハリウッド映画で反核がもはやタブーではなくなってきたことのなかにも現われている。
 マイク・ニューウェル監督の『サイレント・ヴォイス』は、モンタナ州の小さな町に住む少年がついには世界の核丘ハ器を廃絶させることに成功する話である。父親のコネでたまたま核、・・ザイル基地を見学した少年は、その恐ろしさと馬鹿らしさを実感し、リトル・リーグのエースの座を捨てる。が、このミクロな出来事が思わぬ展開を見せる。プロ・バスケットのスーパースターがそのニュースを知り、少年の「拒否」に加わる。ここから、このアウトノミア的な"運動"が世界中にひろまってゆくのである。アメリカらしい夢物語と言ってしまえばそれまでだが、平凡なハリウッド映画のなかにはっきりと核廃絶のテーマが登場し、しかもそれが市民レベルのミクロポリティクスの結果として描かれるようになったのは、明らかに時代の変化である。軍事的なレベルから見ても、もしエイズがこのままひろまってゆくならば核の有効性はますます落ちてゆくだろう。軍事とは国家によってなされる統制経済であり、国家は兵器と防衛に対する投資と、戦争という再生産を行使せざるをえないが、エイズは戦略的にみても核兵器よりはるかに経済効率が高い。
 防衛や戦争への動員は、上からの強制だが、エイズ予防は、市民的レベルの自発性を無視することはできない。逆に言えば、エイズの名において国家は非常にソフトなやり方で国民を管理できるわげであり、警察権力の助けを借りなくてもある種"自発的"な動員をかけることができるのである。6
 資本主義システムとは、疫病に対抗する身体——つまりは免疫システムーの諸反応を病原とは別の手段によって永続させようとするシステムである。それゆえ、メディアは免疫システムを、情報はウィルスを限りなく模倣しようとし、資本主義システム自身が免疫システムに近づこうとする。情報資本主義とは、電子的テクノロジーによって免疫システムをシステユレートしようとする資本主義の最終段階であり、ここではすべてのシステムが情報システムに統合される。
 フランシスコ・J・ヴァレラとネルソン・ヴァズによれば、免疫システムとは、「そこへ抗原を投入しないかぎり何事も起こらない空虚な拡がり」ではない。それは、「外向きのレセプターをもった、すなわち異物との不可測の遭遇に備えた相互に無関係なリソバ球クローンの集合」ではなくて、「レセプターが内向きの、すなわちリンパ・システム全体の活動を自分自身へと内巻きに閉じ込むような相互作用のネットワーク」であるという(小泉俊三訳「自己と無意味」、『現代思想』、一九八四年一二月号)。
 そうだとすれば、免疫システムは抗原にさらされてから作動しはじめるのではなくて、すでにつねに作動しており、生体内に異物が侵入したときに呈する免疫システムの反応は、一種の共鳴ないしはネットワークの組み替えなのである。これは、電子的なトランスミッターとレシーバーとの関係に似ている。電子的なコミュニケイションは、情報というボールが一方から他方へ移動することによって可能になるのではなくて、トランスミッターとレシーバーとが電子的な手段によってそれぞれつくり出す電磁場が共鳴しあうことによって可能になる。ヴァレラは、「生体は外界分子の『内部イメージ』に応答するのであり、すなわち、ネットワークが以前より利用していたことはに翻訳された『意味』に応答するのである」と——言い、外界の高分子が体内に侵入する場合、「もしこれら高分子の表面の詳細(抗原決定基——が、抗体の結合部位、あるいはリンパ球の他のレセプター部位にきちんと合致するように偶然表現されていれば、生体は、こうして侵入してきた分子を自己成分と間違い、ネットワーク内に取り込んでしまう」と言っている——前掲論文——が、電子メディアはまさにこの過程を素朴なやり方で模倣しているのである。
 脳や知覚のシステムも、免疫システムとの情報論的アナロジーで説明することが可能だと思うが、いずれにしても、身体を〈情報場〉の相互反応と自己組織化のシステムとして一般化することは、今日の資本主義システムのなかで身体が置かれている状況を若干見えやすいものにするだろう。
 資本主義システムとは、免疫システムの〈拡大コピー〉をつくり続けることによって発展してきた。従ってそこでは、個々の免疫システム——身体——が伝染病に感染して一定の様式で統合されるということが前提されており、〈拡大コピー〉の装置としてのメディアは当然そうした同一化と統合の機能を追求することになる。
 しかしエイズはこのような前提を根底から突きくずす。というのも、エイズは伝染するが、その症状は千差万別で、統合するのが困難であり、この伝染は、統合というよりも、横断的.自律的な連動だからである。ここでは、従来の意味での伝染は無効となる。
 それゆえ、こうした〈同時多発〉によって構成される世界は、「蓄積」、「統合」、「増殖」といった資本主義の理念からは決定的にはずれて行く可能性をもつ。資本主義は、こうした事態に対して、「分散型の管理」や「多元帥なシステム」という代案を対置しようとしているが、分散化や多元化を徹底させるならば〈システム〉という概念そのものが解消されることが次第に明らかになってきた。資本主義システムは身体なきシステムとなるか、それとも目分自身を解消するかという最終的な選択に直面しようとしている。



あとがき


 マス・メディアが大衆意識を均質化する装置である時代は終わろうとしている。全体を大枠にはめようとするメディアは無用の長物になりはじめている。というのも、社会も産業もいまや何らかの意味での〈多元化〉を求めざるをえなくなってきたからである。
 元来マス・メディアは、政治や産業が陥りがちな一元化を内側からゆすぶる機能を負っていた。が、日本のマス・メディアは、メイン・ストリームの政治や産業の目先の関心にのみ忠実で、そうした機能の追及を怠ってきた。結果は、「昭和の終り」に露呈した。それは、「国際化」の道をまっしぐらに進んでいる国のマス・メディアとしてはとても信じられないような時代錯誤的な事態であった。
 日本のマス・メディアは、いくら悪ノリしてもしすぎることはないと思う。新聞や雑誌は、既存の枠組などにはこだわらずに、毎号ランダムな割付をするくらいフリーになった方がよい。新聞は、テレビ・ニュースの不十分な要約や解説の役割に甘んじないで、活字メディアにしか出来ないことをもっともっと実験すべきである。
 その点、ラジオやテレビは、やる気になりさえすれば、いつでも多元化できるはずだ。活字メディアの場合には、その技術的な特性からして、フリーにすればするほどコストがかさむかもしれないが、ラジオやテレビの場合には逆である。
 電子メディアは、その技術的特性からすると、人を〈はめる〉メディアではなく、人に〈あわせる〉メディアである。ところが、現実には、あわせているのは出演者の方であって、テレビやラジオが人を型にはめている。これでは、せっかくの電子メディアが活字メディア以下の機能しか発揮できない。
 ヨーロッパの自由ラジオのように、あるいはアメリカやオーストラリアのパブリック・ブロードキャスティングのように、日本のラジオやテレビのなかにもっとフリーなスペースを作ることは出来ないものか? 〈いま〉を感じさせる気まぐれ、ノイズ、ハプニングを自由に放送できる番組やスペースが日本のラジオ/テレビには欠如している。
 リスナーの電話が何十分も電波に乗ったり、たまたまスタジオを訪れた人が番組に出てしまうというようなことがあってもよい。テレビの技術的特性からすると、テレビは映像の〈広場〉になるのが一番自然だと思う。
 テレビカメラはいつもオンになっており、それを使いたい者が勝手に使う〈広場テレビ〉という二十四時間テレビがあってもよい。二十四時間が無理ならば、たとえ一時問でもテレビカメラを放送局のロビーなり、公共の広場なりに据えっぱなしにして、あとはそこに集まる人たちにまかせてはどうか? それを政治的に使う人、商売のために使う人……色々な人が集まるだろうが、そこで生ずる「混乱」を解決する試行錯誤のなかで、この社会の質も試され、厚みを増すだろう。
 マス・メディアに代るものは、ミニ・メディアではなくて、フリー・メディアである。マス・メディアが終わっても、フリーなメディアが登場しなければ、コミュニケーション状況は一向に創造的にならない。ワープロ、FAX、コピー機、パソコン、ヴィデオなど、パーソナルなエレクトロニクス機器の普及によって、ミニ・メディアは花盛りであるが、これらが、みな似たような画一的な使われ方をしていたのでは、マス・メディア時代と状況は変わらない。
 ミニ・メディアは、それに関わる個人の姿勢次第で簡単にフリーなメディアになりえる点がマス・メディアとは異なるところだが、サイズがミニになればフリーになるわけではないフリーにならなければならないのはミニ・メディアも同様である。『メディアの牢獄』を上梓してから早くも七年の歳月が経過しようとしている。あの本で推論された事態、つまり電子メディアが浸透するにつれて生ずるであろう身体のアンドロイド化、資本と商品の情報化、電子テクノロジーによる家族、集団、組織の再編等々は、この七年間に倍化された形で現実化し、それにつれて、社会や文化の矛盾や困難をすべて「電子メディア」や「電子テクノロジー」に還元して済ませる論法も一般化した。
 エレクトロニクスは、いまや形而上学となったわけで、この分では、エレクトロニクスを全面的に拒否するか、あるいはそれに完全にひれ伏すかしかないだろう。
 しかし、忘れてはならないことは、エレクトロニクスは、身体との屈折した動的な関係のなかで機能するのであって、身体は、依然として、テクノロジーに対する〈異なるもの〉としてとどまっている。エレクトロニクスは、その本性上、脳細胞のすみずみまでを〈植民地化〉しようとするが、身体は、これまたその本性上、あらゆる組織化を突然変異的に解体してしまう。
 それゆえ、エレクトロニクスと身体との関わりあいのなかでは極度に予測不可能なことが起きるのであって、「エレクトロニクスが浸透した現実」というものは、電子テクノロジーによって身体が「希薄化」したとか、テレビ映像が「現実」とすりかわったとかいった紋切型のとらえ方ではとうてい認識できないはずなのである。
 しかも、エレクトロニクスと身体との関係は、そんなとらえ方とは無関係に、どんどん偶発的な新しい現実を生み出していくから、「現実」はますます真の現実から取り残されていく。日本のマス・メディアは、まさにそんな「現実」を代表しているだけであり、真の現実を媒介することに失敗している。
 その結果、マス・メディア、電子テクノロジー、そしてついには「公的なもの」への極度の拒否と、それらへの放棄的な無関心とが同時に進み、全般化しはじめる。ナチズムは、マス・メディアの一つの終りに臨んで、フリー・メディアの出現が阻まれることによって勢いを得た。九十年代の日本のマス・メディアが、三十年代のヨーロッパと同じ轍を踏むいわれはないとしても、「野性的なるもの」や「自然」への志向と現実への醒めきった無関心との同時併存という傾向は、いま、次第に強まりつつあるのではないか?
 本書は、活字メディア、パフォーマンス、そして自由ラジオの三種の〈スペース〉でわたしがここ数年試行錯誤してきた経験と思考の身ぶりを暫定的に形にしてみたものであり、従って、本書で展開されていることの多くは、単なる現状批判ではなく、ささやかながらわたし自身が実際に試みた現状解体の試みである、と思っている。
 いずれにしても、本書は、そうした三種類の活動を支え、鼓舞してくれた方々の存在なくしては、成立しなかった。その数があまりに多いので、名前を列挙するのを控えるが、この場をかりて心からお礼申しあげる。
 晶文杜の津野海太郎さんと島崎勉さんとは、『メディアの牢獄』をいっしょに作ったときの初心に返ってこの一年間本書のために刺激的な意見交換をした。貴重な意見を本当にありがとう。

一九八九年 五月二十二日粉川哲夫


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