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2016年アメリカ大統領選挙・総集(執筆順)
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2018年

粉川哲夫の「雑日記」


《GJ》運動雑報(9) 戦場のバイオリン (2019/02/17)

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戦場のバイオリニスト

《GJ》運動は、2018年11月17日(土曜)の最初のデモから数えて14週目に入った。

報道を通じて見ると、パリが中心であるかのように見えるが、この運動の面白いところは、ローカルであり、かつそれを越えている点である。「地方」の活動家たちが、集団を組んで「首都」に押しかけてくるということに重点があるのではなく、各地でデモが同時多発的に起こり、「中心」や「リーダー」が見えないことだ。

実際、先週の2月16日には、フランスの各地で黄色の蛍光色の安全ヴェストを着た人びとが動きまわった。マルセイユ、リヨン、ナンテ、リール、ニース、サン=エティエンヌ、ブール=カン=ブレス、ティオンヴィル、ルーアン、ポンティヴィー、アランソン、ランス、ブローニュ=シュル=メール・・・。

大統領官邸のエリゼ宮への「組織された」デモの群衆や、パリ市内での警官隊の弾圧のニュースを見るだけでは、この運動の「実態」はつかめない。各「コミューン」の動きを見なければならないが、離れていはなかなかむずかしい。

理論でとらえようとするのも無理であろう。最近、この運動との関係でマレイ・ブクチン(Murray Bookchin) の名前を耳にすることが多いが、それなら、イヴァン・イリイチも挙げなければなるまい。いや、ブクチンの「生態」志向とイリイチの「テクノロジー」を無視しない志向とを合流させたほうがいい。しかし、理論は所詮、実践の反省回路を提供するだけである。

既存の報道機関が流す映像は、ほとんどが、警官隊と《GJ》活動家とのもみ合いか、制服のように《GJ》を着こみ、隊列を組んで進む組織デモの姿ばかりだが、これでは、デモの本質にある集団でいることの楽しさは見えてこない。

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そういえば、元ライトヘビー級チャンピオンのクリストフ・ドゥタンジェ (Christophe Dettinger) が機動隊にスプレーをかけられた《GJ》の活動家を助けて、ボクシングで対抗していたのは面白かった。chris-dettinger_boxingすこしまえにリンクした映像で、その姿が見えたのだが、これが元ボクサーのそのひととは思わなかった。,br> やけにポーズが決まっているなとは思ったが、最近の判決のニュースでそれを知った。以下は、そのあらたな映像である。動画→

ドゥタンジェは、すでに、《GJ》運動の支持者で、問題になった映像は、1月5日にチュイルリー庭園とオルセー美術館をつなぐ「レオポール・セダール・サンゴール」橋でのものだ。その映像を見た警察が動き、1月7日に出頭・逮捕となった。2月13日、実刑2年半(懲役1年、残りの1年半は禁固)の判決が出たが、ボクサーを含め、彼を支援し、《GJ》運動を支持する114,000ユーロ以上の献金が集まったという。
詳細→

イリイチは、かつて、集団でいること、集団で何かをすることを「コンヴィヴィアリティ」(conviviality) と呼んだが、彼が意識していたのは、古代ギリシャの「饗宴」「宴会」(Συμπόσιον、Sympósion、シュンポシオン)である。

「シンポシオン」は、「シンポジウム」という言葉に形だけ引き継がれているが、イリイチがそれを使わなかったのは、シンポジウムが、まったく古代ギリシャのシンポシオンとは無縁のものになっているからであり、それならば、英語ではパーティなんかに行ったときの楽しさを意味する「コンヴィヴィアル」を使ったほうがいいと考えたからである。

ただし、てっとり早いところではプルタルコスの『食卓歓談集』(柳沼重剛編訳)なんかを読めばわかるように、「シンポシオン」にはアルコールと食いものが不可欠だった。「宴会」ならば当然だ。 Symposium_scene_Greece しかも、当時の宴会は、イスに座って飲み食いするのではなく、寝椅子に横たわって延々と飲み食いし、おしゃべりしたらしい。

『饗宴』の著者プラトンは、いわば、「宴会」を哲学的議論の場にしてしまったが、何世紀もあとのローマ時代に生きたプルタルコスは、依然として、「飲んでる最中に難問と取り組もうなんているのはソフィストの集まりならともかく、いいことじゃないし宴会向きでもない」(21ページ)と言っている。

slow-pose-ground 警官とのもみあいは、ひとつの「楽しみ」であるだろうが、飲み食いの楽しみではない。デモのなかに、もっとスローで怠惰な楽しみを引き込むことはできないものか?

すでに、隊列を組む警官隊に向けて音楽を演奏したり、音楽を鳴らしてダンスをする集団パフォーマンスがあった。

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動画→  

《GJ》があばれるのは、機動隊がガス弾を撃ち込んだり、挑発したり、逮捕しようと襲うからである。もし、街頭で料理をして飲み食いした場合はどうなのだろうか? 日本なら道路交通法違反になるのだろう。ならば、歩きながらの集団立ち食いはどうか? 飲み食いしながら歩くひとはどこにもいる。それを、隊列を組まずに集団でやったらどう規制するのだろうか?

毎度のことながら、トレンドには商売人のほうが活動家よりも鋭敏で、gj-cake-paris昨年、すでにパリのパティスリーが、「Gilets Jaunes」(黄色いチョッキ)というケーキを売り出したという。が、1個 3.3 ユーロじゃ、《GJ》の活動家は買わない。いや、買えない。それにしてもアグリーなケーキだ。そうか、《GJ》運動など、食って排せつしてしまえということか。動画→


《GJ》運動雑報(8) 500円のメディア (2019/02/13)

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《GJ》運動の「革命」性は、そのスローガンや運動の方向にあるにではない。それよりも、現状に不満を持っている者(そうでない者なんているだろうか?)たちが、黄色の「安全服」を羽織るだけで「活動家」になってしまうというメディア論的な強度のなかにある。

それは、誰かがその後の展開を予測して計画したのではなく、ほぼ偶然に起こった。構造的には、先に触れた18世紀の「ヴェルテル現象」のときも同じである。内容よりも形式である。

だから、いま、その「内容」は、集まった単位、あるいは、ひとかたまりの集団の数だけある。実際、既存のテレビから個々人がアップするSNS映像までの、この運動を「支持」する「報道」の「内容」や方向は、ふるいイデオロギー的な観点からすると、たがいに相反する「思想」にもとづいていたりする。

いまの時代、メインストリームの「報道」でも、個々人のYouTube映像でも、映像としての落差はほどんどない。ここで言う「落差」とは画質や構成のことではない。映像としてのインパクトである。落差があるとすれば、それは、世代間に沈殿した映像感覚の違いである。

たとえば、2017年の大統領選挙に立候補したジャン=リュック・メランション(Jean-Luc Mélenchon)派とみなされているメディアの「Le Média」(サイト→)なんかは、「左翼」びいきの老年が見たらゾクゾクするようなタッチで《GJ》支持の「報道」をくりかえしている。

だからル・メディアばかり見ていると、「革命」がどんどん進んでいるかのように思える。ただし、そう思う老年も、まてよ、いまは1968年じゃないぞ、ということを思い出し、これって、贔屓(ひいき)の引き倒しじゃないかと思い始めるはずだ。

とはいえ、老年を元気づけるために、ル・メディアの最新の映像(→)をリンクしておく。LeMedia_2019-02-11_finalこの「報道」は、「黄色の安全服」の背を見せるところで終わるのだが、そこには、「舗石の上には窮乏、舗石の下には怒り」と書かれている。よくできた映像だが、このパターンだと、トランプに「ファイクメディア」と一蹴されそうだ。

重要なのは、一枚の安い「安全ベスト」(日本では500円程度)が多数の人々を結集するというメディア性をさらに転換・展開することではないか?

(2019/02/13)

《GJ》運動雑報(7) 一見「古典的」だが (2019/02/10)

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遠くで見ているせいか、「左旋回」のほうもどんどん進んでいるようで、たのもしい。
【映像】→、   、  「左」「右」の《GJ》の対立 →

すでに、昨年、BBC newsnigtは、"Protesters from all sides of the political spectrum have found a home in the 'yellow vests' movement."と絶妙の表現をした。

月並みに仮訳すれば、「あらゆるサイドの政治領域からの抗議者たちが、〝黄色いチョッキ”のなかに居場所をみつけた」といた意味だが、"home"には「やすらぎ」や「ふるさと」さらには「死に場所」の意味もあり、この表現、なかな含蓄がある。

こう考えれば、《GJ》運動に「左」も「右」も合流するのが必然的だからである。そのそも、画期的な運動というものは、いつもそうだった。

【出典】→  【映像】→

(2019/02/10)
《GJ》運動雑報(6) 危険な転機 (2019/02/09)

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これまで「黄色いチョッキ運動」と呼んできた名称を「《GJ》運動」に替えようと思う。

理由は、日本でも大分この運動について報道されるようになり、「黄色」だ「イエロー」だ「チョッキ」だ「ベスト」だとまぎらわしい表現が飛び交うようになったのが一つである。ならば、もともとはフランス語なのだから、「ジレ・ジョヌ」(jilets jaunes) と表記したほうがいいだろう。なんで英語になるのか? 情報の収集が英語経由だからか?

それと、フランス語で「黄色の」(jaune) と言い現わされているとしても、活動家たちが着ているのは、要するにko-shinin-vest日本で「安全反射ベスト」、「パトロールベスト」などと呼ばれている安全服の、草色がかった蛍光色の「黄色」である。

THE CONVERSATIONが書いているように、「黄色いチョッキ」を着たデモということだけなら、イラクにもブルガリアにもイスラエルにも台湾にもUKにもある。 【参考】→
tasmania-police-yellowvest 「黄色いチョッキ」だけに目を奪われると、警察までこの運動に賛同しているかのような誤解も生まれかねない。→オーストラリアの警官の衣装


しかし、フランスの運動は、フランス特有のローカル性と切り離しては考えられない性格をもっており、「jilets jaunes」であらざるをえないのである。

また、最近、現地のひとたちが、その頭文字を取って《GJ》と言い始めていることも顧慮したい。

わたしがこの運動に期待するのは、《GJ》が、最初の(世界で最初とは言わないまでも)トランスローカルな運動の「見える化」であるからだ。

トランスローカルな状況は、インターネットで「見える化」したテクノロジーの変化に対応しているのは言うまでもないが、以後の世界の動きは、その動向に対する「誤解」と「反発」と「曲解」のなかで進んできた。

グローバリズムは、トランスローカルな動向を単純に「世界化」と「誤解/曲解」したところで展開した。そのあげく、ないがしろにされた「ローカル」サイドが「反発」し、国家レベルでは、ブレクジットやトランピズムを生み、心身レベルでは、孤立化と心身の離脱化が深まった。

グローバリズムが、矛盾しか生まず、経済格差や人権からジェンダーにいたる差別、さらには環境と心身の「不具合」にまで及ぶ問題に対する何らの解決も促進できないのは、トランスローカルな状況を全く誤解するか、あえて曲解しているからである。

「地方創生」と言っても、「地方」(ローカル)という概念自体が根本から変わってきてしまっていて、「ローカル」とは、まさにコンピュータにとっては「いまここ」や「オンサイト」であるように、土地にへばりついた「地方」概念をどう「曲解」しようとも空しい結果しか出てこない。

「ローカル」とは、いまや、P2P的関係の「ノード」であり、「グローバル」とは、その関係の規模、「サイズ」を指す。

トランスローカルな本性のインターネットが、セキュリティでがんじがらめになっているように、トランスローカルなテクノロジーの「見える化」のひとつであるブロックチェーンも、企業や、本来それとは併存しえないはずの銀行や国家組織がセキュリティの安全技術として利用しはじめることによって、その本性がブロックされつつある。

実際、《GJ》運動も、その轍を踏まない保証は全くない。すでに、Luigi_Di_Maioイタリアの右派「五つ星運動(M5S/Movimento 5 Stelle)のルイジ・ディマイオ(Luigi Di Maio)副首相、フランスの極右「国民戦線」のマリーヌ・ルペン (Marine Le Pen) が、GJの諸グループに接近しはじめている。おそらくその一部はすでに「連帯」の姿勢を見せたとみなせる。

ディマイオやルペンの一派がネットやテレビに強いのは、トランプとの共通項である。ネットのトランスローカルな特性を個別にオルグする道具として用いてネットの、P2Pの「グローバル」なサイズ的側面だけを貶(おとし)め、「ローカル」的な要素だけを強調するというやりかたである。

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生活の条件への抗議から出発した《GJ》運動は、もともと土着としてのローカリズムや肉体主義に固執してきた「ポピュリスト」との境界線があいまいになるおそれが十分にある。おそらく、今後の1、2か月のあいだに、《GJ》運動が、トランスローカリズムを活かすか、あるいは「ポピュリスト」の動きに併合されるかがはっきりするだろう。

それは、《GJ》の彼や彼女らが、新しいメディアの活用をひろげられるかどうかにかかっている。目下のところ、《GJ》の主要なメディアはFaceBookのような既存のSNSである。これは、まずい。せめてSNSと自由ラジオを横断的に使うような動きはないものか?

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その点で、ムーズ県のコミューンの1つコメルシー (Commercy)の《GJ》たちが1月に発した宣言が興味深い。コメルシーは、日本では、マドレーヌ菓子の発祥地として知られ、観光ツアーもあるが、ここで2016年以来、自律的なラジオ活動をしているRadio Parleurが、"À Commercy, les Gilets Jaunes « se revendiquent du municipalisme libertaire »" つまり、コメルシーのGJは「絶対自由の地方自治主義を宣言する」ことを報道している。
【詳細】→

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なお、この場合にも、そのディテールに微妙な揺れがある。"municipalisme libertaire"の"libertaire"が、もし、アメリカの「リバタリアン」的な意味に解されと、運動の方向はかなり右にカーブするからである。他方、もっとアナーキーな「自由」という方向で進められれば、1970年代イタリアのアウトノミア運動のポジティヴな部分とつながってくる。それも、早晩明らかになるだろう。

(2019/02/09)

「黄色いチョッキ」運動雑報(5) 「ロシアの陰謀」? (2019/02/06)

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RTの報道が目立ちすぎるということを書いたが、マクロン大統領が、「黄色いチョッキ」運動がロシアの煽動で動いているなんて言ってしまった。それをご丁寧にRTが茶化しながら報道しているのだから、屈折している。それも「陰謀」なのかな?

プーチンとトランプの関係は一筋縄ではいかないものを含んでいるとしても、世の中の動きというものは、たとえ命令しても、あるいは命令されてもその通りにはならないし、プーチンがどんなに陰謀の網を世界中に張り巡らしたとしても、彼の指示通りには動きはしないのだ。

たとえ、扇動者がいたとしても、その相手を指弾することで動きを止めようと思っても止まるものではない。今回の「騒動」では、マクロンは政治家としての軽さを露呈してしまった。プーチンよりも、やばいのはルペンの動きでしょう。

RTのこのビデオをとくとご覧あれ。◆参考

(2019/02/06)

「黄色いチョッキ」運動雑報(4) 危ない、危ない (2019/02/04)

「黄色いチョッキ」運動をささえているのは、労働者や低収入者層であり、知識人は、いまのところ、傍観するか、警察の暴力への「人道的」な批判でつきあっているにすぎない。そんなスキに、確信右翼のマリーヌ・ル・ペンが着実にマクロン政権打倒の地固めをしている。 lepen_Yt3KGHIqFTM

lepen-macron 危ない、危ない

jacline-mouraud-les-gilets-jaunes-unis-forts-et-fiers 他方、この運動の「前リーダー」の Jacline Mouraud は、Les Emergentsという名称の新党を結成すると宣言したが、はたしてどうなるや? 名称自体は、「突然あらわれること」だけではく、分子生物学や情報論で言う「創発」をも意味し、なかなか意味深であるが、やっぱりインテリ好みの言葉なんじゃないかな?
参考(1)  参考(2)

また、日ごとに増殖する映像のなかには、デモ隊があたかも「インターナショナル」を合唱しているかのような編集をほどこしたものもある()が、こういう期待は古すぎる。「黄色いチョッキ運動」は、党もつくらず、リーダーもない方向で、そして各地でばらばらに、しかし横断的に連動して(つまりはトランスローカルに)かぎりなく続くところに意味があるのだから。

(2019/02/04)

「黄色いチョッキ」運動雑報(3) 片目のサイン (2019/02/03)

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デモ隊にむけて警官が発射するrubber-bulletゴム弾 (LDB) が多くの負傷者を出しているが、片目を失明したジェローム・ロドリゲにあやかって「片目」のサインが「黄色いチョッキ」運動の象徴になりつつある。 一般メディアもバンバン報道しているよ。
以下の写真は Daily Mailより。

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(2019/02/03)

「黄色いチョッキ」運動雑報(2) 警察の暴力 (2019/02/02)

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「黄色いチョッキ」運動の「指導者」のひとり、Jérôme Rodriguesが警察のゴム弾で撃たれ、片目を失明したことで、警察の残忍な暴力が批判の的となったが、仏国務院 (Conseil d'État) は警察によるゴム弾の使用を支持することを表明した。こうなると、運動はますます過激にならざるをえなくなるだろう。武装の方向も出てくる。権力というものは、毎度のことながら、運動を煽って自滅に追い込むことに長(た)けているから、要注意。

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ところで、この間、RT(ロシア資本のテレビ配信会社)が「黄色いチョッキ」運動の報道に熱心なのが興味深い。アメリカの大統領選挙のときも、一番「公正」な報道をし、トランプが当選したときには、RTの有名キャスターのひとりが絶句し、「こうなるとぼくの妻はガンでオバマケアの恩恵を受けたんだけど、もう無理になるなあ」なんて、私的なことを口走るほど狼狽していた。つまり、RTは必ずしもプーチン=ロシアの「手先」とはいえない(面もある)ということだ。そもそも、マスメディアというものは、そういう両義性にみちている。内部の人間の意向と、システムそのもののロジックとは同じではないのである。

(2019/02/02)
「黄色いチョッキ」運動雑報(1) 暴動か革命か (2019/02/01)

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アカデミー賞の候補も決まったので、「ハズレを拾う」天邪鬼批評を始める時期だが、今年はそうはいかなそうである。

パリが燃えている。いや、フランスが燃えている。わたしの直観では、この展開の仕方は、1970年代のイタリアの「アウトノミア」運動以来である。この炎はいずれフランスの外で予想外の展開を示すにちがいない。

ニュースが増殖するなかで、先のコラム(「ゲーテの予兆」)の末尾に映像リストを追加した。が、追加ではすまなくなったので、このコラムを新たにしたが、どうも今後は、いずれ、「雑日記」とは別にサイトを作らなければならなくなりそうだ。そのときはまたそのとき。当面は、このコラムの増補で行こう。

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〝パリ暴動に行ってきた〟


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〝警察の暴力〟


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〝リーダーを狙い撃ち〟


(2019/02/01)

ゲーテの予兆 (2019/01/14)

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カフカが流行ると弾圧が起き、ゲーテが流行ると革命が起きる、というのはわたしのこじつけだが、実際に、東欧で禁書とされていたカフカが解禁され、「プラハの春」運動が盛り上がると、ただちにソ連の弾圧が起こった。

Werther-Kleidung ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』が1774年に刊行されると、これはドイツ国内においてだけでなく、ヨーロッパ全土でもベストセラーになった。やがて若者たちは、主人公の衣装をまねて、ブルーのフロックコートと黄色いチョッキを着用、そのなかにはヴェルテルをまねて自殺に走る者も出た。国によってはこの国際ベストセラーを禁書にしたところもあったらしいが、フランスではナポレオンも愛読したとゲーテに会ったときに語ったほど読まれたのである。

昨年、パリで「黄色いチョッキ ("gilets jaunes")」を着た若者たちの抗議デモが盛り上がっているというニュースを知ってすぐに思ったのはこのヴェルテル現象だった。

yellowvest02 1770年代のヨーロッパのヴェルテル現象は、1年後の「アメリカ革命」(独立戦争)を予兆し、さらには、15年後のフランス革命を予兆する。

そういうのを「予兆」と言っていいのかねぇとも言うひともいるだろうが、民衆の正義が通るのなら、それはそれでいいではないか。ただし、いま警官隊と抗争を繰り返しているひとたちが着ている「黄色いチョッキ」は、「黄色」といっても蛍光色の黄色であり、チョッキ(ヴェスト)といっても、おしゃれなチョッキではなく、作業着である。

まあ、このへんのディテールの差がこの予兆のいい加減さの決め手になるか、それとも、そんなディテールを無視して現実がこの予兆に向かうのかは、あたるも八卦、あたらずも八卦である。

映像
【総合】 1/27
【パリ】 1/261/261/251/191/121/12
【ルアン】 1/261/132018/11/18
【各地】 マルセイユ
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シュトラスブール (1/19)、 リヨンオート-ノルマンディ
【フランス外】 ブリュッセルロンドンロンドンカルガリー(カナダ)

(2019/01/14)

天皇とは誰か? (2019/01/01)

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年賀状はやめてしまったので、失礼しているが、ことしもらった年賀状のなかには「平成最後」とか「年号が替わる」といった表現が多かった。

やはり元号というものが気になるのですね。そういえば、昨年面白いと思ったのは、天皇制に批判的な姿勢を示していたひとたちのなかに、「生前退位」(「譲位」が正しいという意見もある)を発表した平成天皇に人格的(パーソナル)な親しみを感じ、むかしなら決して言わなかったようなことを言い始める現象を目にしたことだった。

が、天皇に人格(パーソナリティ)はあるのだろうか? それは、映画スターに人格はあるのかと問うのに似ており、多くの場合、観客の思い込みや想像の産物である。そして、実際にパーソナルな面を知っている者は、ほとんどそれを公表しないのである。

だから、天皇のパーソナリティに関しては、制度のなかのキャラクターとして見ることにとどめておくのがリーズナブルなことだろう。問題にするならば、ひととしての天皇ではなくて、制度としての天皇制のほうである。

実際、天皇は替わっても、天皇制は変わらないでいる。現に、平成天皇は、「異例」の「譲位」をするにもかかわらず、「上皇」という歴史的にしばらく空位であった地位が新たに呼び起こされ、天皇制の外には出られないのである。

こうした天皇制のしたたかさと閉鎖性に関しては、伊丹十三が、『日本世間噺大系』(文芸春秋、1976年)で「記録」している猪熊兼繁の以下の言葉で言い尽くされている。猪熊兼繁 (1902~1979) は、京都大学教授を務めた法史学と有職故実の専門家である。

 天皇は人間宣言されましても、あれは神ではないとゆう宣言であって、「社会人になったぞ」ゆう意味やないんですネ。だから社会人としては、まだ発育してませんワ。
  結局、日本人は農耕民族なんですワ。つまり、自然を自然のままにしておいて、苗から実が獲れればいいんですが、そこへ風が吹き過ぎたり、日が当たらな過ぎたり、また当たり過ぎて、乾いてしもたり、そら地震だ、そら洪水だ、ちゅうような、農耕の災害とゆうもんは、人間の力じゃとても克服できないんで、人間を超えた、超人間的な力によって鎮めなきゃならんト、ゆうような社会ですわナ農耕社会とゆうのは。
 そこに神様がある。と同時に、神様と同じような人聞を持ってきて、それに全部おまつり任せちまわんと生活できませんワ。それが天皇なんです。それがズーと続いてきたわけなんです。そやからねェ――だから、天皇とゆうものをですネ、もう少し正しく認識してほしいと思います。
 今でもですネ、天皇は、一日朝から晩まで、あるいは日の暮れから翌日の朝まで、徹夜してですネ、おまつりしてるんですワ。お正月とか、新嘗祭、神嘗祭、天皇やってるでしょ? その他あっちこっち、おまつりばっかりやってますワ。まるで、日本中のどこの神主より拝んでるんですワ。
 しかも限られた行動範囲で、限られた生活ですわナ。そして、ともかく、なんとかして子孫残してくれ、ちゅうだけの、そうゅうセクジュアルな、生物的な要求だけをされてるちゅう、そうゅう天皇ちゅうものをですネ、もっと、人間なら人間としてですネ、社会人としての解放をですネ、考えたっていいやないかと思うんです。
 部落解放運動ちゆうのがありますが、私は天皇も解放せんならんと思うんですワ、ハア。自から要求もしとらんのに放っとけと、ゆちったらそれでもええか知らんけど、ヒューマニズムちゅうものはネ、自分の解放だけじゃなしに、人にも解放とゆうものを推し進めるのがヒューマニズムゃないかと思うんです。それが人間解放ちゅうことゃないかト、そうゅうふうに思うわけです、私は。  
p.341~342:天皇日常(猪熊兼繁先生講義録)

(2019/01/01)