「シネマノート」  「雑日記」


2010年 03月 22日

●休日の銀座/バーコフの「変身」と Daniel de Roulet

劇場パンフに雑文を書いた縁でスティーヴン・バーコフ演出の「変身」の最終日に駆けつけることになった。
グレゴール・ザムザ役が森山未来のせいか、若い客が多い。芝居と美術展は避けているので、招待席に小さくなって座る。マチネーなので、早起きして、まだ元気が出ないということもある。
幕が開くと、1976年にロンドンで初めて見たバーコフ・スタイルのパイプによる装置、出演者の配置があった。照明はバーコフとは異質なくらいお洒落。出演者同士の声と身ぶりがポリフォニックにシンクロするのも、バーコフ・スタイル。
しかし、すぐに違和感をおぼえる。日本語のせりふまわしが、全然「新劇」風なのだ。虚空に向かってモノローグ風に言うやり方。日本語がわからないバーコフには、日本語のせりふまわしがポリフォニックに聴こえるような指導はできなかったのだろう。バーコフの演出するカフカ作品は何度も見たが、オペラともミュージカルとも違うポリフォニックなせりふまわしが実にユニークだった。
演出は、この作品から引き出せる「ヒキコモリ」や「リストラ」の問題を意識しているように見えたが、ザムザが干からびて死んでしまったあと、家族が見せる最終場面が、非常にあいまいだった。忙しいバーコフは、ここを十分指導しないで帰ってしまったのではないかなと思わせる終わり方だった。
家族の「やっかい者」が死んだとき、喜ぶか、悲しむかは決めがたい。両方かもしれないが、そういう曖昧表現なら、ある意味、あたりまえである。しかし、カフカは、家族が晴れ晴れした感じでいるように描くことで強烈なアイロニーを込めた。この逆説的な表現が全然いかされていなかった。
終わる15分ぐらいまえに付き人らしき人と、わたしのすぐ前に着席した(どこかで見たことのある)女性が、舞台挨拶の段になると、スタンディングオベイションで拍手しはじめた。なるほど、芝居にはこういう見方もあるのかいなと思い、早々と席を離れた。

外に出て、中央通りを銀座四丁目方向に進むと、車道を人が歩いていた。祭日のこの時間に街を歩くことはめずらしいにで、「歩行者天国」がまだ続いているのを忘れていた。

並木通りと晴海通りの角でしばらく待つと、人の群れのなかから、なつかしい顔が現れた。20年以上もまえにニューヨークのジム・フレミングの家で初めて会い、その後1、2度会ったダニエルだ。まえに会ったときはコンピュータエンジニアで、インターネットの初期にいろいろな実験につきあってもらった。その後作家になり、小説を何冊も書いた。
数週間まえ、いきなりメールが来て、「妻といっしょに日本に行く」と言う。彼女が「仲間とカザルスホールと王子ホールで演奏する」とだけしか書いてなかったので、ネットを調べたら、この時期の公演は「キアラ・バンキーニ & アンサンブル415」しかない。え!? ダニエルの奥さんって、あのキアラ・バンキーニなの? まあ、そういうことだったのだが、まえに会い、いっしょに食事したときの彼のパートナーは、たしかデザイナーだった。15年もすれば、人生も変わる。

喫茶店で3時間ほど話をした。スイスにおける「ネオ・ポピュリズム」の台頭のこと。ネオナチやナショナリズムとはちがうウルトラ保守主義。若者のグループが、その一人を「ユダヤ人」(事実はそうではないのに)に見たてて「処刑」するという事件があったという。これは、「ポピュリズム」というより、ボードリヤールの『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』(塚原史訳、筑摩書房)が描くような状況。


2010年 03月 10日

●TwitterからTwittchanへ

アポが突然キャンセルになったので、ポカっと時間が空いた。試写に行くには遅すぎたし、ペンディングの用を済ませるには短い時間だった。で、コンピュータに向かい、キーボードとマウスを動かしていたら、Twitterのパロディが出来た。といっても、ほんの外見だけのニセモノで、機能までパロるところまでは行っていない。今後、暇があったら「充実」させてみよう。せっかく作ったので、「シネマノート」でついついスキップしがちなミニメモを書くのに使おうと思う。
一昨日、『座頭市 THE LAST』を見たので、「ノート」を書こうと思ったら、YouTubeにそのトレイラーも関連映像も載っていなかった。「ジャニーズ規制」が見事に徹底しているのだが、イラストにYouTubeの映像を使うことにしてしまった「シネマノート」としては、気勢をそがれる。だから、レヴューを書くのはやめた~!と思ったが、「Twitter」風のミニノートなら書きやすい。というわけで、わがTwitterならぬTwittchan(「トゥイッチャン」ないしは「ツイッチャン」と読んでください)のトップノートは、この映画のメモになった。

先日、最近のパソコン雑誌にしてはなかなか個性のある特集をしていた『月刊ウィンドウズ100%』(3月号)をぱらぱらめくっていたら、「まるお」という人が、「メディアリテラシーと偏向報道を考える」という巻末のコラムで、<API技術レベルでの革新性はさておき、「Twitter」が何かものすごい可能性を秘めたコミュニケーションツールであるかのような錯覚>がはびこっていると書いていた。その通りだと思う。
メディアツールというのは、いつも逆説として面白い(コミュニケーションの質的変化にとって)使い方が生まれるので、まだわからないが、Twitterにしてもfacebookにしても、他のたいていのSMSは、みな基本がビジネスツールなのである。ビジネスに使うのには、「画期的」でも、それがクリエイティブなコミュニケーションを生むことは少ない。
すでにケータイがそうだ。だから、ビジネスと関係のない人間が使えば、その人は、自然と「ビジネス」ライクになって行く。わたしは、ケータイを持ったために「不幸」になった人を何人も知っているが、ケータイにしろTwitterにしろ、向こうから指定された通りに使えば、向こう側のロジックで動かされるのは当然である。
試写会で、開映まえに配給の人がしつこく「ケータイにスィッチを完全にお切りください」と言っているが、けっこう切らない人がいて、「マナーモード」で受けて、上映中にイジけた電話をしてたりする。「電源なんか切ったら、殺されますよ」というわけなのだが、実際、自分がかけたいときしかケータイのスウィッチを入れないなどという人はあまりいない。わたしは、実はその一人なのだが、それは、わたしが「ビジネス」マンではないから可能なのだ。
しかし、「危ないから使わない」のではなく、こちら側が主体になって使うという方向をもうちょっと拡大しないと、われわれの脳や体は、自分がプログラムしたのではないプログラムの虜(とりこ)になってしまう。

【Twittchan】↓
https://cinemanote.jp/twittchan/


2010年 03月 08日

●アカデミー賞の結果

作品賞や主演賞に関しては、「実際的予測」と書きながら、「希望的予測」以上に「希望」の部分が加わってしまった。以下に、先ほど決まった結果と、そこから見えるハリウッドの状況についてメモしておく。●はアタリ、〇はハズレ。

〇作品賞:『プレシャス』→『ハート・ロッカー』【順当だ。『アバター』にはならなかったのでハリウッドを信用した】
〇主演男優賞:ジェレミー・レナー(『ハート・ロッカー』)→ ジェフ・ブリッジス【とにかく向こうでは圧倒的な人気であったが、わたしには「田舎臭い」感じで避けた】
〇主演女優賞:メリル・ストリープ(『ジュリー&ジュリア』)→ サンドラ・ブロック【主演賞は本意でない作品で獲ることが多いそうだから、そのキャリアからすれば妥当】
●助演男優賞:クリストフ・ヴァルツ(『イングロリアス・バスターズ』)【納得だが、誰でもこれしかなかったろう】
●助演女優賞:モニーク(『プレシャス』)【安心した】
●監督賞:キャスリン・ビグロー(『ハート・ロッカー』)【妥当じゃないの】
〇脚本賞:『17歳の肖像』→ 『プレシャス』【ここで拾ってくれたのは嬉しい。これなら、まだハリウッドも信用できる】
〇オリジナル脚本賞:『A Serious Man』→ 『ハート・ロッカー』【ちょっとサービスしすぎだな】
●長編アニメーション賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』【これはは転びようがない】
〇外国映画賞:『Das weisse Band - Eine deutsche Kindergeschichte』(ミハエル・ハネケの傑作)→ El Secreto de Sus Ojos【見ていないから何とも言えないが、ハネケは残念】
〇記録映画賞:『Burma VJ』(2007年ミャンマー反政府デモのドキュメンタリー)→ The Cove【政治色が見え見えなのでやめたが、やっぱりアメリカ】
〇作曲賞:『シャーロック・ホームズ』→ 『カールじいさんの空飛ぶ家』【これは見識。いいチョイス】
●歌曲賞:"The Weary Kind"(『Crazy Heart』のテーマ曲)【妥当】
●撮影賞:『アバター』【この作品の見方としては妥当】
〇衣装デザイン賞:『NINE』→ 『ヴィクトリア女王』【こう来たか】
〇美術賞:『シャーロック・ホームズ』→ 『スター・トレック』【そうかね?】
〇録音賞:『アバター』→ 『ハート・ロッカー』【このくらいは『アバター』を立ててやってもいいと思ったが】
●編集賞:『ハート・ロッカー』【妥当でしょうね】
〇音響編集賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』→ 『ハート・ロッカー』【異存はないが、もうちょっと散らしてもいいのでは】
〇短編記録映画ー賞:『Rabbit xJ◇la Berlin』→ Music By Prudence【見ていない】
〇ライブアクション短編賞:『The Door』→ The New Tenants【ハリウッドはやはりシーリアスが好き】
●視覚効果賞:『アバター』【妥当】
〇短編アニメーション賞:French Roast→ Logorama【やっぱりアメリカっぽいやつで行くのか】

【アカデミー賞の希望的予測】→2月25日の「雑日記」参照。↓



2010年 03月 06日

●アカデミー賞の実際的予測

第82回アカデミー賞の発表まであと1日となった。別に今年が特に気になるわけではないが、YouTubeなどで、日本で未公開の映像クリップなどを見ることが出来るようになり、全貌を予測して楽しむことが楽になった。「希望的予測」は2月25日に書いたので、今度は、「実際的予測」を書いておく。

多くの予測では、作品賞で『アバター』と『ハート・ロッカー』が有力だが、そのどちらかで決まるのなら、予測の楽しみはない。アカデミーの「作品賞」では女性が主人公の作品が強いという研究があるとのことだから、わたしは、あえて『プレシャス』を選ぶ。

●作品賞:『プレシャス』
●主演男優賞:ジェレミー・レナー(『ハート・ロッカー』)
●主演女優賞:メリル・ストリープ(『ジュリー&ジュリア』)
●助演男優賞:クリストフ・ヴァルツ(『イングロリアス・バスターズ』)
●助演女優賞:モニーク(『プレシャス』)
●監督賞:キャスリン・ビグロー(『ハート・ロッカー』)
●脚本賞:『17歳の肖像』
●オリジナル脚本賞:『A Serious Man』(→YouTube)
●長編アニメーション賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』
●外国映画賞:『Das weisse Band - Eine deutsche Kindergeschichte』(ミハエル・ハネケの傑作)(→YouTube)
●記録映画賞:『Burma VJ』(2007年ミャンマー反政府デモのドキュメンタリー)(→YouTube)
●作曲賞:『シャーロック・ホームズ』
●歌曲賞:"The Weary Kind"(『Crazy Heart』のテーマ曲)(→YouTube)
●撮影賞:『アバター』
●衣装デザイン賞:『NINE』
●美術賞:『シャーロック・ホームズ』
●録音賞:『アバター』
●編集賞:『ハート・ロッカー』
●音響編集賞:『カールじいさんの空飛ぶ家』
●短編記録映画賞:『Rabbit xJ◇la Berlin』(→YouTube)
●ライブアクション短編賞:『The Door』(→YouTube)
●視覚効果賞:『アバター』
●短編映画賞:『French Roast』(→YouTube)

【希望的予測】↓

20100225


2010年 03月 02日

●女性たちはどこへ行った?

 最近のレストランには「若い女性」たちの「群れ」が確実に減っているような気がする。別にしっかりとリサーチしたわけではないから、本当のところはわからないが、以前だと、3人とか4人とかで来て、「オイヒイ!」という声を張り上げていた一団の姿が、最近少なくなったような気がどうしてもするのだ。

 東京だけで3千軒はあるといわれた「イタリアン」のレストランは、一昨年あたりから調子がわるいという話をきく。昨年から今年にかけて、消えてしまった店も大分ある。それは、「不況」という理由で片付けられることが多いが、わたしは、それだけではないし、また、その「不況」そのものが、「若い女性」の「群れ」の消滅と関係があるのではないかと思う。

 ファーストフードの店でも、日本ほど、「若い女性」の「群れ」が多いところは少なかった。実際に、日本の小ジャレたレストランは「若い女性」の「群れ」で持っていたのである。だから、レストランの経営者は、若い女性を大事にした。いや、映画だって、「若い女性」の「群れ」を優先的に考えたりしていた。個々人よりも、特に女性を「群れ」としてとらえる宣伝をしてきた。

 女性たちが、男性よりも(外見的には)すぐにフレンドリーなふるまいをして、集団行動を取るというのは、別に日本だけの現象ではない。が、個として自律したり、孤立したりしていて、そのうえで意識して一緒になるというのと、そのへんがあいまいなまま一緒になるととでは、かなり意味が違う。そういうアバウトさ(ある種の集団文化・慣習)が、日本には、最近まであったということである。そして、男が孤立やヒキコモリに陥っても、女はそういうアバウトさを維持していた。しかし、それが、いま、男も女も、そういうアバウトさを捨ててしまったのではないか?
 
 群れるというのは、かつては、男も女もやっていた。そのスタイルは違っていたが、とにかく群れることが出来た。しかし、いまは、リモート・カルチャーの時代である。<群れるのはいや、でも、孤独もいや――ゆえにケータイあり>である。こうなると、ここから、そのリモート関係を越えて、意識的に「大人」として、集団で食事をしましょうという風になるのは大変である。

 ある意味で、70年代のニューヨークでは、女の「ローナー」が出現し始めていた。それは、仕事環境の変化の結果でもあった。だから、彼女らは、一人で食べていても気にならないカウンター式の店や回転寿司の店などを好み、そういう店の数が多くなっていった。似たような傾向は、日本でも見られる。しかし、そのあいだにネットやケータイのリモート・カルチャーが猛烈な勢いで割り込んできた。フィジカルに体を動かすこと自体を積極的にはしないカルチャーである。

 そういう要素がいっしょくたに出ているいまの日本では、群れで行く店に代わって、一人席の店が当たるというわけにもいかない。そうすると、一番安易なのは、デリバリーとか、仕事の帰りにデパチカなどで買って帰り、一人でネットやケータイをしながら食べるというスタイルである。これでは、レストランは先がない。

 いずれにしても、いま、「若い女性」たちのある種のヒキコモリ現象が男性以上に深まっているような気がする。